蘇る遠き日々




 シャールが一旦話を中断させたため、アルスたちも一時休憩を挟むことにした。ヴォイエントのメンバーにとってはまだ訊きたいことがあるのだろうが、それよりも話を充分理解することが大切である。そのためには少し時間を置くというのはいいことかもしれなかった。
 時間を置くといっても、あまりリビングから出ようとする人間はいなかった。アルスとライエが一旦地下のコンピュータルームで仕事場と連絡をとったものの、その他に特に何処かへ行くということもない。ヴェイルはキッチンに立ったついでに夕食の支度をすると言ってキッチンに立ち続けている。ハディスとユーフォリアは先程話されていたことを整理しながら、時々いつものように茶々を入れ合っていた。シアンはセラフィックと今までの話とは関係のないことを話していたが、アルスとライエが地下室から戻ってきてしばらくすると、ふらふらとキッチンへ歩いてゆく。
 突然キッチンにやってきたシアンを見てヴェイルは「どうしたの?」と声をかけたが、シアンは「なんとなく見にきただけ」としか言わない。そしてヴェイルが料理をする様子を、何か珍しいものを観るかのように眺めている。その姿がどことなく健気でヴェイルは小さく笑った。
 シャールはヴェイルの出した料理を食べてしまうと、椅子の背に凭れて腕と足を組み、眼を閉じていた。しかしふと眼を開けてシアンがキッチンに移動してヴェイルと話をしているのと観ると、突然思いだしたように「おい、警察」と言ってアルスの注意を引いた。アルスが「どうした」と反応すると、シャールはキッチンを見たまま声を発する。
「あのアリアンロッドを見て、テメェはどう想う」
「どう想う……と言われてもな、普段のシアンにしか見えないが」
「だからその普段のアリアンロッドを見てテメェはどう想うかって訊いてんだ」
 まだアルスの方を見ないままシャールは繰り返して問いかける。口の中で「普段の……」と呟いて、アルスもキッチンを見遣った。一緒に暮らすようになってから随分経つため、シアンの姿はもうすっかり見慣れてしまっている。
 しかしシャールが求めているのはもちろんそんな答えではないだろう、そう想いながらアルスは私情を排除して考えようとつとめた。そして「そうだな……」と口を開く。
「あの年頃の普通の少女とは違うように感じるな。泣くことも笑うこともなければ、我侭も言わない。何かに腹を立てることもなく、常に冷めた眼で現実を見ている……どこか不安定な存在のように最初は想えていたが、それはおそらくそのせいだろう」
「……そこまでわかってもらえてるなら、話しやすいかもしれないね」
 アルスの答えを聞いて、セラフィックはそう言いながらシャールを見た。やっとシアンから眼をそらして、シャールはセラフィックに対して適当に頷く。
 リビングの奥からキッチンへは少し距離がある。そのため普通の大きさの声で話せば声はキッチンへは届かない。特に聞かれてはいけないことではないが、あまり気分の良い話でもないため、セラフィックは心もち小さな声で話しだした。
「シアンはね、笑ったり泣いたりすることができないんですよ」
「どういう……ことですか、それ……」
 黙って話を聞いていたライエが、アルスに向けられたその言葉に思わず声を震わせる。ハディスやユーフォリアも目を丸くしていた。
 シアンと初めて逢ったときのことがライエの頭の中に蘇る。何を言っても顔色ひとつ変えないシアンを見て、機嫌を損ねているのかとライエは想ってしまっていた。怒っているわけではないとわかった後も、人に親切にするにあたって不器用なのだろうと考えていたためにセラフィックの言葉は余計に衝撃的だった。そんなライエに向かってセラフィックは続ける。
「創造主は意識でしかないけど、逆に言えば身体が存在しないだけで他のものはちゃんとある……だからもちろんそこには人格が存在する。宣告と神罰がそれぞれ別人格によって行われているんだ。人の命を与える人格が人の命を抹消したりしないし、その逆もまたしかり。そしてそれはずっと均衡を保っていた……」
「じゃあ、その人格がふたつにわかれてシアンさんとヴェイルさんに宿ってしまったっていうことなんですか? だから神罰を司る陰の力を受け継いだシアンさんは……」
「そう。厳格で非情な陰の人格を宿した彼女は感情の変化を見せない……。普通に継承されていれば、人格同士が相殺し合って均衡が維持され、継承者の人格が護られるはずだった。でも今は陰の人格を相殺するものは何もない」
「……それは、ヴェイルさんにとっても同じことなんですか?」
「一応はね。でも陽の人格は器となる人の人格を押しのけてまで外へ出ようとはしないんだ。やさしくて穏やかな性格だからね。だからヴェイルの元の人格も保たれている。シアンの元の性格は、僕もヴェイルも継承以前に彼女に逢ったことはないからわからないけど……でも今の、感情の変化を見せない彼女は陰の性格の影響を多大に受けていると言って間違いない。……イーゼルで彼女が覚醒したのを見たよね?」
 シアンが覚醒した、という言葉にユーフォリアは背筋が凍る想いがした。イーゼルの丘で見た別人のようなシアンの姿は冷たく、畏怖の念を抱かせるものだった。ユーフォリアだけではなく、アルスたちもそのときのことを思いだす。あのシアンの瞳や声を忘れることなどできなかった。ヴェイルですら排除することを厭わないようなその態度は、普段のシアンからは想像もできない姿である。
 イーゼルでのシアンの覚醒をユーフォリアはありありと思いだしていた。セラフィックが覚醒と言った以上、あれがシアンに秘められている力なのだろう。あの力をもってすれば、ヴォイエントを破壊することもできるかもしれないし、シアンの身体はその力に耐えきれずに張り裂けていた。今まで聞いていた覚醒についての情報と、イーゼルで見た光景は一致している。
「あの冷たい声の奴が、陰の人格だって言うのかよ……!?」
 ユーフォリアの問いにセラフィックは深くゆっくりと頷いた。そして更に説明を続ける。
「そう……あれが陰の人格そのものなんだ。非情で残酷で……クライテリアでは最も畏怖すべき存在だった」
「……それが、シアンに宿ってるってのかよ……。……でも、なんで今まで普通にしてたのに、急に覚醒なんかしちまったんだ?」
「陰の力は神罰の力……だから死者と深く関わりがある。陰の力を持つシアンは死者の残留思念や不死者、それに関連してキーストーンに非常に強く反応するんだ。だからイーゼルの街でたくさんの人の命が潰えたことと不死者が出現したこと、そしてキーストーンが強い波動を放っていたことが引き金となって、彼女は覚醒した……禁忌という、陰の力を象徴する術を使う、いや、聞いた話からすると、イルブラッドに"使わされる"ことでね。……そしてあのとき、白い鳥みたいなのが見えたよね? ……あれがマルドゥークだよ」
「マルドゥーク……!? それって伝承にあるやつだろ? 創造主が召喚したっていう……」
「そう。伝承では召喚っていう言葉が使われているみたいだけど、実際は創造主の波動が具現化したもの……だからマルドゥーク自体に意志はない。でも創造主の、特に陰の力で構成されたマルドゥークの力は半端じゃなく大きい……創造主クレアがやろうと想えば、ヴォイエントを消し去ることもできる。シアンの意志が残ってたから、イーゼルのときはクレアも不完全な覚醒に当惑していたみたいだけどね。……でも、陰の力はともかく目覚めてしまった。そしてそれはまずクライテリアに凄惨をもたらしたんだ」
「……崩壊、ってやつか」
 低い声で唸るようにハディスが呟いた。シアンが覚醒した後にクライテリアで起こったこと、といえば一番に浮かんでくるのがそれだった。くわしいことを知らなくとも、それくらいの推測はつく。
 ハディスに対してセラフィックは首を縦に振る。それとほぼ同時にシャールがまた気紛れに口を開いた。
「創造主が宣告や神罰の対象としてたのは人だけじゃねぇ。クライテリアを構成するものすべてがそうだった」
「それなのに陰の力だけが覚醒しちまって、均衡が失われて……そのへん神罰だらけでドカーン……ってことか」
「テメェのレヴェルに合わせた貧困な語彙で言うとそうなるな。崩壊っつっても微塵に砕かれたわけじゃねぇ、廃墟になった程度に留まった。俺も含め、クライテリアは怪我人と死者に溢れたが……アリアンロッドが創造主の覚醒にセーヴをかけなければ、木っ端微塵だったんじゃねぇか……俺たち人間も含めてな」
 言うだけのことを言ってしまうと、シャールはまた話から興味を失ったかのようにやる気のない瞳をしながら口を閉ざした。話題が途切れて、部屋は静かになる。
 そこにキッチンからシアンがゆっくりと歩いてきた。あまりに静かな部屋の様子に小さく首を傾げながらリビングへと入ってくる。ライエが「どうしたの?」と声をかけると、シアンは「あんまりいると邪魔になりますから」と短く答える。そして再びライエの座っているソファに腰かけた。実の妹に接するようにライエはやさしい笑顔でシアンにキッチンであったことについて問いかける。シアンはそれに対して相変わらず端折りつつ返事をしていた。
 先程から黙っていたアルスは一度キッチンを見遣った。ヴェイルはこちらの様子を気にすることもなく料理に熱中している。それを確認してアルスはヴェイルから視線を外す。そして、シャールとセラフィックを交互に見遣りながら口を開いた。
「……訊きたいことがふたつある。いいか?」
 その言葉に対してシャールは無関心な顔のまま変化を示さず、セラフィックはゆっくりと頷いた。シャールが快い反応をしないのは予測できていたため、アルスは構わずにセラフィックに向かって質問を始める。
「まずひとつ。……陽の力は今どうなっている? 陰の力が覚醒した影響が出ているということは、陽の力はまだ覚醒せずに眠っていると考えていいのか?」
「……それは僕たちにもよくわからないんです。仰る通りヴェイルの中で力が眠ったままでいる可能性はあります。でも……最悪、その力が失われてしまっていることも考えられるんです」
「それは……ヴェイルが継承の儀式とやらに失敗したからか?」
「そうです。陰の力はシアンに受け継がれた、それは間違いないんです……あの場での目撃者が僕以外にもいますし、覚醒もしていますから。でも陽の力がヴェイルに完全に受け継がれた証拠はどこにもないんです。たしかに強力なレメディをヴェイルは使うことができます……けれどそれが力を総て受け継いだということにはならないんです」
「力の一部だけが継承され、あとは失われてしまったということも考えられるということか……」
「ええ。ヴェイルが覚醒すれば、完全に継承されていたことがわかるんですけどね……今までそういったことはありませんでしたし」
「そうか、わかった。……それと、もうひとつの疑問だが……」
 言いながらアルスは再びキッチンを見遣った。ヴェイルがこちらの話を聞いていないかどうかを気にするように、アルスは先程からも横目でヴェイルを見ている。しかしヴェイルはキッチンで忙しそうにしている。こんな状況だからこそ、何かに没頭することで落ち込む要素を払拭しようとしているのかもしれない。
 一度言葉を切って、次に言うことをアルスは整理した。そして言葉を慎重に選ぶように言う。
「さっきの話を聞いた限りでは、ヴォイエントが救われなかったのはヴェイルの所為、と言っていいように俺は想う」
「……っ! あー坊! テメェ何言ってんだよ、言ってシャレになることとならねぇことがあんだぞ!!」
 反射的にハディスが音をたてて椅子から弾かれるように立ち上がった。ユーフォリアも驚きと怒りが混ざったような表情でアルスを睨んでいる。しかしアルスは冷静に「まぁ黙って聞け」と二人をたしなめた。
 ハディスが立ち上がった際の大きな音に、ヴェイルはリビングを振り返った。しかしそのときに目が合ったシアンの表情がいつものような覇気のないものだったため、不思議そうに首を傾げながらもリビングまで来ることはない。鍋を火にかけたままだったため、結局ヴェイルはまた料理に集中した。
 今にも殴りかかってきそうなハディスを牽制しながら、アルスはヴェイルがリビングへやって来ないことを確認した。そしてセラフィックに向かって続ける。
「だが、お前もシャールもそういう感情は持っていないように見える……。お前だけならまだしも、シャールも同じ態度でいることが気になってな。シャールがクライテリア崩壊の際に大怪我をしたのも、もとはヴェイルが継承に失敗したからだろう。しかし継承失敗を理由にヴェイルを出来損ないと呼ぶシャールが、そのことについてはひとこともヴェイルに文句を言っていない」
「……なるほど、あなたは本当に頭脳明晰なんですね」
「茶化すな、」
「べつに茶化しているつもりはありません。ただ僕の口から話すのもどうかと……」
「黒幕の存在があるってことだ」
 話すのを躊躇いかけていたセラフィックを遮ってシャールが声を発した。それを聞いてシアンが「黒幕?」と呟く。シアンもこのことについては何も知らないようだった。
 シアンが反応したのを見てシャールはシアンを見遣った。それまで喋るのを面倒くさそうにしていた態度から一転して、シアンに自発的に情報を提供しようとする。相変わらずのシャールの様子にアルスたちはやれやれと想わずにはいられない。しかしそれで話がつながることを考えると、シアンが反応を示したのは幸いだった。
「創造主の器となるべき人間の候補から実際に継承の儀式を行う人間を選ぶ、という役割を担う人間……選定者っていう野郎どもが存在する。黒幕はそいつらだ」
「その人たちが何かしたってこと?」
 シアンがシャールに向かって首を傾げる。シャールは「簡単に言えばそうなるな」と首肯した。それから、ひとつ間を置いて、話の詳細を待っているシアンに向かって続ける。
「創造主の器となるべき候補が数人いるなら、最も精神力が強い人間が最終的に選ばれるはずだ。精神力が弱けりゃ、創造主の意識なんざ受け入れられるはずはねぇからな。……だが、あの出来損ないは言ってみりゃぁ二番手だった。誰もあいつが選ばれるなんて想ってなかった、一番手はセラフィックだったんだからな」
「そう、なんですか……?」
 小さい声でそう言いながらライエはセラフィックを見つめる。セラフィックは「まぁ、一応ね」と遠慮がちに頷いた。自分の口から話したがらなかったのも、自分がヴェイルより精神力があったということを豪語しにくかったのだろうと、アルスは納得したような表情を浮かべている。その横でハディスも「なるほどな」と呟いていた。
 精神力があるということを聞いて、術に興味を持つユーフォリアが羨ましそうにセラフィックを見ている。その羨望の眼差しにどう反応すべきかわからないまま、セラフィックはヴェイルを擁護した。
「一番とか二番とかみんな言ってたけど、実際僕とヴェイルはほとんど同じ実力だったんだよ。いつも一緒に鍛錬してたし、ヴェイルが努力してる姿も僕はちゃんと見てる」
「んなこたぁ今関係ねぇだろ、出来損ないは出来損ないだ。……あいつは聖の力を使うことができなかった」
「聖の力……ってなんだ?」
 ユーフォリアはセラフィックに向かって問いかける。シャールが返事をしてくれないだろうという予測ももちろんあるのだろうが、それ以上にユーフォリアがセラフィックを視る瞳は、親しい兄に対してのようなものだった。
 セラフィックもまた弟に向かって言うようにやさしい瞳でユーフォリアを見つめる。
「術っていうものには炎とか水とかの属性があるよね。聖の力っていうのもその属性のひとつなんだ」
「……あ、それってもしかして、クライテリアの人にしか使えない属性ってやつか? 聖と冥はヴォイエントの人間には使えないんだろ?」
「そう。冥の力はシアンやシャールが使ってるのを見てるかもしれないけど、あれは強力な破壊の力……。そして聖の力っていうのは、その冥と対になる力なんだ。そしてその力は創造主の陰の力に対抗できる。つまり、聖の力は継承のときに陰の力に耐えられるように僕たちが身につけるべきノルマとしてあったんだよ」
「……じゃあ、イーゼルで私に使った術っていうのが聖の力なんだ?」
 途中でシアンが口を挟む。それは口を挟むというよりも、ひとりで納得するような口調だった。疑問を投げかけてはいるものの、自ら答えを出してしまっているようである。それはわかっていたが、セラフィックは「そうだよ」とシアンに答えた。
 シアンとセラフィック以外の人間はどのようにしてシアンの覚醒がおさまったのか見ていない。しかしこの会話から、セラフィックが聖の力で陰の力を抑えたということが全員に伝わった。頭にあった疑問が解決して、アルスは「そういうことか」と低く呟く。
「陰の力を抑えるという、継承にあたっては重要なファクターが欠けている人間と、それを会得している人間……そのふたりが他の分野においてほぼ同等の力を持っているとすれば、誰もが会得している人間が継承に相応しいと想う。しかし現実はそうではなかった……、そして今のような結果をもたらした……、ということか」
「そうだ。出来損ないが失敗することはほぼ決まっていた。陰の力がおとなしくしてりゃあ成功したんだろうが、そんな気質じゃねぇからな。……だが、選定者はあの出来損ないをクライテリアとヴォイエントの希望だと祀りあげた。選定者の決定は絶対だった、なにしろあいつらは創造主が継承を控えて宣告と神罰の力を自ら封印したそのときにイカサマをやりやがったんだからな。神罰で裁かれることもねぇ。誰も文句なんざ言えねぇまま、仕方なくあの出来損ないを希望だと位置づけた……」
 シャールの説明に、ハディスは「ひでぇ話だな……」と苦々しい表情を浮かべた。ライエも口元に右手をあてて言葉を失っている。ユーフォリアはキッチンをちらちらと見遣ってヴェイルの背中を見ていた。
 そのときセラフィックのズボンのポケットで電子音が鳴った。セラフィックはポケットに入っていた携帯電話を取りだした。しばらくして電子音が止み、携帯電話の画面には着信元が表示されている。それを見てセラフィックはゆっくりと立ち上がった。
「……ごめん、僕もう行かないと。……アクセライが呼んでる」
「あいつのとこに戻っちまうのかよ?」
 ユーフォリアも立ち上がってセラフィックを引きとめようとする。ユーフォリアの声がキッチンまで届いて、ヴェイルはリビングを見た。先程とは違ってコンロの火はついていない。料理をするのを中断して、ヴェイルはリビングへとやって来た。
 一度ヴェイルと目を合わせてから、セラフィックはユーフォリアへと視線を戻す。そして小さく頷いた。
「うん。……アクセライとは友達だから。彼のやろうとしてることを止めたいのは事実だけど、傍にいるからできることもあると想うんだ。またできる限りの情報提供はさせてもらうよ」
 そして「いろいろとありがとう」と全員に対して微笑むと、セラフィックは玄関へと向かった。友達だから、という言葉に誰もセラフィックを引きとめることはできない。すっかりセラフィックに懐いてしまったユーフォリアが「また来いよな」という言葉を投げかけ、ハディスもそれに同調していた。
 ソファからゆっくりと立ち上がって、シアンはセラフィックを追った。玄関の扉を開けて外に出るセラフィックについて一緒に扉の一歩外まで出ると、振り返ったセラフィックに小さく「お見送り」と呟く。それに対してセラフィックは「ありがとう」と微笑む。その笑顔には一点の曇りもなかった。
 少し間を置いて、シアンはセラフィックを見つめたまま言う。
「助けてくれて、ありがとう」
「いいんだよ、そんなの。……覚醒したとき、怖くなかった?」
「わからない……、でもあれを怖いと人が言うのなら怖かったのかもしれない」
「まだそういう感情とか気分とかはよくわからないか……」
 少し残念そうに言うセラフィックに、シアンは小さく頷いた。しかしすぐに思いだしたように「あ……」と声を発した。
「……ひとつだけ、はっきりしたことがある」
「はっきりしたこと……? って、何?」
 セラフィックが首を傾げる。
 しばらく言葉を頭の中で並べるのに時間を要し、その間にシアンは後ろ手で玄関の扉を閉めた。宿舎の通路からは外の風景が見えない。全体がコンクリートに覆われているため、どこか閉鎖的な感じがする。風景を見てゆっくりと頭の中を整理するということはできなかった。
 いつまででもセラフィックは待っていてくれそうな気がする。けれどそれに甘えていてもいけない気がして、シアンはセラフィックから視線をそらせた。身体の後ろで手を組み。足元を見つめる。
「……私、みんなが好きだよ」
 冷めた顔をしながら、シアンは呟くように言う。抑揚のない声とその台詞はどうにも噛み合っていない。けれどそれが微笑ましくて、セラフィックはふわりと微笑んだ。
「……それがわかったってことは、君にとっていいこと……だね?」
「うん、……そう、想う。……覚醒したとき、陰の力はみんなを瑕つけようとしてた。それは厭だって想った。……それから……セラが助けてくれて、目が覚めたらみんながいて、よかったって想った。……これは好きだってことなんだなって。……今考えてみたら、なんでそんな単純なことわからなかったのか不思議だけど」
 俯いたままシアンは目を閉じた。
 セラフィックの手がそっと伸びてシアンの髪に触れる。それに反応してシアンが顔をあげると、セラフィックは小さく苦笑した。
「やっぱり君はやさしくて強い人だね……。陰の力の影響下でもそんなことが言えるなんて」
「私がどうこうじゃないよ。気付かせてくれたのはみんなだから」
「……まったく、そういうことを簡単に言えるのが君のすごいところだよね」
 思わずセラフィックはシアンの髪から手を離して息をひとつ吐きだした。目の前の少女は表情ひとつ変えずにセラフィックを見上げている。それはあまりにも無垢で、果敢ない。そんなシアンに再びそっと手を伸ばそうとして、セラフィックは思いとどまった。
「本当ならそんなに殊勝な君を思いきり抱き締めてあげたいんだけどな、今そんなことするとヴェイルにこっぴどく怒られそうだからやめておくよ」
 そう言いながらセラフィックは小さく笑う。しかしシアンはその言葉の意味がわからずに首を傾げた。それを見てセラフィックはシアンの肩を素早く抱き寄せるとその頬に一瞬のキスをした。そして何もなかったかのように身体を離す。
 心からの笑顔を浮かべて、セラフィックは「またね」と言ってシアンに背を向けた。シアンが自分の背中を見つめているのを感じながら、一度も振り返ることなくセラフィックは宿舎の通路を抜ける。
 I.R.O.本部のロビーまで到着して、宿舎がまったく見えなくなってからセラフィックは雑踏の中で足を止めた。午後のI.R.O.本部は多くの人で溢れている。機械的なこの建物の中で行き交う人々の声があちこちから聞こえてきた。その中をゆっくりと歩いて、広いロビーの壁際まで来て再び足を止める。そして壁に背中を預けてポケットから携帯電話を取りだす。開けた画面の履歴欄にあるアクセライ名前をしばらく眺めてから、セラフィックは目を閉じた。
「……シアンは陰の力の傀儡なんかじゃない。彼女はひとりの人だ。……彼女を人と想わないなんて、僕にはできない……」
 そう呟いてセラフィックは携帯電話を閉じて再びポケットにしまいこんだ。もう暫く、数分でも連絡をとるのを先延ばししたかった。大きくため息をついて、目を開ける。そしてコンクリートで造られている天井を見上げた。
「ヴェイル……、本当に強いのは僕じゃない。僕を動かすのは、彼女の強さなんだから……」