脆く解ける理




 ウェスレーは騒然としていた。
 クリスタラインの周囲は自然と人工物が混ざり合ってボロボロになっている。前回のクリスタライン暴走時に被害を受けた様子がありありと残っていた。
 各地方の警察や報道陣があちこちに見受けられる。その強烈な圧迫感と暴走直後だという事実が重なって、クリスタラインにはある程度までしか誰も近付けない。それでも遠くから見てもクリスタラインはなにかおどろおどろしいものを纏っているように見えた。不安定な圧迫感が絶えず放たれている。
 術でウェスレーに到着したセラフィックは周囲の様子を観察した。放送局の人間があちらこちらにいるため、私服でいても目立つことはない。クリスタライン暴走の件で世間もこの場も混乱に充ちているため、余程あやしい行動でもしないかぎり、いちいち呼び止められるということはなさそうだった。
 しばらくセラフィックが周辺を散策していると、突然名前が呼ばれるのが聞こえる。声のした方を見遣ると、そこにはカシアとオーヴィッドの姿があった。
 羽根を隠すためカシアはベージュのロングコートを身に纏っている。
「どうしてここに……」
「シアンたちがアクセライを止めに行ってくれてるから、僕はこっち担当ってことで、ね」
 カシアに対して簡単に説明を済ませてしまうと、セラフィックはまた周囲の様子を見始めた。そのセラフィックに対してオーヴィッドが口を開く。
「来てもらえて有り難い。我々では並の精神力しかない、クリスタラインの詳細な波動変化までは感じとることができないだろうとカシアと話していたところだ」
「僕だってシアンやシャールほどの精神力はないけどね。……でもできるだけのことはするつもりだよ。そのために来たわけだし」
 落ち着いた口調でセラフィックはそう返す。
 今度はカシアがその様子を視線で捉えていた。やさしい瞳でカシアはセラフィックを見つめる。その視線に気付いて、どうしたの、とセラフィックは首を傾げた。するとカシアは微笑みを浮かべる。
「昨日までとは違う表情してるわ」
 やさしくそう告げられて、セラフィックは一度きょとんとした。しかしすぐに持ち前の笑顔に戻る。
 ふわりと吹いた風を正面から受けて、何色かの色が混ざった細い髪が靡く。どこか遠いところをぼんやりと見るようにしながら、セラフィックは大事そうに言葉を紡いだ。
「いろいろ……ね。……なんていうか、吹っ切れたのかもしれない」
「……そう、よかった。……今の方があなたらしいわ」
 大切な人を見るような目でカシアはセラフィックにそっとそう告げる。風に弄ばれて少し乱れた髪を指先で軽く整えた。
 あちこちからいろんな声がする。今のところは何が起こったというわけでもなく、警察も被害の把握やその後の処理に専念していた。警察の人数は少なく、もしクリスタラインの再暴走が起こったとすれば完全に対応できそうにはない。
「できることなら一般人は避難させたいのだが、クリスタラインが再暴走する可能性があると我々が言ったところで、信じてはもらえないだろうな……」
 駆け回る報道陣を観てオーヴィッドは溜め息にも似た声を吐きだした。
 オーヴィッドの意見に、そうだね、と言おうとセラフィックは口を開きかける。しかしすぐにその言葉を呑み込んだ。今まで感じていたクリスタラインの波動が激しさを増し、その凶暴な波動が身体に染み入るように知覚される。
「……まずい、クリスタラインの波動が急速に変化してる、」
 険しい表情を浮かべると、セラフィックはカシアとオーヴィッドを交互に見遣った。
 少ししてからその二人も波動の変化に気付いて表情を変える。頷き合うと、三人は急いでクリスタラインの方へと駆けだした。その途中であちこちから悲鳴があがる。圧迫感が突如として増大した。
 不死者があっという間にクリスタライン周辺に溢れかえる。警察は慌ててそれに対応し、一般人であり戦闘能力を持たない報道陣はひたすらに逃げ惑った。
 溢れた不死者の群れに飛び込んでオーヴィッドは義手を薙ぎ払う。生み出されたばかりの不死者は比較的脆く、一撃でどさりとその場に倒れて消えはじめた。
 それでも生み出される不死者は留まるところを知らない。警察も応戦しているものの、次々に不死者は迫ってくる。とめどなく生み出される不死者を殲滅するには遠く及んでいない。
 袖の下に忍ばせた武器からレーザーを発射し、セラフィックはオーヴィッドを後ろから援護した。その隣でカシアは精神集中を始める。そして力が高まったところで逃げ惑う人々に向かって手を翳した。
「彼の者を厄災より護り抜け……護法壁!」
 混乱しながら不死者から逃げていた人々をレジストが包む。そこに襲いかかった不死者は、その半透明のシールドに弾かれた。
 セラフィックは攻撃を中断して精神集中を始める。
「シアンたちがアクセライを止めてくれるまで、ここは必ず護り抜く……!」
 精神力が集い、高まってゆく。漲るその力を身に纏い、不死者の群れに向かってセラフィックは手を翳した。










 それぞれの刃が不死者を裂き、ほぼ無理矢理に薙ぎ倒してゆく。シアンたちは階段で三階へと向かっていた。強力な不死者を倒しながら階段を駆け上がって進んでいるため、戦い慣れているメンバァであるもののさすがに少し息があがっている。
 三階にあがると一番奥の部屋から灯りが漏れているのが見えた。その部屋の入り口は倉庫のように大きなどっしりとした扉で閉ざされ、そこから不死者が湧き出てきている。
 短剣を握り直してシャールは周囲の不死者を思いきり薙ぎ払った。
「アリアンロッド、術はいけるか、」
「……少し時間があれば、」
 答えながら左手に握っていた方の短刀をシアンは勢いをつけて投げる。ブーメランのように短刀は弧を描き、軌道上にいた不死者を切り裂く。そして吸い寄せられるようにシアンの手元に戻った。
 短刀によって瑕を受けた不死者をヴェイルは間髪入れずにレイピアの切っ先で貫く。そして一旦レイピアを引いたところでシャールと視線が合った。鋭く紅い瞳の厳しい視線を受け入れて、その意志を解するとヴェイルはしっかりと頷く。
 ヴェイルの同意を確認して、シャールはシアンに近寄った。
「だったら俺たちで時間を稼ぐ、……あの扉ごとブチ破れッ!」
 シャールに了承を示す間もなく、シアンは精神集中を始めることによってシャールに応えた。ヴェイルもシアンに近寄って、シアンを襲おうとする不死者を叩き落とす。
 あっという間に膨大なエネルギィがシアンを包む。そこにはいつものように周囲を考えた加減など一切ない。ただひたすらに攻撃的に、激しい波動が充たされてゆく。
 二人とも伏せて、と叫びながらシアンは扉に左手の指先を向けた。
「片鱗数多集いてその陰の力を放て 飛翔せし刃の昏迷を!」
 漆黒の衝撃波は周囲の不死者を粉々にし、扉の方へ一直線に伸びる。鉄の扉はいとも脆く破壊され、その向こうで衝撃波は対抗するエネルギィに衝突して爆発を引き起こした。
 地面が揺れ、爆発によって灰色の煙が突如としてフロア中に広がり、隅々まで充ちてゆく。煙に塗れてヴェイルは思わず咳き込んだ。
「……まさかとは想ったけど、……ほんとに加減ないんだから……」
 ゆっくりと煙が晴れ、周囲を見遣れば壁が剥がれているのがすぐにわかる。関係のない部屋の扉も跡形なく破壊され、床はあちこちがボロボロになって剥離してしまっていた。そしてそういった様子がはっきりと見られるようになっている、つまりは不死者の姿がまったく消えてなくなっている。
 一番奥の部屋に充ちていた煙もようやく晴れていった。そこには一人分の人影がある。三人は剥離した床に気をつけながら部屋の中へと駆け込んだ。
 部屋の中にあるシルエットは間違いなくアクセライのものだった。しかし気力がなく、目にも光が宿っていない。その足元にはキーストーンが転がっている。もうキーストーンが不死者を生んでいないことからすれば、シアンの術に対抗するエネルギィを放ったのはこのキーストーンだと容易に推測がついた。
 部屋の中は埃に塗れている。何か置いてあった物が術で壊されたのか、焦げた破片があちこちに散っていた。
 アクセライの背後には窓がある。その向こうにある欠けた月の弱い光は部屋のライトに遮られてここまで届いていない。ライトの下でアクセライはぼんやりと立っている。しかしそこには何の意志も感じられず、ただ直立しているだけのように見えた。以前はきちんと整えられていた髪もボサボサで、前髪が表情を覆い隠している。覇気などどこにもなく、黒いコートは薄汚れていた。
 やっとアクセライの瞳が僅かな輝きを得る。
「……アリィ、……」
 呻くようにアクセライは呟く。
「お前のいない世界を……この歪んだ世界を俺は……、……それなのにお前は……お前までもが俺を追いつめようとするのか……」
「……いけない、何か様子が変だ」
 険しい表情を浮かべながらヴェイルは身構えた。
 そのヴェイルの声も聞こえていないかのように、ぼんやりとした動作でアクセライはキーストーンを拾う。その目は虚構を観ていた。
 アリィ、ともう一度アクセライは呟く。そしてやっとのことでシアンたちの存在を認識した。目の前の三人を視界に捉える。
「……また俺の邪魔をするというのか」
 掠れた声は表しきれない怒りに充ちている。
 相手の表情をろくに見ることもなく、シャールは吐き捨てるように言った。
「くだらねぇことぼやいてねぇで、さっさとそのキーストーン渡しやがれ」
「……シャール……、もとはといえばそれがすべての失敗だったのだな、……貴様がティアマートの器だと気付いていれば、」
「気付いてたからどうだって言うんだ。俺は最初からテメェなんかに力を譲ってやる気なんかねぇ」
 懐からナイフを取り出すと、シャールはそれをアクセライのキーストーンを握る手に向かって投げ付ける。既に不死者を生むことをやめているキーストーンにアクセライが咄嗟に力を込めると、キーストーンから衝撃波が放たれた。
「護法陣……!」
 反射的にシアンがそう叫び、三人を護る大きなレジストで衝撃波を相殺する。
 アクセライは肩で息をしていた。顔色が悪いということがあまり明るくない光の下でもよくわかる。ヴェイルはいたたまれなくなって叫んだ。
「駄目だ、これ以上精神力を乱用したら君の身体が保たなくなる! ……君が倒れたら、セラは……!」
 セラ、という単語にアクセライは反応を示す。キーストーンに力を込めるのを中断すると、衝撃波が止み、シアンはレジストを解いた。
 力を失ったキーストーンをアクセライは力一杯握る。
「……奴も結局は裏切り者だったということだ……」
 嘲るようにアクセライは言葉を吐き出す。力のなかった瞳がアグレッシヴに変わってゆく。そしてその瞳はヴェイルに向かって殺意に充ちた視線を送った。
「貴様らも選定者も罪のない人間を殺すために存在していた……、そして俺の為す復讐から目をそらした、勿論セラフィックも、」
「違うッ、」
「違わない。……貴様に何がわかる……、この世界で一番大切なものを奪われた人間の気持ちなど……ッ」
「……いい加減にしてください」
 冷たくシアンが言い放つ。
 アリィと似た少女が発する言葉にアクセライの意識は集中する。ときどきシアンにアリィを重ねて見るような遠い目をしながら、アクセライは目の前のオッドアイを見つめていた。
 アクセライのその視線に気付いていなかったわけではないものの、シアンは平然として構うことなく続ける。
「あなたの哀しみは私にはわからない。だからあなたの選んだ道を責めることなんてできない。……でも今のあなたは自分が選んだ道から責任転嫁して逃げているだけです」
 迷うことなく真っ直ぐにシアンは言葉を放つ。その隣でシャールが頷いて同意を示した。
「まったく、アリアンロッドの言う通りだ。昔のテメェもいけ好かねぇ野郎だったが、今のテメェはただ腐ってるだけだからな」
 立て続けに浴びせられる容赦ない言葉に、アクセライは肩を震わせた。
 キーストーンに力がこもる。アクセライの精神力とキーストーンの波動が相乗して高まってゆくのがシアンたちにもありありと感じられた。
「……そんなものは奪われていない者の理論だ、」
 アクセライの波動の高まり方は加減を知らない。それは精神力だけではなく生命力すらも注いでいるようだった。
「そうやって隣に大切な存在を置いておける貴様らごときに……ッ」
 もはやアクセライの身体は精神力に支配されていた。身体はふらふらで立っているのがやっとのように見え、瞳からは輝きが消えている。それでもキーストーンを握る手にだけは力がこもり、そこから放たれる波動はアクセライの力ない姿からは想像もできないほどに猛々しいものだった。
 精神集中を始めながらシャールが叫ぶ。
「レジストじゃどうしようもねぇ、アサルトで対抗しろッ」
 シアンとヴェイルも即座に精神力を高めはじめた。互いの波動があっという間に集ってゆく。
 建物は既にギシギシと悲鳴をあげていた。キーストーンの波動はアクセライの背後にある窓ガラスを割る。割られて砕けたガラスの鋭い破片も、すぐに波動によって粉砕された。
 そしてその派手な音が響いた直後、アクセライのキーストーンを握る手がシアンたちに向けられる。同時にシアンたち三人はアサルトを放った。
 短い距離しか経ていない両者の間で波動が衝突する。先程よりも強烈な地響きが起こった。波動は簡単には相殺されない。衝突を続けた両者の波動はエネルギィを生み、それは容赦なく周囲を破壊してゆく。
 波動の衝突が続き、衝突によるエネルギィが周囲をどんどん破壊していっても、キーストーンの波動は弱まる気配すらみせなかった。
「……くッ、……大丈夫か、アリアンロッド……」
 さすがのシャールも強力なアサルトを放出し続けているためか表情を歪めている。その隣でシアンは小さく頷いた。
「……なんとか波動を上にそらせることができれば……、」
「このまま建物が潰れてしまったら、下にいるアルスたちが危ない、」
 苦しそうな表情をしながら、それでもヴェイルはアサルトの力を緩めない。
 衝突した波動がゆっくりと少しずつ上へと移動してゆく。しかしキーストーンの波動はそれに対抗するかのように放たれ、なかなか容易にはいかなかった。
 波動衝突の向こう側からアクセライの声が聞こえる。
「……滅びてしまえばいい……俺もその混沌の中に沈んでやろう、……争いも哀しみもない世界へ……」
 その声には何の力もこもっていない。譫言のようにただ言葉が響いている。放っている波動は三人がかりで必死になって対抗しても抑えきれないほど強いというのに、それを放つ本人からは生気が感じられなかった。それでも譫言のような言葉に応じるように、波動はたしかに強力になる。
 力を増した波動に三人は一歩押し戻された。そしてその直後、シアンが短い悲鳴をあげる。はっとしてヴェイルとシャールがそちらを見遣ると、シアンはアサルトを放ったまま顔を伏せていた。横からその表情を覘けば、下唇を噛んで痛みを堪えているように見える。
 シアン、とヴェイルが名を叫んだ。顔を伏せたまま、大丈夫とでも言うようにシアンはかぶりを振る。事実、今シアンがアサルトを放つのをやめれば、三人ともキーストーンの波動に呑み込まれて息の根を止められるのは明らかだった。
 舌打ちしながらシャールは低く声を発する。
「……どうにかならねぇのかよ……ッ」
 もう随分長い間、精神力を互いが放出し続けている。それでもキーストーンの波動は無尽蔵であるかのように弱まる気配すらみせず、寧ろ段々と強くなってきていた。
 壁のあちこちに穴が空き、その一部は完全に崩れ、窓は完全に破壊され、もはやここは部屋と呼べる場所ではなくなっている。地響きは非道くなる一方で、建物全体がいつ崩れてもおかしくないような状態だった。
 もう一歩ずつ、三人が押し戻される。
 キーストーンの波動は三人を呑み込もうと力を更に増す。
 そのとき、三人の背後から声がした。
「蒼き双明 其の刃 光を称え集結せよ!」
「この地に眠る灼熱の息吹よ我が前に 眼前の総てを焼き尽くせッ!」
 冷気と炎の混ざり合ったエネルギィが後ろから飛翔し、シアンたちの波動を援護する。
 シアンたちが振り返ると、そこには術を放つアルスとユーフォリアの姿があった。二人とも指にシルバーのリングをはめている。
 三人と目が合うと、ユーフォリアは元気よく声を発した。
「一気に押し切ってやろうぜ!」
「……無茶を言うな。屋外に波動をそらせることができればそれでいい」
 隣からすかさずアルスが冷静にブレィキをかける。それでも意気込んだユーフォリアは、やってやるぜ、とアサルトを強めた。アルスもそれに遅れることなく術力を増す。
 五人分のアサルトはキーストーンの波動を確実に上へと押し上げる。そして遂に衝突エネルギィは部屋の天井をつき破り、キーストーンの波動とアサルトは同時に天へと昇った。そして暗い夜空に散る花火のように、やっとのことで弾けて相殺する。
 両者の波動が途切れ、部屋は先程までの攻防が嘘のように静まり返った。
 アクセライの身体はふらふらと崩れる寸前のバランスを保っている。足元がおぼつかない。その向かいでヴェイルは肩で息をしながら両膝に手を置いた。なかなか身体に力が入らない。それはシャールも同じことで、苦しいのかコートの左胸の部分を右手でぎゅっと握っていた。
 アルスとユーフォリアが三人に駆け寄る。その後から少し遅れてハディスとライエも部屋であったその場所へと足を踏み入れた。
 攻撃を止めてもまだ対峙は続いている。キーストーンはアクセライの手の中にあった。全員がアクセライの次の行動に注意を払う。
 そのとき、シアンはぺたんとその場に崩れ落ちるように座り込んだ。すぐ後ろにいたアルスが慌ててその座り込んだ身体を支える。シアンもヴェイルと同じように肩で息をしていた。しかしその顔は単に疲労が表れているだけではない。それは血の気が引いたように真っ青だった。
「お前……、顔色が……」
「ん……、少し疲れただけ、だいじょう…ぶ、」
 アルスの心配にシアンは声だけで応える。とても大丈夫そうには見えない表情では応えられるはずもなかった。
 心配そうにヴェイルもシアンの方を見遣る。そしてシアンが身に纏う黒いコートの左腕部分に染みができていることに気付いた。慌てて駆け寄ってその染みの部分に触れれば、べったりと手に紅いものが付く。はっとしてヴェイルは即座にレメディで服の上からその瑕を癒した。
 その様子に全員が落ちつかない視線を注いでいる。その状況の中、アクセライは不気味に笑いだした。
「……その器も限界か……」
 喉の奥でアクセライは笑い続けている。
 途端、シアンは再び堪えきれない悲鳴を短く洩らした。そして今度はシアンの右肩にじわりと染みができる。すぐにそれに気付いてヴェイルはもう一度レメディを使って瑕を治療した。
 ハディスがアクセライを睨みつける。
「テメェ、お嬢ちゃんに何しやがった、」
「黙ってろ、デカいの。……奴は何もしちゃいねぇよ」
 シャールがぴしゃりとハディスの勢いを遮る。その言い方に不服そうなハディスを無視して、シャールはシアンのもとへと歩み寄る。そして鋭い瞳でシアンの様子を観察すると、納得したように息を吐き出した。
「やはりな……、今まで禁忌でできた瑕が裂けはじめてやがる」
 低く呟かれた言葉に、ヴェイルの表情が青ざめる。ヴェイルだけではない、アルスたちも言葉を失った。
 まだアクセライは不気味に笑うことを止めない。
「クリスタラインを封印できるほどの精神力を唯一持つ創造主の器が崩壊すれば、この世界を救う手段はなくなる……、すべてが無に還るということだ……」
 言葉を発しながらアクセライはその場にがくりと膝をついた。身体全体がぐったりとしている。今まで二本の足で立つことができていたのが不思議なほどに、あらゆる力が抜けていた。
 カラン、と透き通った音がして、キーストーンが握力を失ったアクセライの手から滑り落ちてしばらく転がり、やがて止まる。アクセライはもうそれを拾おうとはしなかった。
 身体を支えるヴェイルとアルスの手をそっと払って、シアンはゆっくりと立ちあがる。そして静かな動作で数歩前に進むと、そこにあるキーストーンを拾い上げた。
「……残念ですが、私はまだ倒れませんよ」
 はっきりとした口調でシアンは床に膝をついているアクセライに言い放った。
 アクセライから笑い声が消える。しかしシアンを見上げて睨み返す気力もなく、同じ姿勢のまま動くことを放棄していた。
 貫かれた天井が跡形もなくなり、天が仰げるこの部屋は静けさに支配されている。月は何に動じることもない。木の葉のざわめきがときどき耳に届くものの、それはあまりに弱々しい音だった。静寂が闇の彼方からこの場所へ降り注いでいる。
 拾ったキーストーンをシアンはコートのポケットにおさめた。
「……あなたがアリィさんを大切に想っていたように、私にも大切な人がいるんです。……こんな処で動けなくなるわけにはいきません」
 静けさを裂く淀みない声に、やっとアクセライは顔をあげてシアンを見上げる。しかしその瞳には絶望しか浮かんでいなかった。
「もう遅い……、クリスタラインは安定を失って暴走を繰り返す……人は不死者に呑まれ、混乱と憎悪が充ち、不死者がこの世界を支配する、そして……この世界は崩壊する」
 そこまで言ってしまうと、見上げるのが疲れたかのようにアクセライはシアンから視線を外した。そして一番無理のない姿勢でぼんやりと前を見る。しかしその焦点は定まっていない。ただそこに瞳があるというだけで、その瞳は何かを見るということをすっかり止めていた。
 アクセライの身体から力が更に抜けはじめてゆく。坐っていることさえも困難なほどで、今にも倒れそうだった。それでも肩だけに僅かに力がこもり、小刻みに震える。
「……セラフィックも愚かな奴だ。……俺を裏切ってまで、救うことなどできはしない世界に尽くそうとするなんてな」
 吐き捨てるようなその言葉にヴェイルの表情に怒りが浮かんだ。悩んでいたセラフィックの様子がヴェイルの脳裏に蘇る。
 沸き出してくる感情をすべて言葉にしてアクセライにぶつけようとヴェイルは口を開けかけた。しかしそのとき、シアンの足音が静かな空気を裂いて響く。その光景にヴェイルが言葉を発するのを一瞬躊躇していると、シアンはアクセライの目の前までまっすぐ足を進めた。そしてそこでぴたりと立ち止まる。
 その直後、迷うことなく、そして勢い佳く、シアンの左手がアクセライの頬を打った。
 乾いた音が響く。
 ヴェイルはすっかり言葉を呑み込んで目を丸くした。予想もしなかったことにアルスたちもヴェイルと同じように驚きを示す。
 さすがのアクセライもこのことに驚かずにはいられなかった。与えられた衝撃に、瞳にわずかに生気が宿る。
 シアンは相変わらず無表情だった。人の頬を打ったとは想えない表情で、ただひとり冷静なままでいる。そして自分のペィスをまったく崩さないままで言葉を紡いだ。
「誰よりも自分を想ってくれていた人を裏切り者扱いする人なんかに、救える世界なんてありませんよ」
 冷たくそう言いきると、シアンはアクセライに背を向けて、何事もなかったかのように部屋の外へと歩みはじめる。
 すっかりシアンのペィスに巻き込まれてしまっていたことにやっと気付いて、シアンの行動に慌ててユーフォリアが声をかけた。
「おい、こいつ放っといていいのかよ、」
 ユーフォリアのひとことによって少し緩んだその場の緊張の中、シャールもアクセライに背を向けた。
「莫迦なガキだな、見りゃわかるだろうが。こいつにはもう何の力も残っちゃいねぇ。アサルトの一発も使えやしねぇ奴なんざいつでも捻り潰せる、……放っておけ」
「おっ、お嬢ちゃんが訊いたわけでもないのに説明してくれたぞ」
 ハディスは明るい声でそう言いながらライエと顔を見合わせる。聞こえてるぞデカいの、と部屋を出てゆくシャールの不機嫌そうな声が届き、緊張した空気はもうすっかり緩んでいた。
 ハディスも部屋を去ってゆく。まだライエはアクセライを観たまま動けないでいた。アルスが数歩下がり、ライエの傍まで行くとその細い肩に手を置いて、外へ出るように促す。
「他人の言葉であいつは動かせない。……わかるな、」
「……そう、ですよね」
 ライエは小さく頷く。そしてアルスに護られるように部屋を出ていった。
 それにユーフォリアも続こうとする。しかし一度部屋の中を振り返って、まだ一歩も動いていないヴェイルに気付いた。促すようにユーフォリアはヴェイルの名を呼ぶ。すぐに行くよ、とヴェイルは声を返し、それを聞いたユーフォリアは後ろを気にしながらもその場を後にした。
 アクセライは膝をついたままの姿勢でいる。そのアクセライをヴェイルは瑕ついた瞳で見下ろした。
「……どうしてこんな無茶を……、君を待つ人がいるっていうのに……」
「……過ぎたことをとやかく言うのはお前の悪い癖だ。……どれだけ悔やもうと俺が生命力を注ぎ込んだことに変わりはない」
 どさりとアクセライは床に腰を下ろす。ゆっくりとした動作で、右手で額をおさえた。
「……いろいろと予定が狂った、……しかし貴様らさえ始末できれば、あとは時間がかかれど目的は達成されるはずだったのだがな……」
 掠れた声が響く。その声を耳にしながら、直視していられなくなってヴェイルはアクセライに背を向けた。
「……セラは戦ってるよ。クリスタラインから溢れ返る不死者を相手に、この世界の砦として」
 風が吹く。二人の短い髪がさらりと靡いた。
 深い闇が重く感じられる。あまりにも静かで息苦しい空気が充ちていた。この場所は世界から取り残されているといった気さえする。時間が止まってしまっているかのようだった。
「そして……、君のことを信じてる」
「…………莫迦な奴だ、」
 低い声でアクセライは苦笑する。もうその声にも力がないことが聞いているヴェイルにははっきりとわかった。
 足を進めようとしても、ヴェイルにはそれができずにいる。成すべきことがあるのはわかっていて、シアンたちが待っていることも承知していた。それでも、身体は言うことを聞いてくれない。
「……僕は君には賛同できない。シアンを瑕つけたことも赦しはしない。君を助ければ、それはシアンたちを裏切ることになる」
 言っていることが自分への言い訳のようで、ヴェイルは一度言葉を切ってかぶりを振った。背後にいるアクセライからは何の反応もない。聞いているのかどうかもわからなかった。
 振り返ってアクセライの様子を確認することもなく、ただ言葉を紡ぐことそれ自体が目的であるかのように、ヴェイルは続ける。
「でも……セラは君を信じていた。君の意見に賛同していたかどうかじゃない、アクセライという人間を信じて、大切に想っていた。だから……」
 口の中が乾いている。喉の奥が熱い。
 知らぬ間に握っていた両手の拳が震えている。
 頭の中が真っ白だった。それでも感情は言葉となり、たしかに唇から零れる。
「君が自分で選んできた道を否定しないでほしい。セラが最後まで信じてたのは、他の誰でもないんだ……」
 その言葉を吐き出してしまうと、何かの呪縛から解放されたようにヴェイルの足は前へと進んだ。もう立ち止まることも、振り返ることもない。次第に身体の震えも止んでいた。
 月の光が、そこに残ったただひとりの黒い髪に弱々しく注がれる。
 力の抜けた身体はぴくりとも動かない。けれどその唇が僅かに動き、あるひとりの名を呼んだ。