pain and ache




「マァルレット テムレアク スェド ティヴァエルク オイピックニルプニ クゥスル トセ アットカフテ クゥスル タイフ スェド エゥクティズィド……」
 宿で夕食を済ませて部屋に戻ると、フォノデリーは調子よく唄を口ずさみはじめた。相変わらずいつもと同じところでぷつりと途切れ、しばらくしてまた頭から繰り返される。
 エインセルとフォノデリーの部屋にファウルは立ち寄っていた。エインセルは窓の桟に軽く腰かけ、フォノデリーはベッドに腰かけて足をぴょこぴょこと動かしている。ファウルは部屋の入り口付近のベージュの壁に背中をあずけた。
 既に外は真っ暗になっている。薄いカーテンは閉められており、その前でエインセルは腕を組んだ。
「……結局、誰も明日の行動を知らないということか……」
「フェルが言いだしたことに乗っかってきただけだからね……あいつが船酔いでダウンしてるんじゃ話が進まないよな。たしか、明朝の始発の船でサウィンに行くとか言ってたから、その用意はするつもりだけど」
 ファウルのいる入り口付近は、窓とはちょうど一番遠い距離になる。しかし宿の部屋は狭く、普通の声のヴォリウムでも充分に会話が成立した。
 足元へとエインセルは視線を落とす。
「……本当に、可能なのだろうか、」
 沈んだトーンに、ファウルもフォノデリーも反応して、エインセルの方へと顔を向けた。しかしエインセルは顔を上げる気配がない。
 フォノデリーが小さく首を傾げた。
「珍しいね、エインがそんな弱気な発言するなんて」
「弱気なのではない。それに、死徒<コーツ>の戦闘能力も戦略も並大抵のものではないということは、充分に承知している。しかし冷静に考えてみろ、今までとは明らかに状況が違う」
「……今までは、その場を切り抜けるような状況ばっかりだったってこと、」
 今度は逆側に首を傾げて、フォノデリーは問いかける。
 ようやくエインセルは顔をあげると、フォノデリーの方へと視線を送った。
「護りが攻めに転じたということも、たしかにある。しかしそれ以上に……、デリィ<お前>にはなかなか想像がつかないことかもしれないが、相手がどこにでもいるような兵士ではなくハベトロットであるということが大問題だ。奴は自らの戦闘能力も後ろ盾も持っている。加えて今はサウィンを統べる地位にいる人間、……つまりハベトロットを殺るということは、一国を落とすということと同義なのだぞ」
「……これは僕の推測だけど、」
 僅かの間をおいて、ファウルが声を発した。そしてエインセルが反応を示したのを確認してから、続ける。
「フェルはサウィン王宮に直接乗り込むつもりなんだと想う」
「……なんだと、」
 エインセルはファウルの言葉を聴いた瞬間に目を丸くした。窓の桟に腰掛けるのを止め、弾かれるように一歩前に出る。その正面にいるファウルはまったく様子を変えず、落ち着いていた。
 直接、とフォノデリーは口の中で呟く。その傍でエインセルはかぶりを振った。
「莫迦な、たったこれだけの戦力でそんなことができるわけがない、」
「詳しいことを聞いたわけじゃないけど、敵はひとりだってフェルは言ってた。正面突破するつもりなんてさらさらないと想うよ」
「では、サウィンに行くというのは偵察をするためでも攻略手段を探すためでもなく……、」
「おそらくは、すぐにでも王宮に潜入するつもりだと想う。ターゲットはハベトロットだけなんだ、回りくどいことをする必要はないだろうし、ね」
「……たいした自信だな。まるで王宮のことを熟知していて、いとも簡単に潜入できるといったように聞こえるが」
「それは……、たしかに気になるところではあるけど。でも、フェル<あいつ>は想いつきで策を言い出すような奴じゃない」
 はっきりとファウルはそう言い切る。しばらく考え込んでから、フォノデリーは無言のまま納得したように頷いた。
 しかしエインセルは反応を示さずにいる。
「……浮かない顔だね。まぁ……無理もないかもしれないけど」
 ゆっくりとした口調でファウルは言う。
「納得のいかない作戦で、どう考えてもリスクは高い。そして実際に遂行するメンバーとして自分がカウントされている……、乗り気じゃなくて当然だ。でも……」
 そこで一旦言葉を切って、ファウルは身体の重心を前へと移動させ、壁から離れた。
 エインセルもフォノデリーも、言葉の続きを待っている。ふっと息をわずかに吐き出してから、ファウルは続けた。
「僕は行くよ。今のサウィンの惨状は、サウィン王宮の横暴を喰い止めるチャンスでもある。サウィンの人々がハベトロットに未だないほどの反感を抱いている、この期を逃すわけにはいかない。それが戦争終結という目的に近付くなら尚更だ。……だけど、君まで無理にとは言わない。危険なのはたしかだからね。とくに君はサウィンに対して特別な感情があるようだし……。君が来なくても僕は……、いや、僕たちは君を恨まない。サウィンの件が巧く解決すれば、また合流しても構わないよ」
 滔々とファウルは言葉を紡いだ。ようやくすべてを言い終えると、右手で前髪をかきあげる。そして部屋にいるふたりに向かって背を向けた。
「明日の朝に返事をくれればいいよ。デリィは……」
「アタシはエインと一緒に行動するつもりだから、」
 さらりとフォノデリーはそう答える。とくに迷いもなく、特別な気遣いをしているというわけでもないような口ぶりだった。
 助かるよ、と、ファウルはフォノデリーに笑顔を向け、扉のノブに手をかける。
 そのとき、建物の外で数名の女性の悲鳴があがった。はっとして三人はほぼ同時に窓の方を見遣る。窓のすぐ傍にいたエインセルがガラス越しに外を睨む。しかし闇に街灯がぽつぽつと浮かんでいるのが見えるだけで、人の姿はまったく確認できない。
 次第に外がざわつきはじめる。人の声が建物の周囲に満ちているのが部屋の中からでも充分にわかった。しかし悲鳴は最初の一度きりで、それ以降は喧騒が聞こえるものの、激しい物音はひとつも届いてこない。
「ちょっと、様子を見てくる」
 手にかけていたノブを回して、ファウルは扉を開けた。それとほぼ同時に、私も行こう、とエインセルが部屋の奥から足を進める。エインセルの行動を見て、フォノデリーは慌ててベッドから飛び降りた。
「あ、アタシもっ、」
 小走りで追いかけてくるフォノデリーに対して、エインセルは小さく頷く。
「念のため、私の傍から離れるな」
 エインセルの忠告に対して、フォノデリーは、うん、とすぐに素直な返事をしながら首肯した。
 外の様子を見に行こうとする宿泊客は他にも見られ、先程まで静まり返っていた廊下には数名の人の姿がある。その人々に混じって、ファウルたちは宿を出た。
 宿を出てすぐの処に、もう既に人だかりができている。喧騒は少し落ち着いた様子だが、野次馬の数は徐々に増えていっていた。
「ねぇねぇ、なにがあったの、」
 たまたま近くにいた中年の男性をフォノデリーは見上げた。白髪まじりのその男性は、だぶだぶの上着のポケットに両手を突っ込んでいる。
「なんかよくわからんが、他国からの亡命者……というか傷痍兵が何人か港に流れついたらしいぜ。疵口だらけで身体じゅうがぐちゃぐちゃだ。悪いことは言わねぇ、お譲ちゃん、見ねぇ方がいい。……あー……グロすぎて酔いが醒めちまった、呑みなおすか」
 途中まではフォノデリーに説明をしていたものの、だんだんと独り言じみたような口調になり、そのまま男性は人ごみをかきわけて住宅街の方へと戻ってゆく。それをまったく咎めようともせず、フォノデリーはファウルとエインセルを交互に見上げた。
「……そんなに大怪我してるって、ただごとじゃないよね」
「戻るか、」
 エインセルが語尾をあげずにそう訊ねると、フォノデリーは首を振った。
「アタシ、べつにそういうの平気だから。ウルくんもエインも、もうちょっと情報、掴んでおきたいでしょ、」
「それはそうだな……。しかし、他国というと、地理的に考えてベルテーンということはありえないだろう、となれば……」
 低く唸るようにエインセルがそう呟いていると、市街地の方からけたたましくサイレンが鳴り響いてきた。音はあっという間にこちらへと近寄り、すぐに、道をあけてください、と野次馬をかきわける白衣の集団が姿を現す。その後ろには眩しいほどの赤いライトを点滅させ、サイレンを鳴らす大きな車が数台あった。
 白衣を着た人物のうちひとりが、率先して人の中をずんずんと進んでゆく。ファウルたちの横を通り過ぎ、その白衣の人物は更に奥へと向かいながら、大声をあげた。
「サウィンの傷痍兵はどこです、」
 遠くのほうから、ここです、と女性が叫ぶ声がした。白衣の人物は声のした方向に大股で歩き、その後ろにできた道を、他の白衣を着た人々が後を追うように駆けてゆく。
 ちらりとエインセルを一瞥して、ファウルは息を吐きだした。
「……確認するまでもなかったね……」
 エインセルからの返事はない。
 そのかわりに、傍にいた数名の女性の会話が、三人の耳に届いた。
「サウィン兵だったんですって、」
「ついに兵士さんまでも亡命だなんてねぇ……」
「一般人の亡命者がここ最近すごい数になっているのは知っていたけれど……、まさか軍の人までって、余程ですわよねぇ。まったく、海の向こうでは何が起こっているのかわかったものじゃないわ」
「ほんと、恐ろしいわよ。というか、わけがわからないわ。こんな状況なのにルーナサに進攻してるらしいじゃないの、」
 聞こえてくるその会話を耳に、エインセルは視線を落としていた。その肩に、ファウルはやさしく手を置いた。
 はっとしてエインセルは焦点を結びなおす。俯いた先では、フォノデリーが心配そうな眼差しでエインセルを見上げていた。
「……戻ろう、」
 いつもよりも更に低い声で、ファウルはそっと呟く。フォノデリーは首肯して、エインセルの右手を、その小さな両手で包んだ。そして、誘導するようにエインセルを宿の方へと引っ張ってゆく。
 まだ崩れない野次馬の輪を抜けて、宿のエントランスに入る。そこでようやくエインセルは肩の力を抜いた。
「……すまない、……少し、気が動転してしまった、」
「しょうがないよ。冷静でいろっていう方が無理だもん」
 まっすぐにエインセルと視線をあわせて、フォノデリーはそう返す。その隣で、その通りだよ、とファウルも同意を示した。
「今日はもう休んで。……明日も、無理はしないでほしい」
 やさしく諭すようにそう言うと、ファウルはエインセルの背中をぽんと軽く押した。宿を出たときに比べて、エインセルの顔色ははっきりと悪くなっている。口数も少なく、動きもぎこちなくなっていた。
 フォノデリーは心配そうにエインセルを見つめる。
「ねぇエイン、部屋に戻ろう。あ、そうだ、あったかいハーブティ淹れたげるよ」
 殊勝に笑顔をつくって、フォノデリーは明るい声を発した。すっぽりと頭を覆うローブの下に、無垢な眼差しが輝いている。
「……ありがとう、」
 深い息とともに、エインセルはそのひとことだけを吐きだす。表情はほとんど長く紅い前髪の下に隠れてしまっていた。それでも、その返答に、ファウルとフォノデリーは顔を見合わせ、若干の安堵をのぞかせた。