a new step




 翌朝、陽が昇る前にエインセルはひとりで宿を出て、王宮へと向かった。ファウルたち三人はエインセルを見送り、一部屋に集まって待機している。
 相変わらず気温は低いが、雪は止んでいた。空は晴れ渡っている。
 陽の光が徐々に強まり、街がすっかり明るくなって人々が活動を開始したころ、サバトの街中に鐘の音が響いた。
「わっ、なになにっ、」
 部屋の中にも鐘の音がしっかりと届き、フォノデリーは窓へ駆け寄ると、街の様子を見回した。
 眩しい窓の外に視線を移し、ファウルは目を細める。
「王宮の鐘の音だよ。街中に情報伝達がするときに使われるんだ」
 ファウルの説明を聞きながら、市街地の様子を見下ろして、フォノデリーは感嘆の声をあげた。
 街角に点在するモニタに、人が次々と集まってくる。モニタにはまだなにも映しだされていない。ゆっくりと時間をかけてモニタは明るくなり、人が随分とそれぞれのモニタに集まったところで、ようやく画像が鮮明になった。それと同時にモニタの周囲からどよめきが起こる。
 市街地の様子が気になって仕方ないというように、フォノデリーは窓から身を乗りだした。その背中にファウルが声をかける。
「宿のロビーにもモニタがあるから見に行こう、」
「うん、行こ行こっ、」
 くるりとファウルの方を振り返ると、まだその言葉を言い終わらないうちに、フォノデリーはぱたぱたと駆けだした。部屋の扉を開き、早く早く、とファウルとフェリシンを急かす。ファウルはフェリシンと顔を見合わせ、小さく笑った。
 フォノデリーの後をついて、二人も部屋を出る。鍵をかけながら、ファウルは低く呟いた。
「エイン、結局どうするつもりなんだろう……、」
「それを今から見に行くんだろ、」
「まあ……ね、」
 階段を下りて三人はロビーへと向かう。ロビーには既に人が大勢集まっていた。大型の暖炉の上の壁に、大きなモニタがはめこまれている。人々の視線はすべてそちらに注がれていた。ロビーでも街中と同じようにどよめきが起こっている。
 三人がモニタを見上げると、そこには鮮明な映像が映っていた。画面には、宮殿内部の大理石の美麗な壁をバックに、ひとりの女性の姿がある。髪の色が、瞳の色と同じピーコック・ブルーに変わっているものの、その女性は紛れもなくエインセルであった。群青色の分厚いマントを身に纏い、その下には純白のブラウス、胸元にはピーコック・ブルーのブローチがのぞいている。
 フォノデリーはぽかんと口をあけたままモニタを凝視した。そのモニタからようやく音声が聞こえてくる。
『我が親愛なるサウィン国民に告ぐ。……我はサウィン王族の血を引く者、ミレシア・ケルズ・サウィン、』
 その言葉にロビーは一段と騒がしくなった。口々に発される言葉が混沌と入り混じる。
 モニタからは更にエインセルの発言が聞こえてきた。
『永らくの不在を寛恕願いたい。先の騒乱でウルテリオル海峡へと突き落とされ、公には死亡したとされたそうだが、どうにか九死に一生を得、ようやく祖国へと帰還することができた』
 モニタを見つめる人々から歓喜の声がわきあがる。宿の外からも、どっと大声が聴こえてきた。
 エインセルは堂々とした口調で続ける。
『昨日、我々は王宮に潜入し、ハベトロットを討ち破った。よって、ここにサウィン王朝の復活を宣言するッ』
 歓喜の声が更に大きくなる。ファウルの目の前にいた老女は両手で顔を覆って泣き崩れた。ロビーも街も、とてつもなく活気に溢れている。万歳を連呼する者もいれば、国家を歌いはじめる者もいた。現実味を感じられず、目を丸くしたまま硬直している人の姿もある。
 フォノデリーはずっとぽかんと口を開けたままモニタを見つめていた。その後ろで事の成りゆきを見守っているファウルとフェリシンだけが、ロビーの中で冷静なままでいる。ファウルは腕を組んで、エインセルの次の言葉を待った。
 画面に映る、ミレシアとしての使命を果たそうとするエインセルの姿はいつにも増して凛々しい。蒼い瞳がふっと閉じられ、それが開かれると同時にエインセルは口を開いた。
『ついては、ルーナサとの国交を正常化し、和平条約を締結したい。これ以上、我が愛する民が無意味な血を流すことのないように、そしてサウィンに安寧をもたらすために。……、だが……』
 エインセルはそこで声のトーンを少し落とし、一度口を噤んだ。
 モニタの前にいる人々は、すぐにはそれに反応しない。騒ぎはなかなかおさまらず、モニタからまったく声が聴こえてこないことに人々が気付くまでは時間を要した。しかしそれを見越しているかのように、エインセルは次の言葉を紡がずに沈黙を保っている。
 ようやくモニタから音声が聴こえないことにぽつりぽつりと人々は気づきはじめた。気づいた者から順に、騒ぐのをやめてモニタに注目する。その反応は連鎖的に広がり、ロビーはあっという間に静かになった。街から聴こえてきていた喧騒も小さくなる。
 たっぷりと間をおいてから、エインセルはやっと口を開いた。ひとつひとつの言葉が大事そうに吐きだされる。
『サウィンに平穏が訪れようとも、ファリアスがまだ戦乱の世であることに変わりはない。今もなお、罪なき者の尊い命が失われている。……私は、サウィンを平和の象徴たる国家にするとともに、戦争終結のために尽力したい』
 ファウルはじっとエインセルを見つめていた。真剣な眼差しでモニタを見上げるファウルの前では、先程まで呆然としていたフォノデリーも表情を引きしめて話を聴いている。
『尽力したいと言っても、国に留まっていたのでは、なにもできないだろう。ゆえに、戦争終結を訴求するため、各国を回りたい。永らく痛みに耐えてきた民に対して、無責任で身勝手な行動だということは自覚している。しかし、私は己の国さえ平穏であれば佳いなどと考えることはできない。……我が心は常に愛する民とともにある。この国を立て直すためにも、もちろん死力を尽くそう。……しかしながら今は、私の勝手な振舞いを赦してほしい』
 ロビーも街も、しんと静まり返ったままだった。
 エインセルは迷いない瞳を輝かせている。その姿を、多くのサウィン国民がモニタを通してじっと見つめていた。
 モニタから視線を外し、ファウルは周囲の様子を見回す。そこに再びモニタから声がした。
『なお、政はすべて、代々王家の中核とつとめるオーウェン家のキルフに委任する。……私は明日には旅業を開始せねばならない。意義はあろうが、できるかぎりキルフにではなく、今日中に私に直接申し出てもらいたい。……以上だ』
 堂々とした口調でエインセルがそう言い終えると同時に、画像がだんだんと淡くなる。モニタ画面はゆっくりと白さを帯びてゆき、一面が白くなると、ぷつりという音とともに、今度は真っ黒になった。モニタからは完全に音声が途切れ、ロビーはしんと静まりかえる。
 厳しい瞳でファウルは周囲を見回した。フェリシンとフォノデリーも人々の反応をうかがっている。
 沈黙がしばらく流れた。誰ひとりとして声を発することも、動くこともしないままで、時間だけが経過する。その状態が続いた後、やがて集まった人々の中から手を叩く音が響いた。その音を皮切りに、拍手の音がぱらぱらと増え、ついにはロビーがその音で充たされる。
 ファウルの顔にずっと浮かんでいた緊張が、ようやく緩んだ。ちらりとフェリシンを見遣ると、視線を合わせてフェリシンは小さく頷く。その二人をフォノデリーは笑顔で振り返った。
 拍手の音に続き、次々に声が発される。
「まったく、若ぇのにしっかりした女王さまだぜ、」
「なんだか実感わかないけど……」
「いきなりそんなこと言われてもって気はするけど、たしかに女王さまの仰ることは正しいのよねぇ……」
「あんなに切実に訴えられちゃあ、異議なんか言えねぇよな」
「先代の女王さまでも、おそらく同じことを考えられたじゃろうて。異論などありゃせんよ」
 再びロビーはがやがやとざわつきはじめる。しかしそれは先程のように、ただ騒がしいというのではない。意見が飛び交い、さまざまな言葉が入り乱れている。口にする言葉は人それぞれだが、口論が起こることはなかった。
 ファウルたち三人は顔を見合わせて、無言のまま小さく首肯する。そして、がやがやとしたロビーを通り抜けて、宿の外へと出た。
 屋根に積もった雪に陽の光が当たり、街はきらきらと輝いている。その街にも人の声が溢れていた。
 白いコートの留め具を、ファウルはしっかりと留めた。吐きだされた息が白く漂う。
「巧くいった……みたいだね」
「サウィンの人たちが佳い人でよかったよ」
 フォノデリーは安堵の表情を浮かべている。そうだな、とファウルはすぐに頷いた。
「それと、王宮の人々の理解が得られたっていうことも大きいね。もちろん、エインの強い意志なくしてはありえなかった結果だろうけど」
 にっこりと笑顔になって、フォノデリーはファウルの意見に同意を示した。
 街角のモニタに集まっていた人々は、ようやく散らばりはじめる。騒がしい雰囲気はまだおさまっていない。しかしそれは決して悪いムードではなく、あくまで明るい、肯定的なものだった。
 両手を黒いコートのポケットに突っ込んで、フェリシンが呟く。
「あんな演説されたんじゃ、俺たちも失敗なんざできねぇな」
「たしかに。……これまでのタイムロスもあるし、戦乱が続いている以上、悠長なことはしてられない」
 ファウルが低い声を響かせる。その声を聞きながら、フェリシンは宿の入り口の前に設置されている灰皿に近付くと、ポケットから煙草を取りだして火をつけた。
 同じように灰皿に近寄ろうとするファウルに、フォノデリーは声をかける。
「エインはルーナサと和平条約を締結するって言ってたよね。ってことは、またルーナサに行くつもりなのかな」
 コートの右ポケットから煙草の箱を取りだしつつ、ファウルは頷いた。
「そうだろうね。キルフって人に政治を委任することはできても、この状況下での条約締結となると女王本人が行くべきだろうし。でも、ちょうどいいよ。僕たちもルーナサには行かないといけないわけだからさ」
「あ、そっか。バタシーの供給源に行かなきゃいけないんだもんね」
「そう。だから僕たちも明日出発しよう」
「ああっ、だったら今日じゅうにシュガーコロネ食べとかないとっ、」
「……もしかしなくてもそれは菓子パンの名前かい、」
「うんうん、サバト名物なんだよ。ふわふわのコロネに雪に見立てた粉砂糖がいっぱいかかってて、見た目もかわいいし甘くておいしいしっ。孤児院にいるときに一回配られたことがあって、いつかサバトに行ったら絶対食べようと想ってたんだ、」
 滔々とフォノデリーから嬉しそうな声が溢れる。煙草に火をつけて吸いながら、ファウルは力説するフォノデリーを微笑ましく見つめていた。一度深々と煙草のフィルタから煙を吸いこみ、ゆっくりと吐きだす。
「じゃあ、それも含めて、買い出しに行って明日出発する準備をしておこう。エインは王宮からしばらく戻ってこられないだろうし」
 そう言いながら、ファウルはフェリシンに視線を移す。
 フェリシンはマイペースに紫煙をくゆらせていた。しばらくして、短くなった煙草を灰皿に押しつける。
「……ルーナサ軍がルグドゥネンシスに侵攻してるのは好都合だったかもな」
 ひとりごとのように、ぽつりとフェリシンは呟いた。
 どういうこと、とフォノデリーはファウルとフェリシンを交互に見上げる。先に口を開いて説明をしたのはファウルだった。
「下手に国交が断絶していると、ルーナサへはインヴォルグ経由でないと行けないからさ。入国審査も厳しいだろうし。……おそらく、さっきの宣言でルグドゥネンシスは停戦状態になるだろうからね、明日行けばルーナサ軍に直に接触して、正式な停戦を申し入れられる」
「なるほどー……。ルグドゥネンシス、もう落ち着いてるといいよね。ルーナサで見た映像みたいなことがずっと続いてるなんて、辛すぎるもん」
 殊勝にフォノデリーはそう意見を述べる。やさしい瞳でファウルは頷き、まだ半分ほど残っている煙草を灰皿に押しつけた。
「そうだね。和平条約締結のためにも、明日は迅速に行動しないといけないな。……今日は早めに買い物を済ませて宿に戻っていた方がいいかもしれない。あ、ちゃんとベーカリーにも寄ってあげるよ、」
 ファウルがそう言うと、フォノデリーは満面の笑みを浮かべた。
「エサエルプ セイ、」
 そう口走ってからはっとして、フォノデリーは両手で素早く口をおさえた。急に不安そうな表情になり、周囲を見回す。そして縋るようにファウルとフェリシンを見上げた。
 穏やかな表情のまま、ファウルはフォノデリーの頭をローブの上から軽く撫でる。
「わかってるならいいよ。でも、これからは気をつけて」
 再び両手をコートのポケットに入れて、フェリシンもフォノデリーに近づいた。
「念のため、街に出てる間はウルでも俺でもいいから一緒に行動しろ」
 二人にそう言われ、フォノデリーは素直にこくりとうべなった。
 宿を離れて、三人は大通りを進んでゆく。陽の光が降り注ぐ街は明るさに充ちあふれていた。街角のモニタから戻ってきた人々が店を開けはじめ、市街地は活気づいてゆく。冷たい空気に包まれた白銀の街には、あたたかさが宿っていた。