a narrow escape




 どっしりとした鉄の門をくぐり抜け、一行はメネックの外へ出た。乾いた地面が夕陽を浴びている。橙に染まった空にゆるりと闇が混ざりかけていた。
 周囲に人の姿はない。メネックの人間も、兵士の姿も見当たらなかった。しかし門の向こうの喧騒はまだはっきりと聞こえてくる。足音が近付いたり遠ざかったりしていた。
 警戒しながらファウルは周囲を見回す。そしてストーンブロックが歪に並ぶ処に物陰を見つけると、ひとまずそこに全員で移動した。
 ストーンブロックは外壁をつくる際に放棄されたもののようで、かなり風化しているように見受けられる。しかし一行にとっては好都合な位置にあり、その陰に隠れてしまえば南門から姿を発見されることはなさそうだった。
 裸足で走り続けた足を休めるように、ウィルは地面に腰を下ろして足を伸ばす。その隣でエインセルはストーンブロックの陰から南門の様子を覗き見た。
「……とんだことに巻き込まれたが、ベルテーン側に抜けられたのは幸いだったか……」
 そう呟くエインセルをファウルは見つめた。
「なるほど、やっぱり君はメネックの人間じゃなかったんだね」
「……さすがに気付いていたか」
「死途<僕たち>もひとところに留まる生活はしてないからさ……なんとなくわかるよ」
「ベルテーンに連れを置いてメネックに物資を揃えに来たら偶然、な。脱出中に何人かフィラを逃がしたが、ウィル<こいつ>だけは逃がす場所もないようなところで見つけて、止むなく一緒に連れ出そうとしていたところだった」
 足を伸ばしているウィルをエインセルは視界の端にとらえる。椿事ばかりが重なって、少年の表情には疲れが滲んでいた。
 ウィルに視線を合わせるためにファウルは片膝をつく。
「それで……ウィルはこれからどうするつもりなんだ、エスリィルの教えてくれた避難施設ってのもあるみたいだけど、」
「俺は、とにかくネメトンに行けって先生たちに言われたから……」
「……ネメトン、だと……」
 唸るように低く言いながらエインセルは渋い表情を浮かべた。何かまずいことでもあるのか、とウィルが問いかけても、返答がない。
 間を取りなすように、南門の様子を窺いながらフェリシンが口を開いた。
「……お前さ、どこのネメトンへ行けって指示が出てんだ、……この周辺にあるネメトンは一箇所じゃないけど、」
「あ、そういえばネメトンはいくつかあるって言ってたな、先生……。特に指示はされなかった……あ、でも、それじゃあネメトンに行ったとしてもみんなに逢えるとはかぎらないってことか……」
 ウィルの声のトーンが少し下がる。そこでようやくエインセルが話を再開した。
「ネメトンは世界各地に点在しているが、メネックを中心としてインヴォルグ・ベルテーンにその多くが集中している。他の地域でならある程度は場所の特定ができただろうが、このあたりでは候補が多すぎる。その上、ネメトンは世俗に対して閉鎖された場所であるため、入るためにはそれなりの手続きが必要で、他のネメトンへ移動したり俗世間に戻ったりするのは難しいと聞く」
「……そんな……、」
 深く息を吐き出しながらウィルは肩を落とした。落胆した声が聞こえてもエインセルは顔色ひとつ変えない。
 横からファウルができるだけやさしい声で付け加えた。
「まぁ、それだけしっかりしたシステムができてるから、オラヴだとかフィラだとかで差別されることがない社会がネメトン内部では実現されているって話だよ。逆に言えば、今のファリアス<この世界>では、そうでもしないとオラヴとフィラの距離がなくなることはないだろうからね」
 ファウルがそう言い終えると、話は一旦中断した。未だ喧騒は止んでいないが大きな動きのない南門を、フェリシンは警戒しながらじっと見つめている。
 しばらく間があって、あのさ、と手のあいているファウルとエインセルに向かってウィルが口を開いた。
「……あんたら……オラヴなのか、」
 それは少し遠慮がちな口調だった。
 エインセルが小さく頷く。そうだよ、とファウルも質問に応じた。
「……オラヴとフィラって、何か違いがあるのか、……俺の周りはフィラばっかりだし、オラヴとちゃんと話すのなんて初めてだけど……あんたと俺に人種の違いがあるようには想えないんだけどさ、」
 ウィルの言葉にファウルは下唇を噛んだ。少し苦々しい表情を浮かべて、説明する。
「……何も違わないよ。肉体的にも知能的にも、オラヴとフィラの間に差はない……ただ左腕に痣があるかどうかだけだ。今だってオラヴかどうか訊くまで、僕たちがオラヴなのかフィラなのか、君はわからなかったわけだろう、」
「……なんだよ、それ。じゃあなんでオラヴが高級住宅地に住んで、俺たちがスラムで生活しなきゃならないんだ、」
 やり場のないウィルの憤りを、さあな、とエインセルはあっさりと切り捨てる。
「そんなことは為政者にでも訊いてくれ。まぁ……永年の歴史が築いたものは人々の意識に根付いてなかなか崩壊しない、ということもあるだろうがな。もっとも、メネックは極端すぎる……ここまでレイシズムが根付いているところは他に見たことがない。表面上はオラヴとフィラが同じような生活を営んでいる処もある……場所によって扱いの差はあるらしい。……こういう話は聞いたことがないのか、」
 ウィルは首を横に振った。
「オラヴの行く学校では歴史を習ってるらしいけどさ、俺たちの学校ではそんな授業なんてなくて、読み書きとか計算とかの授業ばっかだし。実際その方がオレたちにとっては役に立つからな」
 陽の光は随分と弱々しくなってきている。闇がゆっくりとメネックに迫っていた。メネックの喧騒も漆黒に呑まれてゆこうとしている。
 時間の経過をファウルは空を仰いで確認した。昼間の異常な暑さももう随分とおさまっている。まだ地面に片膝をついたまま、ファウルはウィルに問いかけた。
「……夜になる前に僕たちはここを離れる。君はどうする、」
「離れるって、どこに行くつもりなんだ、」
「取り敢えずは最寄りの街だね。ベルテーン領のタラニスという街がここから南へ行った処にある。……そこへ行くまでにいくつかネメトンがあるとは想うけど……」
「だけどネメトンは一回入ったらなかなか出られないんだろ、」
「無理に信じろとは言わないが」
 横からエインセルが冷たく言い放つ。その言葉にウィルは反射的に腰を浮かせてエインセルを睨みつけた。
「……なんだよ、それ」
「貴様がどうしようと勝手だと言っているんだ。ネメトンに行きたければ行けばいい」
 憤慨するウィルを目の前にしてもエインセルは平然としている。その暗く紅い髪は、沈みかけた夕陽を受けて少し明るい輝きをみせていた。
 ストーンブロックの向こう側を凝視していたフェリシンが一瞬顔をしかめる。それに少し遅れて、ファウルも立ち上がって南門の方向に身体を向けた。つられて立ち上がったウィルの方をフェリシンは顔だけで振り返った。
「今すぐには決められないだろうし、今夜は一度タラニスで休んで、それからどうするか決めてもいいんじゃねぇかな。……エインは……方向は一緒みたいだが行き先はタラニスで佳いのか、」
 そう訊ねながらフェリシンは視線をエインセルへと移す。エインセルはしっかりと一度頷いた。
「ああ……寧ろ好都合だ、連れとはタラニスで落ち合うことになっている」
「それなら問題ねぇな。陽が暮れて街の外をうろつくようなマゾヒスティックな趣味はねぇし……とにかく今はここを離れるとするか」
 提案しながらフェリシンはもう一度ウィルを見遣る。いいのか、と少し掠れた声でウィルが訊ねると、フェリシンの隣にいたファウルがゆっくりと首肯した。
「じゃあ、そうする。中途半端に決めたら後悔するかもしれないし……」
「了解、……それじゃ、行動開始しようか」
 ウィルを納得させたところで、ファウルはエインセルとウィルに向かってやわらかい視線を送る。それから再びメネックの南門と、メネックに通じる道の様子を、目をこらして窺った。そしてタイミングをはかって少し先にあるストーンブロックの陰へと素早く移動する。それを追ってウィルもそちらへと移動した。
 更にそれをフェリシンが追おうとしたとき、エインセルが彼の背後から、フェル、と名を呼んだ。
 ぴたりと動きを止めてフェリシンはエインセルの方を振り返る。エインセルは声をひそめた。
「すまないな。気を遣わせてしまって」
「……べつに。しっかしガキの扱い下手だな」
「……わかるか、やはり」
「わかる。……俺も苦手だからな、ウル<あいつ>みたいに素でできねぇよ」
 自嘲のように僅かに表情を緩ませたものの、またフェリシンは真剣な表情に戻る。そしてファウルの後に続いた。エインセルも間を空けずにそれを追う。
 移った先から更にファウルは周囲の様子を伺っていた。これ以上ストーンブロックは続いていない。あとは乾いた地面が鋪装された道と、その周囲の荒野が広がっているだけだった。
「なぁ、もう身を隠すような場所なんてないぞ。タラニスって処までどうやって行くんだよ、」
 小声でウィルがそう問いかけると、ファウルは振り返らず周囲を警戒したまま答える。
「ああ、歩いて行くわけじゃないよ、」
 ファウルの返答にウィルは怪訝な表情を浮かべる。そのとき、大きな音が迫ってくるのが聞こえた。
 メネックに続く道に大きな鉄の物体がずしりと地面を轟かせながら近付いてくる。その前後はシンメトリカルに尖り、筒のような銀のボディは受ける夕陽を残さず反射していた。そしてそのどっしりとした鉄の塊は、500ほどの人数を楽に収容できそうなほどに大きい。
 目を丸くしてウィルは口を開けた。
「なんだよ、あれ……、でけぇ……」
「ベルテーンの戦艦だよ。あの特殊なフォルムは有名で、性能も佳いらしい。あの大きさは……中規模程度のものか……。なんにせよ、充分だな」
 言葉の最後でファウルはフェリシンを振り返る。フェリシンは頷いて同意を示した。
 奇麗なそのフォルムと頑丈そうなボディがメネックの目の前で停止している。その外壁が開き、そこから黄金色の鎧を身に纏う何人かの兵士が外へと出てきた。そして慌ただしい様子のままメネックへ向かってゆく。
 それから更に数人の兵士が戦艦から飛び出すと、今度は別の扉が開いた。そしてそこから積荷を降ろしはじめる。連動して外へ出した荷物を他の兵士がメネックへと運び込む。その作業が繰り返されてしばらくすると、その兵士たちもメネックへと去っていった。
「さて……と。……やるか、」
 戦艦と兵士の様子を見ながらフェリシンはコートの下から細長いライフルを取り出した。慣れた手つきで弾を充填すると、メネックの方を伺いながら数歩ゆっくりと後ろに退く。そして一度戦艦に視線を移し、すぐに視線を戻した。
 フェリシンの様子をしばらく眺めてから、ファウルはエインセルとウィルの耳元で低く忠告する。
「さっきと同じように、合図したら走るんだ」
 ストーンブロックの陰から僅かに出ると、フェリシンはライフルの銃口をメネックの南門へと向けた。
 その直後、南門に閃光と砂煙が散る。
 今だ、と小さく呟いてファウルはエインセルとウィルの背中を押した。そして二人を誘導するように自分も地面を蹴る。視界が閃光と砂煙で真っ白になっていた。懸命に目を凝らすと、地面の色が段々と識別できるようになる。その色は間もなく地面の土の色からシルバーの光沢に変化する。その直後、三人の身体は硬くフラットな処に倒れ込んだ。
「……いってぇ……」
 身体を起こしながらウィルは顔を歪めた。
 目が段々と周囲のものを識別できるようになってゆく。見回したそこには土やストーンブロックなどはない。細かい木目の床と、大小の木箱が見える。そこは大きな部屋のような場所だった。
 少し遅れて、フェリシンもファウルたちのもとへ飛び込んで来て余裕をもって着地する。それを確認してファウルはエインセルとウィルを木箱の影へ移動するよう促した。
「とりあえず、身を隠した方がいい」
 床を這うようにウィルはファウルの示す方へと移動する。エインセルがそれに続き、周囲を一通り警戒してからファウルとフェリシンも同じ場所に身を潜めた。
 大きな木箱の陰からエインセルは周囲を見渡す。それから強くかぶりを振った。
「ここは……戦艦の中、か……、」
「そう。さっきまで積荷が入っていた場所だ」
 さらりとファウルはエインセルに説明を加え、更に続けた。
「南門に向かってフェルが閃光弾を撃ち込んで、閃光と砂煙を巻き起こす。ベルテーン兵がそれが南門での騒ぎだと錯覚して気を取られている間に、閃光に紛れて僕たちは戦艦に潜入した……といったところかな」
「……なるほどな。しかし街での閃光は手榴弾を使ったのだろう」
「今みたいに距離が必要でなきゃ、わざわざ閃光弾を補填するのが面倒だからな」
 短くそれだけ言いながら、フェリシンはもう既にライフルから余った閃光弾を抜き取り、通常の弾丸を充填していた。
 その話を一通り聞き終えて、ウィルはおずおずと口を開く。
「あのさ……なんで戦艦に乗らなきゃならないんだ、」
「密航、ってやつだよ」
「……密…航……、」
 なんでもないようにあっさりと返ってきたファウルの答えを、ウィルはすぐに呑み込めずにいた。意味のこもらないぼんやりとした口調で鸚鵡返しに単語を呟いて、間を置いてからウィルはやっと目を丸くする。
 その反応を見てエインセルは溜め息をついた。
「貴様、まさか本当にタラニスまで歩いて行くと想っていたのか。そんなことをしていたら夜が明けても着かんぞ」
「まぁまぁ、ウィルはメネックから出たこともないし、そういうことは教わってないんだろうから、仕方ないって」
 すかさずファウルがウィルをフォローする。それから続けてウィルに対して口を開いた。
「この戦艦は戦闘用というよりも戦場での輸送用に近いんだ。戦闘用の戦艦で物資を運びはしないだろうからね。だとすれば、陽が暮れる前には最寄りの街に戻るはずだ、……この戦艦をインヴォルグ軍という敵がいるところに一晩放置するのは危険極まりない」
「その最寄りの街っていうのがタラニスってことか……」
 ウィルが納得を示すと、ファウルは穏やかに頷く。そして背後の壁に身体を預けた。
 会話はそこで一度ぷっつりと途切れ、誰も何も言わなくなる。周囲をある程度は警戒したままで、一行は言葉もなく戦艦が動きはじめるのをただ待っていた。