mutually exclusive




 軍用艦が到着したのはベルテーンとルーナサの国境だった。重々しい雰囲気の国境には、鉄の柵を挟んで両国の兵士が対峙している。その監視の中で、亡命した人々はルーナサ領へと入っていった。
「こんな簡単に亡命ってできるもんなの、」
「普通は無理だね。エスリィルが狂奔したのと、ベルテーンとルーナサの間ではそれほど対立は深刻化していないのと、両方で……ってとこだろうけど」
 一般市民に紛れて移動しながら、フォノデリーとファウルは小声で言葉をかわす。両国の兵士に睨まれつつ、一行はサウィン領へ足を踏み入れた。
 ファウルの右手は隣を歩くフェリシンを支えている。国境を越えて街に入り、しばらく石畳を歩いたところに公園を見つけて、ファウルたちはひとまず公園の隅へと移動した。石のベンチにフェリシンを坐らせて、ファウルはその表情を覗く。
「……随分と酔ってるなぁ……、気を遣って客室を出ることなかったのに」
「あんな揺れると想ってなかった……、」
 溜め息をつきながらフェリシンは目を閉じる。前屈みになって、両膝に肘をついた。
 空は薄暗い。周囲にある住宅地からはいくつもの光が漏れている。
 きょろきょろと街の様子を見回してから、フォノデリーはファウルを見上げた。
「あのさぁ、……アタシ、結構寝てた気がするんだけど……、まだ夜中なの、」
「え、……あぁ、……そっか、デリィはルーナサに初めて来たんだね」
「そうだけど……、」
「ルーナサは、常闇の国って呼ばれてる処でね。今は薄暗いけど、これで朝なんだよ。昼間に気休め程度に弱い光が射すけど、あとはこのくらいの薄暗さと、もっと真っ暗な夜があるだけなんだよ」
 ファウルの説明に、フォノデリーは、ええっ、と大声をあげた。それから改めて周囲の様子を観察する。がっしりとした建物が多く、それらはベレノスのものほど背が高くない。道は石畳で鋪装されており、その脇には背の低い草が茂っていた。道路は先進国のもののようにはとても見えないのに対して、建築物や街灯は非常に発達している。
 エインセルが腕を組んだ。
「久々にルーナサに来たが……この国の発展は留まるところを知らないな。ここでもそう想うのだから、首都はもっと凄いのだろうが……」
「ここは首都じゃないのかー……、あ、国境に首都なんかないもんね、普通」
 フォノデリーがひとりで会話を完結させる。それにファウルが補足した。
「エススっていう都市だよ、ここは。ベルテーンとルーナサの間にはキテリオル海峡があって、僕たちの乗った軍用艦はそこを通って来たんだ。その海峡に最も近い都市がエスス……だから事実上、ここが国境みたいなものだね。ルーナサは今いる大陸と、あとはひとつ大きな島を領土として持ってるんだけど、大陸の中では首都の次に大きな街だ」
「たしかノッカーがエススの出身だとかで、近代化に拍車がかかったと聞く」
 横からエインセルがひとりで納得するように呟いた。
 ぺたぺたと歩いてベンチに近付き、フォノデリーはフェリシンの隣に腰かける。浮いた足をぶらぶらさせながらエインセルを見上げて、ノッカー、と鸚鵡返しに訊ねた。エインセルは小さく頷き、隣にいるファウルが説明する。
「ルーナサの今の統治者だよ。王制じゃないからね、ルーナサは。政治家の中から国民選挙で統治者を決めるんだ。それで今撰ばれて統治者になってるのがノッカー……というわけ」
「王様、いないんだぁ……」
 感嘆のような間の抜けたような声をフォノデリーは洩らす。その直後に彼女のお腹から音が響いた。今度は完全に間の抜けた声を発する。
「……あぅ。……軍艦で出たゴハン食べときゃよかったよう」
「何度起こしても起きなかったのはお前だろう」
 あっさりとエインセルはそう返す。
 まあまあ、とフェウルが笑顔をのぞかせた。
「じゃあ情報収集がてら、街の方へ行こうか。食べ物もいろいろ売ってるだろうし」
 その提案にフォノデリーは嬉しそうにぴょんとベンチから飛び下りた。隣でフェリシンはゆっくりと腰をあげる。顔色からは随分蒼さが抜けていた。
 一行は街灯に照らされた公園を出てゆく。元来た方を振り返ると、もう既にベルテーンの軍用艦の姿はなかった。亡命したと想われる人々も、周囲を見回せど数人しか見当たらない。街を歩いているのは、これから仕事に向かう地元の人々だった。
 石畳の上を歩き、薄暗い街を進んでゆく。街灯は非常に明るい光を放っているものの、少し脇道にそれて街灯の数が減るとすっかり見通しが悪くなる。できるだけ多くの光がある道を撰んで、ファウルたちは市街地へ入っていった。
 途中にあったベーカリーでチョコレートのたっぷりかかったパンを買い、フォノデリーはそれを頬張りながら満足そうな表情を浮かべている。それを横目で見ながら、エインセルは溜め息をついた。
「……お前よくそんな甘ったるいものが喰えるな」
「えぇっ、こんなにおいしいのにっ、」
 そう言ったかと想えば、その直後にはフォノデリーは再びパンに齧りついている。やれやれ、とエインセルは再び溜め息をついた。
 しばらくそのまま市街地を進んでゆくと、その先に人だかりができているのが一行の目に入った。近付いて様子を窺えば、そこに集う人々が全員上方を見上げているのがわかる。ファウルたちも同じ方に視線を移すと珍しくかなり高層な建物の屋上に設置された、巨大なスクリーンがあった。
 パンを食べ終わり、ベージュの包み紙を右手に握ったフォノデリーが目を丸くしてスクリーンをまじまじと見つめる。そのスクリーンには逃げ惑う人々の姿や、炎をあげる建物の映像が絶えず映しだされていた。そしてそれを見つめる人々は歓声を発している。
「…………まさか、これは……」
 エインセルの瞳が揺れる。一歩後ろにいるフェリシンが顔をしかめた。
「雪が降ってる……、…………そういうことか……」
 映像には、フェリシンの言葉通り雪が映っている。
 目を凝らしてフォノデリーはスクリーンをじっと見つめた。
「あれって……サウィン、なの……、雪が降ってるってことは……」
「間違いないだろうね……ファリアスは広いけど、あんなに雪が積もる国はサウィンしかない」
 逃げ惑う人々の映像を目に、ファウルは下唇を噛んだ。
 がやがやと騒ぐ人々の声は次第に大きくなってゆく。そのうちに、人々の中心からウェーヴのように順番に拳が天に向かって突き上げられた。ルーナサ万歳、という言葉や、サウィンを罵る汚い言葉が飛び交っている。
 そのとき、集まる人々の向こう側から、拡声器を通した女性の声が、喧騒を打ち破るほどのヴォリュームで響いた。
「ここは集会禁止区域ですッ、立ち去らない場合は憲法83条に従って罰則を加えますよッ、」
 その声が響いてから数秒間は、人々の動きに変化はみられなかった。しかし向こう側にいる人々から、連鎖的に声が消えてゆく。そして2分後には、今までの喧騒が嘘のように、スクリーンの前の集団はあちこちへと散ってしまった。
 集団がなくなってしまうと、その向こうにいる人物がファウルたちのいる位置から見えるようになる。それとほぼ同時に、その人物はつかつかと大股でファウルたちへと近付いてきた。
 大きな拡声器を右手に握る人物は眼鏡をかけた女性だった。薄い紫色のブラウスに黒のタイトスカートを合わせ、セミロングの銀髪を風になびかせている。その女性の背後からは、数人の背の高い男女がついて来ている。数人の男女はいずれもが紺色のトレンチコートを羽織り、ボタンや留め具をひとつ残らずきちんと留めていた。そしてその男女の腰にはサーベルが見える。
「あなたたち、警告はお聞きになって、」
 眼鏡の女性はファウルたちを睨みつける。言葉こそ丁寧なものの、その口調は荒々しい。
 少しかしこまって、ファウルは低く滑らかな声を発した。
「僕たちは旅の者でたまたまここを通りかかっただけです。法に触れるのであれば、すぐに立ち去ります。……ベルテーンに行きたいのですが、どう行けば佳いのか教えていただけないでしょうか、」
 さらりとそう言うファウルの後ろでフォノデリーが顔をしかめる。
「うわぁ……エインもすごいと想ってたけど、ウルくんも巧いねぇ……」
「情報を得るには最善の口実だな。戦争で故郷を失って放浪する人間が多い世の中だ、旅人と言っても怪しまれまい」
 小声で感嘆するフォノデリーの横でエインセルは頷き、口の中で呟く。フェリシンも同じように冷静に事の行方を見守っていた。
 眼鏡の女性は、ベルテーン、と一度大声をあげて、それからそれを打ち消すように咳払いをする。右手の人差し指でずれてきた眼鏡をあげて、息を大きく吐き出した。
「お兄さん、残念だけどベルテーンには行けませんわ。昨日インヴォルグがベレノスに侵入して、今や完全な戦争状態……ルーナサ<我が国>も今朝を以って国境を封鎖いたしました。当然、国境間列車は当分運休です」
「そうですか……」
 落胆したような素振りをファウルはしてみせる。後ろではぽかんと口をあけて、フォノデリーが、うわぁすごすぎる、と呟いていた。
 がっかりしたような口吻でファウルは続ける。
「メネックにいる恩師が病に倒れたと聞いたので、どうしても行かなくてはならないのですが……、遠回りしてインヴォルグ経由で行くしかないのでしょうか、」
「そうですわね……、たしかにそれしかなさそうですわ。でも、そうなさるならお急ぎなさい。インヴォルグ行きの船がいつ止まるかわかりませんもの」
「……と、言うと……、」
「……ああ、あなた方は旅をなさっているのでしたね、それなら御存知なくても仕方ありませんわ。……インヴォルグは我が国と交戦中のサウィンに物資の輸送による援助を行っているのです。ノッカー首相はインヴォルグに警告を発しておられます……聞き入れられなければ国交が途絶える可能性もありますわ」
 淡々と眼鏡の女性はそう説明する。その言葉が途切れると、後ろにいる護衛のうちのひとりの女性が、そっと口を挟んだ。
「リーウィデン様、お時間が……」
「ああ、そうね、他の場所も民衆を散らさないといけませんわ」
 リーウィデンと呼ばれた眼鏡の女性は顔だけで振り返り、頷いた。
 そのやりとりにフォノデリー以外が反応して表情を若干こわばらせる。その反応を声にしたのはフェリシンだった。
「……リーウィデン……、二大臣か、」
「あら、御存知ですのね」
「ルーナサの二大臣、リーウィデンとトローと言えば、伶俐な頭脳と卓抜した着想を持ってるって世界中で有名だからな、」
「過褒ですわ」
 眼鏡の奥でリーウィデンはにっこりと笑う。それから、くるりと踵を返した。護衛に対して一度頷くと、拡声器を握り直して歩き出そうとする。
 そのとき、大きな爆発音がひとつ、その場に響き渡った。一同はすぐに音のした方を見遣る。ベルテーンの方角から黒い煙があがっていた。
 それとほぼ同時に、リーウィデンの腰につけられていたトランシーバーから雑音とともに男性の声が聞こえてくる。リーウィデンは素早くトランシーバーを手にすると、その声に耳を傾けた。
『こちらトロー、聞こえるか、』
「ええ、……さっきの爆発は……」
『お前も見たか。まずいぞ、国境がベルテーン軍に突破された』
「突破って、……中立条約は、」
『一方的破棄だ……あのときみたいになッ』
「なんですって、」
 リーウィデンが大声をあげる。護衛たちもざわつきはじめた。ファウルたちは黙ったまま、トランシーバーでのやりとりに集中している。
『レヴェル・ファイヴの緊急対策法を発令した。奴らはどうせこの暗さでの戦いに慣れていない、領土内ではこちらが圧倒的有利だ。エスス市民街に被害が及ぶ前に国境画定ライン付近で食い止めるぞ、』
 了解、と短くリーウィデンが返し、通話はノイズを残して途切れた。
 トランシーバーを腰に戻し、リーウィデンは護衛ひとりひとりに向かって早口で指示を出す。指示を受けた護衛はそれぞれに走り去ってゆき、最終的に二人だけがその場に残った。
「旅の方々、お聞きの通りですわ……、ここは市街地といえど国境付近、早く避難なさって」
 厳しい目つきでリーウィデンはファウルたちを見つめる。それから軽く一礼すると、道の脇に停めてあったスクーターにまたがり、護衛を伴って国境の方へと向かっていった。
 完全にリーウィデンと護衛の姿が見えなくなってから、ファウルは低く唸る。
「一体どうなってるんだ……、今までも諍いは多々あったけど、ここまで戦争が俄に激化するなんて……」
「目的達成どころか、逃げ回ってばっかだな」
 諦観したように落ち着いてフェリシンは言う。
「まぁ、幸いインヴォルグにもバタシーの供給源と思しき場所はあるわけだろ。航路が断たれる前に行動した方がいいんじゃねぇか、」
「……そうだな」
 一度ちらりと国境の方を振り返ってから、ファウルはゆっくりと頷いた。