tense with a conspiracy




 殆ど水の枯れた用水路には兵士の姿はなかった。しかしその代わりに、一般市民の姿が市街地よりも多くみられる。その人々はすべて、ファウルたちと同じように軍用艦のある方向を目指して急いでいた。
 用水路を抜けて開けた場所に出ると、そこには銀色の軍用艦が等間隔で並んでいる。見る者を威圧するような巨大なボディのその前に、数十名の市民が列をつくっていた。
「……なに、どうなってんの、」
 きょろきょろとフォノデリーが周囲を見回す。市民の列の両側にはベルテーン兵が立ち、市民を軍用艦に順番に乗せている。
 一行が立ち止まって状況を把握しようとしていると、兵士のうちのひとりが歩み寄ってきた。
「早くしてください、もうすぐ出発しますよ、」
 兵士に促されて、ファウルたちは市民の列に並ぶ。市民の姿を見たときから、ファウルとフェリシンは腰に巻いたコートを取って腕に掛け、武器を隠していた。エインセルの銃のホルダーもショールの下になっている。市民の列に並んでも、何の違和感もなかった。
 先程の兵士が再び近付いてくる。
「ルーナサに亡命しても、ベルテーン出身だなんてくれぐれも言わないでくださいよ。あなた方の立場も危うくなりますし、こっちも軍本部に内緒でやっているんですから。……エスリィル将官に感謝してくださいよ、亡命の手伝いを軍がやるなんて前代未聞のことですからね」
「……ええ、本当に感謝しています」
 調子を合わせて、丁寧にエインセルは礼を述べる。そして兵士が去ってゆくと、低い声で呟いた。
「運が良かったな……」
「そうだね、密航する手間が省けたし……。……それにしても、亡命か……」
 周囲の兵士や列をつくっている市民に聞き取れないほど小さな声で、ファウルは言う。夕間暮れのため、互いの表情すらもわかりにくくなっていた。
 前に立つエインセルのショールを握って、フォノデリーは声のトーンを落とす。
「……戦争って、厭だね」
 そうだな、とエインセルは前を向いたまま呟いた。
 列はゆっくりと前に動きはじめる。ファウルたちは民衆に紛れて軍用艦へと乗り込んだ。
 軍用艦といえども、メネックからタラニスへ行く際に密航したもののような貨物輸送用のものであるらしく、倉庫に多くのスペィスが使われている。艦長室や武器庫などは立ち入りができないように兵士が監視していた。小さな船室がいくつもあり、人々は我先にと次々にその船室に入ってゆく。フローリングの床をゆっくりと歩き、ファウルたちは空いている船室の木でできた扉を開いた。
 船室は殺風景で、簡素なベッドがふたつ並んでいる。窓もなければ、テーブルすらもなかった。部屋の中を一瞥して、フェリシンは再び扉を開く。
「ちょっと風に当たってくる、」
 適当に休んでな、とエインセルとフォノデリーに言うと、扉を丁寧に閉め、フェリシンは廊下へと姿を消した。
 部屋が静まり返る。ファウルは息を吐き出した。
「まったく……気遣いだな、あいつ……」
 そう言いながらフォノデリーに歩み寄ると、ローブの背中を軽く叩く。
「ベッド使っていいよ、疲れてるだろう、」
「ん、ありがと……」
 眠そうな声を出しながらフォノデリーは頷く。ベッドに近付きながら、彼女はもう既に目をこすっていた。あまり弾力のない、かたいベッドにすぐに身体を横たえる。フードをはずすこともなく、備え付けの毛布にも手をのばさないまま、うとうとしはじめた。
 間もなくして、軍用艦全体が大きく揺れる。ずしりと下の方へ沈む感覚を伴いながら、艦は前へと進みはじめた。震動は次第に緩くなり、エンジンの音も聞こえなくなる。数分後には、軍用艦はきわめて静かに進行していた。
 艦が動きだしてしばらくしてから、ゆっくりとした動作でエインセルは扉の方を向く。背後にいるファウルの方を振り向かないまま、言葉だけを投げかけた。
「……私も、少し出てくる」
「あ、……ああ、わかった。デリィはちゃんと見てるから」
「済まないな、すぐ戻る。お前も疲れているだろう……休んでいてくれても構わない」
 ちらりと一度視線だけで背後を振り返り、エインセルは扉を小さく開けると、その向こうへと姿を消した。バタン、と音をたてて扉が閉まる。扉を背にしたまま、しばらくエインセルはその場に立っていた。
 艦内の廊下を歩く人の姿がちらほら見受けられる。黄金色の甲冑に身を包むベルテーン兵は民衆に声をかけることはないものの、持ち場に立って亡命者の様子を観察していた。
 扉の前に立っていると、廊下を移動していた市民のひとりと目が合い、エインセルはようやく動きはじめる。ファウルとフォノデリーのいる客室から離れ、廊下をまっすぐ進むと、その先にある階段をのぼった。階段をのぼりきった処には、ひときわ大きな扉がある。その扉を、エインセルはゆっくりと押した。
 開かれた扉の向こうは屋外であり、周囲を観察するための双眼鏡がいくつか設置されている。ぐるりと全体に柵がめぐらされていた。
 空は既に暗く、星も出ていない。後方に視線を映せば、遠くに炎のあがるベレノスの街が見えた。亡命した人々は、ここからベレノスの様子を眺め、悲痛な声で口々に何かを言っている。艦の後方はざわついていた。
 ベレノスとは逆方向の、軍用艦の前方の柵に凭れ掛かっている人影を、エインセルの視界が捉える。近付いて確認してみるまでもなく、そのシルエットはフェリシンのものだった。
「…………フェル、」
 傍まで歩み寄ってエインセルは声をかける。
 フェリシンはコートを羽織って腰を下ろしたまま片膝を立て、そこに額をつけるようにして俯いていた。エインセルの声に反応して、ゆっくりと顔をあげる。
「……あ、ぁ……エイン、どうしたんだ、」
「お…前、顔が真っ青だぞ、」
 軍用艦の屋外にはそれほど多くの灯りはない。しかしそれでもはっきりとわかるほどに、フェリシンは顔面蒼白になっていた。肌色の消え失せた顔で、フェリシンは苦笑する。
「しっかり酔っちまったよ、……ま、風でも浴びながら休憩してるさ」
 あくまで悠長な物言いに、エインセルは溜め息をついた。それから、そっとフェリシンの隣に腰を下ろす。
「大変だな、頑健でないというのは」
「……俺より、周りがな」
「そうでもないだろう、」
「現に今、エインに気ぃ遣わせてるだろ、」
 再びフェリシンは苦笑する。
 ひとつ大きな風が吹いた。二人の髪を派手に弄び、やがてその風は勢いを失う。また静かな夜がその場に充ちた。
 乱れた髪をエインセルは細い指先で整える。するとフェリシンの少し普段よりトーンの低い声がした。
「……で、何か用事か、……わざわざこんなとこまで出てきたんだろ、」
 その問いに、エインセルは視線を落とす。
「いや……、……ただ、なんとなく……だ、」
 くぐもった声に、フェリシンは小さく首を傾げる。しかし特に問いつめようとはせず、そうか、とひとことだけを返した。
 静寂がその場を充たす。しかし静謐なのは二人のいる場所だけで、ベレノスはもう殆ど見えなくなっているにも関わらず、艦の後方で起こっているざわめきはおさまっていなかった。
 そっと空気を裂くように、エインセルは声を発する。
「……フェル、お前のその戦闘能力……いや、身体能力というのは、どこで身につけたものなのだ、」
「……さぁ……ね、」
 フェリシンはかぶりを振る。
 一度エインセルは怪訝な顔をしたものの、すぐにいつもの冷静な表情に戻った。
「済まない、気分が悪いんだったな……」
「べつに気にしなくていいって。答えるのが面倒だったわけじゃねぇんだ。……ただ、わかんねぇんだよ、俺にも……」
「……どういうことだ、」
 真剣な眼差しでエインセルはフェリシンの顔を覗き込む。
 ずっと前に風に乱された髪を、今更フェリシンは指先で軽く直しはじめた。
「たしかにガキの頃から運動神経は結構佳かった。だから普通に鍛えててもウルよりかは身体能力は上になったと想う。けど……、俺、二年分の記憶がなくてさ、その前後で身体能力とかが全然違うんだ。……変な話だろ、」
「身体能力、とか、」
 控え目にエインセルは語尾をあげる。フェリシンは首肯した。
「髪質とか眼の色とか、細かいところもな。それと、この身体の具合。……ガキの頃から弱かったわけじゃねぇんだ。あとは……、片眼が見えなくなった」
「…………え、」
 エインセルの表情から普段の余裕が消え失せる。見開かれた深く蒼い瞳は、正面にある焦茶色の瞳を捉えて、離さなかった。
 癖のある長めの前髪の下で、その瞳は左右同じように光を宿している。
「……俺の右眼は、完全に見えてない」
 ただじっとエインセルはフェリシンを見つめていた。
 一度、がくんと軍用艦全体が大きく揺れる。その揺れがおさまってから、フェリシンはいつものような口調で軽く続けた。
「ま、こんなご時世だからな、右眼殴られようが刺されようが痛いだけで済むし、戦いやすいよ。護るとこは少ねぇ方が楽だからな」
 なんでもないことのようにさらりとそう言って、フェリシンは蒼白い顔のまま、僅かに笑顔を浮かべた。それからまたすぐに顔を伏せる。しばらくぼうっとしていたエインセルは、それを見て慌ててフェリシンの様子を窺った。
「……済まなかった、長々と……、その、愚問だとは想うが、大丈夫か、」
「ん、……騒ぐほどのことはねぇよ。気が紛れてよかったくらいだ」
 言葉には余裕があるものの、顔色にはまったくそれが表れていない。
 そっと右手を伸ばすと、エインセルはフェリシンの背中に触れた。
「客室に戻らなくていいのか、」
「ここでぼうっとしてりゃ治るだろ、」
「……青白い顔のままでは、またファウルに怒られるぞ」
「もう怒られ慣れてる、」
 軽い調子でフェリシンはそう言ってのける。くすり、とエインセルが小さく笑った。
 立てた膝に、ゆっくりとフェリシンは顔を伏せる。その膝の先に腕を引っかけたため、エインセルからその表情は見えなくなった。
 もう一度、強い風が吹く。左手で弄ばれる髪をおさえて、エインセルは風がおさまるのを待った。風が止むと同時に、艦がカーヴにさしかかって震動する。それでもフェリシンはまったく動かないままでいた。
 ベレノスの街はもう見えなくなり、遠く、紅い炎だけがちらついている。