君を呼ぶ声
カァテンの間から陽射しが漏れている。眼をこすってシアンはベッドの上でゆっくり起きあがった。
ベッドの脇に立てかけてある松葉杖に手を伸ばす。器用に松葉杖を軸にしてベッドから下りると、扉を開けて部屋から出てゆく。
そっとリビングに足を踏み入れると、そこにはヴェイルとアルスの姿があった。
「おはよう、」
キッチンに立っていたヴェイルが振り返って微笑む。机に向かって珈琲片手に書類をめくっていたアルスも手を止めてシアンの方を見遣る。そして椅子から立ち上がると、歩いてくるシアンに手を貸してソファに坐らせた。
「まだ結構きつそうだな」
「左、利き足だから……。でも痛みはないんだ。オーヴィッドさんが調合してくれた薬が効いてるみたい」
「そうか……。オーヴィッドは罪人であり貢献者だからな、処遇を決めかねたが……やはり自由を奪わずにいてよかった、というところか」
「監視はついてるしI.R.O.から殆ど出られないけど、その他の束縛はないって言ってたよね、たしか」
ソファの背に身体を預けてシアンはやわらかい表情でそう訊ねる。その両腕にはぐるぐると包帯が巻かれ、長ズボンの裾からのぞく左足にはギプスがはめられていた。右足にも包帯が巻きつけられている。
松葉杖をソファの端に立てかけて、シアンは一度ちらりと包帯やギプスを見遣ってから、椅子に戻ったアルスを見上げた。
「全治四ヶ月って言われたし。一週間でこれだけ歩けるようになっただけでも感謝しないと」
キッチンに立っていたヴェイルは皿洗いをしていた手を止めて、コップに水を汲む。軽く手を拭いてからそれを持つと、シアンの方へ近寄ってコップを手渡した。
「レメディが使えればいいんだけど……、何度やろうとしてみても駄目なんだ、アサルトとかレジストとかは使えるのに……、ごめんね」
「ヴェイルが悪いんじゃないから、謝らないで」
さらりとシアンはそう返す。その声に冷たさはまったくなかった。
玄関からガチャリという音が聞こえる。三人がそれに反応すると、シャールとセラフィックが揃って姿を現した。シャールは無言のままずかずかと家にあがりこみ、その後ろから、ただいま、とセラフィックが笑顔を見せる。
「おかえり。……どうだった、」
似たような表情でヴェイルがそう訊ねる。
薄手の上着を脱いで腕にかけながら、セラフィックは答えた。
「シャールの記憶してる波動を辿れたから、なんとかクライテリアに行くことはできたんだけどね……、まるで原型なんかとどめてなかった。全体の波動自体もかなり希薄だったし……」
「もう保たねぇだろうな。いつ消滅してもおかしくねぇ」
乱暴にあいている椅子に腰かけて、投げやりにシャールは言う。その向かい側でアルスは腕を組んだ。
「創造主の陰陽両者の人格が相殺し合って消滅、創造主の力の及んでいたものはそれに準ずるように崩壊してゆく……、か。完全にそうだと検証する術はないが、それしか考えられないだろうな」
「そうだね。僕がレメディを使えなくなったり、クライテリアが完全崩壊に近付いていたりすることを考えると……もう創造主<クレア>がどこかに存在しているとは考えられない。継承の儀のあとも、ちゃんとクライテリアはその存在を保てていたんだし……」
そう言いながらヴェイルは深く頷いた。
しばらくその場が静まり返る。それぞれが何か考えをめぐらせているようだった。けれど、その雰囲気は暗いものではない。
音をたてずに珈琲を一口啜って、アルスが低く呟く。
「……しかし、お前たちの帰るところを犠牲にしてしまったな」
それに対して、シアンは小さくかぶりを振った。
「……これでよかったんだと想う。創造主がいなくても、ヴォイエントは大丈夫だと想うから。ヴォイエント<ここ>に生きる人たちが、自分たちの世界を維持してゆく……それは至極自然なことだよ」
「それに創造主の力が完全に消え失せりゃあ、俺らも歳喰うことになる。俺の望みもゆくゆくは叶うってわけだ、好都合じゃねぇか」
シニカルな笑みを浮かべてシャールはあっさりとそう言い切った。
「ハディさん、辞職ってマジっすかっ、」
「お、耳聡い奴だなぁ、」
「だから本当なんですかって訊いてるんですよっ、」
「嘘ついたってしょうがねぇだろ。疑うんなら総司令部行ってこいよ、俺様の直筆かつ達筆な辞職届が置いてあるはずだぜ」
庁舎を出たハディスは、あとから追いかけてきた数人の青年に囲まれていた。今日もスフレは天候が良く、眩しい陽射しが降り注いでいる。
青年のひとりが懇願するようにハディスを見上げた。
「ハディさんいなくなったら議会なんてカタブツ親父の集まりじゃないっすか! オレ、庁舎訪問してハディさん見て、それで議員になろうって決めたのに……」
周囲にいる青年たちも、うんうんと深く頷いている。その様子は演技でもなんでもなかった。
俺様モテモテだなぁ、などと冗談めかして呟きながらハディスは頭を掻く。それから、威厳を示すかのようにどっしりと腕を組んでみせた。
「泣き言いってんじゃねぇよ、テメェら。カタブツばっかじゃなんもできねぇって、俺様がバシっと行ってやらぁ」
「……え、でも……ハディさん辞めるって……」
「おう、辞めるぜ。スフレの議員は、な」
にやりと笑ってハディスは答える。それから左右にいた青年の背中を、なんの加減もなくばしばしと叩いた。
「俺様、ハディス・オールコットはこのたびの活躍をイーゼル政府より認められ、イーゼル親善大使に来月付けで任命されましたっ、」
陽気な声で、おどけた調子でハディスは胸を張る。
ぽかんと口を開けてハディスを見上げる青年たちに向かって、満面の笑みを浮かべてみせた。
「っつーわけで。まずは馴染みあるスフレに全面的国交正常化を訴えに議会に乗り込もうってわけだ。んでもって、あのカタブツたちにつまんねぇ内向化政策のアホらしさを思い知らせてやんだよ」
「……ハディさん……」
「議員じゃねぇが、この国を変えてぇ気持ちはあるからな。テメェらが主体となってこの国を変えてくれ。世襲とか沽券とか、そんなもんどっちでもいい、ちょっとくらい恰好悪くても、がむしゃらに努力した奴が最後に笑える国に、な」
自信を持って紡がれるハディスの言葉を、青年たちは真剣な眼差しで聞いている。そしてハディスが話し終えると、ハディスにつられるように明るい表情を浮かべた。
口々に、がんばります、と青年たちはハディスに元気な声で決意を投げかける。それに対してハディスはひとりひとり丁寧に応えていた。そしてその後、議員バッジをつけた青年たちは庁舎へと駆け戻ってゆく。
青年たちの姿が見えなくなるまでハディスが見送っていると、背後から聞き慣れた声がした。
「オッサンすげぇモテモテじゃん、」
そう謂われてハディスが振り返ると、そこにはユーフォリアとライエの姿があった。
「おう、ライエちゃん、ちょっとばかり久し振りだな。……って、おいガキ、なにを昼間からこんなとこほっつき歩いてんだ」
「しゃあねぇじゃん、学校はずっと休講なんだし。ってか、クリスタラインのことを隠蔽してた研究者が摘発されてさ、もう大騒ぎだっての」
ユーフォリアは口を尖らせる。大変なことになってんだなぁ、とハディスは思わず息を吐き出した。
控えめに、ライエが切り出す。
「今はどの地方も大変だと想います。クリスタライン暴走の影響で、各地で甚大な被害が出ていたようですから……」
「そうだろうな……イーゼルもあの戦禍から立ち直れてねぇし……、スフレ<ここ>でも一騒動あったからなぁ……」
低くハディスが唸る。その視線のずっと先には、バタバタと忙しく走り回るスフレの警備隊の姿があった。その様子にユーフォリアも気付いて、警備隊が向こうへ姿を消してゆくのを、目を細めて見つめる。
「でも、結構どの地方も意識が変わってきたみたいだな。スフレ警察が落ちぶれてるから新しく警備隊が有志でできたんだろ。ノルンも積極外交がどうとか言ってたし、ウェスレーはカシアが東奔西走して種族間合意とかなんとかやってるみたいだし。……ライエがスフレに来たのも……、」
「ええ。セントリストとスフレの間で全面的な復興協定を締結するよう、I.R.O.本部からの提案書をスフレ庁舎に届けに来たのよ。今回の一連の件で、システム管理課から外交課に転属になったから……」
落ち着いた口調でライエはそう答える。今までと同じような制服を身に纏ってはいるものの、制服の襟元には外交課のロゴのピンバッジがつけられていた。
観光地であるスフレでさえ、決して明るい空気は漂っていない。それでも陽は高々と昇り、燦々と光が降り注ぐ。それが唯一、立ちこめる暗鬱を遠ざけているような気さえする。
「時間はかかるだろうけどな……この世界が佳い方向に変わっていくように、俺らも尽力していこうや」
低く、はっきりとした重みのある声で、ハディスはそう呟く。ライエとユーフォリアはそれに対してゆっくりと頷いた。
I.R.O.本部の屋上は少し強めの風が吹いている。ぐるりとめぐらされた鉄の柵に寄りかかって、シアンは松葉杖をはずした。
その隣でヴェイルも柵に身体を預け、ふたりは並んで外の景色を眺めている。
ビルが建ち並ぶセントリストの街も、よく見れば崩れた建物がいくつもあるのがわかる。建て直しが進んでいるところもあれば、壊れたまま放置されているところもあり、復旧はまだこれからというところだった。
「以前の街並に戻るにはもうちょっと時間がかかりそうだね……」
少し哀しそうな瞳でヴェイルは街を見渡す。その隣でシアンはまっすぐ前にある、グリィンのシィトで囲まれた建物を指さした。
「一昨日は工事始まってなかったのに……」
「あ、ほんとだ」
眼をこらしてヴェイルもその建物を見つめる。人の細かい動きまでは見えないものの、修復が進められていることはなんとなく見てとれた。
ぼんやりと、シアンは口を開く。
「人は、何度でも立ち上がれる……、強いね」
「そうだね。……もう創造主やクライテリアなんてなくても、この世界はちゃんと立ち直れる」
風が二人の髪を弄ぶ。隣に立てかけた松葉杖が倒れないように、シアンはそっと左腕を伸ばしてそれを支えた。
程よいあたたかさをもつ風は、真昼のセントリストを穏やかに照らしている。その陽射しはこれまでからずっと変わらない、セントリストの気候の特徴であった。
「……怪我が治ったら、I.R.O.で働こうと想う」
唐突にシアンはそう言った。
ヴェイルがまじまじとシアンの顔を見つめる。その視線の中でシアンは控え目に付け加えた。
「術の研究所関連か、ディシップか……まだ決めてないけど、術に関してなら何かできるかもしれないから」
そっか、とヴェイルは笑顔で応える。それから、空を仰いだ。
「……僕は、どうするかな……」
これからのことを決めかねてはいるものの、ヴェイルの声は明るいものだった。見上げた空に似て、可能性はどこまででも広がっているかのように。
風に靡く細い髪をそっと左手で抑えながら、シアンは落ち着いた口調で声を響かせた。
「何が正しいのかなんてわからないけど、ヴェイルが正しいと想う道を撰べばいい、」
相変わらず、シアンのその言葉には迷いがない。
透き通るように煌めくオッドアイを見つめて、ヴェイルは穏やかな表情で頷いた。
「……そうだね」
やさしく呟かれたその言葉に、シアンはふわりと微笑んだ。