躯と心が引き裂かれる日




『……それで、そのオーヴィッドって人は観念したんやな?』
「ああ。元からあまり好戦的な人物ではなかったようだが……」
『とにかく、一件落着みたいでよかったわ。……で、今から帰るん?』
「そのつもりだ。シップが来次第セントリストに戻る」
『ってことは……、ちょっと待ってな、時刻表調べるわ、…………あ、もうすぐ来るで、それ逃したら……うわ、三時間ほど還られへんようになるで』
「ちゃんと乗るから大丈夫だ。それに需要を考えればシップが通っていること自体幸運だからな、本数が少なくても文句は言えないだろう」
 その後に短い言葉をいくつかかわしてアルスは通信機の電源を切った。
 ウェスレーの奥地ともなるとシップの本数は都会に比べて極端に少ない。帰りのシップを待っている間に、なかなか帰ってこないアルスたちを心配したらしいクルラからアルスの通信機に連絡があったため、アルスは事の経緯をクルラに説明していた。
 電話を切って間もなく、ステーション全体にシップ到着のベルが鳴り響き、ホームにシップが滑り込む。寂れたこの地にやってくる乗客もいなければ、シアンたち以外にここからシップに乗船する乗客もいない。やっと現れたそのシップに、オーヴィッドを含む一同は乗船した。

 自動運転のシップの昇降口が閉まる。あとはシートに坐っていればあっという間にセントリストに到着するはずだと誰しもが想っていた。
 そのとき、シップ全体がぐらりと揺れた。
「な……なんだ、どうなってる!?」
 異常を察知してハディスはシートから立ち上がった。ヴェイルやアルス、ユーフォリアもほぼ同時に腰をあげている。
 一同が驚いたのは揺れだけの所為ではなく、シップに備え付けられている外部を観るためのモニタから見える亜空間に、見たこともないようなスパークリングが頻繁に走っているからだった。
 途端、シップがガタンと縦に揺れ、シップごと重力に従って落下してゆく感覚をおぼえる。思わず全員が悲鳴をあげた。










 地響きのような大きな音がして、シップ全体がひときわ非道く揺れ、何事もなかったかのように静かになった。
 どうなっちまってんだよ、とユーフォリアが慌てた声をあげる。その声を耳にしながらアルスはシップの前方部へと向かった。自動運転であるシップの前方部にあるコントローラに手を伸ばし、そのカヴァーを外す。カヴァーの下にあるパネルを叩いてみるものの、何の反応もない。
 アルスの背後にハディスが歩み寄る。
「おい、あー坊、一体どうしちまったんだ、」
「俺は専門家ではないからな、詳しいことはわからないが……コントロールが完全に死んでいるように見える」
「ってことは……亜空間にシップごと取り残されたってことかよ」
「そうなるな」
「あぁもう、冷静に言ってんじゃねぇよ、どうすんだよっ」
 頭を掻きながらハディスはもどかしそうに声をあげる。こういうときこそ冷静でいなくてはならないのはわかっているが、いざ冷静な人間を観るとどこかやきもきしてしまっている。
 その会話を聞きながらシアンはふとシップの後方部を見遣った。そこには大きな亀裂が入り、シップの外壁が一部割れてしまっている。
 ぼんやりとシアンはそちらへ足を進め、そこに屈んで亀裂から外を覗き込んだ。ありとあらゆる色が不規則に混ざり合い、漆黒がそれをまとめて飲み込もうと畝っている。この世のものとは想えないような奇妙な空間がそこにはあった。
「どうした、アリアンロッド」
 少し離れたところからシャールに声をかけられて、シアンは自分の見ている亀裂を指さした。シャールとともに、もちろん偶然同じ行動をとっただけで示し合わせなどあるはずがないのだが、ヴェイルもそちらへと足を進める。そしてその亀裂を見た途端、反射的に息を呑んだ。
「亀裂……ってことは、あれは亜空間?」
「……妙だな……」
 更に少し離れて亀裂を見遣ったオーヴィッドが腕を組む。ライエが小さく首を傾げた。
「何が妙なんですか?」
「亜空間は人体に有害だ。だからシップでなければ通ることはできない」
「ええ……、それはわかります」
「そして、その亜空間にある有害物質というのはおとなしく一所に留まっているものではない。常に流動している」
「つまり……この亀裂からシップの中に有害物質が入ってきている、ということですか……?」
 さっとライエの顔が蒼ざめる。それを安心させるようにヴェイルはできるだけ明るい声を発した。
「それは考えられないと想うよ。亜空間の中の有害物質は強烈らしいから、本当にシップの中に入ってきているのなら、僕たちはこうやって話なんてしていられないはずだ」
 ヴェイルにそう言われてライエは少しほっとした表情を浮かべて、亀裂の向こう側をおそるおそる覗き込んだ。
 その途端、ライエの目の前がぐらりと歪む。異様な空間を見たから、という理由では説明できない奇妙な間隔に神経を奪われ、ぺたんとその場に座り込んだ。
 それを見てシアンはほぼ反射的に声をかける。
「ライエさん、どうしたんですか、」
「あ、……大丈夫よ。いろんな色が一度に見えてびっくりしちゃったみたい。…………それにしても……」
 それにしても、という部分はあまりに小さな声で発されたため、誰の耳にも届かなかった。びっくりしたと言うものの、なにか引っかかるものでもあるようにライエは外の空間を再び見遣っている。
 そこにアルスとハディスが前方部から戻ってきた。浮かない顔をしているアルスの方をユーフォリアは向き直る。
「どうなんだ? 動きそうか?」
「いや、どうしようもない。シップステーション本部への端末もやられている……外から外壁を開けて非常用コントローラを無理矢理にでも操作できれば何とかなるかもしれないが、亜空間に出るわけには……」
 アルスの言葉にシップ全体が静まり返った。修理する方法がないとなれば、どうしようもない。シャールの術で移動することができるにしても、ウェスレーで禁忌の術を使っている上にこの大人数を移動させるとなると、かなりの負荷が生じてしまう。巧くいくかどうかもわからない。
 それぞれが懸命に打開策を考える。その中、ライエがぽつりと言葉を呟いた。
「あの……、外に出ても平気だと想います」
 ライエのその発言に全員の視線が彼女に集中する。とんでもないことを、というよりもこの場合はとんでもないことなのだが、言ってしまったとライエは反射的に畏縮した。視線を落としたまま、小さく続ける。
「私、ここに何となく見覚えがあって……」
「見覚え? ここは亜空間じゃねぇのか?」
 ユーフォリアがそう訊ねかけたときにはもう、ライエの足は動き始めている。昇降口の近くにあるパネルを操作して、ハッチを開けた。制止しようとするハディスの声も届いていないのか、ライエは何かに憑かれたようにシップの外へと足を進める。
 一歩遅れてアルスが手を伸ばしたが、それよりも先にライエは外へと出てしまった。しかし彼女には何の変化もみられない。結局、詳細はわからないまま、しかし外に出ても害がないのならシップの中にいるよりは佳いだろうという結論のもと、シアンたちも外の空間へと足を進めた。










 地面の上ではないのに立っていることができる。漆黒と様々な彩度の色が入り交じったその空間に立っていると、まるで宙に浮いているような感覚に襲われる。そしてそこには深くて濃い霧がかかっていた。
 ここはどこなのだろうかという問いなど愚問に感じられるその異様な空間は、すべてが異質であり、それでいてすべてが混合している。物質というレヴェルで説明することなど不可能に想われた。
 その空間に出た瞬間、シャールは足を止めた。そしてすぐに警告を発する。
「待て、動くんじゃねぇ!」
 切迫した声に全員が動きを止める。それとほぼ同時にシアンは周囲に満ちている感覚を感じとってシャールを見上げた。
「……精神力の波動を感じる……」
「ああ、ここは亜空間なんかじゃねぇ……人為的に生みだされた無法空間だ」
「無法空間……?」
「要するに異空間だ。人が術で生みだした特殊空間で、現実世界から隔離されている」
 無法空間というのはシアンだけでなくアルスたちにしても聞き慣れない言葉だったが、亜空間ではないとすればシップに割れ目ができても有害物質の影響を受けなかったということについても説明がつく。その上、シャールの説明は彼の溺愛するシアンに向けて為されていた。疑う余地はない。
 ということは、とヴェイルが口の中で呟く。周囲の気配を感じとりながら少し厳しい表情を浮かべた。
「近くに術者がいるってこと……?」
 その瞬間、強い精神力がゆっくりと、不吉な感覚がひたひたと、その場に迫ってくる感覚を全員が感じた。いつでも防衛体勢に移ることができるように、シアンたちは身を構える。
 その背後でオーヴィッドが突然はっとして低い声を震わせた。
「無法空間など誰にでも生みだせるものではない……この波動、まさか……」
 オーヴィッドの言葉が途切れると同時に、霧の向こうからぼんやりと人影が現れた。それに伴って、感じ慣れた不死者独特の圧迫感が迫ってくる。
 現れた人影はセミロングの金髪をたたえ、鋭い眼光を霧の中から放つ。そのシルエットを見た途端に、オーヴィッドは息を呑んだ。
「……シンシア……!」
 喉の奥から低い声が発される。
 シンシアの姿がシアンたちの前に現れ、同時に大量の不死者がシアンたちを包囲するかのようにぐるりと囲いをつくっている。
 圧迫感に怯えながら、ライエは口の中でシンシアという名前を呟いた。意識は現れたシルエットに集中しているため、いつもよりも圧迫感による恐怖を感じない。しかし不死者がすぐそこまで迫っているのは確かな事実であり、ライエは自分の身を護らなければという想いから雑念を振り払うようにかぶりを振った。
 姿を現したシンシアはシアンたちを一度睨み付け、その中によく知った顔があることに気付くと突然笑いはじめた。射るような瞳でオーヴィッドを捉えて、吐き捨てるように言う。
「なるほど……。禁忌使いとアンタの波動が同じ動きをしてると想ったら……、寝返ったってわけね」
「……否定はしない。しかし私にはこれ以上あの男のやろうとしていることを正当化することなどできない」
「弁明なんていらないわよ。アンタはいつも気乗りしない顔してたからね、だからアクセライだって肝心なことはアンタに話さなかったのよ。要するに、捨て駒でしかないってことね。アンタも……カシアと同じように」
「図に乗ってんじゃねぇ、うるせぇよ莫迦が」
 二人の会話にシャールが割って入った。そう言いながら既に精神集中を開始し、今すぐにでも不死者を始末しようとしている。
 それを察したシンシアは握りしめていたキーストーンを宙へ翳した。それに呼応して不死者がシアンたちに襲撃をかけ始める。
 レイピアを抜いてヴェイルはライエを振り返った。
「ライエ、下がってて!」
 その声にライエは数歩後ずさった。下がれと言われても身を隠すことができるような場所はない。シップの中に戻れば逆に追いつめられてしまうかもしれない。不死者と戦うシアンたちの動きを見ながら危険を回避することで精一杯だった。
 短刀を抜いてシアンは次々と不死者を薙ぎ倒す。キーストーンから生みだされる不死者は相変わらず尽きることがない。しかし手を休めればやられるのを待つしかない。結局、体力を温存しながら隙をうかがうしかなかった。
 それはヴェイルやアルスたちにとっても同じことで、シンシアに攻撃を加えようとしても不死者に阻まれてしまう。シャールとユーフォリアが隙を見て精神集中をして術を放っても、一度にすべての不死者を殲滅できるわけではない。それほどの威力を持つ術を使うには、この状況では集中時間が圧倒的に足りなかった。
 そんなシアンたちを目の前に、シンシアは別の人物を見ていた。喉の奥で、ライエ、と呟く。そして次の瞬間にシンシアは不死者を生み続けるキーストーンと宙に放置して、精神集中を開始した。
 ライエに向かってシンシアが手を翳す。するとライエの身体の周囲に半透明のレジストのようなシールドが生みだされ、そのままシールドごとライエの身体は宙に浮く。そしてそのまま勢いよくシンシアの方へと引き寄せられた。
「きゃあぁぁっ!」
「ライエ!」
 辺りにライエの悲鳴が響き渡り、アルスが手を止めてその名を叫ぶ。しかしそちらに神経を集中するわけにもいかず、再び不死者と対峙せざるを得ない。それでも何とか隙を見つけてシンシアに向かって発砲したが、それは既に生みだされていたレジストのシールドによっていとも簡単に弾かれた。
 シールドの中でライエは身体を震わせる。圧迫感と、それを生みだしている人物が目の前にいることと、その鋭いまでの緑色の瞳に畏怖の念が頭を支配する。
 怖い、とそれだけの感情がライエの全身を覆った。
 シールド越しにシンシアがゆっくりとライエに近寄る。直接触れることができない位置にいるというのに怯えているライエを射るように見ながら口を開いた。
「アンタ……ファミリィネィムは、」
 脅迫するような口調でそう言われて、ライエの瞳には自然と涙が浮かんでくる。答えなければ何をされるかわからない、その想いだけがライエの身体を支配して、ダルクローズ、という言葉がライエの唇から零れた。
「そう。……じゃあ生まれは?」
 変わらない調子でシンシアは続ける。ライエは必死にかぶりを振った。
「わた…し……、記…憶が……、」
 消え入りそうに震えた声でライエがそう答えると、シンシアは納得したような表情を浮かべる。そしてライエの顔をまじまじと覗き込んだ。
 恐怖に怯えるその瞳は涙に濡れ、ぼんやりとした輝きを放っている。
「この瞳の色……、間違いない……」
 シンシアの低い声がする。
 その声を間近で聞いて、ライエの頭が突然ずきんと痛んだ。内側から響く痛みが連続的に襲う。
 その瞬間、シアンの声が響いた。
「片鱗数多集いてその陰の力を放て!」
 闇の力が連なってシンシアの背後に衝突する。それはシールドを突き破り、その衝撃でライエとシンシアはその場から弾き飛ばされた。
 空中でシンシアは体勢を立て直して着地し、ライエはそのまま飛ばされたものの巧くその身体をハディスに受け止められる。双方に怪我はなく、シールドだけが破壊された。
 ライエの身体を下へそっとおろしながら、大丈夫か、とハディスができるだけ穏やかな声を発する。しかしライエの身体はガタガタと震え涙が頬を伝っていた。戦闘能力をもたない普通の人間があんな目に遭って怯えないはずがない。もう怖がらなくていいからな、とハディスはライエを励まし続けた。
 その様子を横目で見ながらアルスは目の前の不死者を撃ち倒す。そして体勢を立て直したシンシアをまっすぐに睨んだ。
「彼女に何をした、」
「話をしてただけ……他にはべつに何もしちゃいないよ」
 不機嫌さをはっきりと顔に表して、吐き捨てるようにシンシアはそう返す。
 そのシンシアに向かってシャールが術を放った。漆黒の衝撃波が一直線にシンシアに飛翔する。しかしシンシアはキーストーンで不死者を数体生み出し、その不死者にシャールの術を命中させて相殺した。