pain and ache




 エススから列車に乗り、ルーナサの一番北にある港へと向かう。ルーナサ最大の港であるルーナサ第一ポートには巨大な船が停泊し、人々を収容していた。軍艦というわけではないが、装飾は控えめで、船旅に使われるような船には見えない。その無愛想な外観の分、造りは頑丈そうに映えていた。
 第一ポートは老若男女問わず、多くの人々でごった返している。長い列に並び、ようやく一行が乗船したときには多くの人々が乗り込んだ後で、船内は騒がしさに充ちていた。船室は既に満室で、船内の殺風景なホールに人々は次々に流れ込む。ファウルたちもそれに倣い、ホールの角を陣取って木の床に腰を下ろした。
 しばらくしてぼうっという大きな音が鳴り響き、船がゆっくりと動きはじめる。それと同時にフェリシンは壁に背を預けて俯き、目を閉じた。
 船内の混雑具合は半端ではない。ホールでは乗船客が互いに気を遣いながら、身を縮めて長い航海の間をじっと耐えていた。とても落ち着いて話ができるような状態ではなく、疲労だけが蓄積してゆく。明らかにフォノデリーは途中から疲れをみせはじめ、エインセルの肩に凭れ掛かっていた。
 ルーナサ第一ポートからインヴォルグへの渡航は丸二日を要する。すべての乗船客が不快と疲弊に充たされた中、まもなくルマリオ港へ入港します、と短い女声のアナウンスが流れ、ホール内は再びわずかながら生気を取り戻した。
 インヴォルグの南東にあるルマリオ港に到着すると、ひとまずファウルは宿をとった。まだ夕方前ではあったものの、全員が長い航海にくたびれ果てている。宿に部屋をふたつ確保すると、フォノデリーはすぐに部屋に入り、ベッドに横になってしまった。
「デリィが疲れるのも無理はないな。さすがに私も人に酔いそうだった、」
 フォノデリーが寝ている横で、少し青白い顔をして、エインセルはそう呟く。僕もだよ、とファウルは頷いた。
「ベルテーンから逃げてきたときの方がずっと快適だったよ……、一応あのときは難民扱いだったのに」
「まあ……あの船に乗らなければしばらくは渡航不可になると聞けば、ごった返すのはわかっていたがな。……そういえばフェルは、」
「街に出て行ったよ。外の空気を吸わないと酔いがさめないってさ」
 そう答えながらファウルは窓の外をちらりと見遣った。港町ルマリオには宿が多く、大人数を収容できる建物がいくつも並んでいる。
「……僕も少し出てくるよ。買い足しておきたいものもあるし……。件のサウィンの話はフェルがいなきゃできないだろうから」
「ああ、……私はデリィの様子を見ながら休ませてもらうことにする」
 淡々と述べながらエインセルは部屋の隅にあるソファに移動すると、そこに身を沈めた。ひとつ大きな溜息が吐き出される。
 じゃあ行ってくる、と短く告げて、ファウルは部屋を後にした。
 宿の立ち並ぶ街並みを抜けて、海の方へとファウルは向かった。次第に背の高い建物は少なくなり、そのかわりに大型倉庫や簡易テントが並ぶようになる。入港や出航で港は常に人で溢れており、水揚げされたばかりの海産物を運ぶ人々や、魚市場に集う人々の姿も日中には多くみられた。旅客や輸入業者、漁師など、様々な姿が港に集中している。
 鉄筋でできた大型倉庫の影に、ファウルはフェリシンを見つけた。ひとりそこから海を眺めるフェリシンに、ファウルはそっと近寄ると、その名を呼ぶ。気配と声に振り返ったフェリシンの左手の指には煙草が挟まれていた。
 ゆらりと煙をあげる煙草を見て、ファウルは苦笑する。
「……まったく、……瑕にさわるってわかってるだろう。僕が医者なら確実に取り上げるよ」
 ふっと表情をやわらげながら、フェリシンは紫煙をくゆらせた。
「でも医者じゃねぇわけだろ、お前は。……学者なんだし」
「……やっぱ、バレてたか……」
 再びファウルは苦笑いを浮かべる。しかしそれは先程のものとは違い、自嘲的なものだった。
 まあな、とフェリシンは言う。
「ウェザーの名号は世界にその名の轟く学者のオーソリティだからな。学問なんていう毀誉褒貶の激しい分野でも揺らぐことのないエスタブリッシュメント……、デリィはあやしいが、エインは確実に気づいてるだろ」
「……だよな……」
 白いコートのポケットから煙草を取り出し、ファウルはマッチで火をつける。近くにある公共に設置された灰皿に火の消えたマッチを放った。
「隠すつもりはなかったんだけど……さ」
「気にすんなよ。医学の知識があったり頭の回転がはやかったり、学者肌だってのはわかってたからな、べつに驚いちゃいねぇし。それに、ウェザー門下の人間が研究所を出て旅なんかしてるって知れれば面倒なことになる……と想って黙ってたんだろ、どうせ」
「まあ……ね……」
「……心配すんな、細かいことは訊くつもりねぇから」
「ありがとう……」
 煙にその言葉を混じらせて、ファウルはゆっくりと肺に溜め込んだ空気を吐き出した。
 周囲の声や音が、途切れた会話の間を埋めるように聞こえてくる。しばらくふたりともが言葉を発さずに、ただ煙草を吸い続けた。フィルタの近くまで火がきたところで、ようやくフェリシンは灰皿に煙草を擦りつけ、火を消す。それに倣うように、それよりまだ少し長い煙草をファウルも灰皿に落とした。
 広い海の果てを見ながら、ファウルはそっと声を発する。
「フェル、サウィンのことだけど……。本当に可能なのか、」
 その問いを受けながらフェリシンは新しい煙草に火を灯していた。煙草の先から煙があがると、マッチを指先でふわりと灰皿に放る。咥えていた煙草を左手で持ち、ゆっくりと息を吐き出した。
「さぁ……な。ハベトロットの戦力が未知数な上に、サウィンの情勢なんてほとんど知らねぇからな。……ま、敵がひとりだと想えばやりやすいだろ」
「それはそうだけど……。巧くいったとしても、それからはどうするんだ。サウィンの人々からしてみれば、僕たちなんてどこの馬の骨かもわからないのに」
「……ああ、そのことなら心配ねぇ、大丈夫だ」
 さらりとフェリシンがそう答えると、ファウルは数回瞬きを繰り返した。
「そう……なのか、」
 ゆっくりと呟かれた言葉に、フェリシンはしっかりと一度だけ頷いてみせる。それから再び紫煙をくゆらせはじめた。
 港で働く人々の姿を眩しそうにファウルは眺める。
「こんなところじゃ言いにくい作戦なのかもしれないし、詳しくは訊かないけど……フェルの考えることだ、信用してるよ。……成功すれば、世界情勢が変わることになるかもしれないほどの計略だから余計に、さ」
 フェリシンはそっと目を閉じた。
「変わることになるかも、じゃねぇ。変えんだよ」
「……そうだな」
 少し冷たい風が海の方からやってくる。正面からきた乾いた風に、ふたりはほぼ同時に目を細めた。
 先程と同じような動きで、フェリシンは短くなった煙草の火を消す。
「だいたい、そのために旅してんだろ」
「ああ。……本来の目的がなかなか果たせないのがもどかしいけどな。でも今みたいに、ひとつひとつ、目の前のことを解決していくことも大切だってのもわかってる。ただ……、」
 再び正面から、今度は先程よりも強い風が吹き、ファウルは一度言葉を切った。
 港にいる人々は平気な様子で仕事を続けている。水揚げのために建てられている仮設のテントも、この程度の風にはびくともしていない。
 強い風がおさまったところで、ファウルは続ける。
「……なんだか、本来の戦争の世界動向とは別に、なにか大きな流れを感じる。……いや、それだけじゃない。しかも、僕たちはそれと無関係ではないらしい」
 そうらしいな、とフェリシンはすぐに同意を示す。それから再度、新しい煙草にマッチで火を灯した。
「キーパーソンは、あいつか……」
「……ウリシュク、だろ。もはやベルテーンの三将官としてじゃなく、自分の野望のために行動してるように見えるからな。あいつは、僕たちも、他の多くの勢力も知らないなにかを知ってるはずだ」
「だろうな。……デリィを狙っていたのは多分その知っているなにかに関することだろう。……が、なぜかデリィだけじゃなく、俺のことも、お前のことも知ってた……、と。俺の場合は、単に俺が憶えてねぇだけって可能性もあるが……」
「僕にも心当たりがない。名前で反応したってことは、まだ僕が研究所にいた頃に一方的に知られてたって可能性が高いだろうけど。……ウェザーの一門は結構閉鎖的なところがあるから、外部の人間との交流っていうのはあまりなかったし……それでいて顔と名前だけは世に出てる、一方的に知られているケースは少なくない……、」
 真ん中でわけた長い前髪をファウルは右手でかきあげる。そうしながら、ふとフェリシンの方を見遣ると、途端に顔をしかめた。
 手を伸ばして、ファウルはフェリシンの右腕を掴む。
「……やっぱり……、熱いじゃないか、まったく」
 ファウルの行動にフェリシンが驚いて反応を示す前に、ファウルはそう言いながら溜め息をついた。
 左手に煙草を持ったまま、フェリシンは苦笑する。
「ばれたか、……さすがだな」
「悠長なこと言ってる場合じゃないだろう。患部でもないのにこんなに熱いなんて、……瑕、開いてないか、」
 真剣な眼差しでファウルがそう訊ねると、フェリシンはかぶりを振った。
「それは大丈夫だ、……明日、作戦決行しないわけにはいかねぇからな。ちゃんと動ける状態にはある」
「お前なぁ……」
 がっくりとファウルは脱力する。もう一度溜め息をつくと、フェリシンの持つ煙草をそっと奪い取って、灰皿に押しつけた。
 まったく抵抗をせず、フェリシンはいつもと変わらない顔をしている。
「……エインとデリィには言うなよ」
 視線だけでファウルを見上げてそう言うフェリシンに、ファウルは若干の間をおいて答えた。
「今すぐ宿に戻って休むなら、な」
「……わかったよ」
「心配しなくても、まだ船酔いがさめてなくてダウンしてるってことにしとくからさ」
「悪いな、……助かる、」
 言葉をかわしながら、ふたりは宿の方へと足を向けた。
 白と黒のコートが並んで風に靡く。陽は沈みかけ、影は長く伸びていた。気温はじわりじわりと下がってきているが、港の人々にはまだまだ活気がある。飛び交う声の中を、ゆっくりとしたペースで、コート姿の青年ふたりは通り抜けた。