こんな運命なんて僕はいらない




 キーストーンの波動を辿って中枢部から階段を下り、2階から廊下を伝って隣の棟へと移る。システムは復旧させたものの機械操作の得意なクルラからの干渉がないとは言えない限り、エレヴェータを使うのは懸命ではなかった。
 警戒を解かないまま一行はシアンとシャールの感じる波動を手がかりに進んでゆく。しばらく廊下を進んだところで銃声が響き、先を走っていたシアンとシャールは咄嗟に後ろに跳躍して身構えた。その後ろでヴェイルたちも武器に手をかける。シアンとシャールが跳躍前にいた場所には銃弾が突き刺さっていた。
 その視線の先にはもちろんクルラの姿がある。一行の姿を認めるとクルラは笑顔を浮かべた。
「遅いやん、アルちゃん。待ちくたびれたで」
 クルラの両手には銃が握られている。それはアルスのものに似たハンドガンだった。先程の射撃といいその握り方といい、クルラは銃の手練のように見える。
 目の前にいる見慣れた女性の名前をアルスは低く呟いた。そしてできるかぎりの冷静な瞳でクルラを見つめる。
「俺たちをおびき寄せて、一体何が狙いだ、」
「そんなん言えへんやろ、こっちかて仕事なんやさかい、」
 笑みを浮かべたままそう言うとクルラは威嚇するようにアルスの足元に発砲した。至近距離に撃ち込まれた弾丸にライエが身を硬くする。
 続いてハディスとユーフォリアがいる真横の壁にも銃弾が刺さった。それは流れるような見事な動きで、二人は微動だにできない。ただすぐ近くに撃ち込まれた銃弾に目を丸くすることしかできなかった。
 そのクルラにアルスは咄嗟に銃を向ける。しかしその瞳は攻撃の意志を持たず、ただ威嚇をするだけのようだった。
「波動観測を中止した後もシアンがゆく先々で狙われたのは、お前が情報を流していたから、か……」
「まぁ、そういうことやな。シアンちゃんへの接触と情報収集も依頼のうちやったから、それも仕事やったし」
「……ちょっと待って、じゃあクルラは僕たちに接触する前からアクセライの依頼を受けてたってこと?」
 ヴェイルが思わず割って入る。最初にモニタ越しに話をしたときにはシアンにもヴェイルにもクルラに対する警戒はまったくなかった。自分が最初に犯したそのミスに、ヴェイルは自分の内で何かがずしりと重々しく響くのを感じずにはいられなかった。
 その通りやで、とクルラはあっさりとヴェイルに肯定を示す。その表情は穏やかだが、相変わらず銃口はシアンたちに向けられたままでいた。
「ほんまはな、不死者をどうにかしようとしてる人間にシアンちゃんとヴェイルくんが接触してくる可能性があるからっていうことで、いろんな人に接触する予定やってん。せやから、最初に接触したアルちゃん経由でシアンちゃんに逢えたんにはびっくりしたで。偶然ってあるもんなんやなぁって」
 クルラの口調は嘘を言っているようではなかった。いつものような抑揚のあるその言い方はまっすぐに響いている。
 だからこそ、その言葉ではなくその行動にハディスは疑問を持たずにはいられなかった。
「依頼だって言ったよな。……依頼なら何でもするってのか、アクセライが何しようとしてるか知ってんだろ、」
「…………まぁ、一応な。あの人の理想の高さも計画も知ってるで。けど、……うちは依頼を受けて仕事をする、どんな汚い仕事でも。そうやって生きてきたから依頼主の考え方とか道徳とか、そういうのは関係ないねん」
「関係ないだって……!」
 思わずユーフォリアが一歩前に踏み出す。その足元に再び弾丸が撃ち込まれた。その隙にシャールが攻撃を仕掛けようとするが、もう片方の銃がそれを威嚇する。悔しそうにシャールは舌打ちをした。
 冷静にシアンがクルラを見上げる。シアンは武器を構えることもしなければ、精神集中も行っていなかった。
「理想が高いってどういうこと、」
「うーん、理想が高いっていうよりは……突飛って言うべきかもしれへんなぁ。普通の人は考えへんようなことを考えるんや、あの人は。まぁうちはあんまり賛成できんのやけどな」
「賛成できなくても仕事と感情は別だから、」
「そうそう、ようわかってるやん。シアンちゃんのそのさっぱりしたとこ、うちはすごい好きやで」
 にっこりと笑ってそう言うと、クルラは素早く懐から何かを取りだし、それを床に投げつけた。それは煙をあげ、視界を白い煙だけに支配されたシアンたちは再びクルラを見失う。煙が晴れたときにはもうクルラの姿はどこにもなかった。
 キーストーンの気配はシアンにもシャールにもまだ感じられている。クルラがこの近くにまだいることも、彼女がキーストーンを所持していることも間違いなさそうだった。
 クルラが消えたその空間を見つめてオーヴィッドは低く唸る。
「どういうつもりだ……、我々を誘っているようだが……」
「誘ってようがそうじゃなかろうが関係ねぇ。キーストーンを持ってるかぎり放っておくわけにはいかねぇ、それだけだ」
 あっさりとシャールはそう切り捨てた。そしてそのまま銀髪を靡かせて廊下に足音を響かせはじめる。その背中を見ながらアルスは銃をサイドに仕舞った。理由は違えど、放っておくわけにはいかないのはアルスも同じで、ここで退くわけにはいかない。それでも、まだ迷いがないわけではなかった。
 張りつめた表情のアルスをそっとライエは覗き込む。
「あの……、……ご無理なさらないでくださいね」
「……すまないな、気を遣わせてしまって」
「いえ、……。私も、クルラさんのこと信じていますから」
「その言葉、あいつに聞かせてやらないとな」
 やさしい口調でそう言うと、アルスはシャールを追って足を進めた。ライエも、そして少し遅れてシアンたちもその後を追う。
 クルラと遭遇した瞬間に攻撃を仕掛けそうなシャールを警戒して、アルスはできるだけシャールから距離をおかずにシャールの行く先を捉えていた。
 下のフロアへと移動し、この棟のロビィに到着したところで一行は再びクルラの姿を発見する。誰もいないロビィはただ広く、その中でひとり柱に背を預けているクルラの姿はしっかりとしたシルエットとなって浮かんでいた。
 クルラは両手にある銃を弄ぶ。そして先程と同じように笑顔を浮かべた。
「よかった。今度はちゃんとすぐに追いかけてきてくれたんやな」
 そう言いながら柱から身体を離すクルラに向かってシャールは数本のナイフを投げつけた。しかしそれを予め予測していたかのように、クルラは銃でいとも簡単にそれを撃ち落とす。
「そう焦らんといて。キーストーン持ってることは持ってるけど、追いかけてきてもらおうと想て持ってるだけやし……べつにうちは要らんねん。こんなおそろしいもんと融合しようとも想わへんし。用事が済んだらあげるさかい」
「そんな言い分が信用できると想ってんのか」
「信用してもらわんでも構へん。結果的にわかることなんやし」
 シャールの鋭い口調にもクルラはまったく自分のペースを崩さない。
 同じようにマイペースを保つシアンが小さく首を傾げた。
「さっきから私たちを本当に攻撃しようとしてるみたいには見えないけど……、私たちをどうこうするっていうのとは違う思惑があって、それが済んだらキーストーンは要らない、そう考えていいのかな、」
「まぁ、そういうことやね。あ、でも威嚇とか防御とかはするで? 慈善事業やってんのと違うんやし」
 二人のやりとりは今までクルラが正体をあらわしていなかったときと同じような雰囲気を持っている。互いがペースを持ち、冷静にそれに従っていた。クルラは笑顔を崩さず、シアンは淡々としている。それはヴェイルたちにとって羨ましいほどに自然体だった。
 クルラにアルスは右手に握った銃を向ける。その銃口をじっと見つめるものの、クルラは何も言わない。アルスはゆっくりと口を開いた。
「……それで、お前の目的は何だ。俺もみすみすお前に利用されるような真似はしたくない」
 厳しくそう告げたアルスにクルラはすぐには返事をしなかった。少し間を置くと、銃を構えることもなくひとつ息をつく。
「…………やめとき。アルちゃんは人に銃口向けるんは向いてへん。……それにうちが仮にアルちゃんたちを殺すことが目的やって言うても、アルちゃんはうちを撃てへんよ」
「…………、」
「アルちゃんはやさしいからなぁ。うちみたいに小さい頃から殺し屋になるべく育てられた人間にはな、わかんねん。人を殺せる人と、そうじゃない人が」
 さらりとそう言いきってしまうクルラにユーフォリアは思わず声をあげた。
「小さい頃から……そうなるように育てられたって、……」
 ひとつの流れとなって成立しないその言葉はバラバラになり、震えている。信じられないとでもいうようにユーフォリアの瞳は揺れていた。
 そうやで、とクルラは明るい声で肯定を示す。
「ウェスレーの生まれやからな、うちは。生まれたときにはもう中心都市は廃墟やったし、みんな生きていくのに精一杯や。他の地方に出ようにも物価が違いすぎる。せやから金になることやったら何でもする……、それがウェスレーの考え方や」
「それが人殺しだったとしても、か?」
 怒りのこもった声でハディスはそう訊ねた。するとクルラは突然笑いだす。その反応にハディスは面食らった表情を浮かべた。
 何が可笑しいんだよ、と言い返してもクルラはしばらく笑ったままでいる。それでもさすがというべきか、いつでも戦闘体勢に入れるようになっていた。そしてしばらくしてから妖艶な瞳でハディスを見上げる。
「そんなこと言われるとは想ってへんかったなぁ。あんたらも不死者殺してるやんか。……うちのやってきたことを正当化するつもりはないけど、あんたらの手が汚れてへんなんて言わせへんで?」
「……まぁ、正論だな」
 あっさりとシャールはクルラの発言を認めた。
 不死者を殺している、というその言葉にヴェイルたちは苦々しい表情を浮かべる。たしかに不死者を瑕つけてきたということに間違いはない。しかしただそれで終わりではなく、ヴェイルたちに更に追い打ちをかける言葉がシャールの口から紡がれた。
「不死者も人と同じだ、だから俺たちも人殺しに違いはねぇと、そういうことだろう。……禁忌は特殊だが、それ以外は殺しているという表現そのままだからな」
「……不死者が……人……」
 ぼんやりとヴェイルはそう呟く。アルスの銃を握る手に力がこもった。
「不死者は残留思念の具現ではなかったのか、」
 その言葉にクルラは小さく頷く。そしてアルスに視線を移すと今までアルスに接してきたのと同じようなやさしい眼差しを向けた。
「それはほんまのことや。そやけど、それだけやったら人の形してたり鳥の形してたりすることに意味がないやろ? 残留思念は輪廻に戻れへん思念っていうのはその通りやけど、ただぼんやり具現してるんとは違う。ひとつの生命として具現してるんや。せやから人の形した不死者は人と身体の構造が違うだけでしかない……人を襲うっていう生物的欲求みたいなんはもちろんあるけど、ちゃんと個々に意志もあれば痛みも感じる」
「……人の形をしているのは人の残留思念、鳥の形をしているのは鳥の、……残留思念はこの世に怨嗟があるから、だからフォルムだけでもなんとか形成して現世に生きる生命を襲う、……それはひとつの生命で、個々の思念を持ってる、……」
 考えがまとまらないまま、情報を整理するかのようにシアンは言葉を途切れ途切れに呟く。しかしそれは片鱗のようでありながら、すべてをひとつのラインとしてつなぐものだった。
 そういうことだ、とシャールはシアンの発言をすぐに認める。クルラも異論があるようには見えなかった。
 反射的にハディスがシャールの胸ぐらを思いきり掴む。
「テメェ、知ってやがったのか!」
「知っていて何が悪い」
「わかってて不死者を殺してたんだろうがっ、」
「知ってようがそうじゃなかろうが関係ねぇだろ。だいたい人殺しになるからなんて理由で不死者を始末できねぇなら、とっくの昔にこっちが殺されてんだろうが」
 鬱陶しそうな表情でそう言うと、シャールは力任せにハディスの手を払いのけた。細い腕ではあるものの容赦ないその力にハディスは一瞬よろめく。その身体を同じ想いで腹の内がおさまらないユーフォリアが支えた。
 仲間割れかいな、とクルラが挑発的に笑う。その言葉はハディスやユーフォリアを更に煽るのには充分だった。しかしその二人を制するようにオーヴィッドは二人とクルラの間に立ち塞がる。そして珍しく鋭い眼光を放った。
「……アクセライはお前に何を依頼した、まさか不死者が本来どういうものであるのか話せというミッションではないだろう」
「そりゃまぁ、そうやな。……基本的にはあの人の目的遂行のために邪魔者を排除する、……ひとことで言えばそんな感じや。もちろん詳しいことは企業秘密やし言えへんけど」
「……裏切った私を排除せよという命令は下っていないのか、」
「それは聞いてへんなぁ。たいした情報握ってるわけちゃうから捨て置けとは言われたけど……」
 軽い口調でクルラはそう返す。事実、クルラはオーヴィッドに銃を向けていなかった。本当に排除するよう命令があったのなら、それを実行する隙などいくらでもある。
 両手を口元にあてて、ライエが声を震わせた。
「……それじゃあ、邪魔者っていうのは……」
 その瞳には恐怖が入り交じっていた。オーヴィッドが排除されるべき対象でないのならば、当然その他に排除されるべき人間がいるということになる。反射的にヴェイルたちも身構えた。
 クルラは攻撃する気配をみせない。銃は握ったままでいるが、殺気というものがまるでなかった。
「理想がな、……真逆なんや」
「真逆……、」
 アルスが鸚鵡返しに訊ねる。クルラの声は先程よりも少し真剣味を帯び、張りつめているように聞こえた。
 そうや、とクルラは呟く。そしてシアンのオッドアイを見つめ、少し哀愁のこもった表情を浮かべた。それから再びアルスを見遣る。
「アルちゃんたちの目的は不死者を殲滅すること……相容れへん人間と不死者っていう両存在のうち、人間を選んでるっていうことや。アクセライはその反対を望んでる、」
「……人間を殲滅して不死者を選ぶ、……まさか、そんな……」
「言ったやろ? 突飛やって。……不死者が不死者を選ぶんやなくて、人間が不死者を選ぶんやから」
 呆れたようにクルラは言う。その言葉にアルスだけではなく、シアンたちも反応の差はあれど驚きを隠せなかった。さらりと告げられた言葉は当たり前のように響き、しかしその内容は解する者の頭の中で衝撃的に響く。
 驚きをすぐに覆い隠してシアンはクルラを見上げた。
「邪魔者っていうのは不死者ではなく人間を選ぼうとする人たち……、つまりは私たちっていうこと、」
 簡単に言ってしまえばそういうことや、とクルラは頷く。そのクルラにシアンは首を傾げた。
「でも今までそうしようと想えばいくらでもチャンスはあったと想うけど」
「それはまぁ、こっちの都合みたいなもんや。だいたいうちは自分の意志でやってんのとちゃうし、アクセライが待て言うたら待ってて、やれ言うたらやる……、それだけのことや、」
 そう言い終えるか終えないかのうちにクルラは再び爆弾のようなものを床に投げ付けて煙幕を発生させる。そしてまたその煙に視界を奪われている間に姿を消してしまった。
 しかし今度はクルラをすぐに追いかけようとする気力は一向にはなかった。ただシャールだけが平気そうな顔をしている。そのシャールは抜け殻のように表情を失ったヴェイルたちを無視してキーストーンの波動を感じる方へと足を進めようとした。
 そのとき突然、シアンの身体は力を失ってがくりと床に膝をつく。はっとしてシャールは足を止め、その身体を支えた。ヴェイルたちにも僅かに顔色が戻る。しかしその頭の中はまだ混沌としていた。
 ぎゅっと目を閉じたまま苦しそうにしているシアンの身体をシャールはしっかりと支える。そして小さく舌打ちした。
「……キーストーンに長時間接触しすぎたか……」
「大丈夫……、この感覚にも、すぐ……慣れると想う」
「莫迦言うんじゃねぇ、精神力の浪費が激しくてもう限界だろうが」
「まだいけるよ、それに……」
 身体を支えられたまま、シアンはそっと目を開けてヴェイルやアルスたちを見遣った。複雑な表情がそれぞれに浮かび、それは苦悩と錯乱に満ちているように見える。
「私が、行かないと……」
 戦力にはまるでなりそうにない面々を見てシアンはそう呟く。その口調は決してヴェイルたちを責めるようなものではなく、それがさも当たり前のような、瑕ついた周囲の心をやさしく包むようなものだった。
 少し間を置いて、シャールは深く息を吐き出す。そして小さくかぶりを振ると、シアンの身体をゆっくりと立たせて柱まで移動させ、そこに凭れるように坐らせた。
「……くだらねぇ、どいつもこいつも……」
 吐き捨てるようなシャールのその言葉に、ユーフォリアが不快感を露にした。つかつかとシャールに歩み寄ると、自分より背が高いシャールの紅い瞳を思いきり睨みつける。
「お前は平気なのかよ……不死者を殺して、それで平気だって言うのかよ!」
「そんなところに情なんか必要ねぇだろうが。甘ったれやがって」
「なっ……」
「じゃあテメェは不死者を選ぶってのか、あの男みたいに。だったらそこらの人間を片っ端から殺してこい。……まさか、共存なんて莫迦みたいなこと考えてやがんじゃねぇだろうな」
「……それは……、」
 ユーフォリアは声のトーンを落とした。強気だった瞳が覇気を失い、瞼の下へと眠る。
 シャールの言うことが間違っているとは誰も想わなかった。だからこそ余計に、どうするべきかわからないという現状がもどかしい。
 不意にぽつりとヴェイルが言った。
「……クレアは……このことを知っていたのかな。不死者がそういう存在だって……」
 創造主様が、とライエは呟き、知るか、とシャールは興味がなさそうに溜め息をつく。ヴェイルがシアンを見遣ると、シアンはかぶりを振った。
「知っていたかどうかなんて……もう関係ない」
 静かに発された言葉は滑らかに空気を裂いた。躊躇いのない声がよどみなく響く。
「私がヴォイエントに来たのはクレアの意志かもしれない。でも……私が今ここにこうしているのはクレアの意志じゃない。ヴォイエントに来て、私が不死者の繁栄する世界を選ぶことだってできた。でも私はそうしなかった……、ただそれだけ」
 何か僅かにでも物音がすればかき消されてしまいそうな声は、異様なほどに重みをもっていた。オッドアイは表情を隠している。
 ぎりぎりと胸が締め付けられるような痛みを憶えて、ヴェイルは下唇を噛んだ。当たり前のことを忘れていた、それを思い出したような気がする。そして、思い出す契機となった言葉を放ったその人は、また瑕ついたように見えてならなかった。
 シアンは平然と、そしてゆっくりと続ける。
「これ以上不死者を手にかけたくないなら、みんな無理はしないで。もしそう決断しても私は責めないし、この先のことは私ひとりでもやるから。無理して心を瑕つけて、やりたくないことをやって、また瑕ついて……、そんなのは、哀しすぎる」
 そう言うとシアンはそっと柱に手をついて立ち上がった。しかしすぐに非道い目眩がする。バランスを失った身体は柱とは逆の方向に傾き、慌ててアルスが駆け寄ってそれを支えた。
 その身体は異様に冷たい。シアンの身体を支えた瞬間、アルスはぞくりとした。ともすれば壊れてしまいそうな、脆い硝子のように砕け散ってしまいそうな、そんな気がする。
「……お前だって瑕つかないわけじゃないだろう、」
 果敢ないその姿を見ていると、アルスはそう言わずにはいられなかった。事実、一番彼女が瑕ついているようにも見える。もしシアンが感情を表現する術を持っていたならこんなに平然とした顔をしてはいられないだろうと考えると、胸の奥がずしりと痛かった。
 アルスの腕を掴んでなんとか床に自分の力で立つと、シアンはアルスの蒼い瞳を見つめる。そして迷いも躊躇いもなく、穏やかな声で答えた。
「それはそうかもしれない。でもそれは厭なことをしながら瑕だけを負うわけじゃない。……瑕つくために行動するんじゃなくて、自分が決めたことをする中でいろんなことがあって、ときに瑕ついたり、ときに癒されたりするんだよ」
「……だからそんなに平然としていられるのか、」
「いろんな立場の人が世界にはたくさんいて、それぞれが正しいと想うことをする、それと同じこと。……それに、たくさんの存在を奪っておきながら今更やっぱりやめるなんて、私は言いたくない。ここで逃げてしまったら後悔すると想うし……、もっと瑕つくと想う」
「今、お前が正しいと想うことは、選んだ道を貫き通すこと……か」
「それは本当はすごく間違ったことなのかもしれない。でも自分の決めたこととか、してきたこととかに対して責任も持ちたいし。……自己満足かもしれないけど」
 そこまで言ってから、あくまで私の考え方だからあんまり気にしてくれなくていいけど、とシアンはさらりと付け加えた。
 シアンのすぐ傍にいることでシャールの不満そうな視線を浴びながら、アルスはひとりで何か納得を示すように小さく頷く。そしてはっきりとした、少し重い声を響かせた。
「ここで逃げたら後悔する……、それはきっと俺も同じだな」
 そしてふわりと目を閉じる。瞼の裏にはありとあらゆるものが見える気がした。倒してきた不死者も、命を失った人間も、記憶にはしっかりと残っている。
「ただむやみに不死者を倒すわけじゃない。これ以上の不死者を生まないために、すべての人が輪廻に戻れるように……、だいたい俺は不死者から人間を護るために警察になった時点で、自分の選ぶ道を決めていたんだ。今更……迷うことなどないはずだったのにな」
 穏やかな表情で目を開けると、もうしっかりと自分の足で立っているシアンから手を離した。ありがとう、と微笑めばシアンは首を傾げる。まるで自分は何の発言もしていないかのような相変わらずのその反応に、アルスは小さく笑った。
 僕も、と少し遠慮がちにヴェイルが切りだす。
「義務としてヴォイエントに来たんだろうとは想う。でも、今はそうじゃない。……もしかしたら僕のやりたいことはあの事故への贖罪なのかもしれない、儀式は失敗したけど、ヴォイエントの人々を救うことまで諦めたくはない……って。それでも、ここでやめるわけにはいかないっていうことには変わりないんだ」
 自分に言い聞かせるように、ひとつずつの言葉をヴェイルは大切に刻む。そのヴェイルの背中をハディスが軽く叩いた。
「それじゃあ俺様も退くわけにはいかねぇな。あー坊たちに仲間に加えてくれって言ったんだ、三人とも決心してんのに俺様ひとりが逃げてちゃ男がすたるぜ。そんな情けねぇことしてたらカメリアに怒られちまう」
「……ハディス……、」
「イーゼルにこれ以上被害が及ぶなんてのもごめんだからな。俺様にも護りてぇもんがあるからよ」
 にっこりとハディスは微笑んでみせる。先程までの青ざめた表情ではなく、いつもの明るいハディスへと戻っていた。
 明るくなりつつある雰囲気にヴェイルが安堵の表情を浮かべていると、いつもの調子に戻ったハディスは早速ユーフォリアの頭を小突く。そして少し意地悪そうな口調で言った。
「おいガキ、帰ってもいいんだぞ?」
「誰が帰るかよっ!」
 噛み付くようにユーフォリアは反論する。少し前まで困惑を露にしながらシャールに食って掛かっていたのが嘘のようだった。
「不死者がいるかぎり禁忌を使う奴がいる、だったら不死者をどうにかしないわけにはいかないだろ。もう……禁忌に失敗した人を見るのも、その人に殺される人を見るのも厭だからな」
「生意気言いやがって。……まぁ、俺様はそういうの嫌いじゃねぇがな」
「オッサンこそ無駄に意気込んでるくせに」
「無駄とはなんだ、無駄とは」
 ユーフォリアに同じレヴェルで言い返すハディスに、ヴェイルは笑顔を浮かべ、アルスはやれやれと溜め息をつく。見慣れた光景がそこにはあった。そしてそれはみるみるうちに張りつめた空気を緩めてゆく。
 そのやりとりに小さく笑ってから、ライエはシアンを見遣った。
「私には戦う力なんてないけれど……、少しでもシアンさんやみなさんの力になりたいっていう気持ちは変わりません」
「不死者の真実を知っても……、ですか」
「それでもシアンさんは決意を変えないんでしょう? ……私もそれと同じことよ。シアンさんがいなければ、私はまだ自分の過去を詛ったまま逃げていたと想うの……、それに、姉に逢うこともできなかった」
 姉という言葉を口にしながらライエは少し目を伏せた。それから捕われそうになる想いを振り払うように再び笑顔に戻る。
「何が正しいのかわからないのなら、私が本当に信じたいと想う人を信じたいのよ」
 滑らかな口調でまっすぐにそう言われて、シアンは曖昧に頷きながら視線を外した。まっすぐに笑顔を向けられるとどうしていいのかわからない、そんなシアンの反応にもライエはもう慣れている。いつもと同じその反応にライエは微笑みを崩さなかった。
 ここまでの話を黙って聞いていたオーヴィッドにヴェイルは視線を向ける。その姿はもう何の迷いもないように見えた。
 返ってくる答えがなんとなくわかってはいるものの、ヴェイルは口を開く。
「オーヴィッドはどうするの?」
「私を救ってくれたこの少女の理想に私は賛同している。……アクセライの理想にも関与した上で、やはり私はこちら側の考えを支持したい。……罪滅ぼしのつもりなのかもしれんが、な」
 落ち着いたその返答にヴェイルは小さく頷いた。罪滅ぼしという言葉はずしりとヴェイルの胸の内に響く。罪滅ぼしという言葉が発されたその理由は違ったとしても、まったく違うものを抱えているようにも想えなかった。
 そこに、シャールの大きなため息が聞こえる。ヴェイルがそちらを見遣るとシャールは眉間に皺を寄せていた。
「結局全員ついて来やがんのか、……ったく……」
 足音を響かせてシャールは足を進めはじめる。そしてしばらくロビィを移動したところで足を止めた。
「何やってんだ、さっさと来やがれ。あの女を追うんじゃねぇのか」
 振り返ることなく発されたその言葉に、全員が顔を見合わせた。
 なんだかんだで悪い奴じゃないんだよね、とヴェイルが呟き、性格にはかなり問題あるけどな、とハディスが付け加える。アルスとユーフォリアがそれに同意を示し、これ以上急かされないうちにと一行はシャールを追った。