蘇る遠き日々
セラフィックを見送ってから、シアンは少し疲れたと言って自分の部屋へ戻った。その背中を見ながらリビングでシャールは溜め息をつく。そして苦々しい表情を浮かべた。
苦々しい表情を浮かべているのはヴェイルも同じだった。しかしヴェイルはシャールのように黙ってその背中を見てはいられない。急いで夕食の準備を終えてしまうと、キッチンからリビングへと移動した。
「……僕、ちょっと様子を見てくるよ」
無理矢理に笑顔を浮かべてアルスにそう言うと、ヴェイルはシアンの部屋へと向かった。
ヴェイルが出て行ってからしばらくして、アルスはガタンと音をたてて椅子から立ちあがった。そして部屋の隅にあるテーブルに歩み寄ると、テーブルに置かれている透明のケースに入れてあるチョコレートを口に放り込む。それを見てハディスとユーフォリアが同時にアルスに向かって手を差しだす。まったく同じタイミングで手を差しだした二人に呆れ顔をしながら、アルスは二人の手にチョコレートをのせた。
チョコレートを口に放り込んで、ハディスは椅子の背に凭れかかった。そしてアルスの方を見ないまま口を開く。
「……で、あー坊……今聞いた話、どう想うよ? まだ疑ってんのか?」
「疑っているわけないだろう」
「さらっと言うなぁ、お前。最初は疑いまくってたじゃねぇかよ」
「あれは疑っていたわけじゃない。自分の頭で情報を整理するためにああいう態度をとっただけだ。……第一、シアンやヴェイルも同じ情報を握っているんだ、あいつらを疑うわけないだろう」
「なんだよ、紛らわしい態度とりやがって。……ま、あー坊がずっと一緒に暮らしてんだから、お嬢ちゃんやヴェイルのこと一番よくわかってんだろうが……お前がどう言おうが、俺様は最初から二人のこと信じるつもりだったけどな」
溜め息まじりにそう言って、ハディスは再びアルスに右手を差しだした。それを見てユーフォリアもそれに倣う。こういうときだけ考えることが一致する二人に呆れながら、アルスはもうひとつずつ、それぞれの掌にチョコレートをのせた。掌にのった四角いチョコレートを見てユーフォリアは笑顔を浮かべる。
「やっぱ頭使ったあとは糖分補給しねぇとな」
「そういうこった。でもなユーフォリア、こいつの家にはビターは絶対ねぇぞ。究極の甘党だからな、どうせミルクとかホワイトとか、場合によっちゃあストロベリーとか可愛らしいもんばっかり揃ってるはずだ」
「げっ、マジで!? オレ、たまには苦いのも食いてぇんだけどなぁ」
「……お前ら、人の嗜好に文句をつけるな。だいだい文句があるなら催促してまで食べようとするんじゃない」
不満そうにアルスに睨まれて、ハディスとユーフォリアは「図星かよ」と笑いだした。楽しそうに笑う二人を見ながら、ライエも思わず「楽しそうですね」と小さく笑った。そして微笑みを消して目を閉じ、ぽつりと呟く。
「……お二人のいつもの楽しいやりとりを、シアンさんはどんな気持ちで見てるんでしょうね……」
ライエの呟きに、ハディスとユーフォリアは騒ぐのをやめた。
チョコレートを手にアルスはライエの座っているソファへと歩み寄った。そしてライエの左手を取ると、その掌にチョコレートをのせて微笑みを向ける。
「そんな風に考えてくれていると知ったら、きっとあいつは悦ぶだろう」
「……あいつのことは俺もよくわからねぇがな、テメェらといることが不快ではなさそうに見える。俺にとってはテメェらなんざ邪魔なだけだが……」
ずっと黙っていたシャールが口を開いた。アルスはライエから手を離してシャールの方を見た。アルスの行動にライエが顔を赤らめていることにもまったく気付いていない。相変わらずの鈍さにハディスは何か言いたそうにアルスを睨んでいる。
少し考えてから、アルスはシャールに訊ねた。
「……お前もシアンのことを知らないのか。ヴェイルもセラフィックも、継承の儀式以前にはシアンを見たことがないらしいが……まだ身元はわからないのか?」
「さぁな。何か手がかりが残っていたとしても、クライテリアが崩壊しちまった今となっては……」
「そうか……。身元もわからず感情も表現できず、わかっているのは自分がとんでもない力を秘めているということだけ、か……。しかもその力をアクセライに狙われているとくれば……不安、だろうな」
アルスの蒼い瞳がどこか瑕ついたものになる。そんなアルスを見上げて、ライエは呟いた。
「……カシアさんの話では、アクセライさんはマルドゥークとティアマートの目醒めを待っていたんですよね……。そのマルドゥークっていうのは、シアンさんのあの力のことを指すと考えて間違いないんでしょうか……。だとしたら……」
「間違いないだろうな。そして、マルドゥークの目醒めはアクセライの望んでいたことだということになる。あとはそのティアマートというものが実際どういうものなのか、今どうなっているのかがわからない……ヴェイルから聞いた話では、クライテリアの伝承の中に出ていたらしいが、今はなんとも言えないな」
アルスが腕を組む。それとほぼ同時にシャールは椅子から立ちあがった。長い銀髪が靡く。立ちあがるとすぐにシャールは精神集中を開始しようとした。
この状態で精神集中をするということは、いつもの瞬間移動をする術でここから去ろうとしているということは誰にでもわかる。何の挨拶もなしにシャールが去ってゆくのも、シアンがいない状況では不思議ではない。しかし術を発動しようとするシャールを黙って見逃さずに、アルスは声をかけた。
「……何処へ行くつもりだ。お前のいたクライテリアはもう崩壊してしまっているのだろう? 帰る場所などあるのか?」
「テメェには関係ねぇだろ」
「……これは提案だが……、此処へ留まらないか?」
「な……なに莫迦言ってんだよ、あー坊!」
慌ててハディスが椅子から腰をあげた。しかしアルスは冗談を言ったようには見えない。真剣な眼差しで為されたその提案に、さすがのシャールも精神集中を中断して、驚いた表情でアルスを見た。
アルスの服を借りているため、シャールの印象は普段とは違ったものになっている。しかしその姿はヴォイエントで生活をするにしても問題のないものだった。性格にある程度の問題はあるにしても、シャールの姿を見られたからといって騒ぎになるようなことはない。アルスの目に今のシャールはそう映っていた。
「俺は本気だ。シアンが覚醒してしまった以上、お前も今までのように安穏とキーストーン捜しをすることはできないだろう。またシアンは覚醒してしまうかもしれない……それを防ぐためには覚醒のファクターを総て排除してしまうか、傍にいてシアンを護ってやらなければならない。……覚醒の要因をひとりで総て取り除くにはかなりの無理が生じるだろう、キーストーンも溢れかえる不死者も相手にしなければならなくなる。後者の方が確実なんじゃないのか?」
「……何を企んでる」
「戦力が分散している状態で組織ぐるみだと想われるアクセライに対抗するよりも、協力した方がいいだろうというだけのことだ。お前にとってもその方がシアンの安全が確実なものとなって好都合だと想うが」
滔々と話すアルスに、シャールは舌打ちせずにはいられなかった。アルスの言うことは正しい。アクセライの力に対抗するにはシャールという人物を味方にするかどうかは大きな問題である。そして、ヴェイルやアルスに良い感情を持っていないとしても、シアンに固執するシャールがシアンを危険な目に遭わせる可能性が高い選択をするわけがない。結局、提案が為された時点で、既にシャールに選択肢は残されていなかったのである。
付け加えて「もちろん、生活に必要なものはシアンたちと同じくらい提供しよう」とアルスは言う。ハディスやユーフォリアは、アルスの言葉を聞いてからは黙っていた。シャールが戦力になるということは間違いない。シアンがいる限り、日常生活でとんでもないことをやらかすということもないだろう。
そこに、突然ライエがアルスを見上げて言った。
「シャールさんが一緒だと、シアンさんもきっと喜びますよね。シアンさん、シャールさんのこともとても大切に想ってるみたいに見えますから」
ライエ本人にその気はなかったのだが、このひとことはシャールがアルスの提案を受け入れる決定打になった。予想もしなかった援護にアルスは内心驚きつつ、ライエに「そうだな」と笑顔を向ける。
苛立った口調で「しょうがねぇな……」とシャールは呟く。そして鋭く紅い瞳でアルスを睨んだ。
「……言っとくが、テメェに賛同したわけじゃねぇ。あくまでアリアンロッドを護るためだ。それを忘れんじゃねぇぞ」
言葉と態度では威嚇しているものの、その姿は誰の目にも虚しい牽制にしか映らない。アルスは「わかっている」とさらりとその言葉を流した。
シャールは基本的に情報提供をすることがない。しかしシアンの安否に関わる情報ならば、アルスたちに話す可能性は大いにある。冷静にそう考えてみると、シャールの存在は戦力以外にも意義のあることだった。
話が一段落したのを見て、ユーフォリアはシアンの部屋のある方へ続く扉を見つめた。口の中で「あいつ、大丈夫かな」と呟く。その声は小さく、隣にいたハディスにやっと聞こえるほどだった。そのユーフォリアの声と同じくらいの大きさの声で、ハディスは「まぁ、ヴェイルが男になるとこ見てやろうや」と答えた。
茶色いドアをヴェイルは何度かノックした。それでも部屋の中にいるはずのシアンからは何の反応もない。普段なら寝ているのかもしれないと想うところだが、今はさすがにそんな風に考えられはしない。そっとノブを回してみると、鍵はかかっていなかった。
仕方なく「シアン、入るよ」と言いながらヴェイルは部屋へと足を踏み入れる。しかし後ろ手でドアを閉めながら部屋の中を見回したが、シアンの姿は見あたらなかった。てっきりベッドで休んでいるものだと想っていたヴェイルは、空っぽのベッドを見て一瞬目を丸くする。けれどすぐにベッドとは別のところにシアンの姿をみつけた。
部屋の隅、丁度クローゼットと壁に挟まれた狭い空間でシアンは膝を抱えて俯いていた。その目の前にヴェイルはゆっくりと歩み寄り、シアンと視線を合わせるように床に両膝をつく。それに気付いて、シアンはほんの少しだけ顔をあげた。
虚ろなオッドアイにヴェイルはやさしい視線を投げかける。
「こんなところにいたんだ。姿が見えないからびっくりしたよ。……、どうしたの? どこか具合悪い?」
ヴェイルの問いにシアンは反射的に首を横に振った。しかしすぐにはっとして、ヴェイルの表情を伺う。ヴェイルがまだ自分の方を見ているのを知ると、今度はゆっくりと遠慮がちに首肯した。
身体が反射的に人に頼るのを拒否しているかのようで、ヴェイルは一度哀し気な表情を浮かべる。しかしまた笑顔に戻ると、シアンの瞳をとらえた。
「……僕でよかったら、話して。話した方が楽になれるよ。……もちろん、無理にとは言わないけど」
「うん、……でも……巧く言えないから……」
「まとまらなくても何でも言えばいい、足りないならいくらでも付け足せばいい、言葉は気持ちを伝えるためのものなんだから巧くても継ぎ接ぎでも何でも構わない……、そう言ったのは君だよ」
ヴェイルにそう言われて、シアンはしばらく間をおいた後にゆっくりと頷いた。そして膝を抱えていた体勢を崩して立ちあがる。目の前で膝をついているヴェイルの横を通り過ぎ、窓際へと歩み寄った。そのシアンの行動を目で追いながら、ヴェイルも立ちあがる。そして窓の外を眺めるシアンの背中を見つめた。
窓の外は雨が続いている。グレイの空はこの世界を閉ざしているかのようにうごめく。電気をつけていない部屋は薄暗かった。
虚しく太陽に照らしだされるよりもよかったかもしれない、と想いながらシアンは窓の外を眺める。そして「あのね、……」と消え入りそうな声を発した。
「……本当はね、結構……なんて言うんだろ、精神的に……なのかな。とにかく、身体のどこかがぐったりしてる。……創造主の力を持つのは私なのに、ヴォイエントを救う力……不死者を殲滅させる強い術力を持ってるのは私なのに、今までこんなに安穏と生きて……。この世界には苦しんでる人がたくさんいるのに、命を不死者に奪われた人がたくさんいるのに、私は……。……ごめん、……これ以上巧く言えない……」
俯き加減になってしまったシアンの背中はいつもよりずっと小さくヴェイルの目に映る。その背中を黙って見ていられなくなって、ヴェイルはシアンの背後に歩み寄ると、その華奢な身体をそっと抱き締めた。
突然にヴェイルの腕の中に自分の身体がおさまったことに驚いて、シアンは顔をあげた。耳元でヴェイルの声がする。
「君が自分を責める必要なんてないよ。それに君は禁忌を使って、ときには瑕を負って、それでも不死者を浄化してきた。ただ安穏と生きてきたわけじゃない」
か細い声でシアンは「でも……」と呟く。
ヴェイルはシアンの身体を解放すると、ベッドに移動してそこに腰かけた。消え入りそうなシアンの後ろ姿に微笑みかける。
「……受け売りだけどさ、過去は変えられないけど未来は変えられるんだ」
それだけ言って、ヴェイルはシアンの反応を待った。それ以上の言葉を付け足そうとはしない。そのヴェイルの言葉に応じてシアンが振り返るまで、随分と時間を要した。
きわめてゆっくりと、シアンは身体をヴェイルの方に向けた。そして窓辺に凭れかかりながら伏し目がちに言う。
「……そう、だね。後悔しててもしょうがないし……」
先程よりいくらか明るいその声を響かせると、シアンはベッドへと足を進める。吹っ切れたような雰囲気を醸しだしながら、ヴェイルの隣に腰かけた。けれどシアンの視線はヴェイルへと向かない。何かを考えるようにシアンは足元を見つめていた。
シアンの様子を見て、ヴェイルは思わず溜め息を漏らす。それに反応してシアンがやっとヴェイルを見遣ると、ヴェイルは哀しそうな笑みを浮かべていた。
「……どうして君はそういう風になれちゃうのかな」
「そういう風……?」
「もっと、君が弱音を吐いたり我侭を言ったりできればいいのにね……。それなら、そんなに傷つかずにいられたかもしれないのに」
ヴェイルの言うことがわからず、シアンは首を傾げた。しかしそれも一瞬のことで、ヴェイルは今度は躊躇うことなくシアンの身体を抱き締めていた。
少し掠れた声がシアンの喉から漏れる。
「……ヴェイル……?」
「僕の前でまで飾らなくていい。辛いなら、後悔して吹っ切れてないなら、そう言いなよ。……自分を抑圧して、周囲に平然としたように見せながら自分だけで解決しようとするなんて、そんなの……僕は見てられない」
「…………」
「スフレでの一件だってそうだ、君は結局弱音ひとつ吐かなかった。それはとても強いことだよ。誰にでもできることじゃない。でも、そうすることで君は全部苦しみを抱えてた……今も、みんなの前ではいつもと変わらないように見せながら、部屋でひとりきりで悩んでた……みんなに迷惑をかけないようにって想ってた、そうじゃない?」
ヴェイルの腕の中でシアンは躊躇しながら小さく頷く。ヴェイルの声はやさしく、けれどいつもよりどこかしっかりとしたものだった。
訴えかけるようなその言葉を間近で聞きながら、シアンは目を閉じる。自分の鼓動が速くなっているのがわかった。どこかが苦しい気がする。しかしそれを無意識的に抑制しようとしている自分がいた。
シアンを抱き締めながら、ヴェイルも目を閉じた。そして穏やかな声で続ける。
「君が一生懸命なのはわかるよ。周りのことに気を遣ってることも、みんなを大切に想ってることもわかる。……だけどね、それは僕たちも同じなんだ。シアンが苦しむのは厭だし、シアンのことが大事なんだ。だから、もうちょっと自分を大切にしてあげなよ。……人を大切にすることと、自分を大切にすること、……結局それって同じことなんじゃないのかな」
言いながらヴェイルはシアンの左手に自分の右手を重ねた。そして華奢なシアンの手に、自分の手を握らせる。
シアンの身体は心無しか小さく震えていた。泣いて嗚咽を漏らしているようにも見えるその姿とは対照的に、シアンの表情は巧く心境を表現できないでいる。一筋の涙さえ頬を伝うことがない。どうすべきかもわからず、ただ奥歯を噛み締めていることしかできなかった。
腕の中でシアンの顔はヴェイルに対しては伏せられている。しかしヴェイルはシアンが今どういった表情をしているのか、何となく理解することができた。シアンの不器用ぶりは今に始まったことではない。そして、この一線を越えてシアンが感情を発散させたことがないことも長い付き合いの中で知っている。
「……泣けないなら、その分、僕の手を思いきり握ってくれればいい。君はそれで溜まった気持ちを発散できるし、僕は君が今泣きたいんだってわかる。どのくらい辛いか、どのくらい哀しいか、今みたいに我慢した君を見ているよりはずっとよくわかる」
「……でも……、……きっと痛いよ?」
「大丈夫。それで君が少しでも楽になれるなら、全然痛くない。……たまには甘えなよ。今までがんばった分、弱音吐いたっていいんだから」
諭すようにヴェイルはシアンの髪を撫でる。今までシアンの傍にいながらも言えなかったことをやっと言葉として紡ぎ、それが今シアンの耳に届いている、それはヴェイルにとっても一線を越えた行為だった。
震える両手でシアンはヴェイルの右手を包む。そして自分からヴェイルの胸に身体を預けた。
「……私は幸せだね……。ヴェイルも、セラも、みんなも……やさしい言葉をかけてくれる」
「だけど甘えていいのか、どうやって甘えればいいのかわからなかった、……かな? でも今は違うよね。今は、僕に辛いって、哀しいって訴えること、できるよね?」
ヴェイルの問いに、シアンは何度か続けて頷いた。
そして与えられた手を強く強く握る。言葉にならない分も、涙にならない分も、すべてを込めてシアンは自分よりも大きなその手をぎゅっと握った。
本人が想像していたよりも強い力にヴェイルの手は締め付けられる。それに呼応するようにヴェイルはもう片方の手でシアンを強く引き寄せた。シアンは本当に泣いているかのように身体を震わせている。シアンがこんな姿を見せたのは初めてだった。
(……まったく、やっぱりいろいろ溜め込んでたんじゃないか……)
しょうがないな、とヴェイルは微笑む。右手から伝わってくる感覚は、宣言通りヴェイルにとって痛くはない。これがシアンの気持ちなのだと直に伝わってくる感覚をしっかりと受け止めた。
しばらくシアンの身体は震えたままでいた。ヴェイルの手も締めつけられている。
ふたりにとって、それはとても長い時間に感じられた。
激しく上下していたシアンの肩が次第にゆっくりと動くようになってくる。それにともなってヴェイルの手を握る力も緩んできた。
そっとヴェイルが声を発する。
「……少しはすっきりしたかな?」
シアンは黙ったまま、ヴェイルの腕の中でしっかりと頷いた。見慣れた茶色い髪を見つめながら、自分に寄りかかるシアンの姿にヴェイルは微笑ましさを覚える。華奢な身体はすべてをヴェイルに委ねるかのように凭れかかっていた。
「……今のこと、アルスたちには言わないで。ヴォイエントの人たち……救いを待ってる人たちを不安にさせたくないから……。この世界を救う力はここにあるって、そう想っていた方がみんなの不安は減ると想う」
「だけど……」
シアンの頼みにヴェイルは簡単に頷くことができなかった。しかしシアンは考えを曲げようとはしない。そっと身体を起こしてヴェイルの腕の中から抜けると、まっすぐにヴェイルの紫の瞳を見つめた。
「ヴェイルには、何かあったらちゃんと言うから。言葉にできないときは、他の方法で伝えるから」
「……いくら君が創造主の力を持ってるって言ったって、不完全で危険な力なんだ。不死者を殲滅することはできるかもしれないけど、そこまで使命感にとらわれてがんばろうとすることはないんだよ。ただでさえ大怪我をして、怖い想いをして、覚醒までして……だいたい、この世界を救うよう命ぜられたのは君じゃなくて僕なんだ。君は巻き込まれたにすぎない……」
「使命感とか、創造主の力があるからとか、そういうのじゃないから」
さらりとシアンはそう言ってのける。その瞳に迷いはない。さっきまでヴェイルの手を握っていた人物とは別人のようだった。
強い意志を持つ瞳に見つめられて、ヴェイルは言葉に詰まった。薄暗い部屋の中、窓から入ってくるほんの僅かな光にオッドアイは煌めく。窓の外のグレイの雲に、次第に白い雲が混ざり始めていた。
ヴェイルから視線をそらせて、シアンはベッドに腰かけなおした。ヴェイルと並んで座って、まっすぐ前をぼんやりと見る。そこにはただ白い壁があるだけで他にはなにもない。その視点を保ったままシアンは口を開いた。
「……みんなが生きる世界を護りたい。……ただ、それだけ……私がそうしたいから、そうするだけ」
ゆっくりと紡がれた言葉は、ヴェイルの内で強く響く。ヴェイルが部屋に入ってきたときに後悔していても仕方がないと言っていた表情とは、まるで違う。シアンの表情変化は乏しいが、今の表情は先程と比べて明るいものだった。
しばらく間をおいて、ヴェイルは「わかった」と言いながら微笑んだ。その言葉に、シアンは「ありがとう」と短く、けれど彼女にしては随分と心を込めたような口調で返す。会話が一旦途切れ、静かで和やかな空気が流れた。
ふと、窓の外からふわりと光が舞い込んでくる。部屋の中が突然少し明るくなって、ふたりは窓を見遣った。シアンがまず立ち上がって窓辺に歩み寄る。少し遅れてヴェイルもそれに倣った。そして窓越しにふたりで空を見上げる。
灰色の雲は淡く白に溶けてゆく。そのモノトーンの空から、一筋の光が地上へと舞い降りていた。それはあまりにやさしく、この地を包む込むように広がる。
空を見上げるヴェイルの声が室内にふわりと響いた。
「……空も泣きやんだね」