蘇る遠き日々




 後ろ手でドアを閉めながら、ライエは息をゆっくりと吐き出した。
 玄関にハディスが顔を覗かせて「おかえり」と声をかける。小さく頷いてライエは靴を脱ぎ、家の中にあがった。
 イーゼルの事件から三日目の昼間だった。一時はスフレで休んでいた一行だが、今はアルスの家へと移動している。イーゼルでのアルスとライエの仕事が片付いたため、宿よりも落ち着く処に集まろうと此処へ移動したのである。
 リビングまでライエが来たところでハディスが「どうだった?」と訊ねる。ライエは少し疲れたような顔をしながら口を開いた。
「一通り街の様子を見てきましたけど、セントリストでもあのイーゼルの話題で持ちきりです。第二次エヴィル・イーゼルだとかニュースでも言われていますし……。それと、聖堂でも混乱が起きています」
「聖堂で? なんでまた……」
「あの、丘と山が崩れたときに夜空に浮かび上がった白い鳥のようなものを、あれがマルドゥークだって言いだす方がとても多いらしくて……」
「マルドゥーク? それってたしか伝承に出てくるやつだろ? 創造主が召喚したっていう……。創造主についてのヴィジュアル的な資料は残ってねぇってどっかで聞いたがな……」
「残っていないからこそ、口々にいろんなことを言う人が出てくるのだと想います。多くの人は、人間があんな醜い争いをしているから、創造主様がお怒りになったんだって……」
 ライエの説明にハディスは「なるほどな」と頷いた。
 イーゼルの一件はエヴィル・イーゼルのときと同じように世界中で噂されていた。そして五年前とは異なり、夜空に浮かんだ白い鳥のようなものも話題を呼んでいる。その白い鳥については様々な立場の人間が好き放題に推論を掲げている。ライエの言うように創造主の怒りだとする声もあれば、術力の最高峰だとして研究しようとする者もいる。天文学者は天体がもたらした現象だと考え、探偵は事件を起こした犯人の犯行声明だととらえているなど、解釈は実に様々だった。
 二人の会話が途切れたところで再び玄関のドアが開く。そしてユーフォリアが家の中へ入ってきた。それとほぼ同時に家の奥からアルスがリビングへやってくる。二人にライエが訊ねた。
「そちらはどうでしたか?」
「スフレも大騒ぎだった。フォリオ学院でも術の研究大会の目的がころっと白い鳥の波動研究に変わってたしな。これじゃ学校もいつ始まるかわかんねぇよ」
「こっちも同じだ。地下室で様々なネットワークを検索してみたが、事件や白い鳥のようなものの話題だらけだった。皆が好き勝手なことを言っていて、まとまる気配は今のところない。クルラの調べた限りでも同じような状態だったと言っていた。カシアにも連絡をとってみたが、ノルンでも大変な騒ぎらしい」
「ノルンは聖堂が多いですから……余計に混乱しているのかもしれません」
 アルスの話に相槌をうつようにライエはそう言った。
 話が途切れてしまうと部屋はしんとしてしまう。普段一緒に暮らしているメンバーが欠けるというのはやはり不自然なものだった。それはきっとシアンが此処にいないということよりも、この家の中にいながらも目を覚ましていないからだろう。
 ハディスが頭を掻いた。
「本当のことはヴェイルが知ってるみたいだけどな……本人があの状態じゃ何も聞きだせねぇだろ。セラがかわりに話すみたいなこと言ってたが、シアンが目覚めてからにしようと想ってるみてぇだし」
 ハディスの言葉にアルスたちは小さく頷いた。
 イーゼルでの一件以降、ヴェイルは殆どアルスたちと口を聞こうともせず、ずっと塞ぎ込んでいた。誰かが気を遣ってやさしい言葉をかけようとも、曖昧な返事しか返ってこない。いつもの穏やかな笑顔は完全に消えてしまっている。どんな励ましにも応える気配はなかった。
 息を大きく吐きだしながらユーフォリアがハディスを見上げた。
「オッサンもセラフィックじゃなくてセラって呼んでるけどさ、なんかもう、すっかりセラって馴染んだよな。最初は警戒してたはずなんだけど……悪い奴には見えないってか、すっごい良い奴に見えるし」
「そうなんだよな。人との溝を埋めるのが巧いっつーか、気さくっつーか……。気も利くし、どっかのガキとは大違いだぜ」
「どっかのオッサンとも大違いだけどな」
 いつものようにハディスとユーフォリアがそんなことを言いながら睨み合う。同じレヴェルで言い合おうとする二人を見て、アルスは毎度のことながら溜め息をついた。
 セラフィックはアルスに誘われて一緒に来てからというもの、すぐに全員と仲良くなった。シアンの言っていた通り、セラフィックの言葉には嘘がまったく感じられない。最初は警戒していたアルスさえも少しずつ心を赦すようになってきていた。
 おずおずと、ライエはアルスに訊ねた。
「それで、シアンさんは……」
「まだ眠ったままだ。今ヴェイルとセラフィックがついている。セラフィックは二、三日眠り続けるかもしれないと言っていたからな……今日でもう三日目になる、あいつの言う通りならそろそろ目を覚ますかもしれない」
「そう、ですか……。あの、シアンさんが目を覚ましたとして、またあのときみたいに違う人の人格みたいになっている可能性はないんですか? その……疑うわけではないんですけど、なんと言うか……」
「言いたいことはわかるが、その心配はないだろう。セラフィックが言うにはシアンは元に戻ってから気を失ったらしい。実を言うと俺もそのことが気になってセラフィックに訊ねてみたが、あいつが確証を持ったように大丈夫だと言っていたからな……。仮にあのときのような状態でシアンが目覚めれば、あいつだって無事では済まないはずだ。ヴェイルが特に訂正しなかったことを考えても、セラフィックの発言は信用できるものだろう」
 やさしい瞳でアルスはライエを見遣る。頬を僅かに紅く染めながら、ライエは安堵の表情を浮かべた。
 窓の外は曇りはじめている。まだ昼間だというのに薄暗かった。雨を呼びそうな黒い雲がゆっくりとセントリストの上空を覆おうとしている。










 シアンは寝室のベッドの上でずっと目を閉じたままでいた。力の抜けた小さな身体は少しも動かずにそこにある。天気が悪くなってきたせいで部屋は暗くなっていたが、ベッドサイドにある椅子に腰掛けたヴェイルは電気をつけようともしない。そのヴェイルの判断に任せるようにセラフィックもそのままの状態で、壁際に立ってシアンとヴェイルの状態を眺めていた。
 ヴェイルはずっと俯き加減でいる。シアンを心配しながらも、罪悪感でシアンを直視することすらできない。その背中はあまりにも痛々しかった。
 部屋の中に、物音ひとつしない時間が続いていた。暫くすると扉が遠慮がちに開き、ゆっくりとアルスたち四人が様子を見に入ってくる。しかしヴェイルの様子を見ていると、誰もがあまりこの場で話をする気にもなれず、結局はまた静かな重苦しい時間が流れるだけだった。
 あまりに重苦しい空気に、ユーフォリアは部屋を出ていこうとする。その瞬間、シアンの喉から微かに声が漏れた。ユーフォリアがぴたりと動きを止めてベットの方を振り向き、ヴェイルがはっと顔をあげる。
 ゆっくりとオッドアイが瞬きを繰り返しながら開かれる。
 掠れた声でヴェイルがその名を呼ぶ。しかしヴェイルの唇は震え、それ以上の言葉は出てこなかった。頭の中が錯乱してどう声をかけるべきかもわからないような状態で、ただシアンを見つめている。
 アルスたちも思わず身を乗りだしていた。壁際に立っていた、すべてを知っているような顔をしているセラフィックだけが冷静にベッドに歩み寄る。そしてシアンのまだ虚ろな瞳を見つめて笑顔を浮かべてみせた。
「おはよう。……ここは君の部屋だけど、わかる?」
 しばらくシアンはぼうっとした瞳でただセラフィックをぼんやりと見つめていた。頭がすぐには働かず、思考が停止したまま目がかろうじて目の前の風景をとらえている。しかしそれが何なのかシアンが識別するまでには時間を要した。
 十数秒してからやっとシアンははっきりと眼を開いた。それからマイペースに部屋の中を見回す。此処がたしかに自分の部屋であることを確認して、部屋の中にいるメンバーをひとりひとり認識してから、シアンはようやく口を開いた。
「……あれ? みんなセラと知り合いだったんだ?」
 予想もしなかった最初のひとことに、全員が一瞬ぽかんとする。周りの反応にシアンは小さく首を傾げた。不思議そうな表情をしているシアンにアルスが説明する。
「お前を助けたのがセラフィックで、俺たちはその後で助けられたお前を見つけた。そこでセラフィックと初めて逢ったんだ。……ヴェイルは以前から知り合いだったらしいが……」
「……そうなんだ?」
 シアンの視線はアルスからヴェイルへと移る。しかしヴェイルは曖昧に頷くのがやっとだった。まだシアンに対してどういう態度をとるべきか決めかねている。それでもその姿や表情は、シアンが意識を取り戻してからは今までの暗さが嘘のように明るくなっていた。
 ハディスはヴェイルに近付くと、ヴェイルの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「よかったなぁ、ヴェイル」
「あ、……うん、」
「お嬢ちゃんが眠ってる間、ヴェイルの奴すっごい落ち込んでたんだぜ?」
「……落ち込んでた?」
 ハディスの発言にシアンは再び首を傾げた。慌ててヴェイルはハディスを見上げて何やら言いたそうな顔をする。しかし適当な言葉は浮かんでこなかった。
 シアンの視線を感じて、ヴェイルはシアンの方に視線を戻す。そして、やっとちゃんとした言葉を発した。
「それで……、大丈夫なの? どこか痛いとか、気分悪いとか……」
「心配しなくてもいいよ。なんか、たくさん寝たみたいだし……」
「たくさんと言うか、三日も眠っていたからな」
 まだ半分頭の中がぼんやりとしているシアンは、アルスのその言葉に僅かに驚きを示した。口の中で小さく「三日もなんだ……」と呟く。そして呟きながらゆっくりと身体を起こそうとした。
 そのとき、部屋の隅に蛍光色の光が集った。突然現れたその光は、ゆっくりと人の形を形成しはじめる。光が少しずつ消え、はっきりと人の姿が現れたのを見てシアンは勢いよく身体を起こした。
「シャール!?」
 光が消えて現れたシャールは床に片膝をつき、右手で胸元を押さえている。その身体はいたる箇所に瑕を負い、紅い涙を流していた。いつもと同じような黒い服もボロボロになり、髪も乱れている。肩を激しく上下させて懸命に呼吸をしていた。傷ついた身体でシャールはやっとのことで顔をあげた。痛みを堪えようと歯を食いしばりながら長い前髪の奥で眼を開ける。正面にシアンの姿を捉えると、痛みのせいで喉から漏れる声を押し殺して言葉を紡いだ。
「……アリアン…ロッド、……無事、か……?」
「無事かって……シャールさん、その怪我……どうしたんですか!?」
「ヴェイル、お願い」
 慌ててライエがハディスに駆け寄り、シアンは真剣な眼差しでヴェイルを見つめる。アルスたちも驚いてシャールを見遣った。
 シアンにまっすぐに見つめられ、ヴェイルは小さく頷いて立ち上がった。そしてシャールのもとへ歩み寄ると精神集中を開始する。やわらかい光を発する手をシャールに翳した。
「……彼の者に際限なき加護を与えん」
「余計なことすんじゃねぇ、テメェの助けなんざ借りなくとも……」
「あんまり喋ると瑕に響くよ。……僕の慈悲じゃない、シアンの頼みだからやってるんだ。……そう想えばいいだろう?」
 ヴェイルの放つ光はみるみるうちにシャールの身体を癒してゆく。開いていた傷口は完全に塞がり、シャールの身体から痛みが完全に消えた。
 シャールに近寄ろうとシアンはベッドからおりようとした。するとセラフィックがそっと手を差し伸べる。まだ完全に頭がすっきりとしていないため、シアンは勢いよく起き上がって軽く目眩を憶えていたところだった。それを見抜いていたように差し伸べられたセラフィックの手をシアンはそっと取った。
 ゆっくりと手を借りながらベッドから出て、シアンはシャールに歩み寄る。そしてシャールの目の前まで来ると、片膝を床についているシャールを覗き込むように床にぺたんと座った。
 ヴェイルが放つレメディの光が消えると、シャールはいつものようにしっかりとした紅い瞳でシアンのオッドアイを見つめた。
「……いつものお前のようだな」
「うん……、シャール、さっきの怪我は……」
「……クライテリアが崩壊した」
 シャールの低い声に全員が反応した。クライテリアが崩壊したというその言葉を冷静に呑み込むまでに、シアンですら数秒を要する。ただセラフィックだけが驚くことなく、苦々しい表情を浮かべた。
 間をおいてからアルスが「どういうことだ」と問いかけようとしたが、その前にセラフィックがシャールに向かって口を開いた。
「やっぱり秩序は保たれなくなったんだね……」
「……! セラフィック……。……なるほどな、お前が一枚噛んでたか。……アリアンロッドが無事なのも納得がいく」
「久しぶりだね、シャール。今シアンが目覚めたところでね……これからいろいろと話そうと想っていたんだ。こうなってしまった以上、シアンの周囲にいる人間が何も知らないっていうのは危険だから」
「シャールもセラと知り合いだったんだ?」
 周囲にいる人間にとってはわけのわからない会話をするシャールとセラフィックを見ながらシアンはそう呟く。セラフィックは「そうだよ」とあっさり答えた。
 全員の視線がシャールとセラフィックに集まる中、セラフィックは一旦今の状況をまとめるように言う。
「とにかく、今シャールが言いかけてたことも含めて、一度きちんと話をしたい。シアンも起きたことだし……」
「もとよりそのために一緒に来てもらったんだ。異論はない」
 しっかりとアルスは頷き返す。ライエたちも同意見だった。
 シアンの部屋はそこそこの広さがあるものの、これだけの人数が入れば狭く感じられる上、椅子もひとつしかない。そのため、一同はひとまずリビングに移動することにした。シャールが立ち上がり、シアンもマイペースに腰をあげる。そしてシアンはそのまま扉の方へは行かずに窓際に近寄ると、窓の外を見つめた。
 グレイの雲が垂れ込める空はどこか不安定で頼りないものに見える。そんな空を見つめて、シアンは消え入りそうな声で「あのね、」と控えめに切りだした。ヴェイルがその声に反応してシアンの背中に視線を移したが、シアンは窓の外を見たまま続ける。
「……私、眠ってる間に思いだした」
「思いだした……って……」
「いろいろ。……私の持ってる力のこととか、私がすべきこととか。……ヴェイルもセラも私に黙ったままでいてくれてたのに……ごめんね」
 俯き加減にヴェイルは「君が謝ることじゃないよ」と返す。しかしその声は心なしか少し震えていた。
 対照的にセラフィックは穏やかな表情のままでいる。シアンの隣まで移動すると、シアンの背中を軽く叩いた。そして反応して振り返ったシアンに向かっていつものように微笑む。
「いずれは思いだすことだっていうのは、僕もわかってたから。ただ、無理矢理に記憶を掘り起こされて君が苦しむのは厭だった。……君が自分で思いだしたんだから、それはきっといいことだったんだと想うよ。覚醒した<あの>ときは辛かったと想うけど……」
「それはべつに……。セラが助けてくれたし……」
 反射的にシアンはかぶりを振った。けれど、それ以上の言葉は出てこない。何か言わなければならない気はするものの、それが言葉として巧くまとまるためにはやはり時間を必要とした。
 その虚ろな瞳にセラフィックは安堵感を与えるようにやさしい視線を送る。
「思いだしたなら、無理に話を聞かなくてもいいけど……どうする? あんまり君にとって嬉しい話でもないだろうし……」
「ううん、私も一緒に聞いてるよ。私の思いだしたこととセラの知ってることが一致してるかどうか確認しておきたいし……。それに、真実に耳を塞いでも何も変わらないから……私がしなければいけないことは逃げることじゃないと想うから」
「……君はやっぱり強いんだね」
「べつに強いわけじゃない。何が正しいかなんてわからないから、人は自分が正しいと想うことをする……そう言ったのはセラだよ」
 さらりとそう言いきって話を切り上げてしまうと、シアンはくるりと背を向けて部屋を出ようと歩きだした。相変わらずのマイペースぶりにアルスはやれやれといった表情を浮かべる。しかし特にシアンを咎めるようなことはしなかった。そしてアルスたちも追って部屋を出てゆく。
 部屋にはヴェイルとシャール、そしてセラフィックが残った。静かになった部屋の中で、シャールは不機嫌そうな顔をして舌打ちする。
「……相当無理してやがるな」
「だろうね……。投げ出すのは簡単だけど、自分が正しいと想える道を模索しようとしてる。彼女がひとりですべてを背負うのは酷すぎる」
 セラフィックは声のトーンを少し落として同意した。二人の会話を聞きながらヴェイルは開け放たれた部屋の扉の先を見つめた。そして、ふと窓の外を見遣る。ほんの少し前までシアンは窓の外を眺めていた。この空に彼女が何を想っていたのか、それを想像するだけでもヴェイルは胸が痛かった。