脆く解ける理




 イーゼル南ステーションに一同は無事戻ってきていた。
 停めてあったシップはちゃんとそこにある。相変わらず人の姿はなく、誰かがシップに近寄った痕跡もなかった。静かな空間を一行の足音が切り裂いている。
 シャールに支えられながらシアンはここまで歩いてきていた。息が非道く荒れている。それは歩いて疲労したとか、戦って消耗したとか、そういった疲れ方ではない。それでもシップ乗り場まで立ち止まることなくシアンは歩き続けていた。
 シップ乗り場に到着すると、小型シップを前にして一行は立ち止まる。足を止めたシアンの顔をシャールは覗き込んだ。
「……アリアンロッド、」
「大丈夫、……あと少しだから……」
 か細い声が頼りなく響く。あと少しという言葉の意味がその場にいる誰にも理解できる。そのために誰も何も言うことができなかった。
 シャールは壁際にシアンを移動させてそこに坐らせる。そして茶色い髪をそっと撫でた。
「今の体力じゃすべてを全うするまで身体が保たねぇだろ、……しばらく休め、」
「……でも……、」
 坐ったままシアンはシャールを見上げる。シャールはすぐにかぶりを振った。
 それを観てゆっくりとヴェイルは二人に近付く。
「僕もそうした方がいいと想う。無理して君が途中で倒れたら……どうしようもないんだよ、」
 宥めるようなヴェイルとシャールをシアンは交互に見遣った。そしてやっと二人に小さく頷く。
 シアンが頷いたのを確認するとアルスはひとつ息を吐き出した。
「……俺たちも今のうちに身体を休めておいた方が佳いだろう。さすがに消耗が激しいからな……」
 数多くの不死者を相手にしていたハディスやユーフォリアもそれに同意を示す。慣れない危険をくぐり抜けたライエもすぐに頷いた。
 小さなステーションではあるものの、待合室やいくつかのブースはある。シップ乗り場の床に坐ってしまっているシアンは動く気配をみせない。疲弊しきっているシアンを移動させるのは憚られるが、他のメンバァにとってはソファのある待合室やブースの方がしっかりと身体を休められそうに見える。
 ステーションの構造を観て、ヴェイルはその場にいるメンバァを見渡した。
「……ごめん、……少しシアンと二人にしてもらっていいかな、」
 切実な瞳が揺れている。アルスたちはすぐに了承を示した。けれどシャールが簡単にそれを許可するはずもなく、反射的にヴェイルに喰ってかかる。
「テメェに何の権限があるってんだ、出来損ないの分際で、」
「シャール、悪いが俺はお前に用がある」
 噛み付きそうな勢いでヴェイルに言葉を吐き続けようとするシャールに、アルスはすぐにそう言った。言葉を遮られてシャールは不満そうにアルスを思いきり睨みつける。アサルトを放出して疲れきっていたのが嘘のようにシャールはエネルギィに充ちていた。
 今にも怒鳴り散らしそうなシャールにアルスは歩み寄る。そして鋭い視線をかいくぐって、永い銀髪の上から耳打ちした。その途端、シャールの表情が変わる。今度はまじまじとシャールはアルスを見遣った。
 シャールに対してアルスはしっかりと一度頷いてみせる。溜め息をつきながら渋々シャールは舌打ちした。
「……仕方ねぇな、」
 ぱっと明るい表情を浮かべてヴェイルはアルスを見つめた。視線が合うと、ありがとう、とヴェイルの唇が小さく紡ぐ。アルスは笑顔だけでそれに応えた。
 アルスたちは待合室へと移動してゆく。そしてその半透明ガラスの自動ドアが完全に閉まるのを確認して、ヴェイルはシアンの隣に腰を下ろした。
 待合室からは声や音が漏れ聞こえてくることもない。ここにいる二人がまったく動かず、そして喋らずにいる今、静寂だけがそこにどっしりと存在していた。
 壁に背中を預けてシアンはぼんやりと斜め上の方を見ている。そこに何があるというわけでもない。瞳は焦点を結ばず、ただ虚ろに天井からのライトを受け入れている。その状態のまま、突然ぽつりと言葉が呟かれた。
「……ごめんね……」
「気にしなくていいよ、消耗してるのはみんな同じなんだから……。僕やアルスたちだって、このままウェスレーに乗り込んで不死者と長時間戦い続けられるかどうかわからないし、ね」
 聞く者を落ち着けるようなやさしい声をヴェイルは発する。
 その声を耳にシアンは目を閉じた。そしてゆっくりと呼吸する。そこにある静かな空気すらなるべく震わせまいとするように、とてもゆるやかに息を吐き出した。
「すべてのキーストーンの力を集結させてクリスタラインを封じてしまえば、あとはクリスタラインの根源を断ち切れるだけの禁忌が使えればいい……」
 誰に向かって言うともなく、ただぼんやりと言葉が呟かれる。
 ヴェイルは思わず下唇を噛んだ。平然としたシアンの横顔を見ながら苦々しい表情を浮かべる。何か言おうとして口を開けかけても、言葉が巧く出てこなかった。喉がいやに乾いている。唇はいつの間にか震えはじめていた。
 ふと、そのヴェイルの右手が冷たい感覚をおぼえる。はっとしてそちらを見遣ると、ヴェイルの右手にシアンの左手が重ねられていた。シアンの左手は力なく、それでもヴェイルの手を握っている。
 目を閉じていたはずのシアンはその瞳を開き、今度は上の方ではなく俯いて足元を見つめていた。ヴェイルの方を見ているわけではない、しかしその行動からすればシアンが何かを訴えようとしているのがヴェイルには痛いほどにわかる。ヴェイルはあいている左手でシアンの冷たい手をやさしく包んだ。
「……いいんだよ、…………甘えても、弱音吐いても……」
 慰めるはずのその言葉が震えている。
 シアンはただ左手に力を込めた。身体の中に渦巻くものを外に吐き出すことができずに、不自然に瞳が揺れている。
 ちらりとヴェイルの方を見ると、ヴェイルの透き通った瞳と視線が絡まった。けれどそれでも頭の中は混沌としているだけでしかない。目の前にいるその人の名を声に出して呟くことが、今すぐにシアンにできる精一杯のことだった。










 待合室は比較的小さな部屋だった。部屋の壁に沿ってぐるりとソファが置かれている。詰めて坐れば十数人ほど坐れそうなそのソファに、各人が間をあけて腰を下ろす。あまり大きなソファではないが、人数が少ないためにゆったりと坐ることができていた。
 シアンとヴェイルの様子が気になっているのか、坐りはしたもののシャールはまったく落ち着いていない。丁度正面に坐ったアルスを睨みつけ、誰よりも先に口を開いた。
「……で、警察。さっきのはどういうことだ、」
 シャールは答えを急がせる。けれど当然アルスとシャール以外は誰も意味がわからない。アルスの隣に坐ったハディスがアルスに問いかける。
「さっきのって……、あー坊、一体何を耳打ちしたんだよ、」
 ライエとユーフォリアもアルスの答えを待っていた。シャールは落ち着きのない坐り方をして、鋭い瞳をしたままでいる。
 答えをシャールに急がされているのはわかっていながらも、アルスは低い声でしっかりとまず説明を始めた。
「…………シアンを救うことができるのではないかと、俺は想う」
「それ……本当なんですか、」
 切実そうな瞳でライエはアルスを見つめた。思わず少し身を乗り出しているライエに向かって、アルスはゆっくりと頷く。その冷静な様子が気に喰わないのか、シャールは更にアルスに言葉を浴びせた。
「だからその具体的な内容は何だって言ってんだ、」
 怒っているような乱暴な声が部屋に響く。その様子は、機嫌が悪いというよりも、何か焦りを抱えているように見えた。
「……レメディだ、」
 情報を頭の中で整理しながらアルスは最初にそう呟いた。そしてあくまで冷静な口調で話しだす。
「アクセライと戦ったときに、シアンの禁忌でできた瑕が裂けただろう。それがレメディで治った……。禁忌でできた瑕自体はレメディではどうしようもないが、裂けた瑕は治すことができた……、不思議だと想わないか、」
「そういえばそうだよな……」
 はっとしたようにユーフォリアは言う。シャールの苛ついた様子も既におさまっていた。
 でも、と静かにライエが切りだす。
「シアンさんの身体が護られたとして、それはシアンさんの精神も無事だということになるんでしょうか……」
 あくまで控えめに言葉が発される。その表情にも口調にも自信というものはまるでなかった。
 そのライエに自信をもたせるようにアルスはライエに向かってしっかりと頷いてみせる。そしてちらりと横目でシャールに視線を送った。
「それはシャールが知っているだろう」
 アルスの放ったひとことに全員が一斉にシャールを見遣る。期待の込められた視線を浴びて、シャールは不快そうに鋭い瞳でその場にいたメンバァを睨み返した。しかし話題がシアンの安否についてであるためか、すぐにすべての視線を自分の視界から外すようにして目を閉じてひとつ溜め息をつき、アルスの言葉に対して答えを返した。
「創造主はもともと精神だけの存在だ、アリアンロッドという器が壊れようが関係ねぇ。……だが、今のアリアンロッドの中で、あいつ自身の人格が形成されてきているように見える」
「あいつ自身の人格……、あっ、それだ、」
 突然ユーフォリアが声をあげた。
 話が遮られてシャールは機嫌の悪そうな表情を浮かべる。その視線を浴びているユーフォリアをハディスは隣から見下ろした。
「なんだよ、いきなり……」
「さっき廃工場で先に行く直前のあいつの目、すっげぇやさしかったんだ。なんか違和感あるなぁと想ってたんだけど……、あいつ全然違うんだよ、初めて逢ったときと……」
 必死で訴えるような口調でユーフォリアは言葉を連ねる。まっすぐ無垢な瞳で見上げられて、言われてみれば、とハディスは口の中で発した。
 透き通るような奇麗な金髪をライエは色白い右手の指先でそっとかきあげる。
「私たちがシアンさんの抱いている感情をわかってあげられれば佳いのに……」
 エメラルドグリーンの瞳に陰がおち、ライエは少し俯いた。誰もが言葉を失う。それぞれの瞳の奥深くにずしりと重いものが宿った。この場にいる全員が同じことを考えているかのように、ひとつにまとまった重苦しい空気が充ちる。
「あとはアリアンロッド次第だ……」
 シャールが低く呟く。
「物理的にはレメディで器の崩壊を食い止めてやればいい。あの出来損ないがどこまでレメディの効力を発揮できるかは疑問だが、他に手段はねぇことだしな」
「それが巧くいけば……シアンはどうなる、」
 冷静な口調でアルスは問いかける。しかしその冷静さに込められているのはいつものような客観的な姿勢ではなく、身を乗り出さんばかりの切実さだった。気付けば唇が乾いている。
 何も言わずに答えを待っているライエたちも真剣な眼差しをしているのはアルスと同じだった。すべてがシャールの次の発言を待ちわびている。
 シャールは深く息を吐き出した。
「クライテリアを封印するという目的を果たせば創造主は器を捨てるだろう。出来損ないの場合はもともと人格を持っているからな、陽の人格が器を捨てようが問題ねぇが……、アリアンロッドに関して言えば、可能性は3つある。人格形成が不充分でただ器だけの存在になるか、形成された人格が残るか……、あるいは創造主の意識が乖離する際に築かれてた人格も巻き添えを喰って崩壊するか……」
「二番目の以外は洒落になんねぇな……」
 苦々しい表情を浮かべながらハディスは頭を掻いた。その隣でアルスは唇を噛む。シャールの鋭い瞳にも陰りが生じた。片目を完全に覆い隠している長い前髪が更にぱさりと落ちる。細い銀髪が表情にノイズをかけた。
 部屋の空気がぴたりと停止する。渦巻いていたもどかしさは濃くなってそこここに充ち、その場を支配していた。ひんやりとした温度を無視して、重々しさだけが身体の中に染み入る。
 そのずしりとした雰囲気の中、ゆっくりとライエは膝の上においていた右手をあげた。そしてブラウスの胸元をぎゅっと握る。そうしながら一度目を閉じて、ゆっくりと開く。その瞳はやわらかく、澄んでいた。
「……シアンさんなら、きっと大丈夫です」
 いつも言葉を切り出すときのようなおずおずとした感じや、自身のなさそうな表情はそこにはない。一途で迷いない口調で続ける。
「シアンさんは強い人です。だから……。私は信じています」
 瞳の輝きと同じように、その声も澄んでいて無垢なものだった。その声に誘われるように全員が顔をあげる。
 そして、そうだよな、とユーフォリアがゆっくりと口を開いた。
「第一、オレにあれだけ偉そうなことばっか言っといて自分は簡単に消えちまうなんて……オレは認めてやんねぇっての」
「ガキの分際でえらそうなこと言うんじゃねぇ」
 ユーフォリアの言葉を遮るようにシャールが勢いよくそう言った。なんだよ、とユーフォリアは口を尖らせる。
 そのやりとりにアルスとハディスは顔を見合わせて苦笑し、溜め息をついた。それからハディスはふっと笑う。
「要するにみんなお嬢ちゃんのこと信じてるってことだろ。……俺様だってあー坊だってそうなんだし、……ヴェイルは言うまでもないことだしな」
 隣でアルスは頷く。あっさりとまとめられて、言い争いを始めそうなシャールとユーフォリアもこれ以上何かを言うのを諦めた。
 落ち着いた瞳でアルスは全員を見回す。つい先程までとはまったく違う空気がそこにはあった。目の前にあった壁が崩壊したような気さえする、そんな表情をそれぞれが浮かべている。
「……俺たちは無力なのかもしれない。それでも、シアンを信じることはできる。そしてシアンの人格が崩壊しそうになったら、俺たちが全力で引き止める……、」
 その言葉は低く、そして力強く響いた。










 シアンとヴェイルは二人並んで床に座っていた。プラットフォームの床はひんやりと冷たい。防音がきいているのか、待合室からはまったく声が聞こえてこなかった。並んで床に座る二人が口を閉ざしていると、そこは静寂に満たされた空間になる。すべてのものが微動だにすることなくそこにあった。
 しばらく互いに無言のまま時間だけが経過する。シアンは壁に背を預けて無表情のまま宙を見つめていた。二人にしてほしいと言ったものの会話の切り口が見つからないまま、ヴェイルは時折シアンを見遣って言葉を捜している。
「……何か話があったんじゃないの、」
 シアンがそっと声を発する。視線だけで見上げられ、ヴェイルは一度あいまいに頷いた。それから満ちた静寂をかき消すようにかぶりを振る。
「何を話したいってわけじゃなかったんだけど、……駄目だな、こんなときにも巧く言えないなんて……」
 ひとりごとのようなヴェイルの言葉にシアンは首を傾げた。しかしそれ以上何かを問いかけようとはしない。ただ黙って、ヴェイルの次の言葉を待っている。
 一度ヴェイルは視線を外して深呼吸した。それから俯き加減になって、そっと声を発する。
「……君を、失いたくないんだ」
 紫色の瞳が揺れる。
「最後だなんて、想わないでほしい。……僕が君を護るから。ありったけのレメディ<力>で」
 ゆっくりと手を伸ばしてシアンは片手をヴェイルの手の甲に重ねた。その冷たい手は小刻みに震えている。
 ヴェイルはシアンの方を見遣った。震えている手とは対照的に、シアンはいつものような無表情のままでいる。それでもよく見れば、瞳の奥は暗雲がたれ込めたように光を失っていた。
 いたたまれなくなってヴェイルはシアンの重ねられたシアンの手を両手で包んだ。それからその手を解放すると、今度は座ったままシアンの身体を抱き寄せる。
「……巧く言えないのは、私の方かもしれない」
 ヴェイルの耳元でシアンが囁くように言う。
「やさしい言葉をヴェイルがかけてくれても、応えられない、……ごめんね……」
 消え入りそうな声を耳に、ヴェイルは奥歯を噛み締めた。
 シアンの細い髪をそっと撫でる。それに呼応するようにシアンはヴェイルの肩に顔を埋めた。
 小さな身体は僅かに、けれどもたしかに、震えている。
「……人はこういうとき……泣くのかな、」
 くぐもった声がヴェイルの耳に届く。今にも壊れてしまいそうな声はゆっくりと続いた。
「みんながすごくやさしくて、だからこの世界を護りたくて……、だけど、……」
 言葉を紡ぐシアンの身体を包む腕に、ヴェイルはあるだけのあたたかさを込めて力を入れた。今までこれほどまでに強く抱き締めたことはない、それほどに腕には力がこもっている。
「みんなと逢えなくなるのは、……哀しい、」
 ヴェイルの温度を感じながらシアンはそう言葉を紡ぐ。これだけの言葉を発するのに随分と時間とエネルギィを要した気がした。けれど吐き出してしまった後は、ヴェイルの腕の中で安堵感に似た温度をぐらりとするほどに感じている。それに溺れるようにシアンは目を閉じた。