a narrow escape




 眠ってしまったウィルを残して部屋に鍵をかけ、あとの三人は宿の地下にあるバーに向かう。そのバーには多くの人々が集っていた。片隅にピアノがあり、雰囲気を壊さない、丁度佳い加減の音量でピアニストがクラシカルなメロディを響かせている。丸いテーブルを囲むように曲がったソファが配置され、それぞれにブースを形成していた。
 その中のひとつに三人は腰を下ろす。ウェイターに注文を告げ、しばらくすると、各々がオーダーしたアルコールと軽食としてのフィッシュ・アンド・チップスが運ばれてきた。
 目の前に置かれたアプリコット・フィズの入ったグラスに手をつける前に、フェリシンは胸ポケットから煙草を取り出して備え付けのマッチで火をつける。あちこちのブースで喫煙者がいるらしく、濁った空気が漂う中、フェリシンの吐き出した煙はすぐに他の紫煙と混ざり合った。
「……しっかし長い半日だったな……」
「たしかに。……おまけに一体何がどうなっているのかわからないことが多すぎる」
 琥珀色の液体をゆらめかせてサイドカーを一口喉に流し込み、それからファウルもポケットから煙草を取り出して火をつけた。フェリシンのものよりも随分と薄い煙が吐き出される。
 少し暗めの照明の加減でクリムゾンに揺れるロイヤル・カルテットで喉を潤し、エインセルはゆっくりとグラスをテーブルに戻した。
「……ところで……、死途<お前たち>はどうして旅をしているのだ、」
 その問いにファウルとフェリシンは横目で視線を合わせる。
 煙草片手に琥珀色の液体を口にして、ファウルは口を開いた。
「この戦争を終わらせるため……かな」
「……どういうことだ、ふたりだけの力で世界的な戦争が止むとでも、」
「ここから先は企業秘密、……君の素性もわからないんでね」
 ずっと穏やかだったファウルの視線が、一瞬だけ厳しいものになる。しかしそれはまたすぐにいつもの彼のものに戻った。
 エインセルは深く息を吐き出す。
「……それもそうだな」
 しばらくの沈黙が続く。ファウルはグラスを半分以上空にし、フェリシンは一本目の煙草の火を消すと、僅かにグラスを口にして、次の煙草に火をつけた。
 ソファの上で、エインセルは足を組む。
「……私もこの戦争を終わらせたい……、しかしひとりの力ではどうすれば佳いのかわからない。……今はその手段を模索しながら不当な弱者の死を防ごうと旅をしている……といったところか。……家族も、大切な人も、争乱の煽りで亡くしているのでな……」
「ひとり……、連れがいるって言ってなかったか、」
 ファウルが怪訝な顔をすると、エインセルは小さくかぶりを振った。
「連れというのは数日前に偶然助けたフィラだ。……なぜか懐かれてしまってな。孤児院に入れようとしたが強情で言うことを聞いてくれない……、故郷に帰りたい、らしい」
「故郷はこのあたりではないってこと、」
「……それが……、本人はアルモリカだと言っている」
「……アルモリカだって……、」
 ファウルはそう口の中で呟いてフェリシンの方を見遣った。フェリシンも動きをぴたりと止めて、ファウルに僅かに視線を送っている。
 話はエインセルによって続けられた。
「そう、……暦がヴィクス暦からファリアス暦に変更された契機となる、アルモリカ水没……、しかしそれは今から276年前の話だ。突如の水没により住民は全滅したと聞く……連れの祖先がアルモリカに住んでいたとは考え難いのだがな……」
 自分で述べたことについて考え込むように、エインセルは口を噤んだ。
 周囲のブースから笑い声や話し声が聞こえてくる。充分に煙草が短くなるまで吸ってから、フェリシンは灰皿に煙草を押し付けた。
 時間差で、煙が吐き出される。
「…………その連れ、他に何か言ってなかったか、」
「……他に、か……。関係があるかどうかはわからんが、やたらメネックに行きたそうにはしていた……危険だから私が代わりに行くと止めたのだがな。結局その理由は教えてくれなかった。…………あとは、そうだな……ときどき妙な言葉を呟いていた気がする」
「妙な言葉、」
 鸚鵡返しにファウルが呟く。エインセルは首肯した。
「私には理解できない言葉を口にすることがあってな。……コミュニケーションに問題があるというほどではないし、あまり気にはしていないのだが」
 グラスを手にすると、エインセルは紅い液体で喉を潤す。
 再びファウルとフェリシンは視線を一度合わせる。それからふたりはそれぞれ何かを考えているような仕草をしながら沈黙した。
 一番早いペースでグラスの中身を減らしているファウルは、残っていたサイドカーを一気に飲み干す。近くを通りかかったウェイターをさりげなく呼び止めると、空のグラスを渡して同じものをオーダーした。
 すみやかに二杯目のサイドカーが運ばれてくる。それを持ってきたウェイターが三人のいるブースから充分に離れたところで、ファウルがようやく沈黙を破った。
「……エイン、君の連れに逢わせてもらうことはできないか、」
 深く蒼いエインセルの瞳がファウルを捉える。ファウルは切実な眼差しでエインセルの視線を受け止めた。
 今度はエインセルが考えをめぐらせる番になる。しばらくしてから、彼女はゆっくりと言葉を発した。
「素性も目的もわからない人間に逢わせることはできない。知り合って間もないとはいえ、連れを危険に晒したくはないからな」
「……まぁ、そりゃそうだな。……じゃあ俺たちの目的とエインの連れに逢いたい理由を教えれば、逢わせてもらえるってことか、」
 落ち着いた口調でフェリシンが応じる。
 エインセルはその視線をフェリシンへと移した。
「内容の信憑性にもよるが、な。我々を助けてくれたことには感謝しているが、世間で死途<悪名高い>と評判である人物を警戒していないわけではない」
「……それは結構な心がけだけどな……。俺たちが本気になれば、お前を殺してからこの街を捜索して、連れとやらを無理矢理に発見することも可能なわけだ」
「…………私に選択の余地はない、と……」
「助かるね、頭の回転が佳くて」
 さらりと話を落ちつけてしまうと、フェリシンはまだあまり減っていないアプリコット・フィズをまた少し口にした。アルコールよりも煙草の方が着実に消費されている。煙草を手にしていない時間の方が短いほどだった。
 細くてまっすぐなクリムゾンの髪にエインセルは自らの指を絡める。そして充分に間を置いてから再び腕を組んだ。
「…………わかった。話を聞こう」
 まだ周囲はがやがやと騒がしい。ブース間の距離も保たれているため、余程耳を峙てていないかぎりは会話を盗み聞きされることはなさそうだった。夜も深まり、アルコールの入った人々はそれぞれの話に没頭している。とくに気になる気配も三人には感じられなかった。
 バー全体の様子や気配を一度落ち着いて観察してから、ようやくファウルが説明をはじめる。
「さっきも言った通り、僕たちはこの戦争を終わらせようと想っている。……そしてそのために、アルモリカを復活させようと考えているんだ」
「アルモリカの復活、だと……、」
 睨むようにエインセルの鋭い瞳がファウルを捉える。まったく怯むこともなくファウルは続けた。
「そう。この世界の中心に、大陸に囲まれて水上に留まっていた王国、アルモリカは、君の言った通り突如として水没した。……ではどうして水没したのか」
「……オラヴの襲撃だという話を聞いたことはある。アルモリカはフィラの住む王国だったためにレイシズムのオラヴたちが……、」
「その話は本当なんだと想う。でも肝心なのはそこじゃないんだ。オラヴがアルモリカを襲ったとして、どうやって水没させたのか、ということが重要なんだよ。王国の中で戦乱が起きても、そう簡単には水没なんてしない。歴史を紐解いてみても、アルモリカでの戦争が長期間にわたって激しく続いたということもなさそうだった。ということは……」
「言うなれば一撃で王国全土を水没させるようなことがあった……と、」
「そう。そしてその方法があるのなら、逆にアルモリカを再浮上させることも可能かもしれない……」
 会話がそこで一度途切れる。
 それに合わせるようにして、バーの中で鳴っていたピアノの音が止んだ。深紅のドレスを身に纏った女性ピアニストが控え目に一礼して舞台から降りる。あちこちのブースから、まばらに拍手が起こった。そしてしばらくすると、今度はブラウンの衣装を着た、別の女性ピアニストが入れ替わって舞台に足を運ぶ。再びピアノの音がバーに響きはじめた。
 ピアノに合わせたように、会話が再開される。グラスを空にしてから、エインセルはファウルに問いかけた。
「なぜお前たちはそこまでアルモリカにこだわっているのだ。……まさか連れのように故郷だなんて言うんじゃないだろうな、」
 まさか、とファウルは笑顔を浮かべた。
 テーブルの端にあったペーパーナプキンに手を伸ばすと、ファウルはそれを一枚手に取って広げる。胸ポケットに入っていた黒インクのペンを右手の指でくるりと一回まわしてから、広げたペーパーナプキンに図を描きはじめた。
「少し専門的な話になるけどね。アルモリカのあった場所の海は浮力が弱い。過去の写真や資料を見るかぎりでは、アルモリカの形状はこんなかんじだった」
 歪な三角形のような形をファウルは描く。そのすべての角からまっすぐな線を引き、それらが交わったところに黒丸をつけた。
「となれば、アルモリカの重心はここ。この重心にあたる場所の浮力と、大陸の地殻とアルモリカの地殻がほぼ同程度の重量であると仮定して、それを浮かせるのに必要なだけの浮力を計算して比較すると……、……この通り。実際の浮力は圧倒的に足りていない」
 図の横にさらさらと計算式を書き、そこから導き出した二つの数値をファウルは交互にペン先で叩いた。
「もちろんこれは複雑な計算でもなんでもないから、学者の間ではアルモリカが浮いていたことについて疑問の声が昔から多くあがっている。僕の発見ってわけじゃないけど、それだけに信憑性は高いと言える」
 描かれた図と計算式をエインセルはしばらく見つめている。意識をそちらに奪われ、無言のまま考えをめぐらせていた。
 会話を傍観するように煙草をふかしていたフェリシンは、ぼうっと遠くから図式を眺める。口を挟むこともないが、まったく話に関わっていないわけでもなかった。完全に自分のペースを貫いている。
 ファウルもまた、ペースを崩さずに言葉を並べていった。
「じゃあどうしてアルモリカは水上に浮くことができたのか。……自力で不可能ならば、他力しかない」
「他力……、そんなものがあるのか、」
「……周囲の大陸、だ」
「莫迦な、」
 エインセルはかぶりを振った。どさりとソファに背を預けて、呆れたようにファウルを睨む。
「そんなくだらない話を信じろと言うのか。王国が建設されたのはフィラの功績によるものだが、それ以前からアルモリカはずっと水上の陸地として存在し続けてきたはずだ。大陸からの力によって浮いていたならば、大陸はそのエネルギーを何もない陸地に注ぎ続けてきたことになるのだぞ」
 その意見を聞いてファウルは一度ゆっくりと頷いた。二杯目のサイドカーを半分ほどまで減らしてから、続ける。
「そう。その通り。……何もない陸地にエネルギーを注がされ続けてきたんだよ、この大陸は。そしてそれは古代から維持された、世界の均衡維持のためにどうしても必要であるシステムだったんだ」
「そんなエネルギーが存在するのか、」
「確信はないけど、おそらくはすべての源となる力……バタシーだと想う」
「……なるほど。バタシーがアルモリカに吸収されている間は均衡が取れていたが、アルモリカ水没によって各国にバタシーが溢れ、日常生活の維持だけではなく今の世のように大量の兵器を稼働することが可能になった……ということか。辻褄は合うな」
「だとすれば、各国にバタシーの供給源があるはずだ。そしてそれを再起動すればアルモリカを浮上させられるかもしれない……」
「……そのためにアルモリカの情報がほしい、というわけか」
 エインセルは低く呟く。
 次の言葉が発されるまでは随分と間があった。ファウルは二杯目のグラスを空にし、フェリシンは相変わらず黙って煙草をふかし続けている。じっと深く何かを考え込んでから、ようやくエインセルはファウルに対して頷いた。
「嘘を言っているようには想えないな……、いいだろう、明日連れに逢わせてやる。…………いや、もとから私に選択肢はないのだったな」
 言いながらエインセルは横目でフェリシンを見遣る。煙草を灰皿でもみ消して、フェリシンは口の端を吊り上げた。
「まぁ、できるだけ手荒な真似はしたくねぇからな。理解して<わかって>もらえて佳かったよ。……それと、わかってるだろうが、」
「他言無用、……か、」
「……流石」
 短くそう肯定して、フェリシンは満足そうにソファに背を預けた。まだ目の前にあるグラスには僅かに液体が残っている。しかしフェリシンはそれ以上グラスには手をつけようとはしなかった。
 空になった煙草のソフトケースを左手でぐしゃりと握り潰し、フェリシンはソファから背を離す。
「悪ぃ、先に部屋に戻る」
 それを聞いてファウルは悪戯っぽい瞳でフェリシンを見遣った。
「酔ったか、」
「……まだ大丈夫だけどな……今日は駄目だ、回りが早い」
「相変わらず弱いなぁ」
「お前みたいにザルじゃねぇんだよ」
 負けじとフェリシンはそう言い返してソファから立ち上がった。
 そしてブースから出ようと足を進め、一度エインセルを振り返って軽く左手を上げてみせる。
「じゃあ、また明日な」
「ああ……おやすみ、」
 先程よりも冷たさの抜けた声でエインセルはそう返し、フェリシンの背中を見送った。
 まだバー全体は賑やかで、どこのブースからも話し声が聞こえる。ファウルたちのいるブースが一番静かになっていた。
「……済まないね、フェルの奴が脅すようなことばっかり言って」
 控えめな口調でファウルはエインセルに声をかける。エインセルはかぶりを振り、淡々と応えた。
「いや……嚇しというよりも事実だからな。気にしていない」
「そっか、それならいいけど。……普段はあんなこと言う奴じゃないんだ。ただ、僕たちには目的があるから、ね」
「それはわかっているつもりだ。だいたい、戦渦においてはあれくらい非道になれなければ何もできまい。それはシーリー・コート<お前>とて同じことだろう、」
「まぁ……、ね」
 ファウルは苦笑する。
「身を護るためとは言え、多くの命を奪ってきたことは事実だ。奇麗ごとなんか言ってられない」
「ああ……私の手も汚れている。だが殺さなければ殺される、それが戦争だ」
 瑕ついた瞳でエインセルは自身の両手を見つめた。外にいる間は革手袋に覆われていたその両手は色白で、指は細長い。
 ぼんやりとエインセルのその両手を見遣って、ファウルは深く息を吐き出した。ぱさりと落ちてきた前髪を指先で左右に分け直す。それから、エインセルに倣うように自分の掌に視線を落とした。