躯と心が引き裂かれる日




 最初にシンシアが生み出した不死者の群れを、ヴェイルとアルス、そしてユーフォリアはようやく殲滅させる。不死者は今までに対峙したことのある、さほど強さを感じないものだった。数が多かったものの、特に大変な相手でもない。しかし三人は異様な疲れに襲われていた。
 肩で息をしながらユーフォリアはヴェイルを見上げる。
「なんかさ……、おかしくねぇか、」
「うん……。そんなに動いてないはずなのに……なんだろう、この疲労感……」
「当たり前だ、出来損ない」
 二人の会話にシャールが割って入った。当たり前だというシャールは疲れているようには見えない。しかし、普段なら攻撃をたたみかけているはずのシャールは今それをしていなかった。
 罵ったものの、シャールにはそれ以上説明する気もなく、口を閉ざしてしまっている。かわりにオーヴィッドがヴェイルを見遣った。
「無法空間だからだ。無法空間ではその空間の所有者の力が大きくなる。従って、他の者の力は弱められてしまう……体力も精神力も腕力も……総てがな」
「そんな……、でも無法空間を創造して維持するのにだって厖大な精神力が必要なんじゃ……」
「その通りだ。しかしシンシア<彼女>の場合はもともと持っている精神力がきわめて強い上にアクセサリでそれを更に強化している。容易に精神力が尽きはしないだろう」
「さっきアリアンロッドの術がシールドだけ破ったのを見てただろうが、出来損ない。普段の威力なら中にいる人間も、つまりはアリアンロッドが狙ったあの奸知な女も無傷じゃ済まねぇってことくらいその愚鈍な頭でも理解しやがれ。……ちッ、俺の術にしても不死者数匹に相殺されるような半端な威力だ、致命傷になんてなりゃしねぇ」
 苛立ちを隠すことなくシャールは言う。
 その様子を見てシンシアは口の端を吊り上げた。そして驚異的な早さで精神集中を完了する。
「余所見なんて随分な余裕だねぇ。……祥雲来たりて黎元に裁きを与えん!」
 風が鋭く巻き起こってシアンたちを襲う。各々が護法陣と叫び、シールドを生み出す。シアンは素早くライエとハディスに駆け寄って、二人も含めて護るシールドを張り巡らせた。
 シールドと風が摩擦を起こし、やっとのことで相殺される。その威力はスフレで対峙したときとはまったく違う、何倍もの強さを有するものだった。
 術を放った後のシンシアはまったく平然としている。これからいくらでも術が放てるとでもいうようだった。それとは反対にヴェイルたちには余裕がない。精神力の強いシアンとシャールはなんとか抵抗を示せているが、それもいつまで保つかわからなかった。
 少し苦しそうに息をしながらアルスが低く呟く。
「オーヴィッド……どうすればこの空間を破れる、」
「術者が術を解くか、あるいは術者の命が潰えるか……どちらかしかない。しかしこの空間が解かれたところで外は亜空間だ。彼女がこの空間ごと亜空間の外へ移動させてから術を解かない限りは……、」
 冷静さを保ち続けるオーヴィッドもさすがに悔しそうな表情を浮かべた。亜空間の中に放り出されればそれこそ無事では済まない。
 いい気味だとばかりにシンシアは笑う。そしてふと思い付いたように軽く精神集中を行うと、自分を護るシールドを生み出した。そのシールドに囲まれた安全な場所でゆっくりと口を開く。
「冥土の土産にひとつ昔話をしようか、」
 突然飛び出したシンシアの意外な言葉に一同が驚きを示した。身体は身構えたまま、けれど若干力を抜いて全員がシンシアを見遣る。座り込んだまま動けないライエも、そのライエを支えるハディスもそちらに意識を向けていた。
 周囲の反応にはまったく構わないでシンシアはひとり満足そうに言う。
「ある裕福な家庭にひとりの娘が生まれました。その娘は強い精神力を持ち、三歳になる頃には周囲を不死者から護るほどの術力を有していました、」
 まるでお伽噺の一説でも語るような口調だった。その瞳はどこに焦点を合わせるわけでもなく、ぼんやりと宙を見つめている。
「娘はその力で周囲の人間を護り続けていました。けれどその周囲の人間は娘の尋常ではない術力に怯え、娘を避けるようになりました。わけがわからないまま娘は哀しみました。けれどそれはまだ悪夢の始まりにしか過ぎません、」
 声に憎悪がこもってくる。シールド越しにシアンたちを一通り見ながらシンシアは背を向けた。表情を一切見せないまま続ける。
「娘が三歳のとき、妹が生まれたのです。妹は精神力の弱い子どもでした。しかしエメラルドのような奇麗な瞳とプラチナのような美しい髪を持っていました。周囲の人間は妹を可愛がり、娘は恐れられる力を使わないようにしながらも冷たい視線を受け続け、それでも他に拠り処もないため家出すらできずに暮らしていました。……娘は周囲に対する復讐心を募らせてゆきました。そこに娘の力の噂を聞きつけたひとりの男が現れ、娘に指輪を与えました。娘がその指輪をはめて術を使うと、その力は更に強大になりました、」
「……おい、ちょっと待て、」
 ハディスは口の中で反射的にそう呟いた。同じことを想ったのかヴェイルやアルスもはっとした表情を浮かべている。
 術力が強大になる指輪といえばクライテリアからシャールやアクセライが持ってきたというアクセサリしか思い浮かばない。どう考えても遠い話ではなかった。
 背を向けているためシンシアはヴェイルたちの反応に気付かないのか、それとも気付いていながら無視をしているのかわからない。しかし話は更に続けられた。
「娘は15歳になったとき、無法空間に周囲の人間を呑み込み、近親者や隣人全員を殺しました。しかし術力が未熟だったために途中で術が解け、妹だけは生き残ってしまいました。そのため娘は妹に向かって術をかけ、こう言いました」
 そこでぴたりと一瞬声が止んだ。異様な静けさが生まれ、緊張が走る。
 シンシアは微動だにせずそこに立っていた。精神集中をする気配もないため、攻撃の隙をうかがっているようには見えない。しかしシールドの向こうに見えるその存在をシアンたちは警戒の瞳で見つめている。
 すると突然シンシアは声をはりあげた。
「ラ・ジェイ、……ネ・セイス・クォ・アイ」
 言葉が響き渡る。その途端ライエの悲鳴があがった。
 全員がそちらに視線を移せば、ライエは両手で頭を抱えて蹲っている。ハディスがその身体を支え、シアンはそっと肩に手を置いた。ライエの身体は不自然なほどに震え、瞳は潤んでいる。
 ひとりで低く笑いながらシンシアはライエを振り返った。そしてそのライエをじっと見つめる。
「……思い出した? シーリア、」
 シーリア、とアルスが怪訝な顔をして呟く。しかしそれよりも今はライエの様子が心配だった。
 しっかりしろ、と耳元でハディスが言うのもライエには届いていない。ひたすら身体が震え、奥歯ががたがたと音をたてている。
 シアンは身体を屈めてそっとライエの手を両手で包んだ。すると救いを求めるようにライエはシアンの手をぎゅっと握る。そしてようやく呼吸を少し落ち着け、ライエは顔をあげた。少し上目遣いにシンシアを見上げ、唇を震わせて声を発する。
「…………お姉…ちゃん」
 掠れた声が全員の耳に届く。その瞬間、シンシア以外の全員が反応を示した。そうだろうと想っていたというようなシアンやシャールのような反応もあれば、完全に驚きを示しているユーフォリアのような反応もある。しかし含みのある笑顔を浮かべているのはシンシアだけだった。
 お姉ちゃんと言ったものの、ライエはまだ冷静になりきれていない。それ以上の認識はまだできていそうになかった。
「ライエちゃんがあいつの妹、……じゃあさっきの昔話の娘ってのは……」
 ハディスが少し早口に言う。シンシアの話とライエの反応を併せて考えれば、先程の話の娘がシンシアだということは誰にでもわかる。想いもよらなかったその人間関係に信じられないとでもいうようにハディスは目を丸くしていた。
 突然はっとしたようにユーフォリアが声をあげる。
「さっきの呪文みたいなやつ……、記憶操作のアシストだ! ……以前に記憶操作をして、さっきの呪文でまた蘇らせたんだ、きっと」
「じゃあ幼い頃に不死者に家族を殺されたっていうライエの記憶は、記憶操作でシンシアに植え付けられたものだったってこと……? じゃあライエがこの無法空間に見覚えがある気がするって言ってたのは……」
 ヴェイルが思わず顔をしかめた。
 その推測を聞きながらシンシアはキーストーンに力を込めはじめた。不死者の生まれる気配がして、圧迫感が高まってゆく。不死者をある程度召喚して、それからシールドを解いて一気に襲わせるつもりなのだろう。全員がそれを警戒して身構えた。
 キーストーンへの集中を緩めないままシンシアはライエを見下ろす。
「見覚えがあるなんて言ってたわけか……多分この空間を見たために記憶操作が一瞬揺らいで、あのときの無法空間がフラッシュバックしたんだろうね。…………あいつらの推測通り、私が記憶を操作してすべてを忘れさせたのよ。不死者の家族を殺されたという記憶と、"ライエ"という名前を植え付けて、ね」
「……嘘……嘘よ、お姉ちゃんがみんなを殺したなんて……!」
 ぼんやりとした瞳でシンシアを見つめ返しているライエの声は震えていた。怒りと戸惑いが混ざったような声を発しながら、まだシアンの手を強く握っている。
 ライエの精神が瑕ついていることははっきりと外見に現れている。その反応とシンシアの平然とした態度は対照的だった。シンシアにはあまりにも余裕がありすぎるように見える。それを見ていると次第に黙ってはいられなくなり、ユーフォリアはシンシアに向かって怒鳴った。
「お前……家族や知り合いを殺した上に妹にそんなわけわかんねぇ記憶植え付けるなんて、お前には血も涙もねぇのか!」
 響き渡った幼い声にシンシアは不機嫌さを露にする。
「何もわからないくせにガキが偉そうな口きいてんじゃないわよ……、アンタみたいなガキにわかるわけがない、15年間ずっと愛されることもなく唾棄されるように育った人間の気持ちなんか……!」
 感情が高ぶってゆくのに従うように術力が集い、シンシアの周囲に不死者が生み出されていった。シールドがゆっくりと薄くなり、解けてゆこうとする。それに応じて全員が身構えた。
 そっとライエに握られていた手を離してシアンも立ち上がり、被害がなるべく及ばないように少しライエから遠ざかる。逃げたり隠れたりすることすらできそうにないライエの前に、彼女を護るようにハディスが立った。空気がぴんと張りつめる。
 その緊張を裂くように、突然シアンは口を開いた。
「……それ以上無理しない方がいいですよ」
 はっとしたようにシンシアが目を丸くする。ヴェイルたちも不死者とシンシアを警戒しつつも思わずシアンを見遣った。
 オッドアイは冷静にただじっとシンシアを捉えている。双眸の紅も蒼も、すべてを見透かしたかのように動じることなく焦点を定めていた。その視線を受けてシンシアは嘲笑するかのように、しかしどこかぎこちなく返す。
「……何…言ってんのよ、」
「あなたの話にも行動にも不可解な点があると言っているんです。それはあなたが一番よくわかっているんじゃないですか、」
「……ッ、うるさいっ!」
 半ば衝動的にシールドが解かれ、不死者がシアンたちに押し寄せた。その不死者の攻撃をシアンたちは跳躍して躱す。その中、運動神経に自信のないユーフォリアは走って逃げなければならなかった。ユーフォリアが体勢を立て直す間にヴェイルがレイピアで不死者を切り裂き、アルスが両手に構えた銃を発砲する。そして充分に精神集中を完了したシャールと体勢を立て直したユーフォリアが術を放ち、不死者を次々に薙ぎ倒した。
 シアンも自分に向かってきた不死者を二本の短刀で迎撃する。そして何体かを倒したところで、今度はシンシア本人がナイフを握り締めてシアンを襲った。そのナイフをシアンは短刀で受け止める。金属のぶつかり合う音が響いた。
 次々と繰り出されるシンシアの攻撃を受け流し、それをしばらく続けた後に二人はようやく間合いをとった。シンシアの攻撃はドラスティックで、彼女本人もまだ殺気を滾らせている。
 無法空間で全体的な力が弱められているためか、シアンの息は少しあがっていた。それに気付いたシャールが目の前の不死者を力任せに短剣で薙ぎ倒してからシアンの前へと移動する。そしてちらりと後ろにいるシアンを見遣った。
「元から体力に自信はねぇはずだ、今のお前は精神力を体力の代替として削っている……しかもウェスレーで倒れた後だろう、下がっていろ」
 それを聞いてシンシアはシャールを睨み付けながら笑い声を洩らした。そして鋭く紅い瞳でシンシアを射るように睨むシャールに向かって口を開く。
「アンタのアリアンロッドには随分やさしいんだねぇ、シャール。それも必要以上にさぁ、」
「くだらねぇこと言ってんじゃねぇ、莫迦が。それとも三文芝居がアリアンロッドに見抜かれて話題をそらせようとしてやがんのか、」
 シャールの言葉にシンシアが一瞬息を呑む。
 先程のシアンの発言に続き、ヴェイルたちは意味がわからないままシャールを見遣った。返答の見込めないシャールではなく、シアンに向かってヴェイルは声をかける。
「無理しない方がいいとか三文芝居とか……、一体どういうこと?」
 それにシアンが答えようとすると、その前にヴェイルの背後にいたアルスが声を発した。
「記憶操作の必要性……という問題か」
 落ち着いたその声にシアンは頷き、シャールはちらりと視線をアルスに移しながら、ほう、と呟く。
 混乱で今にも泣きそうな瞳をしながらライエはアルスを見つめた。どういうことですか、と訊ねることすらできない。その代わりにハディスがアルスに向かって問いかけた。
「おい、あー坊、一体どういうことだよ」
「おかしいと想わないか? 妹は精神力が弱かったと彼女は言っている。ならば無法空間が解けてしまったとしても現実世界で始末しようと想えばできたはずだ」
「……わざわざ記憶操作なんて手の込んだことをする必要はねぇ……ってことか……、」
「そういうことだ。しかし彼女は妹に記憶操作を施した……、つまり妹を殺そうとしなかったということになる」
「……ッ、黙れ!」
 怒りのこもった声でシンシアはそう叫び、アルスに向かって術を放った。アルスは咄嗟に護法陣と叫びシールドを生み出す。
 放たれた術がシールドに衝突した途端、シールドは一気に術に押し返された。現実空間でも非常に強いシンシアの術を無法空間で受け止めるには相当なシールドを必要とする。咄嗟に生み出したシールドではろくに対抗できるはずもない。
 ヴェイルが術力を強化するために指輪をはめ、援護するようにシールドを生み出してアルスのものに重ねる。その二枚のシールドと衝突を続け、術は衝撃を生んで弾け飛んだ。その衝撃に弾かれてヴェイルとアルスが後退すると同時に、二人の短い悲鳴が響く。
 その様子を目の前で見ていたライエは反射的に立ち上がった。
「やめて、お姉ちゃん! どうしてこんなことするの、」
「どうして? ……愚問ね。あの人が……アクセライが望むから、それだけよ」
 吐き捨てるようにシンシアはそう返す。当然のように紡がれたその言葉に、オーヴィッドは小さく納得を示した。
「やはり先程の昔話とやらに出てきた"ある男"というのはアクセライのことだったか」
 オーヴィッドの発言を、そうよ、と短い返事でシンシアは認める。話に出てきた指輪がクライテリアからもたらされたものだとしか考えられない以上、その内容に偽りはなさそうだった。
 平然としているシンシアにライエは震えた声で訴えるように口を開く。
「アクセライさんはたくさんの人々を殺しているんでしょう……? それでも望むままに行動するって言うの?」
「私を必要としてくれたのはあの人だけ……、そして私はあの人の理想に共感した。……それ以上の理由なんていらない、」
「あの男はテメェの力を利用しようとしてるだけだろうが」
 シャールが割って入る。その口調は責めたり咎めたりするものではなく、ただシンシアの発言を嘲り笑うようなものだった。
 うるさい、と低い声で呟き、シンシアはキーストーンに力を込め始める。咄嗟にシアンは鞘に収めた短刀を勢いをつけて投げ、回転させながらブーメランのように鋭く弧を描かせた。その短刀はキーストーンを握るシンシアの右手を狙い、それを躱すためにシンシアの精神集中が途切れる。中途半端に生み出された圧迫感の緩い不死者が何体か行動を始めた。しかしそれはすぐにアルスの放つ銃弾に撃ち倒され、ヴェイルのレイピアによって切り裂かれる。
 精神集中が途切れたところを追撃するようにシャールとユーフォリアが術を放った。シンシアは咄嗟にシールドを張り、ギリギリのところでそれを防ぐ。そのシールドは少し押され、ようやく術を受け流した。弧を描いて回転した短刀はシアンの手元へと戻る。シアンは相手の反撃に備えて再び短刀を握り直した。
 動揺しているのかシンシアは最初のような隙のない状態ではない。しかし無法空間の中でシアンたちの力も随分と削られている。ユーフォリアは既に表情に疲労を滲ませ、肩で息を繰り返していた。
 体力的には余裕のあるシンシアは深く息を吐き出しながらシンシアたちを睨む。
「無駄な抵抗はしない方がいいよ。アンタたちがまとめてかかってきたところでこの空間では私の命を奪うことなんてできない……。おとなしく殺されなさい、」
「待て、それは一体どういうことだ、」
 珍しく焦ったような口調でオーヴィッドが声を発した。
「たしかに邪魔者は排除して構わないとアクセライは言っていた……、しかしそれは積極的な意味ではなかったはずだ」
「それは今までの話……状況が変わったのよ。禁忌使いと周囲にいる者を始末しろとあの人は言ってたからね」
 急激にシンシアの精神力が高まる。それは瞬く間に衝撃波を生んだ。シンシアが手を翳せばその衝撃波は飛翔し、シールドで防がれる間もなくヴェイルとユーフォリアの身体を大きく吹き飛ばす。二人の悲鳴が大きく響き、ハディスが二人の名を叫んだ。
 それを目にしたライエは反射的にポケットに手を入れる。そして倒れたヴェイルとユーフォリアに向かって更に術を唱えようとするシンシアに向かって、ポケットから取り出した通信機を思いきり投げつけた。
 詠唱を止めてシンシアはそれを躱す。躱すこと自体は容易なことだった。しかし予想もしなかったライエの行動にシンシアは目を丸くする。アルスやハディスも驚きを示していた。
 普段のおとなしい表情ではなく、ライエは怒りのこもった瞳でシンシアをじっと凝視する。その姿は何に怯えることもなく、そして感情を出してはいるものの冷静さを保っていた。
「私の大切な人たちを瑕つけないで」
 はっきりとした口調でライエはそう言い放つ。エメラルドグリーンの瞳の奥は深く、そこにはあらゆる感情が渦巻いている。その中でちらちらと影をみせる怒りの感情を探り当てるように、シンシアはライエを凝視した。
「大切な人、ねぇ……。今世界が救われていないその原因となった人間のことを大切だなんて言えるなんてめでたい話ね」
「……クライテリアで起きた事故のことなら知ってるわ。だけどそれはヴェイルさんが悪いんじゃない、それに……ヴェイルさんはやさしい人よ。ヴェイルさんだけじゃない、みんな佳い人たちばかりだわ」
「フン……お為ごかしなんて要らないわよ。昔からアンタは愛されてたもんね……たしかにアンタは私なんかと違って外見だって愛らしい、今はその上記憶喪失の少女だなんて、奇麗な話よね。そんな境遇ならやさしい人間だって集まって、」
「……違う、」
 呻くようなヴェイルの声が力を帯びて二人に届く。吹き飛ばされた衝撃で痛みを帯びた左腕を右手で押さえながらヴェイルはゆっくりと身体を起こした。
 まっすぐにただシンシアだけを見つめて低い声を発する。
「ライエはそんなに弱い人間じゃない、」
 無理矢理立ち上がろうとするヴェイルに駆け寄ってハディスはその身体を支えた。その隣ではユーフォリアがまだ起き上がれずにいる。
 身体に走る鈍い痛みはヴェイルの頭の中では無意識のうちにかき消されていた。衝撃波を直に喰らった身体は本来ならぎしぎしと痛んでしかるべきで、ユーフォリアのように起きあがることができなくても不思議ではない。それでも今のヴェイルにそんなことは関係なかった。
「君が知らないだけだ。……彼女が君の植え付けた記憶で不死者に対する異常なほどの恐怖感をもっていたことも、そしてそれを乗り越えたことも……」
 シンシアの瞳が僅かに揺れる。何かを言い返そうと口を開くが、先に声を発したのはヴェイルの身体を支えているハディスだった。
「ヴェイルの言う通りだな。ライエちゃんは俺様たちみたいに戦う手段を持ってるわけじゃねぇ。けどな、出逢ってから日が浅い俺様の知る範囲でも、イーゼルでの一件のときに大火事になった街中で何人もの人を助けたり、幼い子を慰めてやったりしてる。普通できねぇよ、そんなこと」
「同感だ。彼女の境遇に人が集まるわけじゃない。彼女のやさしさや強さに人が惹かれる、そういうことだ」
 感情が高ぶりかけているハディスとは対照的に、いたって冷静な声でアルスはそう告げる。その言葉にハディスは深く頷いた。
 奥歯をきつく噛み締めて左手をぎゅっと握り締めながら、シンシアは右手のキーストーンを宙に浮かせた。そしてキーストーンには力を込めないままに精神集中を始めようとする。それを制すようにライエは叫んだ。
「お姉ちゃん、もうやめて!」
「私はアクセライに命を捧げたの、私を愛してくれたあの人に……、周囲に山ほど愛されてるアンタに何がわかるっていうのよ……!」
「わかるなんて想ってない、でもこれだけは言えるわ、……私の記憶の中のお姉ちゃんはいつもやさしかった!」
 ライエの絶叫が無法空間の中に響く。
 シンシアの動きが硬直し、精神集中が途切れた。一筋の涙がその左頬を伝う。
 その隙をシャールは逃さなかった。弱められているとはいえ、尋常ではないその精神力を無法空間の中で募らせる。そして浮遊させられているキーストーンに手を翳した。
「偽印の天蓋 粛正の綺羅 在るべき流転へ還れ ……封絡せよ!」
 白い光が放たれ、シンシアがそれにはっとしたときにはもう遅く、その光にキーストーンは完全に包まれていた。そしてそのキーストーンは力を失い、下へと落ちる。
 しかしシンシアはすぐに精神集中を再開した。そして瞬時に術を放つ。シンシアと対峙した直後のようにライエの身体はシールドに包まれた。そしてそのシールドは再び中に浮く。けれどそのシールドを操るシンシアの瞳にライエに対する敵意は少しもなかった。
 敵意がないとはいえ、ライエがシールドの中にいる以上、シアンたちは下手に手を出すわけにはいかない。それがわかっていて、シンシアはゆるやかに宙に浮いたライエを見つめた。
「……アンタはやさしいって度を越えて莫迦だったからね、周囲が私をどんな目で見ようと、お姉ちゃんお姉ちゃんって私についてきて……、だからついやさしくしちゃったのよ」
「……お姉ちゃん……」
「アンタがセントリストの孤児院に拾われてダルクローズって人に世話になってるって知ってほっとしたわ。アンタは私なんかいなくたって、もうひとりで生きていけるって」
 シールドごとライエの身体は高く浮かび上がる。シアンたちから随分離れ高々と浮き、ライエの瞳が不安を示した。
 その瞳にやさしくシンシアは哀しさをたたえた表情で微笑みかける。
「……さよなら、シーリア」
 急上昇するシールドの中で、お姉ちゃん、とライエは手を伸ばして声を涸らせて叫ぶ。しかしそのシールドは速度を緩めることなく無法空間の外へと移動していった。
 ゆっくりと身体を起こして、痛む腕を押さえながら様子を見ていたユーフォリアが反射的に叫ぶ。
「お前……、ライエに何したんだよッ、」
「亜空間の外に運んだわ。あの子が巻き添えにならないように」
 ライエの姿が消えて行った方をしばらく仰いで、シンシアは再びシアンたちに視線を戻した。そのシンシアに向かって吐き捨てるようにシャールは言う。
「キーストーンはもう使えねぇ、その状況でテメェが俺たちをどうにかできると想ってんのか? 少なくとも俺はテメェの術に負けるつもりはねぇ。力ならそれしか取り柄のねぇ大莫迦野郎もこっちにはいる、」
「おいテメェ、そりゃ誰のことだっ、」
 シャールの背中に向かってハディスは叫ぶ。お前以外に誰がいる、と冷たくシャールは返した。
 シンシアは精神集中を行う気配もなければナイフを握り直そうともしない。そのままぽつりと呟いた。
「誰もアンタたちひとりひとりをどうこうしようなんて考えてないわよ……私は私の役目を果たすだけ……」
 そうシンシアが言い終わると同時に空間が揺らぐ。足元が揺れ、地震のような震えが段々と激しくなってゆく。空間を彩っていた様々な色がぐにゃりと歪み始めた。
 はっとしてオーヴィッドが声をあげる。
「いかん! この無法空間を解除して我々もろとも亜空間に呑み込ませるつもりだ、」
「巻き添えにならないように、というのはこういうことか……」
 低い声をアルスが喉の奥で響かせた。亜空間に呑み込まれればもちろん無事では済まない。しかし解除されかかった無法空間を修復する術などシアンたちにはない。
 唯一それが可能なシンシアにヴェイルは叫んだ。
「こんなことをすれば君だって巻き込まれる!」
「それでも構わない、私は……あの人のためにアンタたちを始末する」
「だからって君が死んでしまったらどうしようもないじゃないか、」
「…………私は、……あの人の創る理想の世界で生き続ける……、」
 揺れが激しくなる。もはや立っていることで精一杯だった。そして遂に無法空間に亀裂が入ってゆく。この空間が壊れてしまえば亜空間の中にある有害物質によって全員が朽ち果ててしまうほかない。
 どうすりゃいいんだよ、とハディスが大声をあげる。ヴェイルとユーフォリアの瞳には不安が滲み、流石のアルスやオーヴィッドも焦りを浮かべていた。
 相変わらず無表情のままシアンは打開策を考えている。その左腕をシャールが後ろから強く引いた。腕を引かれるとは予想もしていなかったため、シアンの背はシャールの身体にぶつかり、もう片方のシャールの手によって受け止められる。
 シアンが驚いて見上げる間もなく、シャールは勢いよく言った。
「アリアンロッド、マルドゥークを喚べ!」
 その言葉の意味をシアンは瞬時には呑み込めなかった。僅かながら間を置いて、シャールの意図することを呑み込んでから返事をする。
「巧くできるかわからないけど……やってみる」
「心配いらねぇ。俺が手伝ってやる、お前は詠唱で召喚の一端を開けばそれでいい」
 そう言うとシャールは左手でシアンの左手首を掴んだ。
 シャールの意図を察したのか、はっとしてシンシアはナイフを握り、シアンとシャールに襲いかかろうとする。その足元にアルスは瞬時に弾丸を撃ち込み、威嚇した。
「シャール、お前の考え通りにやれば打開できると信じていいんだな、」
 振り返らずにシンシアを牽制したままアルスは言う。アルスにしてもシャールの考えていることはわからない。しかしシンシアが妨害しようとしていることを考慮すると、シンシアにとって不都合なことであるということは推測できる。
 シアンは既に精神集中を開始していた。その左手首を握ったままシャールも少しずつ精神力を高めてゆく。
「アリアンロッド次第だ。……だが俺はアリアンロッドになら殺されても構わねぇが、あの女に殺されたくはねぇ」
 シャールの相変わらずの発言に苦笑しながらアルスはシンシアの行く手を塞ぐように威嚇射撃を続けた。怒りと焦りを露にしてシンシアは攻撃を何度も試みる。
「私は何の役にも立たないまま死ぬなんてできないのよ!」
「死ぬわけにはいかないのはこっちも同じなんでな」
 シンシアとは違い、きわめて冷静にアルスはシンシアの動きを読みながらシアンとシャールが精神集中をするまでの時間を稼ぎ続けた。
 亀裂が大きくなり、無法空間が崩壊に近付いてゆく。その中でシアンの精神力は他者を圧倒するほどまでに高められた。
 ぎゅっと目を閉じて左手の先に意識を集中する。そのシアンの唇から詠唱のスペルが零れた。
「闇より生まれ光へ交われ すべての穢れしものに制裁を」
 頭と左腕が痛む。
 一瞬シアンは表情を歪めた。無法空間で精神力が弱められているからなのか、マルドゥークの力が大きすぎるのか、身体が悲鳴をあげている気がする。
 その背後からシャールの声がした。
「無理しなくていい、あとは俺が引き受ける……この周囲の亜空間ごとブッ飛ばしてやるぜ、」
 シャールのその意気込みにヴェイルたちは目を丸くした。たしかにそれは打開策と成り得る、しかしあまりにも強引に過ぎる。
 二人の精神力はここで精神集中を中断するには高まりすぎている。巧くいけば無法空間と亜空間を両方突き破り、その衝撃で地上へと戻ることができるだろう。必ずしも成功するとは言えないシャールの考えたこの方法にヴェイルは猜疑心を持たずにはいられないが、だからといって他に方法もなかった。
 その一方で、無理をしなくていいと言われたシアンはかぶりを振る。そっとシャールを振り返って、大丈夫だから、と瞳だけで訴えた。事実、シャールは今日だけで禁忌を二回使っている。精神力に負担がないわけがない。
 精神力がゆるやかに具現を始める。シアンはそっと目を閉じた。
「具現せよ、マルドゥーク」
 白い鳥の姿が現れ始める。淘汰されるように全員の動きが硬直した。
 マルドゥークの姿を見ている者にとっては、そのすさまじい力に肌を刺され、そのまま引き裂かれるような気さえする。
 召喚されたマルドゥークの姿は次第に大きく広がり、この空間を吹き飛ばそうとする。その翼にゆるやかにグレイが混ざりはじめた。
 イーゼルで自分の中でクレアが目醒めてマルドゥークを召喚したときとは違うその様子を見て、不思議に思ったシアンの耳にシャールの低い声が途切れ途切れに聞こえる。
「……我……さ…、……と…望……標、………存在…ての……なる……を」
 無法空間が崩れかかる音とマルドゥークの轟にかき消されてその声を巧く聞き取ることはできない。ただシアンの左手首を握るシャールの左手に尋常ではない精神力が集っている。それは禁忌の術の比ではなかった。マルドゥークを召喚しているシアンに負けず劣らずの力をありありと放っている。
 マルドゥークの白い躯にグレイが完全に混ざり合ったその瞬間、その翼とその躯から発された力は無法空間を一気に突き破った。
 強烈な光と止むことのない轟がこの場を支配する。圧倒的な精神力を前に、人は意識を維持させることすら不可能になる。奪われてゆく意識に残るのは神々しいまでの光と戦慄するような力、そして轟音だけだった。