a narrow escape




 ファリアス暦276年
 インヴォルグ・ベルテーン両国国境 第二古跡都市メネック

 広大な地は乾き、芝生と粉っぽい土が交互に顔を覗かせる。強い陽射しを受け過ぎた芝生はその先端を茶色に染め、それでも力強く上へと伸びようとしている。処々、暑さに耐えながら黄色い背の低い花が咲いているのが見える。
 その地に囲まれて赤褐色の煉瓦で築かれた壁が堂々と建っている。その壁はぐるりと四角く巡ってテリトリィをつくり、その中に茶色や白の石製のブロックを組み合わせて造られた建物を中心として、街が構成されている。外壁は北と南に鉄製の巨大な門を持ち、それ以外に出入り口はない。
 まだ陽は高く、周囲は明るい。街には多くの人々の姿がある。
 その人々の間をぬって、少し足早に歩くひとりの青年がいた。背中まで延ばした明るい茶髪をひとつに束ね、真ん中でわけた長めの前髪の奥には橙色の瞳が光を映している。すらりとして背は高く、襟の立った長袖のカッターシャツに黒いズボン、それに革靴という、比較的気温が高いメネックの人々と比べると少し厚着で、更に腕には白いコートがかけられている。それでもインヴォルグ・ベルテーンの国境であるこの都市には様々な恰好をした人々が見受けられるため、さほど目立つというわけでもない。人混みをすり抜け、大通りを横切って、青年はまっすぐにある路地裏へと向かった。
 高い建物が並ぶその影に、小さな路地裏がいくつも存在している。そのうちのひとつに青年が足を踏み入れると、そこには建物の壁に背をあずけている人影があった。
 そこにいた人物は青年と同じ年くらいの男性で、黒いズボンの上に膝下ほどまである編み上げのブーツを履いていた。青年よりも少し背が低く、更に細身で、身が引きしまっている。六分ほどまでまくり上げた黒い服の長袖からのぞく細い腕には、同じく黒のアームバンドやリストバンドが無造作に巻かれており、手にはまた同じく黒いコートが握られていた。きっちりとカッターシャツをズボンの中に入れてベルトを締めている青年とは対照的に、その黒い上着を出しっ放しにしている。焦茶色の癖のある短髪と同じ色の瞳が、日陰でも鋭く輝いていた。
「悪い、フェル。待たせたな」
 青年は人影にそう声をかける。フェルと呼ばれたその人影は青年の声に反応してそちらを見遣った。
「おう、ウル。遅いから乾涸びてんじゃねぇかと想ったぜ」
 人懐っこい笑顔でフェルはそう言う。
 ウルと呼ばれたその青年はフェルの隣まで足を進め、喧騒と直射日光から逃げるように日陰に身を置いた。
「お前の方が乾涸びそうな気がするよ……」
「たしかに。こうも真っ黒だと日光吸収体だもんなぁ。っつーか眼がチカチカしやがる……」
「おいおい……大丈夫なのか、」
「心配ねぇって。コンディションは問題なしだ」
 フェルははっきりとそう言い切って笑顔をのぞかせる。それから、胸ポケットに左手を入れると、小さく折り畳まれた紙を取り出した。無言のまま目だけを合わせてウルにそれを渡す。
 紙を広げてみると、そこには簡単な図と計算式が印刷されており、それに文字が注釈のようなかたちで書かれている。ウルはそこに書かれている内容にざっと目を通した。
「地盤磁力の最大点……、」
 ぽつりと呟く。そして、これは、とフェルを見遣った。
「難民街で使われてる地質学のテクスト。ズタボロになって棄てられてたうちの一部分だけ拝借してきた」
 ズタボロ、というフェルの表現がぴったりなほど、その紙はボロボロで、もともと白かったのであろうが、すっかり茶色がかってしまっている。
「メネックの難民街の奥地……、そのテクストによれば、そこは観測値と計算式からはじき出した数値が異常に高くなってるらしい。でもな、都市部のテクストもいくらか見てみたんだが、そっちにはそんな記述が見あたらねぇ」
「変だな。そういうディタとかは都市部の方が卓越してるはずじゃないのか」
 怪訝な顔をしながらウルはそう訊ねる。フェルは小さく頷いた。
 ふたりとも口を噤んでしばらくしてから、ウルが腕を組む。
「僕の方でも都市部に何かありそうな感じは得られなかったからな……やっぱり難民街の可能性が高そうだ」
「……お前さ、その計算式の正誤とか、わかんねぇの、」
「残念ながら地質学は専門じゃないからね。でも……まるっきりデタラメってわけじゃなさそうだ。計算自体は合ってるし、こういう定理の形そのものは見たことがある。観測値の真偽まではわからないけどね」
 ふぅん、とフェルは薄い反応を示した。紙をウルが差し出しても、ひらひらと左手を振って、返さなくていいと動作だけで表現する。そのため黙ってウルは手にした上着のポケットに紙をしまいこんだ。
「とりあえずその奥地とかいうところに……、」
 ウルがそう言いかけた瞬間、その場を地響きが襲った。それと同時にあちらこちらから人々の悲鳴や叫び声が聞こえてくる。
 はっとして身構えたウルに、フェルはコートを放り投げた。それをウルが受け取ったときには、フェルは既にすぐ傍にあった建物の排水用パイプの僅かな突起を掴んで身体を浮かせ、今度はそこに足をかけて大きく跳躍している。そして身軽にふわりと宙を舞うと、隣の建物の屋上に着地した。
 何十秒か経過してから、同じルートを戻り、フェルはウルのもとに着地する。それだけの動きをしても息ひとつ乱さず、ウルからコートを受け取った。
「インヴォルグ軍とベルテーン軍が衝突してやがる、」
「なんだって、……不可侵条約はまだ有効なはずだろう、」
 険しい表情でウルは低く呟く。フェルはかぶりを振った。
「現に衝突してんだ、んなもんあっても意味ねぇだろ」
「……まぁ、それもそうだな」
 先程よりは少し緊張した面持ちでいるものの、ふたりともに焦りはみられない。まだ悲鳴や叫び声は聞こえているが、その中でも冷静に言葉をかわしていた。
 次第に都市部からも難民街からも警鐘がけたたましく鳴りはじめる。メネックの東端にある難民街と、その他の大部分を占める都市部の丁度中間地点あたりであるこの場所では、両方の状況を把握することができた。都市部では警備兵が慌ただしく走り回り、難民街では身を隠そうと逃げ惑う民の姿がある。混乱はあっという間に高まり、広がっていた。
「……妙だ、」
 独り言のようにフェルはそう洩らす。その隣でウルは頷いた。
「ああ……、ただの軍事衝突じゃない……こんなにはやく難民街に危害が及ぶはずが……」
 そのとき、ふたりのいる路地の前をかしゃかしゃという甲冑の音が通り過ぎた。黄金色にメッキがかったその鎧は十数人分が並び、路地を通りすぎたところで一斉に足を止める。
 ふたりは気配を殺して兵士の様子を窺った。先頭に立つ大きな身体つきのリーダーらしき兵士が簡素な造りの拡声器を手にする。そして難民街へ向けて拡声器越しに大声を発した。
「怯懦と偸安の象徴である劣等民どもに告ぐ。今より我がベルテーン軍の一部となれ、その暁には貴様等が永遠に手にすることなどできない名誉と地位を約束しよう」
 その言葉にふたりは顔を見合わせる。
 ほぼそれと同時に、二人の背後に人の気配がした。路地を出た処にいる兵士と同じく黄金色にメッキされた甲冑を纏った兵士が二人、それぞれ剣と槍を構え、明らかに兵士たちの味方ではないウルとフェルに向かって襲いかかってきている。
 しかし、ふたりの反応はそれを上回っていた。
 それぞれがコートの下に手を入れ、そこに隠し持っていたライフルを手に取る。ウルのものは比較的大型で全体が灰色の大きな筒のようになっており、フェルのライフルは長さこそあるもののかなりの細身で、日光を受けて黒光りしている。
 瞬時に狙いを定めてふたりはトリガーを引いた。ウルの弾丸は剣を持つ兵士を一撃で粉砕し、フェルに狙われた槍を持つ兵士は連射された弾丸に鎧を蜂の巣にされる。兵士は武器を構えてからほとんど一歩も動くことなく倒された。
 銃を使えば周囲にもふたりの存在は明らかになる。路地の近くにいる兵士たちは銃声のした路地へと慌ただしく駆け込んだ。しかしそこにあるのは兵士ふたり分の屍だけで、他に人の姿は見当たらない。
 兵士の間に動揺が広がる。そこに、一番後ろから拡声器を手にした兵士が割って入った。背が高く、体格の佳いその兵士は少し兜をあげ、肉眼で倒れている兵士を見つめる。そして鋭い眼で周囲を見回した。
「片方は一撃、片方は蜂の巣……、まさか、死途<コーツ>か……、」
 低い声はすぐに周囲の喧噪にかき消された。