躯と心が引き裂かれる日




「……でさ、ここは一体どこなんだ?」
「どこでもいいじゃねぇか。亜空間だとか無法空間だとかでもう人心地もなかったからな、地上ならどこでも構わねぇよ、」
「そんなこと言ったってさぁ、オッサン、ここがどこかわかんねぇ限り帰れねぇっての!」
 ユーフォリアとハディスが相変わらずの調子で話をかわす。
 話が一段落すると自然と疲労の色が全員に滲みはじめ、その場で小休止することになった。シアンは階段に坐りながらその手すりに身体を預け、うとうとと眠そうにしている。シャールも口数が少ない。二人の様子を見ていると無法空間と亜空間を一度に破壊するという芸当には相当な精神力を必要とするということが誰にでもわかった。
 ユーフォリアとハディスのやりとりを聞いていたライエがポケットから小さな機械を取り出す。そしてそのスイッチを入れた。
「ここがどこなのか検索してみますね。……あ、電波状況があまりよくないみたいなので少し移動してきます」
「何があるかわからないんだし、ひとりじゃ危険だよ。僕も行こうか、」
 そう言いながら坐っていたヴェイルは腰を上げた。するとライエは心配そうな表情を浮かべる。
「でも……疲れてないの? さっきは怪我してたんじゃ……」
「大丈夫だよ。瑕はもう治したしね」
「……じゃあ、お願いするわ」
 ヴェイルのやわらかい口調につられるようにライエも穏やかな表情になる。そして二人はゆっくりと足を進めて行った。
 二人の姿が遠くなってからオーヴィッドは呟く。
「あの少年は人の心を慰めるのが巧いのだな」
 当然、その少年という言葉がヴェイルを指していることは誰にでもわかる。今ライエをひとりにしてしまっては整理のつかない感情に彼女自身が押し潰されてしまうかもしれない。それを案じてヴェイルは一緒に行くと言いだしたのだろう、事実ここがどこかはわからないが不死者の気配もその他の殺気もなく、危険要素は微塵にも感じられない。
 そうだな、とアルスは頷いた。そういえばライエと初めて逢ったときにもヴェイルが巧く彼女を励ましていたことをアルスは思い出す。もしあのときヴェイルがいなければ、ライエとはそれ以上関わることもなかったかもしれない。
 そんなことを思い返していると隣からハディスの声がした。
「でもな、あー坊。ライエちゃん本人も言ってたが、今はまだ実感があんまりねぇのかもしれねぇ。その分あとから皺寄せがくるってことも充分考えられる。気をつけてやれよ」
「ああ、わかっている。それにこちらからは何も訊かないつもりだ。彼女が話したいと想えば話してくれればいいし、厭なら問いつめるつもりはない」
「それがいいだろうな」
 深い呼吸をひとつしながらハディスは腕を組む。それから今度はシアンを見遣った。アルスもそれにあわせて視線を移す。
 まだシアンは手すりに寄りかかったままでいた。どこかぼうっとしているのはいつものことなのだが、普段以上に覇気がない気がする。そのシアンの前にアルスは歩み寄って、視線を合わせるためにその場に屈み込んだ。
「大丈夫か、」
 オッドアイはしばらくの間ぼんやりとアルスを見つめている。間を置いてからやっとシアンは口を開いた。
「うん、……少し眠いだけ」
 本当に眠そうな声でシアンはそう返す。それでもすぐにシャールの方へと視線を移動させると小さく首を傾げた。
「シャールは大丈夫なの、」
「……お前よりは、な」
「でもさ、なんか口数少なくねぇか?」
 途中でユーフォリアが割って入る。するとシャールは不機嫌そうに鋭い目でユーフォリアを睨みつけた。
「黙れクソガキ。まだテメェを消し炭にするくらいの余力はある、灰にされてぇのか」
「それだけ言えるならいつも通りのお前だな。シアン、心配しなくてもあいつは大丈夫そうだ」
 さらりとアルスはそう言う。試されたような扱いにシャールは、ふざけんじゃねぇ、と返した。しかしそれはハディスやユーフォリアの楽しそうな表情を煽るだけでしかない。
 言い返す気力も失せ、シャールは機嫌の悪さを露にして背を向けた。そしてぶっきらぼうに言い放つ。
「くだらねぇことばっかり言ってねぇでアリアンロッドに礼のひとつでも述べたらどうだ」
「あれは……、シャールが助けてくれたから」
 反射的にシアンはかぶりを振った。
「クレアがやったのを思い出して真似しただけ……巧くいくとは想ってなかったし、実際シャールがいなかったら無理だったと想う」
 抑揚のない声は眠気を振り払おうとしている。その声に惹かれるようにシャールは上半身だけでそちらを振り返った。
 オッドアイを視線が合う。すべてを赦すような深みのある輝きがそこにはあった。赤と蒼は均等に視界を統べ、疲労と瑕をその奥に潜めている。
 途端、何かがフラッシュバックする。シャールの頭の奥で悲鳴があがる。呻くような短い声をあげながらシャールは両手で頭を抑えてその場に崩れ落ちた。
 驚いてアルスはシャールに駆け寄る。少し遅れてシアンも腰を上げた。
 どうした、とアルスが問いかける。長い前髪で表情を隠したシャールからは何の反応もない。そっとシャールの肩にアルスが手をかけると、シャールは乱暴にその手を払った。その反応にも慣れてしまっているのか、アルスは驚きをみせずにいる。
 アルスの後ろからシアンはシャールに声をかけた。
「ごめんね、シャール。私の代わりに禁忌使ってもらったり、召喚手伝ってもらったりしたから……」
「……いや……、そうじゃない、大丈夫だ」
「でも……せめてヴェイルとライエさんが戻ってくるまで休んでた方がいいよ」
 シアンに促すようにそう言われて、シャールは小さく頷くとその場に腰を下ろした。そして、お前が気に病むことじゃない、と穏やかな声で言う。
 それを聞いてハディスは思わず溜め息をついた。
「まったく……毎度のことだがお嬢ちゃんの言うことなら簡単に聞きやがる」
「うるせぇよ能無し。テメェらとアリアンロッドを一緒にすんじゃねぇ」
 はいはい、わかったよ、ともう一度ハディスは溜め息をつく。シャールはそれ以上罵声を浴びせてはこなかった。
 シャールの様子をしばらく見ていたシアンはまたふらふらと階段へと戻る。そして手すりに身体を預けてぼんやりと眠そうな表情を浮かべた。
 すっかり静かになってしまった中、ハディスとユーフォリアだけが他愛ない話をしたり茶々を入れ合ったりしている。相変わらずのその様子も、疲労感漂うこの場においては重要な明るい要素だった。二人のやりとりを聞きながらアルスはヴェイルとライエのいる方を見遣る。するとその二人はやがてこちらへと戻ってきた。
「お待たせしました、ここが現在地です」
 そう言いながらライエはアルスに機械を差し出す。アルスが機械を受け取ってその小さな画面を見ると、そこには付近の詳細図と、縮尺の大きな地図が表示されていた。
「セントリストとウェスレーの境目あたりか……、一応セントリストではあるな」
「なんとか帰ってこれたってことか」
 ユーフォリアが安堵の表情を浮かべる。ヴェイルは小さく頷いた。
「少し歩けば交通手段もあるみたいだよ。さっきのでウェスレーの亜空間を一部壊しちゃったからもしかしたら騒ぎが起きてシップは封鎖されてるかもしれないけど、他の交通手段まで止まってるってことはないだろうから……」
 その説明を聞きながらシアンは腰をあげた。シャールも不機嫌な表情のままではあるが、ゆっくりと立ち上がる。いつまでもここにいてもどうしようもない。
 ただユーフォリアについてウェスレーに行くはずだったが、随分と色々なことが起こってしまった。ゆっくりとアルスたちが足を進めはじめる中、今日起きたことをふと思い出してヴェイルとユーフォリアは足を止めた。忘れていたわけではない。色々なことが起こる中、無意識に頭の片隅に押しやっていたのだろう。ウェスレーのシップステーションの外でかわされた会話が二人の頭の中に蘇る。
 二人が立ち止まっていることに気付き、殿を歩いていたシアンは足を止めて振り返ると、どうしたの、と小さな声で問いかけた。アルスたちは先へと足を進めている。
 シアンと目が合ってヴェイルは言葉に詰まった。そのかわりにユーフォリアが声を抑えて言う。
「……シアン、身体は大丈夫なのか? その、マルドゥーク使ってたじゃん、あれって身体に負担にならないのか?」
「ちょっと眠くなったけど、平気。心配しなくていいよ。……多分寝たら恢復するから。それより今はシャールの方が心配だし」
 相変わらずシアンは平然としている。
 そしてさらりとそう返してしまうと二人に背を向けて足を進めようとした。その右手をユーフォリアが掴む。
「なぁ、禁忌を使うからそうなっちまったんだろ? じゃあ他に方法捜してさ、お前が禁忌使わずに済むようにしたら大丈夫なんじゃないか、」
 真剣な瞳でユーフォリアはシアンを見つめる。その視線の先でシアンはゆっくりと首を横に振った。
「……禁忌を使わなかったとしても、駄目だと想う。なんとなく……身体がすり減るような感じがわかるから。多分、ヴォイエントに来てからまったく禁忌を使わなかったとしても、いつかはこうなったんじゃないかって想う。私の中にいるクレアが暗に知らせてるのかもしれないし、そうじゃないかもしれないけど……、いろいろ考えてくれたのに、ごめんね」
 ゆっくりとした口調でそう言われて、ユーフォリアは視線を落とした。シアンの右手を掴んでいた手が力を失って離れる。
 無表情のオッドアイをヴェイルはそっと覗き込んだ。
「……みんなには、言わないつもり?」
「多分、……本当は、誰にも言わないつもりだったんだけど」
「誰にも言わないでどうするつもりだったの? 世界が平和になって、君が突然消えて、それでいいと想ってたの?」
 詰まっていた言葉が溢れ出すようにヴェイルは滔々とそう言った。心なしか声が震えている。その視線はオッドアイを解放せず、ただじっと見つめていた。
 少しだけシアンは視線を落とす。それはヴェイルから逃げるような行為ではなく、次に発する言葉を慎重に選ぶようだった。少し間を置いて、そのまま口を開く。
「するべきことが終わったら、私はクライテリアに戻らないといけないから……クレアがずっとこのままでいるわけにもいかないし。だから、」
「クライテリアに戻って消えるつもりだったってこと? そんなことしたってヴォイエントのみんなには隠せてもシャールやセラには……、僕にも、わかることだよ」
「…………私、結局誰なのかわからないから。クレアを意識だけの存在に戻したときに消えれば、そういう役目として創造主に創られた人間だったんだって、それで終わると想って」
「オレはそんなの認めないからな!」
 思わずユーフォリアが声をあげた。
「お前が止めたって、セントリストに戻ってライエが落ち着いたらオレが皆に話す。みんなを助けておいて自分ひとりが犠牲になろうなんて、……絶対認めないからな」
 少し低い声でユーフォリアはきっぱりとそう言うとシアンから視線を外した。何の感情も示さないオッドアイを見つめていては、強気な態度を維持できないような気がする。その瞳は自分の置かれている状況や今後のことに対して不安があるのか、それとも諦めてしまっているのか、それすらもまったく読み取らせてはくれない。
 ゆっくりとユーフォリアはシアンの隣を通り過ぎ、そしてアルスたち早足で追いはじめた。その背中は言葉にならない何かもどかしいものを抱えているように見える。
 その背中をぼんやりと見つめていたシアンに、ヴェイルは震えた声で「ごめん」とやっとのことで吐き出した。何が、とシアンは首を傾げる。数秒の沈黙の後にヴェイルは改めて口を開く。
「謝って済む問題じゃないってわかってるけど……、禁忌を今まで何度も使わせてしまったから……」
「それはヴェイルの所為じゃない。私が自分の意志でやったことだよ」
「……それでも、せめて禁忌がそんな術だってわかってれば止めることができたのに、」
「仮にそうだったとしても、同じことだと想う」
 声を震わせるヴェイルにシアンは迷いなく言い切った。
 雲の隙間から沈む前の陽の光がちらちらと差し込んでいる。姿を消すそのときまで輝き続ける陽の光は一筋であっても眩しく、羨ましいほどに一途に見えた。
 頭の中で考えていることを整理して、シアンは続きの言葉を紡ぐ。
「ヴェイルが止めたとしても、私が禁忌の作用を知っていたとしても、私は禁忌を使ったと想う。それは私がクレアの力を持っているからじゃない。ヴォイエントを実際に見て、不死者が溢れていて、見過ごすことなんてできないって想ったから……。それに、……この世界で出逢ったみんなが好きだから」
 好き、だから、とヴェイルは口の中でシアンの発したその言葉を復誦した。
 行こう、と短く言ってシアンは歩きだす。その細い肩を掴んで引き止めることすらできずにヴェイルはシアンの背を見つめた。
 両手をぎゅっと握り締めて、唇を噛む。目の奥が熱い。喉が異常に熱を帯びている。全身に不器用な力が入り、またそれは身体のあらゆる部分が動こうとするのを遮った。自分の身体と心がバラバラになってしまったような気さえする。
 何も言わずにシアンは悩んで考えていた、それが胸に痛かった。この世界を、この世界の人々をそれほどまでに愛していたことに、そして彼女がそういった感情を持つことができるようになっていたことにすら気付けなかったことが、もどかしくて仕方がない。
「…………駄目だな、僕は…………」
 震えて掠れた声は、髪も満足に揺らせないほどの緩い風に攫われた。










 涼しい風がゆるやかに吹き抜け、眩しい昼間の木漏れ日がなごやかに降り注ぐ。
 緑に囲まれたノルンの教会の入り口の扉がゆっくりと開いた。
「悪いねぇ、カシアちゃんに水汲みなんか頼んじゃって……。普段なら何でもない仕事なんだけど、今日はどうも腰が痛くて……」
「お気になさらないでください。こう見えても結構力はあるんですよ」
 にっこりとカシアは微笑んで床に置かれていた桶を手に取った。その目の前ではひとりの少し年老いた男性が済まなさそうな表情を浮かべている。
 桶を片手に教会を出て行こうとするカシアにその男性は声をかけた。
「カシアちゃんはいい子だねぇ。いつも明るいし、素直だし……」
「みなさんのお陰です。私、ここで休ませていただいた上に、こうして置いていただけるのが嬉しくて……。今まで有翼種<私たち>を狙ってきた人とは違って教会の方たちはみんなやさしくて、今の私は倖せだなって想うんです。だから教会で暮らして、その教会のために色々なことができるのが嬉しいんですよ」
「そうかい……噂では聞いてたけど有翼種ってやっぱり大変なんだねぇ……。私も最初カシアちゃんが運ばれてきたときはちょっと驚いたけどね、でももうカシアちゃんは同じ処で暮らす家族みたいなもんだよ。翼があるのだって個性みたいなものさ、私の小指が人よりちょっと短いみたいにね」
 そう言いながら男性は右手の掌をカシアへと向けた。たしかに少し小指が他の人よりも短いように見える。
 見せていた手を引くと、気をつけてね、と男性は微笑む。ずっと腰を曲げたままでいるところを見ると、カシアとしては早く休んでもらいたい気分になった。
 扉を閉めて、満足に鋪装されていない道を、桶を持ってカシアはゆっくりと歩きだす。ノルンにはセントリストのように蛇口をひねれば水が出てくるわけでもなければ、コンピュータがあるわけでもない。しかしその長閑さがカシアは好きだった。
 ウェスレーとの紛争は少し落ち着いているように見える。ときどき警戒情報が出るものの、教会にまで直接的な影響が及ぶことはなかった。
 滑らかなメロディを口ずさみながらカシアは足を進める。それは頭の中にふと浮かんだ、子どもの頃に歌っていた歌だった。幼いときにウェスレーに隠れ住んでいたときにその不便な生活の中にあった、僅かなあたたかな時間を思いだす。アクセライのもとにいたときには、それすらも思い出すことができなかった。最近の生活では忘れるようにしていたそのときのことに考えが及び、自然とカシアは歌を口ずさむのをやめた。
 教会で他の人々と接していると心の奥底に眠らせてしまうその感情は、佳いものとは言い難い。それでも自分のしてきたことを考えると忘れるわけにはいかなかった。
 近くにある井戸の前でカシアは立ち止まり、地面に桶を置く。そしてふと周囲を見渡した。
 ふと、何かが地面の上にあるのが目にとまる。よく見るとそれは何か、ではなく誰か、だった。慌ててそちらに駆け寄るとひとりの少年が俯せで倒れている。その身体は何箇所も瑕を抱え、至る所を紅く染めていた。
「あ、あの、しっかりしてください、」
 その少年をカシアはそっと抱き起こした。そしてその少年の顔を覗き込んだ瞬間、カシアの表情は突然に硬直する。
「…………セ…ラ、」
 意識を失い、かろうじて呼吸をしているその少年はセラフィックに違いない。今まで思い返していた過去の光景が頭の中に蘇る。
 カシアはかぶりを振った。
「…………きっと私を連れ戻そうとして来たわけじゃないわ、セラはそんな人じゃない」
 口の中でそう呟いて、カシアはセラフィックの身体をそっと下ろすと立ち上がった。自分ひとりではいくら有翼種とはいえ、女性の腕でセラフィックを抱えて教会まで行くことはできそうにない。意識のないセラフィックに、人を呼んできます、と言ってカシアは翼を広げた。