戻れない第一歩




 再び視界が鮮やかになり、シアンははっとした。
 シアンの身体は宙に浮き、両手には短刀を握り、カシアに向かって迫っている。だがシアンが自分のその状態に気付くまでに間があった。その一瞬の間にカシアの身体からキーストーンの波動が放たれていた。状況を把握できないまま、その瞬間無防備になっていたシアンの身体は波動に呑まれる。悲鳴をあげながらシアンの身体は大きく後方に吹き飛ばされた。
 その悲鳴にヴェイルたちがはっとする。しかし、相手をしている不死者が多すぎて、シアンの名を呼ぶことしかできなかった。
 吹き飛ばされながらなんとか少しでもダメージを軽減しようとシアンは空中でできるかぎり体勢を整えた。ライエとユーフォリアのいる場所にある岩に背中をぶつけて、よろめきながら着地する。そしてようやく現実に戻ってきたことをはっきりと認識した。
「……さっきのあれは……本当に彼女の意識……? だとしたら……、このまま放っておけば彼女が言ってた通り、キーストーンによって力を使い果たして……」
 まだ起こったことの整理ができないまま、シアンは懸命に頭の中で事態を把握しようとした。
 そこに、背後からライエの声が近付いてくる。
「シアンさん! 大丈夫ですか!?」
「あ……、はい。なんともないです……受け身とったから怪我もしてないですし」
 淡々とシアンはそう答える。そしてゆっくりと立ち上がるとカシアが自分を攻撃のターゲットから外したことを確認して、精神集中を始めた。瞬く間にそれを完了させると、カシアではなく氾濫した不死者に向かって手を翳した。
「凍てつく惨禍を我が前に喚べ ……彼の者に昏睡を」
 シアンの周囲に冷気が巻き起こり、それは不死者に向かって勢いよく放たれる。それはシアンの目の前にいた者はもちろん、ヴェイルやシャール、そしてハディスが相手をしていた不死者をも全滅させた。更に力は勢い余り、周囲の木々をいくらか破壊し、既にへし折られていた幹を粉砕した。
 改めてその術力を見せつけられて、シアンを彼女の背後から見ていたユーフォリアは息を呑んだ。これで制御されているなど信じられない話である。アルスの言葉ではないが、恍惚とするような光景だった。
 周囲にいた不死者が倒され、カシアは取り巻きを失ってひとりになる。力の使い過ぎで疲労してしまっているのか、カシアの息はあがっている。そしてそのせいか、すぐには次の不死者が生みだされなかった。
 これを契機とせんとばかりに、シャールはカシアをターゲットにして精神集中を始めようとする。しかしシアンは慌ててそれを声で遮った。
「待って、シャール! ……あの人を助けることはできない?」
「……突然どうした、アリアンロッド……」
 精神集中をやめて、シャールは驚いてシアンを見遣った。シャールだけではない。シアンの言葉に全員の視線がシアンに集中している。息を荒げたまましばらく動く気配のないカシアに一応の注意を払いながら、ヴェイルはシアンに歩み寄った。
「……何かあったの?」
「私もあんまりよくわからない……。だから、信じてもらえないかもしれないけど……彼女の意識、みたいなものがさっき見えて……。意識と身体が分離してしまってて、自分の意に反して行動してしまってるんだって、彼女は言ってた。でも彼女にとってそれは辛いことだから、もう殺してほしいって……」
「……それが、彼女の意識の言葉なの?」
「うん。……冷静に考えると変なんだけど、でもすごくはっきりと声が聞こえたから、気のせいだとは想えなくて……。だからその言葉が本当だとしたら、殺さずに彼女を助ける方法があるなら助けたくて……。殺してほしいって言ってたけど、本当は生きたいんだと想う。……彼女の意識、辛そうに泣いてたから……」
 ヴェイルに向かって答えるシアンの声は控えめだったが、彼女の瞳はしっかりとヴェイルを見据えていた。シアンの言葉には少しも迷いがない。
 しかし、だからと言ってそんなことを簡単に信じることができるわけがない。ユーフォリアが岩の方からシアンに近寄ってゆく。
「……なんかよくわかんねぇ話だけどさ、もしお前が聞いた声が気のせいだったり、相手の罠だったりしたらどうするんだよ。アクセライの仲間に手を貸すことになるんだぜ?」
「そのときは私が責任を持ってなんとかする。改めて戦って私が勝てばいい……。アクセライの仲間に何の理由もなしに情けをかけるつもりはないから」
「……助ける方法は、無くはねぇ」
 シャールが突然会話に割って入った。今度は全員がシャールに注目する。その視線に煩わしそうな表情を浮かべながら、シャールは息のあがったままのカシアを見た。
「あの女を見りゃわかるだろうが、あの女はキーストーンの力に耐えられるほどタフじゃねぇ。放っておけばそのうちキーストーンに身体を乗っ取られて生きたまま死体になる……。だとすれば、今殺しておくのが一番いい。だが、アリアンロッドが助けたいと想うなら手を貸してやる。それに……もし巧くいけばこの女からアクセライの情報を聞きだせるかもしれねぇからな、やってみる価値はあるだろう。罠だったときは俺が即座にアリアンロッドを惑わせたこの女を殺してやる。……ただし、巧くいくかどうかの保証はねぇぜ? 失敗したら殺しちまう可能性が高い」
「うん……それは、なんとなくわかる。彼女の状況を見てると、簡単にできそうには想えないから」
「まぁ、お前がさっき止めなければ俺は今あの女を殺してたからな……結局同じ結果になるだけだ」
「彼女も……生きる屍にはなりたくないって言ってたから……そのときは割り切る、と想う」
「そうか、ならいい。流石、俺の見込んだ女だな。考え方が利口だ」
 シャールはもうシアンの言う通りにやるだけやってみようという気になっていた。他のメンバーにしても、情報が得られるかもしれないという期待がある以上、反対することはできない。シアンとシャールがその気になってしまったのを見て、ハディスは「しゃあねぇな」と呟いた。
 カシアの体力が少しずつ回復し始めている。それに気付いてヴェイルは早口で問いかけた。
「それで、具体的にはどうすればいいの?」
 急かすようなヴェイルの口調に少し苛立ちながらも、シャールもカシアの状態に気付いた。彼女が再び戦闘体勢に入る前にどうにかしなければならないことを考えると、今無駄に時間を浪費するのは得策ではない。
 シャールはヴェイルではなくシアンの方を向いた。
「簡単なことだ。キーストーンを無効化すりゃあいい」
「無効化するって言っても、どうやって? ……あ、たしかシャールはできるんだよね。ギムナジウムのときはシャールがキーストーンを無効化したって言ってたし」
「ああ、たしかに俺でも無効化は可能だが、今回はアリアンロッド、お前がやった方がいい」
「……私が? でも私、そんなのやったことないけど……」
「禁忌だ。禁忌の術があれば、キーストーンを無効化できる。しかし普通にあの女に術を放てばあの女は確実に即死する。特に禁忌は制御しにくい術だからな。……だから俺があの女にレジストを使う。俺のレジストをお前は禁忌の術で突破しろ。俺とお前の役割が逆だと、制御が苦手なお前のレジストが強力すぎて俺の禁忌が突破できない可能性があるからな」
「……レジストで禁忌の効果を現象させてから彼女に命中させるってこと?」
「そうだ。……それから……、そこの出来損ない」
 身体はシアンの方を向いたままシャールは目だけでヴェイルを見た。
 カシアの方に注意を払いながらシアンとシャールの会話を聞いていた中、突然指名されてヴェイルは反射的に驚きを示す。そして慌ててシャールを見遣った。ヴェイルの慌てた反応に不満そうな顔をしながらシャールは言う。
「アリアンロッドが禁忌をあの女に命中させた直後にあの女にレメディを放て。どんなに軽減されていようが禁忌を喰らって普通の人間が簡単に耐えられるもんじゃねぇ。軽減はあくまで即死を避けるためだ。つまり……」
「レメディで瞬間的に禁忌でのダメージを回復すればいいんだね。そうすればキーストーンは無効化されて、彼女の身体は助かる」
「……フン、わかってんじゃねぇか」
 そう言いながらシャールはシアンがカシアの方を見つめていることに気付いた。ヴェイルとシャールがカシアに視線を移すと、彼女は体勢を立て直し、再びゆっくりと波動を放ち始めている。
 全員がそれに気付いたが、一番先にカシアに向かって走り出したのはハディスだった。
「作戦が決まったんなら実行あるのみだ! 俺様が時間を稼いでやるから巧くやれよ、三人とも!」
 それを見てユーフォリアもカシアの方に向かって勢いよく地面を蹴る。不死者が氾濫していない今なら、ライエや人々を護らなくても危険だということはない。
 ハディスとユーフォリアはカシアの元へ近寄ると、また少しずつ生みだされ始めた不死者を拳とナイフで倒し始めた。生みだされた直後に倒してしまえば、周囲に不死者が波及することはなくなる。ずっとこの状態を保つのにはスタミナが要るが、三人が精神集中をする時間を稼ぐだけならなんとかなりそうだった。
 二人が飛び出したのを見てシアンとシャールは精神集中を始める。少し遅れてヴェイルも精神を集中した。数秒後には、三人ともが強力な波動に満ちていた。
 カシアに向かって手を翳しながらシャールはシアンに声を届かせる。
「あとはお前の力加減次第だ、アリアンロッド。キーストーンのある胸元を狙え! 彼の者を厄災より護り抜け、護法壁!」
 シャールが詠唱するとカシアの周囲にシールドが出現した。そのシールドは厚く、しっかりと張り巡らされている。
 そのシールドが張られたカシアに向かってシアンはそっと左手を差し伸べるように翳し、そっと力を込めた。
「ハディス、ユーフォリア、離れて! 偽印の天蓋 粛正の綺羅 在るべき流転へ還れ、封絡せよ!」
「……彼の者に際限なき加護を与えん!」
 ワンテンポ遅れてヴェイルがレメディを放つ。ハディスとユーフォリアはシアンの声に応じて戦うのをやめてできるだけ遠くへ避難した。
 禁忌の術によって放たれた光がカシアへ一直線に飛翔する。シャールに言われた通り、シアンはカシアの胸元を狙った。しかしその一部分だけに術は集中せず、周囲の不死者へも及んで消滅させる。そして残った波動はシールドに衝突した。懸命にシアンは力をコントロールしようとする。強い精神力同士の接触で地が揺れた。
 数秒後、シールドの一部が崩壊して禁忌の術がカシアにまで達する。カシアが大きく悲鳴をあげた。すかさずヴェイルはレメディによる癒しの光をシールドの破られた部分へと放つ。やさしい光がシールドを抜け、瞬時にカシアへと届く。禁忌の光とレメディの光が混ざり合い、瞬間、周囲は真っ白になった。
 光はゆっくりと消えてゆく。段々と全員の視界がはっきりと色を捉え始めた。周囲は静まり返っている。不死者やキーストーンの圧迫感は消え、物音ひとつしない空間ができあがっていた。そしてクリアになってきた視界に、カシアが倒れている姿が映る。シアンはもちろんのこと、岩陰にいたライエもがカシアに駆け寄った。そして少し遅れて他のメンバーもその周囲に集う。
 しゃがみ込んでカシアの様子を見てから、ライエは顔をあげた。
「……大丈夫。気を失ってるみたいですけど、息はあります」
「よかった……。……ね、シアン」
「……うん。……ありがとう、みんな。協力してくれて」
 ほっとしたように言ったヴェイルに対して、シアンは頷いた。ハディスとユーフォリアも安堵の表情を覗かせている。
 倒れているカシアは普通の有翼種の女性にしか見えない。その隣に緑色のキーストーンが転がっているのを発見して、シャールはそれを拾いあげた。力を失ったキーストーンは不死者を生むこともない。ただの小さな石でしかなかった。
 倒れているカシアをハディスは軽々と抱えあげた。
「とにかく、この子を休ませてやろうや。そこにいる人に訊けば、この辺で休めそうな場所とかわかるだろ。ついでにその人たちもそこまで護送してやりゃあいい。不死者が残ってたら危険だしな」
「そうだね。幸い、みんな岩陰に隠れててこっちで何が起こってるか見えないみたいだったから……きっと彼女が主犯だったってこともわかってないと想う。……彼女も被害者であることにしておいた方がいいだろうね」
 ハディスに向かって頷き返しながらヴェイルはそう言った。そして岩陰に歩み寄ると、隠れていた人々に声をかける。圧迫感の消えた中、人々はみんなほっとした表情を浮かべていた。