pain and ache




 ぎしぎしと軋みながら、部屋の扉は開く。扉の向こうの空間は真っ暗だった。
 エインセルをフォノデリーに託し、ファウルはフェリシンのいる部屋へと戻っていた。部屋の中は照明ひとつ点いていない。
 まだ寝てるのか、と呟きながらファウルは後ろ手で扉を閉めた。入り口にあるスイッチを操作して、一番暗い照明を灯す。丁寧にライフルを置き、椅子の背にコートをかけると、ゆっくりとふたつ並んだベッドへと近付いた。
 ベッドの数歩手前で、ファウルはぴたりと足を止める。そしてその直後に弾かれたようにフェリシンの枕元へと駆け寄った。
 深くまで布団を被り、その下でフェリシンは息を荒げている。左手は力任せにシーツを握り、その表情は苦痛に歪んでいた。額にはじっとりと汗がにじんでいる。
 フェル、と名を呼びながら、ファウルはフェリシンの首筋に手を伸ばした。ファウルの手が触れるとほぼ同時に、フェリシンの瞳がゆるやかに開く。しばらくそのままぼうっとしていたが、そのうちに掠れた声が唇からこぼれた。
 フェリシンの首筋から、ファウルはそっと手を離す。
「脈ははやいけど、熱はないみたいだな……。……瑕は、」
「……ん、なんともねぇよ。痛くもないし、熱っぽくも……、……ッ」
 言葉を途中で切って、フェリシンはぎゅっと目を閉じると、左手でこめかみをおさえた。
「一体どうしたんだ、」
 早口でそう言いながらファウルは身を乗りだしてフェリシンの身体を支える。すぐに返答はなく、フェリシンは痛苦に充ちた声を漏らした。それがようやく落ち着いてから、ようやく言葉を返す。
「……わからねぇ、……休んでたら、急に頭痛がして……。寝りゃマシになるかと想ったんだが……」
「マシになるどころか、随分と魘されてたじゃないか」
「知るかよ、勝手に痛みだしたんだ」
 苦笑しながらそう言うと、フェリシンはこめかみから手を離して、上体を起こした。
 とりあえず水分補給だな、と呟きながら、ファウルはベッドの傍からシンクへと移動した。蛇口をひねって透明の背の低いタンブラーに水を注ぐ。再びベッドサイドへと戻ると、ファウルはそれをフェリシンに差しだした。
 タンブラーを受け取ったものの、フェリシンはそれに口をつけずに動きを硬直させている。ファウルがその表情を覗き込むと、フェリシンはようやく口を開いた。
「……なぁ、俺たち、サウィンに昔立ち寄ったことあるよな、」
「三年くらい前だったと想うけど、そういえば行ったな……、短期間だったけど。それがどうかしたのか、」
「そのときに行ったのってルグドゥネンシスだけだよな、」
「ああ、……首都サバトは封鎖されてて一般人は行けなかったから、諦めた記憶がある」
「……だよな……」
 そっとフェリシンは水に口をつける。最初にひとくちだけ喉に流し、その後で残りを一気に嚥下した。
「なにか引っかかることでもあるのか、」
 フェリシンから空になったタンブラーを受け取り、ファウルはそう訊ねる。
 くしゃくしゃと左手で癖のある髪を乱しながら、フェリシンは目を閉じた。しばらく考え込むようにしてから、ゆっくりと瞳を開く。
「なんかな、頭ん中に浮かんでくるんだ、王宮の風景みたいなのが。外観だったり細部だったり、次々にちらつきやがる。……で、その周囲は大雪だときてる。おまけにだ、俺の頭のどっかが、これがサウィン王宮だと断定して……、」
 そこで、ぷつりと言葉が切れる。それとほぼ同時に、フェリシンは両手で頭を抱え込んで蹲った。タンブラーを放るように隣のベッドに無造作に置き、ファウルはフェリシンの肩に手を回す。
「フェル、まさか記憶が……」
 再びフェリシンの喉から苦痛の声が漏れる。頭をおさえる両手には、ぎりぎりと力がこもっていた。やがて、ひときわ大きな呻き声が響き、それから徐々に力が抜けてゆく。
「……わからねぇ、けど……」
 先程のファウルの言葉に答えながら、フェリシンは体勢を元に戻す。
「こんなのは初めてだ。とくに原因も想いあたらねぇし……」
「……明日、大丈夫なのか、」
「ん、……問題ねぇよ。明日決行するってわけじゃねぇし、万が一治らなかったとしても船の中で休めばいい」
 しっかりとした口調でそう言うと、フェリシンは重々しい動きでベッドから足をおろした。それを気遣うファウルを制し、自力で立ち上がると、ふらふらとした足どりで移動する。ファウルのコートがかけてある椅子の傍にあるひとり用ソファに上着を脱ぎ捨てた。
 フェリシンが身に纏う薄くて黒いシャツは汗を吸ってべたついている。上着の下につけているシルバーのネックレスも水滴をつけていた。
「……サウィンの件だけど、」
 薄着になったフェリシンの背中にファウルは声をかける。フェリシンは上半身だけで振り向いた。
「夕方話してた通りだ。具体的に言わなくたって、わかってんだろ」
「戦略はね。……だけど、どうやって王宮に潜入するつもりなんだ、」
「……ああ、そのことか……」
 少ししっかりしてきた歩き方で、フェリシンはバスルームへ行くと、手を伸ばして備え付けのタオルを手繰る。適当に選んで手にした水色のフェイスタオルで、乱暴に首筋を拭った。
「心配ねぇ。潜入は必ず成功する」
「なぜそこまで自信がある、いや……、なぜ詳細を隠そうとするんだ。いつもなら包み隠さず話してくれるだろう。……僕に言えない事情でもあるのか、」
「……そう、……かもしれねぇな」
 フェリシンは低くそう呟く。えっ、とファウルは息を飲み込んだ。
 使ったフェイスタオルをバスルームに放り込み、フェリシンはベッドの傍へと戻る。ファウルの正面に立つと、心もち上目遣いで、ファウルと視線を合わせた。
「俺にも儕輩の醇乎たる精神を知悉するくらいの人情はあるってことだ」
 ふっと不敵な笑みを浮かべると、フェリシンはファウルの言葉を待たずしてベッドに倒れこんだ。布団を頭まで引っ張りあげると、ごろりと寝返りをうってファウルに背を向ける。
 直立したまま、ファウルはフェリシンの背中を眺めた。ひとつ間があってから、フェリシンがその体勢のままくぐもった声を発する。
「悪ぃけど、もうちょい休ませてくれ」
「……ああ、……そのまま朝まで眠ってろよ。顔色も悪いし、瑕も完治してないんだ」
 そう言い残すと、ファウルは放り投げたままのタンブラーを拾って、ベッドから離れた。シンクにタンブラーをそっと置くと、できるだけ物音をたてないように白いコートを羽織る。きちんとコートの前を留めると、その内側にライフルを忍ばせて、ファウルはそっと扉のノブを回した。
 部屋から廊下に出ると、その突き当たりにある大きな窓から外の様子がうかがえる。港街は静まり返り、建物から漏れる光も少なくなっていた。宿の中も、しんとしている。
 忍び足でファウルは廊下を歩き、そのまままっすぐ宿の外へと向かった。
 数時間前の喧騒が嘘のように、街は落ち着いている。ひとりとして人の姿はなかった。
 コートのポケットに両手を突っ込んで、ファウルは舗装された道を歩く。足を進めながら、海からの潮風を肺いっぱいに吸い込んで、深呼吸した。風に乱される髪をかきあげ、ふと視線を落とす。そこでファウルの足はぴたりと止まった。
 地面に、夥しい血痕があるのがはっきりと見える。
「……ここに、さっきの兵士が……」
 ファウルはそう独りごちて、苦々しい表情を浮かべた。
 ふわりとやわらかい風が吹く。それと同時に血痕の上でなにかが輝いた。そのことに気付いてファウルはその場にかがみこむ。ポケットからペンライトを取りだして、血痕を照らした。
 すっかり褐色の液体は乾いている。右手で持っていたペンライトを左手に移し、右手の人差し指で、その乾いた血痕の上を撫でた。ざらざらとした感触をたしかめてから人差し指を離す。今度はその指の腹を照らすと、そこには蒼い粉が附着していた。
「……これは……、」
 そう呟きかけて、ファウルは人の気配を感じ、矢庭に背後を振り返った。闇の中で目を細め、背後からやってくる人物を確認すると、全身の力を抜く。
「……エイン、……どうしたんだ、こんな夜中に」
「その台詞、そっくりそのまま返す」
 こつこつとブーツの音を響かせてファウルの方に歩み寄るエインセルは、いつも身に纏っているショールを外している。
「……道の真ん中に坐りこんで何をしている、」
 ペンライトを握るファウルを訝しんで、エインセルが訊ねる。ファウルは苦笑を浮かべた。
「いや、こんなことをしにきたわけじゃないんだけど……気分転換に散歩してたら、偶然……さ」
「……血痕、……ああ、さっきの……」
 後ろから、エインセルはファウルの手元を覗きこむ。ファウルが気まずそうに視線を漂わせていると、エインセルは小さくかぶりを振った。
「べつに気を遣ってくれなくてもいい。もう大丈夫だ。……いや、さっきはすまなかった、と言うべきか……」
 気丈な声を耳に、ファウルは立ち上がるとエインセルの方を身体ごと向き直る。
「デリィも言ってただろう、しょうがないことだって、」
「……やさしいのだな。……それはありがたいが、もう迷いはない。愛する祖国の人々が苦しむ姿を見て放っておくなど……私にはできないからな」
「……それじゃあ、」
 ぱっとファウルの表情が明るくなる。エインセルはしっかりと首肯した。
「お前たちとともに行かせてほしい。……昔のサウィンを、取り戻させてくれ」
「……ありがとう、」
「礼を言うのはこちらの方だ。私ひとりで旅をしていたのでは、こんな好機など掴むことすらできなかっただろう」
 背の高いファウルをまっすぐにエインセルは見上げる。ファウルはどこかすっきりとしない表情を浮かべていた。それに気付いて、どうかしたか、とエインセルが訊ねると、ファウルは視線だけで血痕の方を示す。
「ここに、附着していたんだ、」
 そう言いながら、次に右の掌をエインセルに向ける。エインセルの視線は、すぐに人差し指の蒼い粉末へと注がれた。
 急に険しい顔つきになったエインセルが、再びファウルを見上げる。
「……これはまさか……」
「ああ、間違いない。ダユーだ。……もし血痕の上にただ附着していたのなら問題ないが、血液に混ざっていたとなると話は違ってくる」
「ダユーが血液に混ざる、だと……」
 ファウルは小さく頷いた。
「そう、……ダユー・シンドロームの典型的な症状だ」
 低い声が、幾分かひそめて吐きだされる。
 人差し指についたままの蒼い粉を、ファウルは指をこすりあわせて地面へ落とした。細かい粉は闇に呑まれ、どこに落ちたのかわからなくなる。
 ふっとエインセルは大きく息を吐いた。
「なるほど。さすがウェザー家の人間だな」
「……やっぱり、気付いてたか」
「ウリシュクの言葉でな。しかし今更そんなことを気にはしない、出自や経歴など、どうでもいいことだ」
 あっさりとエインセルはそう言い切った。
 そう言ってもらえてほっとした、とファウルは一度相好を崩す。しかしすぐにまた厳しい顔つきに戻った。
「相手はダユー・シンドロームかもしれない。もしそうならば一筋縄ではいかないだろうね……」
「……サウィン軍が、ダユー・シンドロームなどと……、」
「まだ決まったわけじゃない。でも、……ハベトロットが軍に強制している可能性は低くない、と想う。自分の意に反する者を股肱になどできない。だったら、理性を剥がしてしまえばいい。……推測とはいえ、残酷な話だけどさ」
「あくまで力を以って為政者であろうとする……奴なら、やりかねない」
 両手でかたく握り拳をつくって、エインセルは肩を震わせる。
 その肩にファウルはそっと手を置いた。
「もっとも凄惨で、もっとも下手な統治だよ。武力なんてのはね」
 ゆっくりと言葉が紡がれる。それを最後まで聞き届けてから、エインセルはようやく全身の力をゆるやかに抜いた。
 エインセルの変化を確認して、ファウルは手を離す。それと同時に、自信に充ちた笑みを浮かべてみせた。
「サウィンの無辜の人々のためにも、君の決意を無駄にしないためにも……なんとしても、成功させるさ」
 潮風がふたりの髪を揺らす。その風は激しさを増し、ファウルの足元に散らばる蒼い粉を攫っていった。巻きあげられた粒子はばらばらに散り、石畳の隙間に姿を隠す。
 いつもの仕草で前髪をかきあげて、ファウルは横目で東の海を睨んだ。