戻れない第一歩




 人々についてやってきた場所は大きな木造の建物だった。三階建てで、しっかりとした木が使われており、建物のあちこちには細かな技巧もみられる。一階は聖堂で、二回が集会所、三階が救護施設になっていた。二階にある集会所には多くの人々が避難してきている。連れてきた人々をそこまで送ると、シアンたちは救護施設にカシアを運んだ。細かいことを説明せずに彼女は混乱の被害者だとだけ説明すると、聖堂関係者は快く受け入れてくれた。そして「我々は傷付いた人を拒むことはありません」と聖堂の司祭長はシアンたちにやさしく告げた。
 セントリストと比較すると、医療品も簡素なものしかなく建物も古いが、救護施設はちゃんと機能している。医者は聖職者を兼ねており、必要があればすぐ聖堂から駆けつけてくれるらしい。
 救護施設の一番奥にある、カーテンに囲まれたベッドにハディスはカシアを寝かせた。カーテンをひけばこのベッドは他の人から目立たなくなる。有翼種の存在を珍しがらせないためにも、細かい話を聞きだすためにも、それは好都合だった。ベッドに横たえられてすぐ、カシアは目を覚ました。ぼんやりとした状態から突然はっと目を見開くと、周囲を見回す。そしてシアンの姿を捉えると声を震わせた。
「あ、あなたは……、私の声を聞いてくれた……。……私は一体……それに此処は……」
「あなたは生きてますよ。此処はノルンにある聖堂の救護施設です」
 質問にシアンは味気ない答えを返す。必要最低限のことしか答えないシアンに、いつものようにヴェイルが補足した。
「君の意識の声を聞いた彼女……シアンが君を助けたんだよ。キーストーンだけを無効化して、君の命を護ったんだ」
 ヴェイルの言葉にシアンは案の定、自分だけではなくみんなでやったことだと言い、カシアは驚いた表情を浮かべて身体を起こした。そしてカシアは自分の腕をゆっくりと上げ下げして、息を吐き出しながら声を発する。
「……私の身体と意識が疎通してる……嘘みたい……。夢、じゃないのよね……?」
 そう言うカシアは明らかに戦っていたときとは様子が違う。瞳には輝きがあり、声にも抑揚がある。マリオネットのような感じはもう消え去っていた。
 そんなカシアに対してユーフォリアが問いかける。
「シアンも言ってたけどさ、その、意識と身体が別々になるっていうのはどういうことなんだよ?」
 突然見知らぬ人物、しかも子どもに訊ねられて、カシアは戸惑いの表情を浮かべた。
 それを見て慌ててヴェイルは全員を簡単に紹介する。ヴェイルはシアンだけではなくユーフォリアにもフォローを入れなければならなかった。
 紹介を聞いて、カシアは安心したように口を開く。
「言葉通りの意味です。私の意志とは関係なく身体は動いて、それを止めようと想ってもやめられない……。意識は私という存在から排除されたように、自分の行動を傍観することしかできないんです」
「そんな……。でもそれは、生まれたときからずっとってわけではないんでしょう?」
 哀れむような瞳でライエはカシアを見つめる。ハディスもユーフォリアも苦々しい表情をしていた。
 シアンとシャールは相変わらず冷めた顔のままでいる。そしてシャールは低い声で呟いた。
「あの男の仕業、だな」
 その言葉にシアンは「あの男って、アクセライのこと?」と問いかけた。シャールはそれに対して頷いて同意を示す。
 アクセライの名前が出て、カシアの瞳が僅かに揺れた。そして、やさしい瞳で黙って話を聞こうとしてくれているヴェイルを縋るように見上げる。そして重々しく言葉を紡いだ。
「……はい。あの人に逢って、それからすぐに意識と身体は分離してしまって……あとはあの人の意に沿うように行動していた気がします」
「……そう、なんだ……。でも君はどうしてアクセライと逢ったの? そんなことをされるのに仲間だってことはないと想うけど……」
「私はアクセライ様に……、いえ、あの人に拾われたんです。見ての通り、私は有翼種です。有翼種はウェスレーの隅に隠れ住んでいます。昔はそうでもなかったみたいですけど、今有翼種は数少ない存在で、他の人に珍しがられるそうで……。それで、下手に見つかれば裕福な人の道楽のために有翼種は売買されるんです。私もそのひとりでした。……私は買われた場所から逃げだして……でも他に行く処なんてなくて、他の人に見つかればまた売買の対象になるかもしれない……そんな状態で見知らぬ土地を彷徨っていました。そこに……」
「アクセライが現れたんだね?」
「……はい。あの人は私を助けてくれると言い、私は救われた気分であの人について行きました……」
 そこまで一気に言ってしまうと、カシアは言葉を切った。そこから後のことは誰でも想像できる。アクセライが彼女に何かを施し、意識と身体を分離させてしまったのだろう。そのことに全員がそれぞれ想像を馳せ、部屋は静まり返った。
 その中、シャールが忖度もなく話を続ける。
「……で、テメェはあの男の下で何をしていた? あいつが何をしようとしてたか知らねぇわけはねぇだろ?」
 責めるような口調で問いかけられて、慌てるようにカシアはかぶりを振った。そしてシャールに脅えた目をしながら早口で答えを返す。
「わ、私は何も……。あの人は私に何も教えてくれなかった、あの人に言われるままに私の身体が動いていた、それだけなんです」
「だからテメェはその状況下で何してたって訊いてんだ」
「いい加減にしろよ! 今やっとアクセライから解放されたって人にそんな言い方することねぇだろ!」
 問いつめるシャールにユーフォリアが食ってかかった。鬱陶しそうにシャールはユーフォリアを睨む。するどい目は標的を排除することも厭わないような雰囲気を漂わせていた。
 しかしカシアは何とか話を続けようとする。
「ありがとう、ユーフォリア。でも大丈夫。……私に与えられた命令は、何処へ行って何をしろと、それだけでした。あの人から殆どの命令は与えられていたけれど、他の仲間の人からのときもありましたし……。あの人からの命令は、情報収集をしろとか、キーストーンで不死者を生めとかいうもので……」
 そこでカシアは何かを思い出したように言葉を紡ぐのを止めた。
 突然に言葉が途切れて「どうした?」とシャールは更なる情報を聞きだそうとする。頭の中で過去の出来事を回想しながら、カシアはゆっくりと声を発することを再開した。
「……先程話したように、私の意識はいつも傍観しているような状態でしたから、うろ覚えではあるのですが……。最近のあの人は、マルドゥークの目醒める日は近い……とか、ティアマートはいつになれば姿を現す……とか、そんなことを呟いていた気がします。何のことなのか私にはわかりませんけど……」
「なんだと……」
「……シャール?」
 珍しくあからさまな反応を示したシャールをシアンは不思議そうに見上げた。必然的に、全員の視線がシャールに集中する。しかしシャールはその視線にまるで気付いていないかのように、ひとりで何かに納得したような表情を浮かべると、喉の奥で無気味に笑いだした。
 当然、周りにいる人間がその様子に驚かないはずがない。しかし一体どうしたのかとハディスが訊ねようとする前に、シャールはカシアに鋭い視線を向けた。
「クク……なるほどな……。……キーストーンで周囲を荒し回ってたのはテメェなんだろ?」
「は、はい……。他の人のことはわかりませんけど、キーストーンは数のあるものではありませんから、多分私の担当だったのではないかと……」
「セントリストのギムナジウム、そして聖堂……。……やったのはテメェだな?」
「……どうしてそれを……」
 驚いてカシアが声を震わせる。しかしシャールはそれ以上の説明も追求もしなかった。くるりとベッドに背を向けると、カーテンをくぐり抜けて躊躇うことなく去ってゆく。
 また何か問いつめられるかもしれないと内心脅えていたカシアは、シャールの行動に不思議そうに瞬きした。ライエやユーフォリアも呆気にとられている。
 その状況をフォローするようにハディスはカシアの方を向いて、苦笑を浮かべてみせた。
「あー……悪ぃな。あいつ、わけわかんねぇ奴なんだ。一緒に行動してる俺様も参ってるくらいでな。礼儀も何も知らねぇし、どうしようもねぇ奴なんだよ」
「どうしようもない奴なのはオッサンもだろ」
「いちいち突っかかってくんじゃねぇ、このガキ!」
 いつものように茶々を入れるユーフォリアに、ハディスも相変わらず同じレヴェルで言い返す。その一見すれば微笑ましい様子を見て、カシアは小さく笑顔を浮かべた。しかし突然その笑顔を消すと、そっと俯く。
 そのことに気付いたライエが「どうしたんですか?」と声をかけた。するとカシアは少しだけ顔をあげて、トーンの低い声で呟くように言う。
「……私は、これからどうすればいいんでしょう……」
 その言葉にハディスとユーフォリアは騒ぐのをやめてカシアの方を見た。
 俯き加減でいるため、肩まで伸びた髪がカシアの表情を隠してしまっている。再度部屋が静まり返った。ライエに心配そうに見つめられながら、その空気をそっとカシアの声が震わせる。
「ウェスレーに戻っても……母も売買の対象になってしまっているし……ただでさえ有翼種は隠れながら移住しているから父にも逢えるかどうか……。それに、今無事だという保証も……」
「カシアさん……」
「今、ハディスさんとユーフォリアを見ていて、すごく羨ましかった……。私にも親しい人がいてくれたら……って。でも、私の行動は結果的にたくさんの人に危害を加えていました……自分の意志でなかったとはいえ、私がやったことに違いはありません。……けれど私、どうやってそれを償えばいいのかわからないんです……」
「そんな……。あなたは悪くないわ。悪いのはアクセライって言う人とか、あなたたち有翼種を売買した人でしょう? なのにあなたが苦しまなきゃいけないなんて、そんなのおかしいです……。だって今のあなたは誰かに危害を加えたりしないでしょう? ……あなたにはこれから自由に生きてゆく権利があるはずです。……今まで辛かった分も、幸せになる権利が」
「……そう、かしら……。自由に生きてみたい……でも、償いはしたいの……どんな形であれ。だけど、どうすればいいのか……」
「好きにすればいいんじゃないですか」
 ライエとカシアのゆっくりとした会話に、シアンがひとこと淡々と口を挟んだ。その声は決して冷たいものではなかったが、人情に溢れたものでもない。
 ユーフォリアは思わず「お前、人が真剣に考えてんのにそんな風に言うことねぇだろ!」と言いかけた。しかしその言葉を無視するように遮って、シアンはカシアに言葉を続ける。
「あなたはそんなに弱い人じゃないはずです。どのくらいの間なのか私にはわからないけど、誰かに意識の呼びかけが届く日が来ると信じて、ずっと叫び続けていたんじゃないんですか? そんな……見えない未来を模索し続けるほどの強さがあるあなたなら、今から自分の未来を決めることができます……もちろん、どうやって過去を償うかも。あなたを制約するものはもう何もありませんから」
 シアンの表情は相変わらず冷めていた。カシアを想うようなことを言いながら、ずっとその表情のままでいる。そんなシアンの言葉をカシアは自分の内で反芻した。そして言葉の意味をしっかりと自分の中で処理しきると、ひと息ついてからシアンに笑顔を向ける。
「……そうね……。……ありがとう。少し……考えてみることにするわ。これからのことについて」
 その声には幾分か明るさが戻っていた。
 ライエが「私も応援していますから」と言うと、カシアは今度はその笑顔をライエに向けた。ハディスとヴェイルもライエの言葉に加担する。
「まだ若ぇんだから、この先、好きなように生きる時間はたっぷりあるぜ。自分で自分のやりたいこと見つけるのも大事なことだからな、焦る必要はねぇよ」
「もし助けが必要なときは、僕たちにできることなら手伝うからさ。……アクセライも、僕たちが止めるから」
「……ありがとう……。でも、気をつけて。あの人はありとあらゆる情報と力を持っている……何が目的なのか私にはわからないけど、目的達成のために多くの力を集結させようとしていたみたいですから」
 カシアの忠告に、ヴェイルはしっかりと頷いた。アクセライやその仲間の力が半端なものではないということは、これまでのいきさつを考えてもよくわかる。それでもアクセライが無差別に人々を襲い、また、シアンを狙っている以上、放置しておくわけにはいかなかった。
 そしてヴェイルは「とにかく連絡先だけ伝えておくよ」とベッドサイドに置いてあったメモ帳に通信機の回線とナンバーを書くと、そのメモをカシアに渡した。それをカシアはそっと受け取る。
「本当に、何から何まで力になってもらって……ありがとう、いつかこの恩は返すわ」
「いいんだよ、そんなの。とにかく今はゆっくり休んで。さっきの戦いでのダメージもあるし、今までに蓄積されてた疲れもあるだろうから……。ここの人たちはやさしい人だし、回復するまで休ませてもらえるように僕からも口添えしておくよ。……僕たちは取り敢えずセントリストに戻るけど、いつでも連絡してくれていいから。本当はもう少し話をしたいんだけど、あまり帰るのが遅くなると心配する人がいるんだ」
「ごめんなさいね、私のことで時間をとらせてしまって」
「それは構わないよ。気にしないで。……じゃあ、そろそろ帰ろうか、シア…ン…………、って……あ、あれ?」
 さっきまですぐ後ろにいたはずのシアンの方を向いて、ヴェイルは気の抜けた声を発した。それにワンテンポ遅れて全員がヴェイルと同じ方向に視線を移す。しかしそこにシアンの姿はなかった。たしかに先程までカシアを励ますようなことを言っていたのだが、気付けば影もない。全員が思わず目を丸くした。
 ヴェイルはがっくりと肩を落としながら息を吐きだす。
「……もう……勝手にどっか行っちゃ駄目だって言ったのに……」
 不死者の気配がない以上、もうどこへ行っても安全かもしれない。しかし何が突然起こるかわからない。
 カシアに簡単に挨拶を済ませると、ヴェイルは救護施設を飛びだした。










 聖堂の建物を出た処にシアンはシャールと一緒にいた。風にそよぐ芝生の上に立って見渡せる景色は、人の手が殆ど加えられていない美しいものである。木々は葉を揺らし、流れる水は清冽だった。
 自分を追ってきたシアンの隣にシャールは立ち、その風景を見渡していた。やがてシアンが芝生の上に腰を下ろすと、シャールは聖堂の入り口にある石段に腰掛ける。そしてシアンの方ではなく風景を見たまま口を開いた。
「お前と二人になるのも久しぶりだな」
「……そうだね。セントリストの聖堂のとき以来かな」
「たしか、そうだな。……だが、あのときは慌ただしかったからな。ゆっくり二人で話ができるのは初めてだ」
 風が冷たい。二人の髪はその風に弄ばれてふわりとなびいた。
 辺りは静かだった。不死者の騒ぎがあったためなのか、普段からこうなのかはわからない。ちらほらと見受けられる人々はただ黙って聖堂へ向かっていた。そして聖堂から出てくる人々は、聖堂から出ると再び建物の方を向いて深く一礼してから去ってゆく。
 此処の聖堂の内部もセントリストの聖堂と同じような構造になっている。そして此処にも創造主を祀るようなものは何もない。ぽっかりと奥に何もない空間だけがあった。そんな聖堂を再度振り返って一礼する人々の瞳は、何かに縋るようでもあり、一筋の光を見ているようでもある。
 ぼんやりとシアンは呟いた。
「聖堂の雰囲気は同じでも、人の様子はセントリストと少し違う気がする……。どっちの人も真剣に祈ってることに違いはないんだけど……」
「置かれてる状況の違いだろう。セントリストは他のどの地方よりも発展してるが、此処はそうじゃねぇ。殆どの奴が食っていくのに精一杯だ。おまけに、今日はまだ晴れてる方みてぇだが、天候も厳しい。だが、他地方との交流が巧くいってねぇ上、物価の違いもデカいからな、抜けだすのは容易じゃねぇ」
「……そうなんだ……。……なんか、私たちがどうこう言うことじゃないかもしれないね。同じ環境にいない人が口を挟んだところで余所者の繰り言でしかないわけだし」
「だろうな。……だが、厳しい状況に置かれてるからこそ、祈りが強くなるのは確かだ。逼迫してる状態であればあるほど、強く創造主の力を求めてんだろうな」
 いつもとは違う、穏やかでゆっくりとした口調でシャールはそう言った。
 雲間から零れる光に眩しそうに目を細める。そしてその光から目をそらせてシアンの方を見ると、風景を見つめるシアンに「さっきの話のことを訊きに来たんじゃねぇのか?」と問いかけた。訊ねられたシアンはシャールの方を向いて、黙ったまま小さく頷く。問いかけるのを躊躇っていたわけではなく、シアンもその話題に移ろうと想っていたのだが、問いかけずともシャールから話を始めてくれた。
「クレアチュールの伝承は知ってるな?」
「創造主クレアが世界を創ったとかいう……あ、その前にベルセルクとキーストーンをつくった防衛軍が戦って世界が廃退して……だっけ。詳しく憶えてるわけじゃないけど」
「その伝承の中にマルドゥークって言葉が出てこなかったか?」
「……そういえば……そんな名前があった気がする。創造主が世界を創るときに召喚した神獣……って聞いた」
「それだけか?」
 そのシャールの問いかけに、シアンは頭の中にある伝承に関する情報を整理して考えてから、また小さく頷いた。それ以上考えてもマルドゥークに関する情報は出てきそうにない。
 シアンのその反応を見てシャールは「なるほどな」と呟いた。その意味がわからずシアンが首を傾げると、また穏やかな口調でシャールは続ける。
「お前が知ってるのはヴォイエントの伝承だ。俺の知るクライテリアの伝承と比べると、削除されてる部分がある」
「……クライテリアにも同じ伝承があるの? ……あ、でも、創造主クレアが眠りについた地がクライテリアだって言われてるんだから、クライテリアに同じ伝承があっても不思議じゃないか……。それで、その削除されてる部分って……」
「創造主が世界を創る際、ある妨害が入っている」
「妨害……?」
「そうだ。改革者に反抗する者が必ず存在するように、創造主を妨害しようとした存在があった。……それがティアマートだ」
「ティアマートって……さっきカシアさんが言ってた……。しかもマルドゥークと並列して名前があがってたね」
「……ティアマートはマルドゥークとは対を成す存在だ。残留思念が生みだした神獣……結果的にマルドゥークにやられて滅されたがな」
 そこまで話すとシャールはゆっくりと立ち上がった。
 途端に、風が強くなる。シャールの長い銀髪が絡まりながらなびいた。数歩前に足を進めると、シャールはそこで立ち止まる。そして振り返らずに言う。
「……本当に、俺とお前が出逢ったことは俺とお前と世界を変えるぜ、アリアンロッド」
「それ、ギムナジウムのときも言ってたけど、どういう意味……」
「シアン!」
 突然背後からヴェイルの声がして、シアンは言葉を止めて振り向いた。
 遅れてシャールも後ろを振り返る。そしてヴェイルを見るや否や鬱陶しそうな表情を浮かべた。舌打ちしながらヴェイルを睨みつけて、再び穏やかな顔でシアンの方を向く。
「……またな、アリアンロッド」
「え……あ、うん……。帰るんだ?」
「またすぐに逢える。アクセライの動きを考えると、キーストーンが絡むことがそのうち起きるだろうからな。それに、愛しいお前にずっと逢わねぇわけにはいかねぇ」
 真顔でそう言うシャールを見ながら、シアンは芝生から立ち上がった。そして術を使って消えようとするシャールに「待って!」と声をかけながら近寄る。その様子をヴェイルはシャールの行動を警戒するように見ながらも黙認していた。
 シアンに呼び止められて、シャールは精神集中を中断した。その紅い瞳をシアンは見つめる。
「……シャール、大丈夫?」
「どうした、突然」
「なんか……巧く言えないけど……傷付いた眼、してる。疲れてるっていうのとはちょっと違って……」
 段々と視線を落としながら言葉を捜すシアンに、シャールはふわりと微笑んだ。そして細長い指でシアンの髪をそっと撫でる。シアンの視線をあげさせてから「大丈夫だ。やさしいな、お前は」と穏やかに言うと、ヴェイルが怒る間もなくシアンから手を離した。同時に精神集中を再開すると、蛍光色の光に包まれてシャールの身体は消えてゆく。
 その光が完全に消えるまで見守っていたシアンに、ヴェイルはゆっくりと歩み寄った。
「何話してたの?」
「さっきのこと。シャールがひとりで納得してたこと、教えてもらえないかと想って。……結局、完全にはわからないままなんだけど」
 シアンはそう前置きして、シャールから聞いたことをヴェイルに説明する。ヴェイルもクライテリアの伝承については初耳だったらしく、ティアマートという言葉を慣れない風に聞いていた。
 一通りの説明を聞き終わると、ヴェイルは腕を組んだ。何かを考えるようなヴェイルを見ながらシアンは補足して続ける。
「アクセライがどういうつもりでその言葉を呟いてたのかはわからないけど、アルスが言うには自分たちのことをベルセルクって称してたみたいだし……伝承になぞらえた比喩なのかも」
 シアンの意見に、ヴェイルは曖昧に頷いて一応の同意を示した。それを確認すると、シアンは聖堂の方を向く。
 先程まで閉じられていた入り口の大きな扉が、誰かが開け放して行ったのか、開いている。外からでも内部の様子がよく見えた。多くの人々が、聖堂の奥にある何もない空間に向かって跪いている。その姿は真剣そのものだった。
 祈る人々をオッドアイに移しながらシアンが呟く。
「……あんなにたくさんの人が祈ってる……」
「…………そうだね……」
 ヴェイルも聖堂の方を見遣って、今度は言葉で同意する。その声は心なしかいつもより少し低かった。
 いつの間にか風は弱まっている。漂う雲には隙間がなくなり、陽も傾きかけてどんよりとした空が広がっていた。夜になれば、更に空気は冷たくなるだろう。そんな中、人々は祈り続けている。それはある種の強さであるように、二人の目には映った。