連鎖の留まるところ




 家の入り口から逆の方にある庭でハディスは煙草に火をつけた。壁に凭れ掛かって天を仰ぐ。喧騒が間近に聞こえるこの場所で、紫煙はゆっくりと空へ向かってゆく。
 空には雲が広がっている。その雲と同化させるかのように、黙ってハディスはただ煙を天に昇らせた。
「なーんかややこしいというか、えらいことになっちまったなぁ」
 まだ空を仰いだまま、隣で地面にしゃがみこんでいるユーフォリアに向かってハディスはそう呟く。ハディスを見上げることなくユーフォリアは返事をした。
「そうだよな。創造主とかマルドゥークとかティアマートとか……そんなのがすぐ傍にあるなんて夢みたいだし、……誰に言っても信じてもらえなさそうだしさ、」
「けど、俺様たちはその夢みたいなもんをバッチリ信じてる、と」
「あったり前だろ」
 はっきりとそう言いきってユーフォリアはハディスを見上げた。
 殺風景な庭に気を紛らわすものは何もない。無機質すぎるその風景はそこにいる者にあらゆることを考えさせる。
 見上げるのをやめてユーフォリアはぼんやりと前を見つめた。焦点を失ったまま、ただコンクリィトの壁の色だけをゆるく瞳に映す。
「シアンのやつ……焦ってんのかな」
 その言葉にハディスはすぐに答えなかった。肺いっぱいに煙草のフィルタから溢れる煙を吸い込む。そしてその煙を勢いよく吐き出した。
「お嬢ちゃんが自分の身体の調子をどう感じているかわからん以上、なんとも言えねぇな……」
 どこかぼやけたハディスの声を耳に、ユーフォリアは足元に落ちていたコンクリィトの破片を拾って立ち上がる。そしてそれを握る手にぎゅっと力をこめた。小さすぎる破片は手の中で不安定に転がっている。
 ふと力を抜く。直後にまた力を身体に巡らせ、目の前に無表情に立っているコンクリィトの壁に向かって、破片を力いっぱい投げつけた。
「くそっ、どうにかならねぇのかよっ!」
「おいおい、あんまりデカい声出すなよ。お嬢ちゃんもシャールも休んでるんだ。…………気持ちはわかるけどよ」
「…………莫迦だよ、あいつ……頭かたいしさ。……もっと自分大事にしろっての、」
 震えた声を発しながらユーフォリアはまたその場にしゃがみこむ。
 ポケットから携帯用の灰皿を取り出して、ハディスは短くなった煙草をその中に押し込んだ。ゆっくりとした動作でそれをポケットに片付けると、隣で小さくなっているユーフォリアを見遣る。その隣に屈むと、ハディスはその大きな手でユーフォリアの蒼い髪をぐしゃぐしゃとかき乱した。
 突然のことに、ハディスの手を押しのけながらユーフォリアは思わず声をあげる。
「何すんだよっ、」
「ガキのくせに悟ったようなこと言うんじゃねぇ、…………俺様は諦めねぇぞ」
 低く呟かれた言葉はずしりと空気を裂いた。





 完全にシステムが復旧したI.R.O.のロビィにアルスとライエはいた。昨日クルラと対峙したその場所は全然違う場所のように見える。
 少しかたいソファに二人は少し距離をあけて並んで坐っていた。アルスは左手に缶珈琲を持ち、ライエは紙コップに入ったアイスミルクティを両手で包むように持っている。
 ロビィには様々な人がいた。二人と同じように休憩している人間もいれば、慌ただしそうに駆け回っている人もいる。余程疲れているのか、ソファで眠ってしまっている人の姿もあった。そのすべての人々に共通するように、ある種の緊張感が漂っている。それは今のI.R.O.の状況を暗に示しているようだった。
「……お疲れさまでした、」
 控えめにライエが切り出す。アルスはライエの方を見遣った。
「お前も大変だっただろう」
 やさしく紡がれたその言葉にライエはかぶりを振る。やさしく蒼い瞳に見つめられているために高鳴る胸の鼓動を抑えるように、ライエは少し視線を外した。そしてミルクティを少し喉に流しこむ。
 ライエから視線を外すと、ぼんやりと正面を見つめてアルスは言う。
「シャールの言っていた通り、不死者はすぐフォルムを保てなくなった……既に現地入りしていた人間だけで対処できたそうだ」
「そうですか……、まずは一安心というところですね。データ上でもウェスレーのある部分……多分私たちが見たクリスタラインに違いないと想うのですが、そこから一時的に発されていた異様なほどの不死者を示す数値はおさまったようです」
「警察本部が研究者に問い合わせていたが、やはりあれがクリスタラインではないかという話になっていたな。もはや専門家も隠してはいられないのだろう……なぜ隠していたのかは未だにわからないが……」
 アルスは珈琲の缶に口をつける。
 ふと見遣ったロビィにかかっている時計は昼すぎを示している。どこか身体の芯がぐったりとしているのがわかった。
「昨日のこと、警察本部の人間がいろいろと訊きにきただろう、」
 少しすまなさそうな口調でそう言われ、ライエは躊躇いながら小さく頷く。
「I.R.O.のシステムを復旧させたのは私ですし……訊きにこられなくても、話す義務はあると想っていました。来られた警察本部の方がやさしい方で、随分と気を遣っていただきました」
 ロビィには警察の姿もちらほら見られる。休憩していたり走り回っていたり、その様子は様々だった。
 自分の腕章をちらりと見ながらアルスは呟く。
「すまないな。本当なら、ゆっくり休んでもらいたいところなのだが……」
「いえ、大丈夫です。警視正こそ……」
 大丈夫だ、とアルスは低く答えた。
 珈琲を一口飲んで目を閉じる。昨日のことを思い出してみるものの、それはなぜだかとても昔のことのように想えた。けれど手にはまだありありとクルラのぬくもりが残っているような気さえする。
「……莫迦な奴だな」
 気付けば呟いていたアルスの言葉に、警視正、とライエは口の中で呟いた。
 ライエの声が聞こえて、咄嗟にアルスはかぶりを振る。そして少し視線を落とした。
「後悔しても仕方ないからな。あいつはあいつなりに考えてあんなことをしたんだろう……引き止めることができていれば、などと想うのは誰のためになることでもない。アクセライを止めることが今俺にできる唯一のことなのだろう」
「……お強いんですね」
「そうでもない。……後悔しても仕方ないと口にすることで必死に自分に言い聞かせているだけだ。やるべきことをやり遂げるまで、緊張の糸が切れないように、ただそれだけを考えているにすぎない」
 いつもより少し低い声でアルスは言葉を紡ぐ。
 ぷつりと途切れてしまった会話に「すまないな、こんな話をしてしまって」とアルスはいつもの調子に戻って言う。いえ、と言いながらライエはかぶりを振った。
 少し間を置いて、消え入りそうな声をライエは発する。
「あの……、警視正はクルラさんのこと……」
 その声に反応してアルスがライエを見遣ると慌ててライエは「いえ、なんでもないです」と言う。声が小さくて本当にアルスには聞こえていなかったのだろう、アルスは怪訝そうな表情を浮かべていた。
 そのとき、前方からアルスの名を呼ぶ男性の声が聞こえてくる。二人が顔を上げると向こうからティラーが近付いてきていた。
 大股で迫るようにアルスの目の前まで近付くと、ティラーはぴたりと足を止める。
「お前なぁ、仮眠室でちゃんと寝てろって言ったろ? そんな蒼白い顔して……、倒れちまうぞ」
「俺はそんなにヤワじゃない」
「I.R.O.史上に残る英雄だぞ、お前……、って……あ、悪ぃ、デート中だったか?」
 やっとライエの存在にティラーは気付いて喋るのをやめた。ふとライエと眼があうと、ティラーとライエが同時に目を丸くする。あっ、と同時に二人の口から声が漏れた。
 ティラーが人懐っこい笑顔を浮かべる。
「さっきはお疲れさん。時間とらせちゃってごめんな」
「いえ、こちらこそ……いろいろとお気遣いいただきまして……ありがとうございます」
「なんだ、聴取に行ったのはお前だったのか」
 二人のやりとりにアルスが割って入った。そして、なるほどな、と呟く。
 やさしい気遣いをした警察、というライエの表現を思い返してみてもティラーという人間はぴったりと当てはまる。
 アルスとティラーの仲の良さそうな雰囲気をライエは微笑ましそうな瞳でみつめていた。それからふと時計を見遣る。そして少しおずおずとした動作で立ち上がった。
「あの、私そろそろ戻ります。仕事も残ってますし……」
 深々と二人に頭を下げて、ライエは足早に去ってゆく。その背中を少しきょとんとしながら見送って、ティラーは頭を掻いた。
「……あちゃー……邪魔しちまったかな、」
「べつにそんなんじゃない」
「うわっ、でた鈍感男。……かわいそうにねぇ」
 ひとりごとのように言うティラーに、何か言ったか、とアルスが問いかける。ティラーは、べつに、と返すと、アルスの手にあった缶珈琲をさらりと奪って躊躇わずにそれを飲んだ。
 慣れているのかアルスは何も言わない。そのアルスの隣にティラーはどっしりと坐った。珈琲の缶を弄びながら、片手でティラーは少し乱れた茶色い髪を整える。明るい茶髪もアルスの金髪の隣では落ち着いた色に見えた。
 しばらく二人とも何も言わない。もう一度珈琲を飲んでやっとティラーが口を開いた。
「……なんかやばいことに首つっこんでんだろ」
「そう……見えるか、」
「俺にはわかるよ、なんとなくだけど」
「……さすがだな」
「付き合い永いとわかるっつーか……、まぁなんだかんだで中学入ったときから一緒だもんな」
 そう言いながらティラーは笑う。つられるようにアルスも少し笑顔を浮かべた。
 珈琲を飲み干してしまうと、ティラーはアルスの背中を軽く叩く。
「まあ、あれだ。仕事はばっちりやってんだし、多分他の奴にはバレてないだろ。ウォルフさんだってきっと気付いてないぜ。だから止めろなんて言わねぇけど、」
「けど、……なんだ、」
「無事でいろよ。無茶しやがったら甘いもん全部没収するからな」
「それは困るな」
 真顔でアルスがそう言うと、吹き出すようにティラーは笑う。そしてアルスも今度は心からの笑顔を浮かべながら笑った。





 テレヴィではウェスレーでの騒動がおさまったというニュースが延々と流れている。それはどのチャンネルでも同じことで、そしてその内容も同じことの繰り返しだった。現地からのリポートとニューススタジオでの専門家の分析が交互に続く。騒動がおさまってからもうしばらく経っている。しかし時間は経過していても、原因解明という進展はみられなかった。
 小さな音量でつけっ放しになっているテレヴィの音声は静かなリビングでは充分に大きな響きをもっている。アナウンサーの声がはっきりと聞こえていた。
 しばらくして今度は昨日のI.R.O.の話題が放送される。原稿を読み上げるアナウンサーは、二人の遺体がI.R.O.内で発見され、その二人が犯人ではないかとみて警察が調査を進めている、と話した。
「二人……、クルラとイルブラッドか……」
 テレヴィを見ながらヴェイルが呟く。坐り慣れたリビングの椅子に座って、テーブルに肘をつきながら画面を見つめていた。
 その少し後ろでソファに浅く腰掛けているセラフィックが口を開く。
「調査したところで何もわからないと想うけどね……」
「たしかに……。クルラはその道のプロって言ってたから、そのへんは抜け目なさそうだし。……イルブラッドは?」
「彼は結局よくわからなかったな。年齢とか出身地とかも僕たちにはわからないままだよ。名前だって本名かどうか……。幼い頃にすごい暴力を受けてたって聞いたけど……、それが原因みたいで、とにかく破壊衝動でできてる人って感じだった。ただ、それ以上のことは全然知らない」
 ニュースでは二人の顔も名前も出されていない。それだけ情報が皆無であるということを、その状況は示していた。アルスもライエも二人のことについて何も話していないのだろう、もし話したとすれば名前くらいは放送されるはずである。
 一通りニュースが流れると、また後はその繰り返しになる。同じ内容のことが何度も放送されていた。得る情報がなくなったところでヴェイルは身体ごとセラフィックの方を向く。
「I.R.O.を封鎖してキーストーンで僕たちをおびき寄せ、ティアマートを覚醒させる……、アクセライはそう言ってたけど、それは本当なの?」
 ヴェイルの問いにセラフィックは少し曖昧に頷いてみせた。
「一応はね。しかもスフレに保管されてたキーストーンを奪って、キーストーンの波動を更に増大させた……シャールに来てもらわないとアクセライとしては話にならないわけだからね。だけどクルラはその作戦を最初から破ろうとしていたんだと想う……、もし作戦が成功していたら、もう誰にもアクセライを止めることなんてできなかっただろうから」
「だからイルブラッドを手にかけて、少しでも自由に動けるようにした……、」
「多分意見の齟齬もあったんだと想うよ。イルブラッドは君たちだけじゃなく、I.R.O.の人たちも殺そうとしていた……それはもちろんアクセライの意に反して、のことだけど」
「クルラはそれに賛同できなかった……、」
「……今となっては推測でしかないけど……ね」
 苦々しい表情でセラは言う。ヴェイルも小さく頷くことしかできなかった。
 テレヴィの画面はまたウェスレーからの中継に戻っている。何度も見た映像が流れていた。同じ原稿を読み続けるアナウンサーは、最初の中継のときよりもずっと落ち着いているように見える。
 しばらく間が空いて、その場の空気を気遣うようにヴェイルはセラフィックにそっと声をかけた。
「怪我はもう何ともない?」
 するとセラフィックは穏やかに首を縦に振る。その様子にヴェイルは少しほっとしたような表情を浮かべた。
「随分深い瑕だったし……レメディで瑕を治しただけだからしばらくは激しい動きはしない方がいいだろうね」
「うん……、ありがとう。いろいろ手を煩わせちゃってごめんね」
 本当に申し訳なさそうにセラフィックがそう言うと、ヴェイルはかぶりを振った。
「手を煩わせてるのはこっちの方だよ。今まで君に助けられてばかりだから……」
 ニュースは再びI.R.O.の話題に戻っている。二大ビッグニュース、というよりは、今はそれ以外に報道すべきことなどないといった様子が画面越しに伺えた。話題は限定されているものの、相変わらず進展があるわけではない。先程聞いたものと同じ原稿がまた読み上げられていた。I.R.O.の代表者が短い会見を行った様子が中継されていたが、結局は何もわからないままでいる。セラフィックの言う通り、調べてもこれ以上は何も出てこなさそうだった。
「セントリストでの先の一件のとき、制御装置を暴発させてアクセライを退かせたのって……君じゃないの?」
 ヴェイルがふと思い出したように言う。突然のことに一瞬驚きながらも、その直後にはセラフィックは首肯していた。
 寝室へと繋がっている扉をちらりと見遣ってセラフィックは口を開く。
「あのときはどうしてもアクセライとシアンを接触させたくなかったからね。……結局、クレアは目醒めちゃったけど……」
「それはそうだけど、……でもあのときクレアが覚醒していたら、被害は尋常じゃなかったと想う」
 雨の市街地をヴェイルは思い返していた。あの一件は、ただでさえ被害が大きい。イーゼルでいとも簡単に山ひとつを消してしまったほどの力が、あの建物が入り組む市街地で覚醒していたことを想像する、それだけでぞっとしなかった。
「……アクセライと敵対していない人間だからできることってあると想ったんだ」
 壊れそうに切ない声がセラフィックの唇から溢れた。過去の懐かしいものを見ているようなその瞳はとても瑕ついている。そのときのことを思い返しながら、あのときと今は違うということをずしりと感じているように見えた。
 背中を丸めてセラフィックは膝の上に肘をつく。そして両手の指を絡めた。
「……本当は、なんて言うかな……、……悔しいんだ」
 ゆっくりと紡がれた言葉は消え入りそうに果敢ない。セラ、とヴェイルが名を呟くと、セラフィックは僅かに顔をあげた。その瞳は哀しさをたたえている。
「アクセライの傍にいようって決めたのにな……、クライテリアでアクセライを悪く言う人がいても、それを否定してここまできたけど……、でも結局……行き着いた答えはその人たちと同じだなんて、」
 そこまで言ってしまうと、暗いこと言ってごめんね、とセラフィックはすぐ明るい表情に戻してみせる。それでもヴェイルは正面から見た哀しみに自らが呑まれてしまうような感覚をおぼえた。
 ついさっきまで果敢ない声を発しておきながら、今のセラフィックは明るい表情を保とうと努めている。それに促されるようにヴェイルも次第にいつもの穏やかな表情に戻っていった。そしてそれは慰めるような笑顔になる。
「最初からその結論に行き着いた人と、悩んで同じ結論を出した人とは違うよ、きっと」
「……だと、いいんだけど」
 自信がなさそうにセラフィックは微笑む。それは今までヴェイルが見たことのない珍しい表情だった。
 それから間を置いて、セラフィックは上着のポケットに手を入れる。そこから何かを取り出すとソファから立ち上がり、ヴェイルの目の前に歩み寄った。そしてヴェイルの手首を掴んで手のひらを上に向けさせると、そこにポケットから取り出したものを置く。
 ヴェイルの手のひらには小さな石が二つ、所在なさげにあった。目を瞬かせてヴェイルはセラフィックを見上げる。
「これ……もしかしてキーストーン?」
 その問いにセラフィックはゆっくりと頷いた。
「片方はイーゼルでイルブラッドが使ってたもの、そしてもう片方は僕が持っていたもの……。もう僕が持っていても仕方ないから」
「さっきアルスから連絡があって、昨日クルラが持ってたキーストーンらしいものを回収したって言ってたから……それとシャールのを合わせて、更にここに2個あるってことは合計で10個ってことか……」
「そして、残り2個のうち片方はアクセライが持ってる」
 二人の真剣な眼差しが絡まる。ヴェイルにしっかりと2つのキーストーンを握らせて、セラフィックはソファに戻った。
「残りのひとつはまだどこにあるかわからないけど……、シャールの口振りからすると、シャールはキーストーンでクリスタラインを完全に封印するつもりなんじゃないかな。最初はベルセルク解放を防ぐために集めていたのかもしれないけど」
「今はシアンに影響されてるみたいだもんね」
「……君にも、だと想うよ」
「えっ、……」
 予想もしなかった言葉にヴェイルは思わず目を丸くした。いつものような余裕のある表情でセラフィックは言う。
「君がクレアの陽の性格そのままなら、シャールは創造主への恨みを持ち続けたままでいたかもしれない。それに君はシャールに正面からぶつかっていってるじゃない、……多分それが嬉しいんだよ、シャールは」
 そうかなぁ、とヴェイルは怪訝な表情を浮かべた。セラフィックは先程とはうって変わって自信に充ちた顔をしている。
 それから、セラフィックはいたずらっぽく瞳をめぐらせた。
「まぁ、あの性格はどうにもならないけどね」
 その一言にヴェイルは思わず表情を緩める。そして溜め息まじりに、本当にね、と返した。
 二人ともが寝室の方を見遣る。シアンとシャールが休んでいるはずの家の奥はとても静かだった。これまで随分と無理を押し通してきたシアンだったが、今はさすがにおとなしく休んでいる。シャールは相変わらずのマイペースで、気付けば部屋へと戻っていた。
「二人とも……大丈夫かな、」
 沈んだトーンでヴェイルが呟く。
 セラフィックも少し表情を曇らせた。そして寝室から室内に視線を戻してから、不意に目を閉じる。
「シアンがアリィの想いの具現だっていう証拠はないけど、多分シャールと同じように意識体であることは間違いないと想う」
「僕たちと違って、意識が器としての身体に入っているってことか……」
「だから禁忌を使ったときに、残留思念という自分とは別の意識を器にそのまま取り込んでしまう。アクセライのような、人間だけど禁忌に耐えうる精神力を持つ人に比べると、禁忌による消耗が激しいんだろうね……」
 残留思念を取り込んでもなお、無表情を保ち続けていたオッドアイをヴェイルは思い出していた。そしてその痛みを解放するかのようにぎゅっとヴェイルの手を握ったシアンの様子が、つい先程のことのように頭の中で蘇る。
 あの冷たい手が、更に息吹を失ってゆくことを考える、それだけでいてもたってもいられなくなりそうだった。
 こんなことになってもきっと彼女はみんなに弱音を吐かないつもりだ、とヴェイルは想う。ひとりで苦しませるわけにはいかない、その想いだけがヴェイルの頭の中を支配していた。
「……必ず助けてみせる、」
 口の中で呟かれた声は、どこか力強いものに充ちていた。
 セラフィックの目が開かれる。そしてその瞳でヴェイルの視線を捉え、セラフィックはしっかりと力強く頷いた。





 シャールの部屋は窓から入ってくる光だけに照らされていた。殺風景で、昼間だというのに決して明るいとは言えないその寝室は、静けさをたたえている。
 壁際にあるベッドにシャールは腰かけていた。そしてその視線の先、ベッドの近くの窓際、その窓の下にシアンはいた。床に膝を抱えて坐り、その背を壁に預けている。
 外から差し込む光は強いわけではないが、お互いの表情を伺うにはなにも不都合がない。シアンもシャールも電気をつけようとはしなかった。
 一応、といった感じではあるものの、部屋には椅子が置かれている。しかしシャールがそれを勧めても、シアンはここが落ち着くからと床に座ったままでいた。そして膝を抱えたまま、そっと声を発する。
「疲れてるのに、ごめんね」
 ゆっくりと吐き出された声はどうしようもなく果敢ない。シャールは鋭いけれどアグレッシヴではない、深い紅の瞳でシアンを捉えていた。
「いや……、それよりどうしたんだ、」
「なんとなく……、ひとりで部屋にいると落ち着かなくて。ヴェイルとセラの話を邪魔するのも悪いし……、シャールも調子よくないってわかってたんだけど……」
 俺のことは気にしなくていい、とシャールは穏やかな声をかける。俯き加減でいるシアンの表情は読み取りにくいが、いつものように殆ど表情の変化がないのだろうということは予測できた。
 引っ張るようにシーツを手に取ると、シャールはベッドから立ち上がった。そしてその白いシーツを抱えてシアンの元へと歩み寄る。シアンの目の前で床に膝をつき、いくつも指輪がはめられている左手に触れた。
 ひんやりとした温度が伝わってくる。
 冷たいな、とシャールが独り言を言うと、シアンはかぶりを振った。
「もともと体温低いから、平気」
 平然とした口調でシアンはそう言うが、そんなことには構わず、シアンが言い終わらないうちにシャールはシーツをシアンの身体に被せる。そしてその上からシアンの華奢な身体を抱き締めた。
 細い腕に絡められて、シアンはシャールの名を疑問調で呼ぶ。しかし返事はなく、ただシャールの腕に力がこもるだけだった。
 シアンの耳元でシャールは低く言葉を紡ぐ。
「何考えてんだ、」
「……いろいろ、」
「アリアンロッド、……」
「私、シャールのアリアンロッドじゃない……、シャールを解放することも導くこともできない」
 ゆっくりとシアンがそう言うとシャールはシアンの髪をそっと撫でた。ヴェイルたちに対する態度とはまったく違い、目の前のその存在を愛おしく見つめている。表情だけではなく、その手つきはとてもやさしい。
「俺がお前といたいと望んだ、それだけでお前は俺のアリアンロッドだ。お前はべつに何をしなくてもいい」
 シャールはシアンの身体を名残惜しそうに解放する。そしてシアンのすぐ隣に並んで自分も床に座った。
 長い前髪の下からシーツにくるまっているシアンを見つめる。その視線の先でシアンはぽつりと言葉を吐き出した。
「自分が消えてしまうかもしれないってことは割り切ってるけど……、私の中にアリィさんを観ている人にとったら、それはやっぱり私がアリィさんを消してしまうってことになるのかな……、」
「そんなこと気にすんじゃねぇ。どうせアリィはあのとき死んでる……お前の中に過去を観て甘えてやがる奴が悪いだけだ」
 言い切った言葉を残して、その場は静まり返る。シアンもその隣にいるシャールも、その静寂を居心地の悪いものだと感じてはいない。何かが重くのしかかっているようなこの状況下で、静けさはそれをゆるやかに取り除いてゆくようだった。
 しばらくして、ゆっくりとシャールは立ち上がる。そしてシーツを身に纏ったままのシアンに背を向けた。
「こんなくだらねぇことももうすぐ終わる。……あの大莫迦野郎を止めて、すべてのキーストーンを集め、クリスタラインを封印する……そうすれば不死者はもう現れねぇ」
 シアンが見上げたその背中はどこか果敢ない。しかしそれがシャールの内面を表したものなのか、ティアマートを使ったことによる疲労の所為なのか、それはわからなかった。
 長い銀髪はしっかりと落ち着きを保っている。そのシャールの後ろ姿にシアンはいつものような抑揚のない声をかけた。
「でもアクセライからキーストーンを回収できたとしても、残りひとつのキーストーンはどこにあるのかまだわからない、」
「……問題は、それだな」
 頷きながらシャールは低く呟いた。溜め息混じりに、そして独り言のように続ける。
「しかしこれだけヴォイエント中を捜し回ってもその波動すら感じねぇとなると、考えにくいが誰かが無効化して力を失わせているか……、もしくは察知できない処にあるか……、」
 少し苛立ったようなシャールの声を耳にしながらシアンは自分の左手に連なるリングをぼうっと見つめた。シルバーの無垢な色を何とはなしに眺める。そうしているとシャールはまたゆっくりと動き、今度はベッドに戻ってそこに腰かけた。
 リングから目を離してシアンは顔をあげる。そのオッドアイをシャールの紅い瞳はすぐに捉えた。
「お前は何も感じねぇのか、アリアンロッド」
「……私も全然……。感覚で捉えられないとなると、あとは情報ってことになるし……、シャールの方が私なんかよりずっと詳しいと想う。私がヴォイエントに来てからやったことって言えば、出現した不死者の殲滅と数回の波動観測くらいだし……」
「波動観測か……。多分それはクルラが本来の自分の目的を隠すためにお前にさせた……、」
 ぷつりとそこで言葉が途切れる。シアンが首を傾げても、シャールは思考が止まってしまったかのように動かない。小さな声でシアンがその名を呼んでも、すぐには反応が返ってこなかった。
 間を置いて、やっとシャールの瞳に輝きが戻る。大丈夫、とシアンが問いかけると、シャールはシアンに真剣な眼差しを向けた。
「アリアンロッド、その波動観測の結果は今どこにある、」
「多分アルスが持ってると想うけど……、どうしたの、」
 しばらく考え込むようにシャールは黙ったままでいた。シアンもそれがわかっているため、答えを催促せずにシャールの様子を見つめている。するとようやく、自分の中でまとまった考えを吐き出すようにシャールは言葉を紡ぐことを再開した。
「クリスタラインの中にキーストーンがあるとすれば、察知できなくても不思議はねぇ。なにしろクリスタラインは不死者の圧迫感に充ちているからな」
 シャールの言葉を呑み込んで、身体を包むシーツをシアンはぎゅっと握る。オッドアイが僅かに揺れた。
「つまりは波動観測のデータの中に、キーストーンとの関連を示すものがあれば……、」
「そこにキーストーンがあると考えられる」
 深くシャールは頷く。紅い瞳は輝きを増していた。
 窓硝子越しに注がれる光がずしりと強くなる。無音が支配する小さな部屋の中で、一筋の煌めきはたしかに力強くそこに在った。