躯と心が引き裂かれる日




 弱い陽の光を照り返すアスファルトと、コンクリィトでつくられた建物が視界に入る。周囲は少々古びた建物がいくらか並んでいるものの、静かで人の姿はない。空はゆるやかに橙色に染まり、陽が暮れかけている。
「……大丈夫か、」
 すぐ傍でシャールの声がしてシアンはそちらを見遣った。疲れてはいるが、怪我をしているわけではない。それを確認してシアンは小さく頷いた。
 マルドゥークを召喚することの負担は大きく、全力で走り続けた直後のようにシアンは肩で息をしている。しかし厖大な精神力を消費したのはシャールも同じことで、さすがのシャールも少し疲れを表情にのぞかせていた。
 シアンは立ち上がってゆっくりと周囲を見回す。そこにはヴェイルたちが倒れていた。シンシアと、そのシンシアにどこかに飛ばされたライエの姿は見当たらない。
 ライエさんとシンシアさんは、とシアンが訊ねると、シャールはかぶりを振った。
「あのダルクローズって女はおそらく安全な処に飛ばされて生きているだろう。奸知な女の方は……波動を感じねぇな。まぁ……無法空間を強引に破られりゃ術者が無事でいられるはずはねぇからな」
「…………そっか、」
 無表情のままシアンは言う。その瞳の奥でどのような感情が交錯しているのか、それはシャールにもわからないし、他の誰かが見ていたとしてもわからない、それほどまでに感情を表していなかった。
 風が吹く。二人の髪が揺れた。風は冷たい。厭な落ち着きがそこにはあった。
 いつの間にか抜かりなく回収してきたキーストーンをシャールは掌の上で弄ぶ。そしてしばらくしてそれを懐に入れた。
 思い出したようにシアンは口を開く。
「そういえばさっきシャールが使った術って……」
「ああ、……お前の召喚術と似たようなものだ。あれは……」
「シアンさん、シャールさん、」
 二人の会話はライエの声に途中で途切れた。
 不機嫌そうな顔をしているシャールの目の前で、シアンは声のした方を見遣る。ライエがこちらへと駆け寄ってくるのが見えた。
 それと同時にヴェイルたちは意識を取り戻し、ゆっくりと身体を起こしはじめる。ここがどこかもわからないが、とにかく無事であるということをそれぞれが確認していた。
 その様子を見てライエは安堵の表情を浮かべる。
「よかった……みなさんご無事だったんですね」
「なんとか、ね。ライエ、君は大丈夫なの?」
 シンシアに負わされた瑕が痛むのか、少し顔を歪めながらヴェイルはそう訊ねた。
「私はなんとも……、あのままここまで飛ばされただけだったから」
 ライエの返事に安心してヴェイルは笑みを浮かべる。それから自分とユーフォリアにレメディを唱えた。やわらかな光が集い、瑕を消してゆく。痣ができてしまっていた箇所さえも奇麗に癒された。
 それが終わったところでオーヴィッドは低く声を吐き出す。
「……シンシアは……」
 途端、その場が静まりかえる。その静寂を気にすることもなく、シャールは「無法空間が破られて術者が無事なわけねぇ、生きちゃいねぇよ」と言い放つ。それは先程シアンに説明した内容と同じものの、随分と適当に、またぶっきらぼうな口調になっている。その様子はハディスに怒りを煽った。
「テメェ……ライエちゃんの目の前でそんな言い方……!」
 怒鳴るようにそう言われてもハディスは平然としている。そのやりとりを目にしながらユーフォリアは声を震わせた。
「…………あの人を……犠牲にして生き延びた……ってのかよ」
 そのひとことに更に空気は重くなる。シアンとシャール以外は視線を落としてしまっていた。
 間を置いてから、はっとしたようにユーフォリアは顔をあげる。そしてシャールを睨みつけて声を荒げた。
「お前、まさか……こうなるって知っててシアンにマルドゥークを……!」
 その怒鳴り声にシャールは苦虫を噛み潰したような表情でユーフォリアを見遣る。シャール本人は視線を移すだけで何も言わない。しかし誰がどう見てもその態度はユーフォリアの発言を肯定しているようだった。
 しばらくシャールはそのままの状態でいる。しかし突然口を開くと吐き捨てるように言った。
「奇麗ごとばっか抜かしてんじゃねぇよ、クソガキ」
「なっ……、」
「わかってたからどうだって言うんだ。他に助かる方法なんてなかっただろうが。……そんなにあの女と心中してぇんなら今から亜空間にでも呑み込まれてこい、俺はごめんだがな」
 勢いよくそう言われてユーフォリアは言葉に詰まった。ユーフォリアが言い返してこないのを見て、シャールは興味をすっかり失ってしまったかのように視線を外す。
 頭のどこかでは仕方なかったと想っているのかもしれない、しかしユーフォリアは現実を受け入れられていなかった。それはまだ幼い少年にとっては当然のことかもしれない。
 近くに立っていたアルスがユーフォリアの肩をそっと叩いた。
「過ぎたことを言っても仕方ないだろう。……少し落ち着いた方がいい」
 シャールとは対照的なやさしい口調でそう宥められ、ユーフォリアはやっとのことで小さく頷いた。
 そうなると視線は自然とライエに集まる。心配そうなヴェイルたちの視線を受けて、ライエは精一杯の明るい声で言葉を紡いだ。
「私なら平気です。ご心配なさらないでください」
 無理しなくていいんだぞ、とハディスはやさしく言う。けれどライエはかぶりを振った。
「いろいろなことが一度にありすぎて実感がないというのもあるかもしれません。でも……、私を外へ逃がした時点で姉は覚悟を決めていたと想います。だから……」
「……多分、ライエさんと逢ったときからだと想います」
 ぽつりとシアンはそう呟く。それに周囲が反応するのにも関わらず、近くにある壊れかけたコンクリィトの階段があるのを見つけると、ふらふらとそちらに歩み寄ってそこに腰掛けた。それからまた気紛れのように口を開く。
「シンシアさんはライエさんに恨まれることで贖罪をしようとした……そう考えるとすべてのシンシアさんの言動に筋が通るんです」
「……シアンさん、それはどういうことなの?」
 できるだけ自分を落ち着かせようとしながら、それでも若干の早口でライエはそう問いかけた。相変わらずすぐにシアンの答えは返ってこない。
 頭の中で言うべき言葉を整理してから、それを実際に声にするまでには時間を要した。
「ただ死を覚悟するだけならライエさんの記憶を蘇らせる必要はないし、本当に生き延びたければ無法空間ごと地上に移動させてそこで術を解けばいい……私たちを殺すことはできなくなるけど、シンシアさんだってそうすれば無事でいられます」
「姉はどうしてそんなことを……」
「わかりません、私はシンシアさんじゃありませんから。……でも、シンシアさんは自分が過去にしたことを後悔していたんじゃないでしょうか。だから記憶操作を解いて自分が消えることで、永遠に怨嗟の対象となろうとした……」
「……お姉ちゃん……」
 声のトーンを落としてライエは呟いた。
 言うことを言ってしまうとシアンは何事もなかったかのように口を閉ざす。もちろん疲れがあるということも手伝ってはいるが、ヴェイルたちから見ればもう見慣れた光景だった。
 アルスが腕を組む。
「しかし……だからといってアクセライに協力したことについて後悔しているというわけではないように見えたが……」
「……たしかにそうだね」
 ライエを気にしてか心もち小さな声でヴェイルは同意した。
 それはそうだろう、とオーヴィッドの低い声がする。ヴェイルとアルスがそちらを振り返るとオーヴィッドは目を閉じた。
「アクセライはシンシアに非常に信頼をおき、大切にしていた。それは手駒として操るための偽りの感情ではない。シンシアが負傷すれば自ら手当をし、具合が悪くなれば看病さえしていた。もちろんシンシアもまた同じようにアクセライに尽くしていた」
 ゆっくりと告げられたその事実にその場はしんと静まり返った。
 ライエの瞳は揺れていた。僅かにそのエメラルドグリーンは潤んでいる。それでもその雫が頬を伝うことはなかった。自分を抑制しているというよりは頭の中が混沌としているという方が近い。事実も感情もライエは整理することができていなかった。
 やっとのことで口を開くとライエはオーヴィッドに向かって震えた、しかし決して弱々しくはない声を発した。
「オーヴィッドさん、…………姉は、倖せそうに見えましたか、」
「……少なくとも私の目にはそう映っていた」
 滑らかな声でオーヴィッドは言う。そうですか、とライエは泣きそうな声で短く返した。そのライエにそっと歩み寄って、ハディスはライエの細い肩に自身の大きな手をかける。
「ライエちゃん、泣いてもいいんだぞ」
「……いえ、……大丈夫です」
「オッサンの胸で泣くのが厭ならアルスの胸を借りるとかさ、」
「ちょっと待て、このガキ!」
 茶々を入れたユーフォリアをハディスは睨む。その何気ないユーフォリアの冗談にアルスという名前が出てきたことに、反射的にライエは顔を赤らめた。その間もハディスとユーフォリアは言い合いを続けている。
 少し和んだ空気の中、二人のやり取りを見ながら袖で一度だけ目元を拭ってライエは小さく笑った。










 大理石の床に革靴の音が響く。部屋の奥、目の前に黒いコートに身を包んだアクセライの姿を認めてセラフィックは足を止めた。
 外部の音は一切聞こえない。足音が止んでしまえばそこは無音の空間になった。相手の顔がやっと識別できるくらいの薄暗い灯りしかともされていない。
「……シンシアの波動が消えたな」
 アクセライの低い声が流れるように紡がれる。振り返ることもなく言葉だけを発するアクセライの背中を黙ったままセラフィックは見つめていた。その背中は冷たく、何の感情もない、そして非道く瑕ついているように見える。
 小さな声で、アクセライ、とセラフィックはその名を呼んだ。けれど反応はない。その代わりに譫言のような返事がセラフィックの耳に届いた。
「どうやらこの世界も俺から何かを奪いたいらしいな」
「……、少し休んで落ち着いた方がいいよ。最近あまり眠ってないみたいだし、」
「あの男はまた奪うつもりだ、次は何を奪おうとする、……お前も消えてゆくのか、セラ」
「アクセライ、僕は……」
「俺に平穏は赦されないというのか……アリィを失ったときからすべては狂ってしまったのだと、」
「だからって……、アリィはこんなこと望んでないよ、」
「黙れッ!」
 アクセライの怒鳴り声が部屋に激しく響く。それと同時にアクセライは振り返り、セラフィックの襟元を両手で掴み上げていた。
 鋭い瞳は射るようにセラフィックを見つめる。苦しそうにセラフィックは表情を歪めた。それでも目の前の鋭い視線に怯むことはない。そのセラフィックをアクセライは自分の方に引き寄せた。
「……ティアマートが目醒めた、」
「知ってる、」
「滑稽だと想わないか、……あの男を始末しておかなかった自分が厭になる」
「アクセライ、君はまだそんなことを……、……ッ」
 ぎりぎりとアクセライの両手はセラフィックの喉元を締めつける。息苦しさを憶え、セラフィックはぎゅっと目を閉じた。
 その身体をアクセライは乱暴に床へと落とす。どさりと音を立ててセラフィックは床に倒れ込んだ。解放された喉が早急に空気を欲し、それが喉の奥に引っかかって激しく咳き込む。そうしながらもセラフィックはすぐに身体を起こした。
 足音を響かせてアクセライは部屋の外へ向かおうとする。その行く手を遮るようにセラフィックは立ち塞がった。
「……退くんだ、セラ。ティアマートの力を得て俺はすべてを無に返す」
 アクセライがそう言ってもセラフィックはぴくりとも動かない。ただ迷いない瞳でじっとアクセライを見上げている。
「行かせない、」
 その瞳は澄んでいた。そしてそれはアクセライにとって呵責でしかなかった。
 しかしそれを見つめ返すアクセライの瞳は焦点を失っている。
「……お前に俺を止めることなどできはしない。くだらない真似をするな」
「くだらないかどうかは僕が決めることだ。僕は自分が正しいと想うことをする、たとえそれが君の意志に反することであっても」
 薄暗い部屋では互いの表情に影が落ち、それが更に緊迫感を増していた。
 刹那、アクセライの瞳に哀しみが浮かんで、消える。セラフィックがその一瞬の変化に目を奪われていると、その耳にアクセライの低い声が届いた。
「お前も俺の元から消えてゆくと言うのだな、」
「違う、そうじゃない、僕はただ、」
 ずしりと鈍い痛みがセラフィックの全身に巡る。大きく目が見開かれ、唇の端から紅い筋が重力に従ってゆっくりと線を描いた。全身から力が抜ける。
「……どこにも行かせない、お前だけは」
 抑揚のないアクセライの声が響く。そのまま精神力を高めて口の中で低く呪文のようなものを呟けば、途端、セラフィックの身体が何箇所も連鎖的に裂け、その瑕口が赤を散らした。部屋中にセラフィックの悲鳴が大きく響く。そしてその身体は音を立てて大理石の床に突っ伏した。
 意識が朦朧としてゆく。
「消えてしまうくらいなら、俺がこの手で……」
 薄れてゆく意識の中、最後に聞こえたアクセライの言葉は虚しく響いた。

 ひとり分の足音が遠ざかってゆく。