君を呼ぶ声




(……ここは、…………僕はたしか……)
 ぼんやりとした頭でヴェイルは必死になにかを考えようとした。
 周囲は真っ白で、何も見えない。誰の声も聞こえない。身体が異様に軽く、まるで自分の魂だけがそこにあるような気がした。
 ほとんど感覚のない両足でヴェイルは歩き始めた。とはいえ、あまりに真っ白な空間が続いていて自分が歩いているのかどうかさえわからない。今まで自分が何をしていたのかも思い出せないほど頭の中はぼうっとしている。それでもただ、両足だけをヴェイルは動かし続けていた。
 ふと向こうの方に人影が現れる。吸い寄せられるようにヴェイルの足はそちらへと向かった。
 近付くにつれ、人影がはっきりと見えてくる。茶色い髪、蒼と紅のオッドアイ、それを見つめてヴェイルは足を止めた。
「シ…ア……、いや違う、あなたは……」
「お久し振り」
 オッドアイはにっこりと微笑む。シアンよりも背が高く、表情は大人っぽいものがあった。
 いつの間にか乾いていた喉でヴェイルは彼女の名を呼ぶ。
「……アリィ……」
 目の前にいるアリィの身体は、よく見れば半分透けている。
「やっぱりシアンは、あなたの……」
 そう言いかけたヴェイルに対してアリィはかぶりを振った。おっとりとした口調で、やわらかい声を発する。
「彼女が生まれるきっかけは私だったかもしれない。でも彼女は彼女……、今こうしてあなたと話している私の意識も、ずっと眠っていたのよ。あなたの力でやっと目覚めることができたくらい、深く……ね」
 透けた身体でアリィはヴェイルに歩み寄る。
「ありがとう、……これで私もやっと還ることができる」
 ふわりとアリィの身体は溶けるように消え始める。その微笑みはまったく崩れないまま、きらきらとアリィは消えてゆく。
 消え際に、アリィの唇がそっと言葉を紡いだ。
「彼女を……、」
 助けてあげてね、という言葉は、半ば消えながらもしっかりとヴェイルの耳に届いた。
 ヴェイルの視界が再びホワイトアウトする。










 ヴェイルがはっとしたときには、周囲の様子は一変していた。
 ずっとアサルトを展開していたはずのアルスやユーフォリア、そしてセラフィックが吹き飛ばされて倒れている。ヴェイルの両手はまだ波動を放ち続け、シアンの身体から放たれる波動に抵抗していた。しかしその感覚もまた、先程とは異なっているように感じられた。クレアの波動に呑まれないよう必死になっていたはずが、逆にヴェイルの波動の方が優勢になっているように感じられる。
 半ば無意識にヴェイルは波動を放ち続けていた。レメディやアサルトといったカテゴリには属さないその波動は、ヴェイルの身体から溢れるように放出されている。
 そのヴェイルの後ろで、吹き飛ばされた三人は、ライエとハディスに助けられながらゆっくりと身体を起こした。身体を強く打ったのか、ユーフォリアは顔を歪めている。
「……なんだよ、さっきの波動の衝突……強烈すぎるっての、」
「いや、それより……クレアの方がヴェイルに呑まれていないか……、」
 冷静さを失わず、アルスは身体を起こしながらヴェイルの方を見つける。もうレジストなど必要ないほどに、クレアの波動は弱まっていた。
 ゆっくりとライエは周囲を見回す。
「ここにあった残留思念はすべて浄化されているようですけど……、でもシアンさんの、いえ、創造主様の禁忌の波動は弱まっている……ということですか、」
 以前にこの空間を漂っていた光はひとつ残らず消えている。残留思念であるその光を浄化できるのはたしかに禁忌でしかない。しかしもはや禁忌の波動などまったく感じられなくなっていた。
 すると、まだ身体が巧く機能しないままでいるシャールが、突然苛立った口調で言葉を吐き捨てた。
「……あの出来損ない、とことんまで莫迦やりやがって……!」
「どういうことだ、そりゃ、」
 舌打ちするシャールをハディスは見遣る。しかしその声も届かないほど真剣にシャールはヴェイルの背中を睨みつけていた。
 そのシャールの代わりに、最後に起き上がったセラフィックが少し震えた声で説明する。
「彼は……ヴェイルは、たぶん……いや間違いなく、クレアの陽の人格を全部継承していたんだ。……今までその力を発揮することができないままでいただけで……」
 セラフィックの瞳は恍惚としながらヴェイルの放つ波動を映していた。同じように光に目を奪われているユーフォリアが無意識に声を発する。
「それじゃあ、あれが……!」
「……もうひとりの、クレア<創造主>の力だ」
 しっかりとセラフィックは頷く。
 背後から聞こえるその会話を耳にしながら、ヴェイルはまじまじと波動を放ち続ける自分の両手を見つめた。
「これが……クレアの陽の力……、僕が、……使ってる……、」
 普段アサルトやレメディを使うときとは違い、一心不乱に精神集中をしているというよりは、身体の奥から力が自然と溢れてきているような感覚だった。そしてその力は、やさしく、強大で、とどまるところを知らない。
 ふと、ヴェイルの耳に微かに声が届いた。その小さな声はヴェイルの名を途切れながら呼んでいる。もちろんその声には聴き憶えがあった。
「……シア…ン、」
 眼を丸くしてヴェイルは呟く。それとほぼ同時に、シアンの側から放たれていた攻撃的な波動はがくんと力を弱めた。そのことに気付いたシャールがヴェイルの背後から叫ぶ。
「今だ、アリアンロッドから創造主<クレア>を剥離しちまえ!」
「わかった、やってみるよ……!」
 すぐさまヴェイルはそう返す。その返答は自信に充ちていた。
 クレアの陽の人格の影響なのか、ヴェイルが無心になっているからなのか、ヴェイルの身体はひとりでに動いている。翳した両手に力を込め、シアンから放たれる波動を懐柔するように包む力を全身から引き出す。
 刹那、シアンの悲鳴が響き渡る。それと同時に周囲は白い光に包まれ、その場にいる全員の視力を奪った。










 ゆっくりと視界に色が戻ってゆく。
 残留思念の光はひとつ残らず消え去り、波動も衝突も止んでいる。何の物音もしない空間は味気なく、無気質だった。
 がくりと一旦ヴェイルは片膝をつく。身体が疲労を訴えていた。それでも、ヴェイルにはそんなことに構っている暇などない。
 視線の先に、少女が、倒れている。
 その場にいる誰よりも早く、ヴェイルは地面を蹴っていた。
「……シアンっ、」
 その名を呼びながら駆け寄ると、俯せで倒れているシアンを抱き起こす。茶色くやわらかい髪は乱れ、身体のあちこちに瑕ができている。
 もう一度、ヴェイルはシアンの名を呼んだ。
 だらりと垂れ下がっているシアンの左手をぎゅっと握る。するとヴェイルの手を、たしかに握り返す感触があった。
 はっとしてヴェイルがシアンの表情をじっと見つめると、微かに瞼が揺れ動く。弱々しい動きで、けれど確実に、瞼があがる。無垢なオッドアイが光を取り戻す。
 ほとんど掠れた声で、ヴェイル、とシアンは声を発する。何も言わなくていいとばかりに、ヴェイルはかぶりを振った。
 力のかぎりに、シアンの身体を抱き締める。

「…………おつかれさま」