静寂への目醒め




 北区に到着して市街地に入ったその瞬間、シアンたちは立ち止まって顔をしかめた。
 あたりに焦げた匂いが満ちている。そして目の前には夜を照らす街灯にしては明るすぎるほどの光が満ち、そこから風に乗って熱が漂ってきていた。
 ライエが胸元で両手をぎゅっと握り締めて声を震わせた。
「……嘘…………そんな、こんなことって……」
「同じだ……五年前と……」
 アルスも思わず息を呑む。
 目の前にあった光景は、五年前のエヴィル・イーゼルと酷似していた。木造の家屋は火を噴き、火の粉を散らして止めようがないほどに燃え上がっている。そして周囲にははっきりとわかる不死者の気配があった。ただしこの光景はブラウン管を通して見ているものではない。現実に目の前にあるのである。
 遠くからサイレンの音が聞こえる。イーゼルの警察か救急隊、もしくは消防隊が到着しているのかもしれない。しかし今シアンたちがいる場所にはそれらしき人物は見当たらなかった。
 自分を落ちつかせるように一度深呼吸をしてからアルスは精神集中をはじめた。そして燃えている家の屋根に向かって手を翳す。
「穢れなき清らかなる雫を我が下に」
 翳したアルスの手の周囲に涼しい風が巻き起こる。そしてそれは目的へと飛翔し、そこに大量の水を呼び起こした。勢いのよい水に元気よく燃え盛っていた炎は消え失せた。しかし消火された家屋はほんの一部にすぎない。シアンが術を本気で放てば火は何度かの術で消せるかもしれないが、家屋も塵になってしまう。すべての家屋を壊さずに術で消火するというのはどう考えても無理だった。それでも、何もしないわけにはいかない。消防隊が此処へ到着するまでに少しでも被害をおさえておきたかった。
 アルスがそう想っていると、突然隣でユーフォリアが「オッサン!」と大声をあげて右側へと走りだした。はっとしてシアンたちもそちらに駆け寄る。そこにハディスは煤を頭からかぶった状態で蹲っていた。その腕の中には見知らぬ女性の姿がある。
 ゆっくりと身体を起こすとハディスはその女性にやさしい笑顔を向けて「大丈夫か?」と言いながら腕から解放した。それを見たユーフォリアが黙っていられずにハディスに近寄って身体の煤を手で払い落とす。
「オッサン、無茶してんじゃねぇよ!」
「……うるせぇ、こんな状況、黙って観てられっかよ! ひとりでも逃げ遅れてる人を助けねぇと、」
「だからってオッサンが無謀に突撃したってしょうがねぇだろ! シアンがキーストーンがあるかもしれねぇって言ってた。人を助けるのは大事だけどさ、ひとりで突っ走ったら絶対危険だ」
「ユーフォリアの言う通りだよ。僕たちだって手伝えるんだから。……ま、もうしっかり怪我してるみたいだけどね」
 ヴェイルはそう言うとハディスの隣まで歩み寄って地面に片膝をついた。そして精神集中をするとハディスの左腕に手を当てる。そして「彼の者に際限なき加護を与えん」と言葉を紡ぐ。やわらかな光が傷口に集い、傷を癒していった。
 その様子を見ながらシアンは上着から二本の短刀を取りだした。不死者の気配がすぐそこまで迫っている。そして不死者が視界に現れた瞬間、鞘を抜いてシアンは地面を蹴った。慣れたように担当で数体の不死者を薙ぎ倒す。
 そのシアンの背後で不死者の存在に気付いたユーフォリアが精神集中を始めた。シアンがユーフォリアの行動に気付いて、ユーフォリアが精神集中を完了すると同時に大きく跳躍する。不死者とユーフォリアの間に何の障害もなくなったその瞬間、ユーフォリアは術を放った。
「地中より昇りしその魂よ集え 厄災を抱き禍根を残せっ!」
 地面が隆起し、不死者はその隆起に呑み込まれてゆく。相変わらず不死者は悲鳴ひとつあげない。
 周囲に見えていた不死者の姿がなくなったのを確認してハディスは助けた女性を立たせた。
「今警察と救急隊がこっち向かってる。あと、消防隊もな。とにかく南へ逃げるんだ」
「で、でも……まだ家族がこっちに……」
「心配すんな。俺様たちや警察がなんとかするから。キツいこと言うかもしれねぇが、お前さんが此処にいたって戦えるわけじゃねぇんだろ? もしかしたらお前さんの家族はもうどっかに避難してるかもしれねぇ。生きてりゃ、すぐ連絡とって逢える。お前さんが無謀なことしちゃ意味ねぇだろ? ……って、俺様も今、こいつらに言われたとこだけどな」
 ハディスが穏やかな声で説得する。女性は少し悩んだ後に、顔をあげるとゆっくりと頷いた。そして「ありがとうございました」とハディスに深く礼をすると、南へ向かって走りだす。
 不死者を撃退したシアンがハディスの元へと戻ってくる。そして目の前にいるハディスにやっと聞こえるほどの小さな声で、いつもの覇気のない口調ではなく少し厳しく警告した。
「……自分では過剰だと想うくらい冷静になった方がいい。感情で行動すれば哀しい結果しか残らない」
「…………だな。わかってる……わかってんだ、頭ではな……」
「怪我、しないでほしいから。……でも、人を助けないといけないのもわかる。……行こう」
「ああ……。わかっちゃいるが、冷静になりきれる自信はねぇや……情けねぇけどよ。……俺様見て頭に血が上ってるように見えたら、ガツンと言ってくれな」
 ぎゅっと拳を握り締めながらハディスは深呼吸をした。その表情は何か溢れそうな感情を必死にこらえているように見える。炎の光を正面から浴び、表情は更に厳しいものになっていた。大きく息を吸い込んで「よっしゃ、行くぜ!」と叫ぶとハディスは火の燃え盛る方に向けて走りだした。シアンたちも少し遅れてその後を追う。
 行く手を阻む炎をヴェイルとアルスが可能な限り術で消し、現れた不死者をシアンが薙ぎ倒し、ユーフォリアが術で一掃する。ハディスは人々を家屋から助けだしながら、立ちふさがる不死者を殴り倒した。そして怪我をした人々にライエが応急処置を施し、南へ向かって逃げるルートを支持する。これだけ火が広がっていることを考えると、ヴェイルはレメディを使う余力があまりなかった。とにかく、少しでも多くの人を助けなければならない。
 夜だとは想えないほど、炎の舞う街は明るかった。
 段々とハディスの顔に焦りが浮かびはじめる。このままではまた多くの人が被害に遭ってしまう。シアンはそのハディスの様子を見ながら不死者を倒し続けていた。
 道に倒れている子どもを発見して、ハディスはその子どもを抱きかかえた。男の子はこの状況にどうしようもなく泣き叫んでいる。ハディスが安全な処に子どもを移動させようとしたその瞬間、ハディスの頭上に燃えて崩れ落ちた家屋の柱が倒れてきた。
 はっとしてシアンは地面を蹴ると、ハディスを思いきり体当たりで突き飛ばした。柱が倒れ、シアンと子どもを抱えたハディスは間一髪倒れてきた柱から逃れて地面に突っ伏した。
「シアン! ハディス!」
 ヴェイルが大声をあげて二人に駆け寄る。アルスたちも思わず手を止めてそちらを見た。目の前に不死者がいるという状況ではなかったのが幸いで、それ以上の危険は此処にはない。
 泣き叫ぶ子どもをゆっくりと解放しながら、ハディスは身体を起こした。
「っ……、俺様は大丈夫だ……。それより、この子とお嬢ちゃんを……」
「私もなんともない、その子をなんとかしてあげないと」
 何事もなかったかのようにシアンはさらりと立ち上がって服についた砂埃を払った。
 ハディスが解放した子どもをライエがやさしい笑顔を浮かべて懸命になだめている。やがて子どもは泣き止み、その子どもを安心させるようにライエはしっかりと抱き締めた。
 サイレンの音が近付いてきている。救急隊がここにも近付いているようだった。
「私、この子を救急隊の方に預けてきます」
「俺も行こう。そんなに距離がないとはいえ、お前ひとりでは心配だ。……すぐに合流する、シアンたちは先に行っていてくれ」
 子どもを抱き締めているライエにアルスがそう声をかけた。ゆっくりと頷いてライエは子どもを腕から解放する。そしてその手を引きながらアルスと共にサイレンの音のする方へ歩いていった。
 その姿を見送りながらハディスはシアンを見下ろした。シアンは相変わらず平気な顔をしている。
「……お嬢ちゃん、」
「怪我、なかった?」
「あ……、あぁ……お嬢ちゃんのお陰でな」
「お前さぁ、人庇うのもいいけど自分の安全も考えろよな。見てて冷や冷やするっての」
「……それ、お前が言うことじゃねぇだろが。お嬢ちゃんに庇われて九死に一生を得たくせに」
 話に入ってきたユーフォリアに対してさらりとハディスはそう言ってのける。
 そんな会話を耳にしながらヴェイルは何も言わずにシアンを見つめていた。シアンの表情からするとなんともないというのは本当なのだろう。しかしヴェイルの胸の内にある得体の知れない不安は拭いきれていなかった。
 ヴェイルの視線の先でシアンは北の方角を少し険しい瞳で見ている。そして突然ヴェイルの方を向くとぽつりと言った。
「あの北にある小高い丘……あのあたりだと想う」
「そこに、キーストーンの波動を感じる……ってこと?」
 ヴェイルの問いにシアンは頷き返す。シアンの言葉を聞いてハディスとユーフォリアも北にある丘の方を見つめていた。
 三人をまとめるようにヴェイルは少し低い声を発する。
「このまま北へ向かって進もう。丘に着くまでにきっとアルスとライエは僕たちに追い付いてくると想う。救急隊も近くまで来てるみたいだし、きっとすぐに消防隊も来てこの火をおさめてくれる。僕たちは不死者をなんとかしよう」
 ヴェイルの提案に三人は頷いて同意を示した。
 四人は更に北へ向かって進んだ。不死者を排除しながら進まなければならなかったため、普通に進むよりはいくらか時間がかかる。その間に、後ろから来たアルスとライエも追い付いてきた。
 北区へ来てから随分と時間が経過している。戦いと救助で体力を奪われ、それぞれ差はあるものの少なからず息が荒れていた。しかしそれでもシアンたちは立ち止まることはない。先程の場所から不死者を倒して進み続け、小高い丘まで辿り着く。その頃にはタフなハディスもはっきりと見てわかるほどの疲れを見せていた。
「……流石にキツいぜ……、俺様ひとりの力じゃこんな大事、どうしようもねぇってのか……」
「そんなことを言っている場合ではないだろう……、人の気配だ」
 未だ焦りを浮かべたままでいるハディスの隣でアルスは冷静に呟く。人の気配、という言葉にハディスは自らに気合いを入れ直して前方を睨んだ。不死者の圧迫感と迫りくる人影に、ライエは慌てて後方へ隠れるように下がった。そして丘にそびえる大樹の陰にその身を隠す。
 ゆらりと闇の中から現れた人影はシアンたちの目に徐々にはっきりと映りはじめた。不死者の圧迫感もそれに合わせて少しずつ増してくる。そしてその人影がはっきりと見えたとき、ハディスが喉の奥から声を吐きだした。
「テメェは……スフレでお嬢ちゃんを攫いやがった……!」
「……イルブラッド!」
 ヴェイルとユーフォリアが声を揃えて叫ぶ。シアンたちの目の前にはイルブラッドがいた。その左手にはキーストーンが握られており、そこから生みだされた不死者がシアンたちを無視して丘から街の方へ飛び下りている。イルブラッドは以前見たときと同じような乱れた服装や髪型のまま、鋭い眼光で一行を睨み付けていた。
 そしてヴェイルたちの反応を見ると、イルブラッドは無気味な笑みを浮かべる。
「ククッ……、本当に来るとはな……滑稽なことこの上ねぇぜ」
「どういうことだ。まるで俺たちが此処へ来るとわかっていたような口ぶりだな」
「さぁな、その中身のねぇ頭でせいぜい考えてみやがれ」
 淡々と問いかけるアルスにイルブラッドは相変わらずの口調でそう返す。しかしアルスは冷静なままで特に言い返すこともなく黙ってイルブラッドを睨んでいた。その反応につまらなさを感じたイルブラッドは不快そうに舌打ちをすると、丘から眼下の街を見下ろした。
 挑発的な口調でヴェイルと街を交互に見ながら先程とは一転して愉快そうにイルブラッドは言う。
「観ろよ、この炎……綺麗だろ? この中で数えきれねぇほどの血飛沫があがってる……断末魔の悲鳴も、恐怖に震えた声も、何もかもここにはあるんだぜ。……こんな芸術は他にねぇよなぁ?」
「……君がやったっていうこと? 不死者はそのキーストーンで、だよね。そしてこの火事も……」
「ああ、俺だ。火がまわって暫くは街にいたがな、心地よかったぜ……無謀な男どもを切り裂いた瞬間も、命乞いする女子どもを思いきり刺し殺す瞬間もなぁ……。この街は血と炎で深紅に染まってやがる、こんな綺麗なもんはこの世の中に他にねぇ……」
「イルブラッド……! 君は、」
「クク、そうだ、粋り立てよ! 冷めてるスカした奴なんか相手にしても仕方ねぇんだ、莫迦みたいに闘争本能剥きだしにした奴らを微塵に切り裂きてぇんだ、俺は! 雑魚なんざ相手したって即死しちまうから意味がねぇ、テメェらくらい力のある奴の方が刻み甲斐がある……刃が肉に刺さるあの感触がたまんねぇんだよ。 ……ハハッ、五年前よりも楽しめそうだ」
「……五年前、だと……!?」
 ハディスが声を震わせた。頭の中が真っ白になる。
 それを見てイルブラッドはハディスに追い打ちをかけるように言葉を並べた。
「五年前も俺がやった。……今思いだしてもたまんねぇなぁ、愉快だったぜ? 何度思い返しても気分爽快になれる……そう、丁度この街だったなぁ、あれも……。火のまわりがこれだけはやいってのはいい……痛快だぜ。俺はこの街が好きなんだぜ、……これだけの楽しみをくれんだからなぁ!」
「テメェ……!!」
 ハディスは怒りを抑えきれずに拳を握り締めて地面を蹴った。アルスが制しようとしたが、もう遅い。ハディスは怒りに震えた声を響かせながらイルブラッドに殴りかかっている。しかしもちろんそんな行動はイルブラッドに予測されていた。何なくハディスの拳を躱すと、攻撃を躱されて体勢を崩したハディスを逆に思いきり蹴飛ばした。イルブラッドよりも身体の大きいハディスはいとも簡単に吹き飛ばされ、シアンたちの後方にある樹木に背中をぶつけてその場に崩れ落ちた。
 反射的にユーフォリアが「オッサン!」と叫ぶ。しかしあんな言葉を聞いてユーフォリアも冷静ではいられなかった。ハディスの安否を気遣いにその場に走るべきだとは想いつつも、イルブラッドに攻撃を加えたい気持ちも抑えきれないでいる。それはヴェイルも同じことだった。
 シアンとアルスだけが未だ冷静にイルブラッドと対峙している。睨み合ったままアルスが口を開く。
「……それで……、お前は五年前も今日もこんなことをしてどうするつもりだ? この街に禍根でもあるのか?」
「ケッ、莫ッ迦じゃねぇのか? 禍根があんならこんな中途半端な状態で放置するかよ。跡形なく消し去ってやらぁ」
「だったら、どうして?」
 冷たい声でシアンが問いかける。イルブラッドはシアンのオッドアイを睨んでにやりと笑みを浮かべた。そして握っていたキーストーンに力を込めながら言う。
「……快哉を叫ぶためだ。こんなくだらねぇ世界なんざ潰してやりてぇ、幸せそうなツラしてヘラヘラ笑ってる莫迦を見てると吐き気がすんだよ! 悲惨な顔して不幸を演じてる奴も無関心な態度で飾ってる奴も気に食わねぇんだ! だから殺してやる……それだけのことだ。この世の中の奴らを片っ端から殺してやりてぇんだよ、俺はな!」
「要するに……ただの殺戮好きと、そういうこと?」
「……頭にくるぜ、その冷めた死人みたいな顔がな! テメェも苦しませてやるぜ、カーニバルはこれからだ!」
 シアンに向かって罵声を浴びせると、イブルラッドはキーストーンを胸元に埋め込んだ。カシアのときと同じようにキーストーンはイルブラッドと融合してゆく。ただしキーストーンは完全に身体に呑まれることなく、はめ込まれたように表面が晒されている状態で停止した。
 流石のアルスも思わず息を呑んだ。
「これが……、お前たちの言っていたキーストーンとの融合というやつか……。とんでもない威圧感がする」
「うん……、でもこの前よりもずっと波動が強い、みんな気をつけて!」
 つとめて冷静になろうとしているヴェイルがそう叫ぶ。全員がイルブラッドから放たれる波動に対して身構えた。
 イルブラッドの周囲から次々と不死者が生みだされる。それを見て木の根元にうずくまっていたハディスは苦しそうな声を吐きながら身体を起こして、シアンたちに近寄ってきた。
「あー坊、下がってろ、激しい運動はできねぇんだろ」
「……それはそうだが、今のお前に前線を任せるのも気が引けるな」
「どういう意味だ、俺様が足手まといだとでも言いてぇのかよ!」
「頭に血が上っているからだ。少しは冷静になれ」
「テメェに何がわかるってんだ! エヴィル・イーゼルの犯人が目の前にいるんだぞ、カメリアの命を奪った莫迦野郎が! 冷静になんてなれるか!」
「……いい加減にしろ!!」
 アルスの叫び声が一帯に響いた。ハディスははっとして言葉を失った。ヴェイルやユーフォリア、そして隠れて様子を見ているライエまでもが目を丸くした。シアンもちらりと二人を見遣る。アルスがこれだけ大声で怒鳴る姿は見たことがなかった。
 生みだされた不死者がくっきりとした形を形成し始める。イルブラッドは不死者を生みだすことに懸命に力を注いでいた。そのため生みだされた不死者の数はカシアの比ではないほどに多い。シアンは再びイルブラッドの方を向いてそちらに集中する。ヴェイルとユーフォリアも不死者の数に驚きながら慌ててそれに倣った。
 その後ろでアルスはシアンたちから少し遠ざかりながら腰にあるホルダーから二丁拳銃を取りだした。
「焦りで状況が見えていなければどうしようもない。さっきシアンに助けられたことを忘れたのか」
 一度怒鳴ってしまうといつもの調子に戻ってアルスはそう言う。返す言葉もなくハディスは俯いている。
 そのハディスに今度はシアンから声がかけられた。
「怒りに任せて行動すれば冷静さを欠く。冷静さを欠けばいい結果はついてこない。……ハディスが無謀なことをして傷つくのをカメリアさんは望んでないよ、きっと」
「無茶をしたって、イルブラッドを止められるわけでもない。ハディスがやられちゃったら意味がないよ」
 ヴェイルもシアンの言葉に同意した。そして襲いかかってくる不死者を二人はそれぞれ短刀とレイピアを手にして切り裂いた。
 イルブラッドの生みだした不死者は完全な形となり、次々にシアンたちに向かってきている。アルスも戦闘体勢に入り、銃で後方から援護を開始した。
 ただハディスだけが動けないでいる。頭の中では冷静にならなければいけないことくらいわかっていた。しかし理屈で気持ちを抑えることは簡単ではない。カメリアのことが頭に浮かんでは消えてゆく。
 そのとき、ハディスの頭上に影が迫った。反射的にハディスが見上げると、そこには何体もの不死者の姿がある。力の抜けきった身体はどうすることもできなかった。防御すらできず、無防備なままぎゅっと目を閉じる。
 そのとき、ユーフォリアが闇の中に大声を響かせた。
「この地に眠る灼熱の息吹よ我が前に 眼前の総てを焼き尽くせッ!!」
 炎が巻き起こり、ハディスに迫っていた不死者を焼き尽くす。焦された不死者は音をたてて地面に落ち、溶けるように消滅した。
 それを見てユーフォリアはジャンプしながら右手の拳を天に突き上げた。
「よっしゃ、大成功! 学校のディシップで練習重ねといてよかったぜ!」
 その右手にはシルバーの指輪がはめられている。それはアルスがシャールに託されたものをユーフォリアが譲り受けたものに間違いなかった。
 そしてユーフォリアは急いでハディスに駆け寄った。そしてハディスの背中を思いきり叩く。ハディスが怒る間もなく、できるだけ明るい声を発しながらユーフォリアは更にハディスの背中を叩いた。
「ほらオッサン、何やってんだよ! カメリアさんとかこの街の人とかが受けた痛み、あのボサボサ頭野郎に倍返ししてやろうぜ!」
「…………ユーフォリア、お前……」
 ハディスは目を見開いた。ハディスの目の前に再び不死者が現れる。しかしそれはすぐにヴェイルのレイピアによって切り裂かれた。
 一度大きく深呼吸してから、ハディスは右手の拳にゆっくりと力を込める。そして左手で軽く握り拳をつくるとユーフォリアの頭を軽く叩いた。
「ガキが偉そうなこと言ってんじゃねぇ」
「いてっ、何すんだよ!」
「俺様の背中バシバシ叩きやがった罰だ。……そんな無駄なことに労力使ってんじゃねぇ、あの大莫迦野郎をブッ飛ばすぞ」
 その声からは焦りが消えている。いつものハディスと同じような口調だった。
 途端にユーフォリアの表情がぱっと明るくなる。戦っているヴェイルとアルスからも僅かに笑顔がこぼれた。そしてシアンも不死者を切り裂きながらちらりとハディスの表情を伺う。一瞬目が合ったその瞬間に、ハディスは瞳でシアンに微笑んでみせた。
 大声で「よしっ」と叫んでハディスは自らに気合いを入れ直した。そして迫ってくる不死者の攻撃を躱し、体勢を崩した不死者を右手で殴り飛ばした。
 ハディスの様子を見ながらイルブラッドは苛立った様子で舌打ちした。
「……くだらねぇ、倍返しだ? やれるもんならやってみろ、身をもって知らしめてやるぜ、大莫迦野郎はテメェだってな!」
「やってやるぜ。……俺様を甘くみんじゃねぇぞ、あとで泣いて謝ったって赦してやらねぇからな」
 ハディスは自信満々に笑みを浮かべて両手を組んで関節を鳴らした。その態度に今度怒りに任せて動きだしたのはイルブラッドの方だった。キーストーンの力にとって周囲に不死者を生みだしつつ、ハディスに向かって飛びかかった。
 それを見てシアンたちは即座にそのフォローに回った。生みだされた不死者がハディスの近くに行かないよう、確実に処理することに全力を尽くす。しかし不死者は尽きることがない。イルブラッドに直接攻撃を入れる余裕はなさそうだった。
 棘のついたグローブをはめたイルブラッドの拳がハディスの顔面に迫る。その拳をハディスは迷いなく素手で受け止めた。そして空いている左手に力を込めて、イルブラッドの腹部を思いきり殴る。しかしイルブラッドは僅かに後ろに飛んでその衝撃を和らげた。その間にハディスは攻撃の体勢に入って逆にイルブラッドに迫る。
 ハディスの拳をイルブラッドが受け止め、シンガードをはめた足で蹴りを繰りだす。すると今度はハディスが腕でその足を止め、足払いを繰りだした。相手の攻撃を受け止めては反撃し、その攻撃もまた受け止められ、というサイクルを二人は繰り返している。そのサイクルを止めないまま、ハディスは言う。
「テメェは結局自分の快楽のために人を殺してやがったのかよ」
「だったらどうだって言うんだ、テメェも警察みたいな偽善者か? 正義の味方ゴッコがしてぇのか?」
「そんなくだらねぇ目的のために身体張れるかよ。俺は正義の味方なんかじゃねぇ、俺の好きなもんや人を傷つける奴が赦せねぇ、しかもそれで平気な顔してやがる奴ならもっと赦せねぇ、そんだけだ!」
 そう言うとハディスはイルブラッドの蹴りを腕で受け止めずに背中に受けた。一瞬、背中に受けた衝撃にハディスのうめき声が漏れる。しかしハディスはすぐに笑みを浮かべた。片足を使っている状態では簡単に跳躍することなどできない。その瞬間を狙ってハディスは拳をイルブラッドの懐に力の限り命中させた。今度はイルブラッドが埋きを漏らす番だった。そしてイルブラッドがひるんだその隙に、ハディスは勢いをつけてイルブラッドを思いきり蹴りとばす。大きく悲鳴をあげて、イルブラッドの身体は背後にある樹木にまで数メートル吹き飛ばされた。
 満足そうな笑みを浮かべてハディスはすぐには起き上がれないイルブラッドを見つめた。
「俺様的天誅! ……なーんてな」
「オッサン、やるじゃんか! たまには役に立つんだなぁ」
「無駄に筋力があるというわけではないようだ」
「コラそこ、ガキにあー坊! きっちり聞こえてんぞ!」
 そんな会話を明るい声でかわしていると、不死者の姿はゆっくりと消え始めた。驚いてヴェイルが周囲を見回すと、丘の下にある街からも不死者の姿が薄れかけている。圧迫感も徐々に薄れ、ライエもそっと木の陰から出てきていた。
 急に静かになった中、レイピアを握ったままヴェイルはイルブラッドに数歩近寄る。
「イルブラッドの集中力が途切れて、キーストーンの効力が発揮されなくなったのかな……」
「気をつけて、……まだ波動が残ってる」
 そう言うとシアンは立ち止まったヴェイルの前まで足を進めた。そしてその視線の先でイルブラッドはゆっくりと身体を起こす。再び緊張した空気が高まった。
 立ち上がりながらイルブラッドは喉の奥で低く笑う。
「……人が手加減して遊んでやってんのにいい気になってんじゃねぇよ、クズが。……お楽しみはここからだぜ?」
「強がってんじゃねぇよ、もう一発ブッ飛ばされてぇのか?」
 余裕の口ぶりでハディスがそう言うと、イルブラッドは更に狂気に満ちた声で笑いだした。
 そして胸元にあるキーストーンを身体から外して右手に握ると、そこに力を込め始める。キーストーンは力を蓄えながらふわふわと上空へと浮き上がった。はっとしてシアンが反射的に精神集中を開始する。このままイルブラッドの行動を見過ごしては再びキーストーンによって不死者が生みだされてしまうことは誰の目にも明らかだった。
 キーストーンを無効化するなら今しかない、そう想いながら精神集中を完了したシアンはキーストーンに向かって手を翳す。
「偽印の天蓋 粛正の綺羅……、在るべき流転へ還れ 封絡せよ」
「かかったな、禁忌使い!」
 術が放たれたその瞬間、イルブラッドのその声がこだまする。しかしその声がシアンに届いたときにはもう禁忌の術はキーストーンに向かって一直線に飛翔していた。禁忌の術はキーストーンに衝突し、その無効化に成功する。そしていつものようにあり余った力は周囲の樹木も木っ端微塵に破壊した。
 しかしそれと同時にシアンの身体は張り裂けそうに痛んでいた。頭を両手でおさえながら、苦痛による悲鳴を漏らしてシアンはその場に蹲る。
 耳鳴りがする。頭が割れそうに痛んだ。
 ヴェイルが大声でシアンの名前を叫んで崩れ落ちた小さな身体を支える。しかしシアンは目をかたく閉じ、頭をおさえたままでいた。
 キーストーンを失い、先程ハディスにやられたダメージが回復しきっていないため、イルブラッドはそれ以上動けずによろめいている。それを確認してアルスもシアンに近寄った。
 シアンの頭の中は真っ白になっていた。痛みに混ざって制圧的な声が響く。
「う……ぁ、厭……やめ…ッ……!」
 悲痛な声がシアンの喉から漏れる。
 黙って見ていられなくなったハディスがイルブラッドに詰め寄った。
「テメェ、お嬢ちゃんに何しやがった!」
「さあなぁ? ……お楽しみはここからだって言っただろうが」
「しらばっくれてんじゃ……」
 もうひとことハディスが怒鳴ろうとしたとき、シアンの悲鳴が響いた。ハディスとユーフォリアも思わずシアンの方を見遣る。その視線の中、シアンはもがくように声を絞りだした。
「み…んな、逃げ…て……っ! ……うっ、ああぁぁッ!!」
 声を抑えきれずにシアンはひときわ大きな悲鳴をあげた。その悲鳴は周囲に響き渡る。その悲鳴が止んでしまうと辺りは物音ひとつない静寂に包まれた。
 刹那、突然シアンの身体は強力な波動に包まれた。不死者やキーストーンの圧迫感とはまた別の、そしてそれとは比較にならないほどに強い波動である。それは周囲にいる者を戦慄させるようなものだった。波動はだんだんと強さを増してくる。アルスたちは思わず後ずさった。
 波動に包まれながら、シアンの身体はゆっくりと起きあがる。その動きは先程の悲鳴をあげていた姿からは想像がつかないほどにゆるやかなものだった。突然何事もなかったかのように起き上がったシアンにヴェイルは「シアン……?」と声をかけようとする。しかしシアンは自分の身体を支えていたヴェイルの手を思いきり払いのけた。その光景にライエが思わず息を呑む。ヴェイルの表情が凍りつき、アルスたちも信じられないというような表情を浮かべた。
 シアンはそんな周囲の様子など気にもしないようにゆらりと歩きだした。そしてヴェイルたちに背を向けたまま足を進め、数歩進んだところで立ち止まる。丘の上から混乱の続く街を見下ろした。
 遠くでサイレンの音がする。炎は止まずに闇を照らし続けている。悲鳴がこだましていた。
 シアンの唇から言葉が零れる。
「……永かったな……」
 その声はいつものシアンのものではなかった。少女のようなものではなく、低く、重々しさを含んだ声である。ヴェイルたちは言葉を失い、イルブラッドはよろめきながら笑みを浮かべた。
 シアンは眼下の街を眺め続けたままでいる。
「永劫の眠りより解き放たれるまでこれほどの歳月を要するとは……。それにしても居心地の悪い身体だが……まぁいい」
「シアン、まさか……!」
 ヴェイルが青ざめた顔で声を震わせた。
 その声にシアンはゆっくりと振り向く。その表情は冷たく、ヴェイルを睨みつけるようでもあった。いつも冷めた顔をしているシアンだが、これほどまでに冷たい瞳をしたことはない。
 威圧感と冷たい表情に恐怖を高められ、身体を震わせながらユーフォリアは言った。
「おいシアン、お前どうしちまったんだよ……、何わけわかんねぇこと言ってんだよ!」
「……五月蝿い」
「う、……五月蝿いって、お前そんなこと普段言わねぇじゃねぇか! 一体……」
「……聞こえなかったのか。五月蝿いと言っている……。……目障りだ」
 吐き捨てるように言って、シアンは精神集中を開始する。それは普段のシアンのものよりもはるかに強大だった。
 木々が揺れる。雲が揺らぐ。風が巻き起こり地が音を立てて震える。万物のすべてがシアンへと注ぎ込んでゆくようだった。
 慌ててアルスが叫ぶ。
「みんな逃げろ! あの精神力を喰らえばこんな丘など簡単に吹き飛ぶぞ!」
「でも、シアンを放っていくなんて!」
 ヴェイルはかぶりを振った。その間にもシアンの精神力はどんどん高まってゆく。迷っている余裕などなかった。それでもヴェイルの足は動かない。
 精神力が高まり、シアンはヴェイルたちを睨んだ。そして躊躇いなくヴェイルたちに向かって手を翳す。逃げ場もなく、シアンの精神力を回避する術はない。
 しかし、その刹那、突如として精神集中が途切れた。シアンが苦しそうな表情をしながらふらりとよろめく。そして両手で肩を抱いて背を丸めた。喉から苦し気な声が漏れる。
「……ッ、まだ自我が残っているというのか……。……くっ、」
 突然シアンの腕と足の数カ所が裂け、その部分の服が朱く染まった。シアンの傷ついた姿にヴェイルはシアンに駆け寄ろうとした。しかしシアンの生みだす波動はまだ完全に消えていない。アルスはヴェイルの腕を掴んだまま離さなかった。
 自分の腕を掴む手をヴェイルは振り払おうとした。その瞬間、普段のシアンの声がヴェイルの耳に届く。
「逃げて……ッ! ……お願い!」
 誰が聞いてもはっきりとわかる、シアンの声だった。しかし再びシアンは悲鳴をあげ、そしてしばらくして再びゆらりと身体を起こす。その瞳はまた先程と同じように冷たいものだった。
 再びシアンは精神集中を開始する。その肩は呼吸に合わせて上下していた。傷の痛みが身体にまわっているのかもしれない。それでも精神集中は途切れることがなかった。
 ハディスが焦りを浮かべてヴェイルを見遣る。
「こりゃマジでやべぇぞ、躊躇してる場合じゃねぇ、逃げろ!」
「だけど……! このままシアンを放っていくなんてできないよ! だってシアンは……」
「ごちゃごちゃ言ってられるか! 何が起こってるのはしらねぇが、あの中身がお嬢ちゃんじゃねぇってことはわかる。だけどな、さっきみたいにお嬢ちゃんが元に戻ったときに俺らが死んでて悦ぶとでも想うのか!」
「……それでも、僕には……僕には彼女を見捨てるなんてできない!」
 ヴェイルの足は動かなかった。アルスが腕を引いてもどうしようもない。
 仕方なくハディスはライエをユーフォリアを先に行かせると、アルスに近付いた。そして「あー坊、全力で走れねぇんだから先に行け!」とヴェイルを掴んでいたアルスの手を離す。仕上げにヴェイルの腕を思いきり引っ張った。しかしそれでもヴェイルはシアンの名を呼び続けているだけで動かない。その間にもシアンの精神力は高まり続けている。どうしようもなくなったハディスは「恨まねぇでくれよ!」と言いながらヴェイルの鳩尾に拳を突き入れた。低いうめき声を漏らして、ヴェイルの身体が崩れ落ちる。意識の失ったヴェイルをハディスは軽々と担ぎ上げた。
 ハディスがヴェイルを担いで丘をくだり、丘の上にはシアンとイルブラッドだけが残る。不満そうな瞳でシアンは周囲を見回した。そしてイルブラッドと目が合うと、イルブラッドの姿を凝視する。
「……貴様も邪魔だ。私の視界から消えろ。……今の私は機嫌が悪い、くだらない自我が残っていた所為でな」
 しかしイルブラッドは口の端を釣りあげた。喉の奥から低い笑い声が漏れる。
「……クク、いいねぇ、禁忌使い。その瞳もその力も……。なぁ、俺に力を貸せよ。どうせその力で至る処を破壊するつもりなんだろ? ……だったら目的は俺と一緒だ」
「断る。貴様ら人間と慣れ合うつもりなどない。……失せろ」
「強気なこと言うじゃねぇか。……だが、こっちにはこれがあるんだぜ?」
 イルブラッドは自信満々にポケットの中から小さな黒いリモコンのようなものを取りだした。素早くそれについているスイッチを入れ、いくつかあるボタンのうちふたつを押す。そしてリモコンについているアンテナをシアンへと向けた。アンテナが向けられた瞬間、シアンの生みだす波動は少し弛みをみせた。シアンは精神集中を続けているのだが、波動だけが機械に吸収されたかのように弱まる。
 シアンは見たこともないような機械と弱まる自分の波動に苛立った表情を浮かべた。
「……ふざけた真似を……。……その愚行、死をもって償うがいい」
 そう言いながらシアンは更に波動を高めた。その波動も順次アンテナに吸収されてしまう。しかしその状態はすぐに終わりを迎えた。
 シアンの波動を吸収していた機械がバチンと音をたてて具合の不良を訴えた。イルブラッドがリモコンの変化に気付いたときにはもう遅く、リモコンは破裂して砕け散る。イルブラッドははっとして壊れた機械を手放した。
 波動を束縛するものはなくなり、再びシアンの波動は強まりはじめる。慌ててイルブラッドは後ずさりした。
「ちょっ……待てよ、機械がこんなヤワだなんて聞いてねぇぞアクセライ! ……くそっ、生身でやってどうにかなるもんじゃねぇ!」
 うろたえ、よろめきながらイルブラッドは怒りと混乱の混ざったような声で叫ぶ。そして遂にはシアンに背を向けて逃げだした。
 しかしシアンはそれを追おうとはしない。そっと目を閉じる。再び木々が揺れ、地が揺らぐ。風が巻き起こり、シアンの髪を揺らした。
 シアンの唇から言葉が零れる。
「……闇より生まれ光へ交われ すべての穢れしものに制裁を」
 ぼんやりとした白い光がシアンの身体を包む。そしてその光は天高くまでのぼり、やがてひとつの形を形成するためにまとまりはじめる。
 閉じられたオッドアイが開かれる。
「具現せよ …………マルドゥーク」
 白い光が夜空に形をはっきりとつくる。それは大きな鳥が両翼を広げたような姿だった。白い鳥は闇に浮かび上がり、上空から波動を放出する。その波動はシアンのいる丘と、その背後にあった大きな山を粉々に破壊した。シアンの身体だけが自らの波動に護られて宙に浮く。そしてそっと平坦になった地、数秒前まで丘と山のあった場所に舞い降りた。
 まだシアンは冷たい表情のままでいる。空には白い鳥のような姿が浮かび、シアンの身体から放たれる波動は衰えを知らない。更なる破壊を続けようと、シアンは精神集中を更に高めようとした。
 そのとき、シアンの背後から声がした。
「シアン! まだ君は目醒めるべきじゃない!!」
 はっとしてシアンが後ろを振り向くと、そこにはセラフィックの姿があった。一瞬シアンの精神集中が途切れる。しかし本来のシアンが戻ることはなかった。
 それでもセラフィックはそれを予測していたかのようにシアンに向かって手を翳す。セラフィックはシアンに声をかける前に既に精神集中を完了させていた。
「清浄なる意志よこの罪深き地に降り注げ 新たなる粛正と黎明を結べ!」
 セラフィックの手から放たれた波動はシアンに向かって一直線に飛翔した。その波動はシアンが生みだした波動をすべて呑み込み、シアンの身体を包む。生みだした波動が呑み込まれ、防御する術もなくシアンは悲鳴をあげてセラフィックの術に呑まれた。
 それと同時に空に浮かび上がっていた白い鳥も消滅する。
 波動を失い、シアンは地面に突っ伏した。やがて身体を震わせながら左腕で身体を支えて起こそうとする。しかし突然苦しそうな表情を浮かべて大きく咳き込むと、喉の奥から朱いものを吐いた。そして更に何度か咳き込んでから身体を起こせないままセラフィックを睨みつけた。
「……貴様……ッ、貴様ごときに……また永劫の眠りへと、葬られるわけには……」
「眠るんだ、"クレア"。シアンはあなたが想うような傀儡じゃない」
「……ほざけ……っ」
 その声は怒りに満ちている。しかしそれ以上の力をシアンの身体は生みだすことができなかった。再び重力に従って地面に崩れ落ちる。それと同時に、シアンが纏っていた他の威圧するような力も消え失せた。
 完全に力を失ったシアンに、セラフィックはゆっくりと歩み寄った。シアンの傍に片膝をつくと、ぐったりとした身体を抱き起こす。傷を負った身体は見ていても痛々しいほどだった。そっと精神集中を行うと、セラフィックはレメディで可能な限りシアンの傷を癒す。レメディのやさしい光に傷を癒されながら、シアンはぼんやりと目を開けた。
「…………セ…ラ……、わたし……」
「喋らなくていいよ。もう大丈夫だから」
 シアンの声は、普段のシアンが発する少女の声に戻っていた。肩で息をしながら必死になにかを訴えようとするシアンに、セラフィックはふわりと微笑んでみせる。
 片手と片膝でシアンの身体を支え、空いた手でセラフィックはシアンの小さな手を握った。目を開けていられなくなったのか、再びオッドアイは閉じられる。握られた手をシアンは弱い力で握り返した。
「……ごめん、ね……」
「何も言わなくていい。君が謝るべきことなんて何もない。今はゆっくり休むんだ」
「……でも……わたし…は……」
「大丈夫だよ、僕がついてる。これ以上君を苦しい目に遭わせはしない。だから……安心しておやすみ」
 やさしい声をセラフィックが響かせる。するとその声に安心したかのように、シアンの身体から緊張が抜けていった。セラフィックの手を握る小さな手からも力が抜ける。
 自分の身体に寄りかかってすべての苦しみや痛みから解放されたように眠るシアンの姿を見ながら、セラフィックは解放された手でシアンの髪をそっと撫でた。
 一瞬にして崩れ落ちた丘のあった場所に、生暖かい風が吹いていた。