連鎖の留まるところ




 夜は雨を喚び、月は遥か彼方に姿を消す。雨音は部屋の中を静かに伝い、窓硝子を通して闇はそっと忍び寄る。
 静けさを失わない夜をセントリストの光が裂く。I.R.O.とその周囲から幾筋もの光が夜空に向かって伸びていた。地上では人々の声が混沌と渦巻いている。

「……すみません、……えっと、その、たいした怪我ではないんですが、……恢復し次第そちらへ向かうと申していますので、…………はい、ありがとうございます、」
 丁寧な口調でそう言って、ゆっくりとヴェイルは受話器を置いた。
 アルスの家のリビングにヴェイルとユーフォリアの姿がある。ユーフォリアは椅子に座って窓の外を眺めていた。
 受話器を置いたヴェイルにユーフォリアは視線を移す。
「警察本部からだろ、今の電話」
 そう言われてヴェイルは頷いた。そしてユーフォリアの坐っている方へと足を進める。テーブルに少し体重を預けながら口を開いた。
「あの爆発でアシストが解けて幽閉されていたI.R.O.の人たちは全員無事に解放、有志の人の目撃情報からアルスの功績であることは明白……、状況の説明を求められるのは当たり前だとは想うんだけどね」
「でも今のアルス見てたら、そんなことできる状態じゃないだろ。なんとかなりそうなのか?」
「うん、取り敢えずは……。怪我してるから恢復したら行くって言っておいたし……今晩中はどうにかなるんじゃないかな」
「あとはアルス次第ってことか……」
「僕たちが口を出せることじゃないからね……。もし明日になっても行けそうにないなら、なんとか次の口実でも考えるよ」
 やわらかい口調でそう言ってヴェイルは椅子に腰かける。
 外は静まることなく騒がしい。前代未聞の自体にI.R.O.も、セントリストの住民も、他の地方の人間も、すべてが混乱に包まれていた。I.R.O.の周囲には報道陣がつめかけ、それを整理する人々や提携しているスフレの警察などが入り交じっている。幽閉されていたI.R.O.の人々は体勢の立て直しのためにまだI.R.O.の中にいた。
 状況説明から何が起きたのかを解明することはもちろん必要だが、それよりも今はダウンしてしまった様々なシステムを復旧させることが先だった。ライエが一部を復旧させたとはいえ、それは微々たるものでしかない。I.R.O.を中心に成り立っているセントリストにおいて、I.R.O.のシステムダウンは普段通りの生活ができないことを意味する。多くの住宅街が停電に見舞われ、通信回線が様々な区間で途切れ、交通機関も満足に機能していなかった。
 窓の外を見遣ってユーフォリアは呟く。
「アルス……まだ外にいるのか……」
「……ひとりになりたいって言ってるから今はそっとしておこう。僕たちが何を言っても、アルスの気持ちの整理がつくかどうかだし、ね……」
 静かな声が響く。それから少し間を置いて、扉の開く音がした。
 奥の部屋からライエとハディス、そしてオーヴィッドがリビングへとやって来る。たった今坐ったばかりのヴェイルは再び立ち上がってオーヴィッドを見遣った。
「……シアンとシャールは……、」
「シアンは精神力の浪費による疲労だろう、しばらく休めば大丈夫だ。……シャールも精神力の使い過ぎなのだろうが……、どうもそれだけではないように見える」
「……どういうこと、」
「呼吸が異様に乱れているのだが、思い当たる原因もなければ他に悪いところがあるわけでもない……、あんな症状を見るのは私も初めてだ」
 オーヴィッドは少し渋い表情を浮かべている。その表情を隣からライエが覗き込んだ。
「でも本当に助かりました。オーヴィッドさんがいてくださって……、こんな状況ではお医者様に来ていただくわけにもいきませんし」
「いや、私の医学の知識などたいしたものではない。少しでも役に立てたのなら嬉しいが……」
 ライエの言葉に、あくまでも冷静にオーヴィッドは返す。
 夜は深みを増してゆき、もうすぐ日付が変わろうとしていた。外の様子は相変わらずで、雨も止む気配をみせない。リビングの空気は外の気配に押し潰されそうな気がした。
 椅子に腰かけて、ハディスが静寂を裂く。
「なぁ、アクセライの野郎が言ってたろ、……お嬢ちゃんはあと僅かの命だって。あれ……マジなのか?」
 部屋の空気がずしりと重くなる。ユーフォリアは視線を落とし、ヴェイルはちらりとハディスを見遣った。ハディスだけではなく、ライエもオーヴィッドも同じことを想っているように見える。
 小さく息を吐き出して、ヴェイルはハディスから視線を外した。再び椅子に腰かけ、テーブルの上で組んだ手をじっと見つめる。
「……本当なんだと想う。シャールも……シアン本人もそう言ってたから……」
「ヴェイル、お前知ってたのか?」
 低い声で驚きを示すハディスにヴェイルはかぶりを振った。
「ウェスレーのシップステーションでシアンとシャールが話してるのを、僕とユーフォリアがたまたま聞いちゃったんだ。二人に本当なのか訊いても否定はしなかった……、」
「ってことは、つい半日前まで知らなかったってことか」
「すぐに言えなかったんだ、僕も錯乱してたし、シアンもそれを望んでなかったから……。ユーフォリアはセントリストに戻って落ち着いたらみんなに話すって言ってたんだけど、」
「あんなことになって落ち着く暇もないうちにアクセライの野郎の口から話された、と」
 唸るようにハディスは言う。ゆっくりとヴェイルは頷いた。その隣でユーフォリアも肯定を示している。
 ライエとオーヴィッドはその瞳を曇らせていた。伏せ目がちにライエは小さな声を発する。
「でも、どうしてそんなことに……、」
「それは……」
 沈んだ声でヴェイルが呟く。そしてシアンやシャールが話していたことを重々しい口調で説明し始めた。禁忌の術がどういった術であるのかということや、シアンが黙って消えようとしていたことまでを言いにくそうに告げる。まだ認めたくないという気持ちが頭の中で巡っていた。
 ヴェイルが一通りのことを話し終える。すると、ライエたちが何かを言う前にユーフォリアがぽつりと言葉を吐き出した。
「……シャールも倒れちまっただろ、……あいつもシアンと同じ…なのかな……。禁忌使うし、それに……」
 そこでユーフォリアは言葉を切った。しかしその言葉の続きは全員の頭の中に浮かんでいる。それを代弁するようにオーヴィッドが唸った。
「……ティアマート、か……」
 黒い鳥のような姿がフラッシュバックする。それは紛れもなくマルドゥークと同じ姿をした、そして同じような尋常ではない波動を持ったものだった。そしてシャールはあのとき確かにティアマートと言葉を刻んでいる。
 奇麗にウェーブのかかった金髪に指をかけ、ライエは小さく首を傾げた。
「カシアさんやオーヴィッドさんの仰っていた……アクセライさんが求めていたティアマートというのはシャールさんの力のことだった……ということですよね、」
「そうなるな。もっとも……我々はもちろんのこと、アクセライもティアマートを持つ人間がシャールであるということを知らなかったのだろう。アクセライとシャールは旧知の仲である上に、敵対してからも何度も接触している。もし知っていれば今までに奪おうとしていただろう」
「じゃあ、セラさんの伝言は……、」
「ああ……ティアマートの在り処を知ったアクセライがシャールからその力を奪うのを阻止するため……、だろう」
 オーヴィッドの言葉に、セラ、とヴェイルは小さく呟いた。
 雨はまだ降り続いている。










 家の奥にある小さな庭のようなスペィスにアルスは佇んでいた。庭といっても何があるわけでもない。コンクリィトに囲まれた屋外の空間がある、というだけだった。ここを利用すれば立派な庭に改良することもできるのだろうが、ここにはそういったことを施された形跡はない。
 屋根のないそこには雨が休むことなく注がれている。アルスはそれを全身に浴びていた。何をするわけでもない、ただそこに立っているだけのアルスの身体は冷えている。それでもアルスはそんなことには構いもしなかった。
 睫毛を伝って水滴が眼に入る。滲んだ視界を嫌ってアルスは眼を擦った。
 爆発を思い出す。あの直後、クルラの波動ははっきりとわかるように消えた。心に穴が開いたように想える。虚無感が身体中を支配している、涙さえも出てこなかった。
 笑顔も、真剣な眼差しも、哀しそうな瞳も、すべてがはっきりと思い出される。戻ってこないそれらは胸に痛い。息ができなくなりそうな気がした。虚空のようにセントリストの騒音が聞こえる。
 突如、目の前に光が宿った。鈍いままの神経でアルスはぼんやりとそれを見つめる。焦点がようやくはっきりとそれを捉えたときには、もうその光は人の姿を形成していた。
 セラフィック、とアルスが突然現れた人物に驚きを示すのと同時に、光が消えてゆく中に佇むセラフィックも一瞬目を丸くする。しかしすぐに、こちらにいらっしゃるとは想いませんでした、と言葉を発した。
「すみません、無断で入ってきてしまって。シップはまだ動きませんし、I.R.O.周辺は厳戒態勢で他所者が入れないものですから……強引に術で移動してしまいました」
「…………仕方ないだろう。それに、べつにお前なら構わない」
 どこか力ない声でアルスはそう返す。それでもなんとか普段通りの様子を保とうとして言葉を付け加えた。
「伝言、感謝する。……お前からの連絡がなければシャールはアクセライに接触していただろう」
「……そうですか、お役に立てたみたいでよかったです。……本当はアクセライを止めるつもりだったんですが、」
 そう言うセラフィックの異変にアルスはふと気付いた。濡れた手で、同じく雨に打たれたセラフィックの両腕を掴む。そして暗くてよく見えない表情を近付いて覗き込んだ。
「一体どうしたんだ……顔色が悪い、」
 セラフィックは返事の代わりに苦笑いを浮かべる。そしてカシアに話したものと同じ説明をした。アクセライと仲を違えたことを説明しながら、それでも終始表情を強張らせることはない。
「まだ完治していなくて……、でも今はそんなことを言っていられませんから」
「お前……そんな悠長なことを言っている場合か、」
 アルスがそう言っても、セラフィックは自分のペィスを崩さない。腕を掴むアルスの手からするりと腕を抜くと、笑顔を浮かべてみせた。
「僕だけじゃない……、シアンもヴェイルもみんなも……アルスさんだって瑕ついてる。僕だけ安穏としているわけにはいきません」
 その声ははっきりとしていた。セントリストの喧騒も雨音もものともしないような、揺るぎない声は空気を美麗に裂く。お邪魔しても構いませんか、という言葉にアルスが了承を示すと、セラフィックは家の中へ向かって足を進めた。その足取りはとてもしっかりとしていて、とても青白い顔をしていたようには見えない。
 セラフィックの姿が家の中に消えてしまうと、アルスは天を仰いだ。雨粒は冷えている。それは身体に染み込んでゆく気がした。
「……こうしているわけにはいかないな……」
 クルラの声が頭の中で響く。最後に彼女がアルスに伝えた言葉は頭の中深くで留まっていた。
「…………護ってやるさ。セントリストも……、この世界もな」










 セラフィックに少し遅れてアルスもリビングに戻った。心配そうなヴェイルたちを前に平静さをみせると、部屋に戻って濡れた身体を拭いて着替える。そして再びリビングに姿を現した。
 セントリストの友人の家に遊びに行ったら事件が起きてシップが封鎖されたから帰れなくなった、とやっと自宅に連絡を入れ終えたユーフォリアは眠そうな表情を浮かべている。ライエもハディスも、口にはしないものの疲労感を滲ませていた。
 怪我をしたセラフィックをヴェイルがレメディで癒す。それでも失われた体力が恢復するわけではない。さすがのセラフィックもいつもと比べれば随分と疲れているように見えた。それぞれが身体と心を痛めた中、リビングは図らずとも静けさに包まれている。
 壁に立ったまま凭れかかっているアルスを、ソファに坐っているセラフィックが見上げた。
「……アルスさん、オーヴィッドをどうなさるつもりですか」
 少し厳しいその口調に、アルスはサイドテーブルに置きっ放しになっているI.R.O.の腕章を見遣った。オーヴィッドのしたことをここにいる誰もが知っている。アルスは腕を組んだ。
「本来なら出頭を勧めるか、逮捕するか……、するべきだろうな」
「その言い方だと、今すぐにというつもりではないようですね」
「……お前の方こそ気になる言い方だな。一体何を望んでいる、」
 そこで初めてセラフィックはオーヴィッドをちらりと見遣った。そして話を続ける。
「この一件が片付くまで、カシアの護衛を頼みたいんです」
「……私に、か?」
 セラフィックの提案にオーヴィッドはそう訊ねた。セラフィックはゆっくりと一回頷いてみせる。
 再びアルスの方に向き直ると、セラフィックは口を開いた。
「彼を見逃せと言っているわけではありません。ただ……今回の件で、かなりアクセライは気が立っています。離脱したカシアを襲うことだって充分に考えられるんです」
 その言葉に全員が息を呑んだ。ぎゅっと両手を握り締めてヴェイルは呟く。
「やっぱり、……か」
「どういうことだ、やっぱりって」
 ハディスが怪訝な表情を浮かべる。ライエも腑に落ちないといった表情で話を聞いていたが、他のメンバーはヴェイルの言葉の意味を理解しているようだった。
 ユーフォリアがヴェイルに代わって説明する。
「オッサンは精神力が特別にあるってわけじゃないからわかんねぇかもしれないけどさ、……波動が残ってんだ」
「アクセライの、か?」
「そういうこと。爆発で、クルラの波動は消えたんだ、でも……」
 そこで言葉を止めたユーフォリアに、アクセライの波動は残ってるってことか、と低くハディスは言う。ヴェイルもユーフォリアもゆっくりとそれに対して頷いた。
 重苦しい空気が流れる。それを無理矢理振り払うかのようにアルスはセラフィックに問いかけた。
「お前は彼女の傍にいないのか、」
「いてあげたいのは山々ですけどね。……でもクレアを外部から制御できる人間は僕しかいませんから」
「シアンの傍にいた方が懸命ということか。……正論だろうな」
 低くそう呟くと、今度はアルスがオーヴィッドに視線を移した。黙って話を聞いているヴェイルたちの視線も自然とそちらに集まる。
 深く蒼い瞳を揺らめかせ、アルスの視線は自分よりも背の高いオーヴィッドをしっかりと捉えていた。
「……頼めるか、」
「私でいいのか? 私が過去にしてきたことを知らないわけではないだろうに」
「セラフィックは信用しているからこそ頼んでいるんだろう。俺も信頼に値する人物だと想っている。……そういうことだ」
「……わかった。必ずやそれに応えよう。…………この件が終わったら、誰が勧めようと勧めまいと、私は法の下に裁かれるつもりだ」
 そうか、と短くアルスは返す。オーヴィッドの落ち着いた瞳には何の迷いもなかった。