戻れない第一歩
ゆっくりした動作で部屋を出て行ったものの、シアンの行動は思いのほか素早かった。そのためヴェイルがシアンに追い付いたときには、もう病院の出入り口まできていた。二人とも大きな病院を早足であっという間に抜けてきている。
入り口の自動ドアを出たところで、ヴェイルは改めてシアンの名を呼んだ。病院内では大声を出すのは憚られたが、外に出ればシアンを呼び止められるほどの声を出すことができる。ヴェイルに呼びかけられてシアンは後ろを振り返った。そして自分より背の高いヴェイルを覇気のない瞳で見上げる。
振り向いただけでシアンは何も言わなかった。ただその瞳は傷ついているように見えてならない。
低い声でヴェイルは言った。
「……本当にごめん。……怒ってる、よね……」
「べつに。他の人がどう想ってるかは知らないけど、私は怒ってないよ」
「でも……」
「謝らないで。……謝られても、これ以上どう言えばいいのか私にはわからないから……」
静かに呟かれた声は、周囲の騒音や話し声によってすぐ消されてしまう。それが痛々しくてヴェイルは言葉を失った。シアンをこんな気持ちにさせた自分を責めずにはいられない。自分がシアンの力のことを黙っていたのは紛れもない事実である。だからこそ、シアンがどう言おうと罪悪感が込み上げて仕方なかった。
病院の向かいには高層ビルが建っている。その最上階には大きなスクリーンがセットされ、そのスクリーンではニュースが放映されていた。ニュースの音声があたりに響いている。
そのスクリーンから女性キャスターの『臨時ニュースが入りました』という声がした。ぼんやりとシアンはスクリーンを見上げる。キャスターは慌てて原稿を見ながら口を動かしていた。
『ノルンに不死者が大量出現し、混乱が起こっています。ノルン政府によりますと、この出現は突然のことで対応が遅れたとのことです。セントリスト政府はノルンへの渡航に注意を促しています。繰り返します……』
ニュースの内容にすっかり俯いてしまっていたヴェイルも反射的にスクリーンを見上げた。繰り返して同じ現行が読み上げられている。街をゆく人々はそれを聞きながら口々に意見を口にしていた。昨日セントリストで起こったことと重ね合わせて、不安を漏らしている人が多く見受けられる。
スクリーンを見上げる二人の背後から、ハディスの声がした。
「お嬢ちゃん! ヴェイル!」
二人が振り返ると、病室にいたアルス以外のメンバー四人が病院から出てきていた。
スクリーンから聞こえる声を耳にして、ユーフォリアが早口で言う。
「今の臨時ニュース聞いたか? あれって……」
「うん……。キーストーンを使ってるのか、昨日みたいなことをやってるのかわからないけど、きっとアクセライが絡んでると想う」
少し険しい表情になってヴェイルはそう答える。シアンも同じことを想っていたのか、ヴェイルと視線が合うと小さく頷いた。
「このままじゃ昨日と同じようなことになるかもしれない……。ライエさん、以前、ノルンはいつ戦争が勃発してもおかしくない状況にあるって言ってましたよね?」
「ええ……。隣にあるウェスレーとは睨み合いが続いてるって聞いたわ。それに、ノルンはスフレ以外の四地方と境を接しているけれど、どこともあまり交流はないんですって。だから混乱が起こっても援軍がすぐ来るかどうかはわからないわ」
「加えてあそこは治安が悪くてな。いつ内紛が起こってもおかしくない状況だ。そんなとこで混乱が起きりゃ、被害は間違いなくデカくなる。混乱に乗じて暴動を起こす奴もいるかもしれねぇ」
「……ライエさんやハディスの言う通りなら、アクセライを止めに行かないと……」
ライエと、彼女を補足するハディスの言葉を聞いてシアンはそう言った。シアンはノルンへ行こうともう心に決めている。
それに対してヴェイルは慌てて声をあげた。
「なっ……! 駄目だよ、シアン。君はアクセライに狙われてるんだよ! 不死者が氾濫してる処に行って、もし力が目醒めたら……」
「五月蝿ぇな……落ち着け、出来損ない」
今まで黙っていたシャールが苛立った口調で言い放った。それまでライエやハディスの後ろで興味のなさそうな態度をとっていたが、突然話に割って入るとゆっくりシアンの方へ近寄った。そしてシアンから一歩離れた処からヴェイルを鋭く紅い瞳に映す。
「此処で待ってればアリアンロッドが無事だなんて保証は何処にもねぇだろ。むしろノルンは囮でセントリストにひとり残ったアリアンロッドが狙われたらどうする? いくらアリアンロッドが強くともスフレのときみたいにやられちまったらどうしようもねぇだろうが。キーストーンが絡んでる可能性がある以上、俺はノルンに行くが……どうせテメェらも行くつもりなんだろ、だったらアリアンロッドが傍にいたほうが護りやすい……。それくらい気付け、能無しが」
「……お前も行くのかよ……」
「なんだ、ガキ。文句あんなら今ここで滅してやろうか?」
不満そうな表情をのぞかせたユーフォリアをシャールは本気で睨みつけた。気に入らない言葉に、本当に術でも放ってしまいそうなシャールを、冷静にシアンは見上げた。そしてヴェイルの方に視線を移す。
シアンに見つめられて、ヴェイルは参ったように息を吐きだした。
「……わかった。でもいつもみたいに勝手にどこか行っちゃ駄目だよ」
子どもに言い聞かせるようなヴェイルの言葉に、シアンは小さく頷いた。そしてシャールを再び見上げて「ありがとう、シャール」と言う。ユーフォリアから興味を失い、シャールはシアンの方を見ると僅かに笑顔を浮かべた。
シアンが同行することに納得したヴェイルはメンバーを見回した。そして今にもノルンに向かおうとしている雰囲気の中、ぽつりと疑問を投げかけた。
「そういえば……ライエも一緒に行くの?」
「あ……そうなの。病室でも話してたんだけど、仕事の関係でノルンの詳細情報を持ってるのよ、私……。だから少しはお役に立てるかもしれないと想って。トロメリア警視正にも同意していただいたから……」
「そういうこった。ライエちゃんも護身くらいはできるって言うし、基本的には俺が護ってやることになってる」
ハディスがそう言うのを聞いて、ヴェイルは「そうなんだ……」と納得を示した。たしかに何も知らないまま混乱の起こっているところへ行くのはリスクが大きい。少しでも情報があるに越したことはなかった。
しかしヴェイルに向かって答えを返すライエは、聖堂で初めて逢ったときにあんなにも不死者に脅えているような発言をしていたとは想えない。随分彼女も大胆になったな、とヴェイルは想わずにいられなかった。
ヴォイエントは5つの地方から成り立っている。中心にセントリストがあり、それを囲むように北にノルン、南にスフレ、東にイーゼル、そして西にウェスレーがある。
ヴォイエント全体の面積は広いが、どの地方へもシップが通っているためすぐに移動できてしまう。すべての地方が独立した国のように独自の政治を持つ状態において、シップだけが世界に共通する文化であった。
セントリストからノルンに移動すると、シップから降りた途端、その気温差が身体にこたえる。冷え冷えとした空気はノルン独特のもので、ノルンはどこの地方よりも気温が低い地方である。
シップステーションはコンクリートでできた建物だったが、そこから出るとステーションだけが異文化のようだった。というのも、他にコンクリートの建物など周囲には見受けられない。広大な土地には自然が残り、木々が鮮やかに緑を揺らし、山が峰を連ねている。土と芝生の地面に建っているのは木の建物ばかりである。
シップから降りたその場所は異様な静けさに包まれていた。ステーションから出て辺りを見回しながらライエが呟く。
「静か……ですね。混乱はまだ此処まで及んでいないんでしょうか……」
「そうみたいですね。圧迫感を少し感じるから、昨日みたいなことが起こってるわけではないみたいです」
ぼんやりと精神集中をしながらシアンが言う。
圧迫感はヴェイルたちには感じられない。だが、シアンの精神力の強さはただならないと全員がわかっているため、誰もシアンの発言に反論しようとはしなかった。不死者との距離があればあるほど、精神力の強い人間にしか圧迫感は感じられなくなる。ただシャールだけが圧迫感を感じてシアンに対して頷いていた。
上着のポケットの中からライエは小さな箱の形をした機械を取り出した。黒い箱に小さなモニタとボタンがついていて、隅にI.R.O.のロゴが入っている。ライエがスイッチを入れてボタンを操作すると、モニタに次々と情報が示された。
「ここはノルンの再南端付近ですから、恐らく混乱はここから北だと想います。交通機関はもともとあまり発達していませんし、この状況ですからバスなんかも機能していない可能性が高いです。だいたいの地形は把握できますから、圧迫感の感じる方向を教えていただければナビゲートできます」
準備万端とばかりにそう言ったライエに、シアンは小さく頷いた。
そしてシャールを見上げる。
「シャール、キーストーンの波動は感じる?」
「……まだ何とも言えねぇな。距離がある所為だろうが……感覚による判断じゃ否定も肯定も今の段階じゃできねぇ。だが推測からいけば、さっきのアリアンロッドと同意見だ。無差別に人を殺しまくって不死者を生みだしてるわけじゃねぇだろうな」
シャールとそんな会話をかわすシアンをヴェイルは心配そうな瞳で見つめていた。その視線に気付いて、シアンはヴェイルの方を向いて小さく首を傾げる。しかしヴェイルは「なんでもない」と苦笑した。
ステーションから圧迫感を頼りに一行はライエのナビゲートのもと北へ向かった。進んでゆくにつれて圧迫感が強く感じられるようになってゆく。次第にそれは最初圧迫感を感じていなかったヴェイルたちにも感じられるようになった。肌を刺すような感覚が漂っている。
圧迫感の中を進んでいると、突然何人かの悲鳴が聞こえた。はっとして全員がそちらへ向かって駆けだす。そしてその先に、不死者に襲われている人々の姿を見つけた。
その光景が目に入ると同時に、シアンとヴェイルは地面を蹴っていた。そしてそれぞれ短刀とレイピアを抜くと、一番手前にいた不死者を薙ぎ倒した。そして一歩遅れて攻撃体勢に入ったハディスが更に残っている不死者に殴り掛かる。その後ろでユーフォリアは精神集中を完了させた。
「地中より昇りしその魂よ集え 厄災を抱き禍根を残せ!」
不死者に向かって手を翳す。ユーフォリアの詠唱に合わせて不死者の足元が崩れる。そしてその亀裂は残っていた不死者をすべて呑み込んで、何事もなかったかのように元に戻った。
他人を助けることに興味のなさそうな顔をしながらシャールはその様子をただ眺めていた。その視線の先でシアンとヴェイルは人々に駆け寄る。見知らぬ人間が駆け寄ってきたのを見て、人々は不思議そうな顔をした。
「あ……あんたらは一体……」
「……観光客です」
「か……観光客って……。シアン……君、いくらなんでもそれは適当すぎるよ……」
真顔で適当な説明をするシアンにヴェイルが肩を落とした。
その間、シアンとヴェイルにライエたちも近寄ってきていた。不死者に襲われていた人々、老若男女十数人は相変わらず不思議そうな目でシアンたちを見ている。そんな人々を見て、ヴェイルは彼らの中の数人が怪我をしていることに気付いた。相手を警戒させないように穏やかな表情でそっと歩み寄ると、精神を集中する。
「彼の者に際限なき加護を与えん」
淡い光が生まれる。その光は人々の瑕に集い、その瑕を癒していった。見たこともない不思議な力に人々は当惑している。
そのうちのひとりの女性が思わず声を発した。
「あなたたち、本当に一体何者なんですか? 他の地方からの援軍の方じゃないんですか?」
「おい、お前よく考えろよ。こんな子どもがいるのに政府が要請した援軍なわけないだろ?」
隣にいた男性が慌てて女性を制した。たしかにこの一行は見たところ何の集団かわからない。シアンたちは外見上、何の統一感もなかった。そんな集団がこんな危険な地に来ている、しかも服装からはどう見てもノルンの人間には見えない、となれば不思議がられるのも当然だった。
どう返答すべきかヴェイルが迷っていると、そのとき突如圧迫感が高まった。その感覚は非常に強く、今倒した不死者のようなレヴェルではない。
全員がその圧迫感のした方である背後を振り返った。戦慄が走る。その中、ハディスが低い声で呟いた。
「おい、ユーフォリア。ライエちゃんと一緒に、その人たちを後ろの岩陰に移動させて護ってやれ」
「……わ、わかった」
いつもはハディスの言うことにいちいち食ってかかるユーフォリアだが、この感覚のもと、事態の深刻さを理解してハディスの言葉に従った。言われた通りライエとともに人々の元へ駆け寄ると、圧迫感に怯える人々を励ましながら立たせて岩陰へと誘導する。
一方シアンたちが見つめている方向からはゆっくりと人影が迫ってきた。その人影が近付くと、ヴェイルとシャールが反応を示す。
「彼女、昨日の……」
ヴェイルが思ったことを声にする。
現れた人物は昨日ヴェイルとシャールが見た有翼種の女性だった。明るいグリーンの髪、そして見まがうことのない白い翼は昨日見たものに相違ない。
珍しい有翼種にシアンとハディスはしばらくその翼を見つめていたが、ヴェイルの声に反応してシアンはヴェイルを見遣った。
「……知り合い?」
「いや、そうじゃなくて、昨日セントリストで逢ったんだ。逢ったっていうより、対峙したって感じだけどね。……アクセライの仲間だよ、彼女は。…………それにしても、君って結構誰でも知り合い扱いするね……」
アルスと初めて逢ったときのことを思い出しながらヴェイルが呆れた声を出す。しかしそうやって空気がやわらいだのも一瞬のことで、すぐに緊迫した空気に戻った。アクセライの仲間だ、というヴェイルの言葉に全員が目の前の人物に対して警戒を示す。
刹那、シアンの視界がぐらりと歪んだ。シアンがはっとする間もなく、それはすぐに元に戻る。しかしその瞬間を経て、僅かに耳鳴りが聞こえてきた。何かに支障があるほどのものではない。普段なら無視できるほどのものだが、圧迫感に混ざって起こっただけに無視することはできなかった。
現れた有翼種の女性を見ながらシアンは呟く。
「……この感覚……」
「キーストーンだな。あの女……たしかカシアとか呼ばれてたが、あいつが持ってるとみて間違いねぇ」
シアンの呟きに即座にシャールが反応した。その表情はキーストーンが絡んでいるためか嬉しそうに見える。
カシアはゆっくりと歩み寄ってくる。だが、ただシアンたちの方へ近寄るだけで、何かを仕掛けてくる気配はない。マリオネットのように無表情のまま足だけが進んでいた。そしてシアンたちの声が届くような距離までくるとぴたりと立ち止まる。その瞳には輝きがない。そのままの状態で口を開く。
「……抗う者の排除を。命令の下、抗う者の排除を」
まったく抑揚がないまま言葉が紡がれる。その様子はどう見ても普通ではなかった。
ハディスが黙っていられなくなってヴェイルに声をかける。
「あのねぇちゃん、様子が変じゃねぇか? なんか……こう言っちゃなんだが、機械みてぇだぜ?」
「うん……。昨日もこんな感じだったけど、今日は昨日に増してこっちの声が聞こえてない気がする……」
「気をつけて! 来るよ!」
二人の会話をシアンの声が遮った。その声にはっとして二人はカシアの方に視線を戻す。
カシアはゆっくりと右手を胸元まで上げた。その掌で小さいものが鮮やかな緑色を放って煌めいている。そこからとてつもない波動を感じることからすると、キーストーンに違いなかった。シンシアがキーストーンを操っていたときと同じように、キーストーンを用いて攻撃してくると推測して、シアンたちは身構えた。しかしカシアはそのキーストーンを手放すどころか、自らの胸元に躊躇なく押し付けた。
その信じられない行動にシアンたちは息を呑んだ。
キーストーンはカシアの身体を浸食するようにめり込み、そしてその輝きは次第にカシアの身体に完全に呑まれてしまった。
岩陰からその光景を見ていたライエが声を震わせる。
「ど……どうなってるんですか……?」
「わかんねぇ……。けど、なんか雰囲気的にやべぇぞ……まだキーストーンの波動はバッチリ残ってるし……」
隣で同じように様子を見ているユーフォリアがそう答えていると、その視線の先でカシアは人の目で見てわかるほどの強烈な波動を放ち始めた。それは足元の芝生を揺らし、やがて広がって周囲の木々をざわめかせてへし折り、近くにあった小さな岩にひびを入れては割っていった。更にその波動はカシアの周囲に何体もの人の形をした不死者を生んだ。
シアンたちは一瞬言葉を失った。間を置いて、自分の目を疑いたくなりながらヴェイルが言う。
「一体どういうこと、これ……。キーストーンは彼女の身体に……」
「融合してやがるって感じだな。あの女の身体から直接キーストーンの波動を感じる。どんな手を使ってこんな芸当をやりやがったのかは知らねぇが、おそらくキーストーンの力を直接身につけやがったんだろう……だから容易に不死者を生むこともできる」
ヴェイルへの返答というよりも、自分で納得するためのようにシャールは言葉を並べた。
そこへカシアの周りに生みだされた不死者が一気に襲いかかってきた。シアンとヴェイルが同時に短刀とレイピアを握り直す。シャールも短剣を抜き、ハディスは拳に力を入れた。そして襲いくる不死者をそれぞれ躊躇うことなく倒してゆく。しかしカシアが生みだす不死者は尽きることがなかった。倒された不死者は地面に落ちて消え、また次に生みだされた不死者が同じように倒されては消えてゆく、その繰り返しだった。
数を増した不死者はライエとユーフォリアのいる方にまで波及する。ユーフォリアは岩陰の一歩前に飛びだして術で不死者を焼き尽くした。
不死者が倒され、生みだされるサイクルは終わりそうにない。たまらずシャールが戦いながら叫んだ。
「アリアンロッド! もうこんだけ周りが破壊されちまってんなら問題ねぇだろ……逡巡することはねぇ、術使え! 詠唱中くらいなら俺が護ってやる!」
「……わかった、」
「昂揚する精神力の排除を」
突然カシアの冷たい声がする。シアンが術を詠唱するために精神集中しようとすると、カシアはシアンに向けて一直線に近寄ってきた。そしてシアンに向かってナイフを数本同時に投げつける。シアンは精神集中をやめて襲来するナイフを短刀で払い落とした。
尚もカシアは不死者を周囲に生みだし続けながらナイフを両手に握りしめてシアンの方へと直進する。シアンは正面に来たカシアが振り下ろすナイフを短刀で受け止めた。更に何度も繰り返される攻撃を、シアンは確実に躱し、受け止めてゆく。
金属がぶつかる音が響く。シアンとカシアの様子が気になりながらも、自分も不死者と戦っているため、そちらに注意をとられてはいけないという状況にヴェイルはもどかしさを感じていた。シャールやハディスもそう想っているのだろうが、状況はヴェイルと変わらない。不死者を殴り倒し続けているハディスは、尽きない不死者に舌打ちせずにはいられなかった。
その間、シアンはカシアの攻撃を受け止めたり躱したりしながら隙をうかがっていた。そしてカシアが大きくナイフを振り下ろした瞬間、シアンは振り下ろされる力とは逆の方向に向かって短刀をナイフに衝突させた。斥力が作用し、反動でナイフが弾かれて手から飛んでゆく。そして更に衝撃で反射的に緩んだもう片方の手に握られていたナイフも、短刀で弾き飛ばした。途端にカシアは丸腰になる。まだ生みだされ続けている不死者が襲ってくるのを切り裂いて、シアンは地面を蹴った。そして空中からカシアとの間合いを詰める。カシアの目の前にシアンが迫った。
その刹那。
突然シアンの周囲は真っ暗になった。
何が起こったのかわからないまま、シアンは驚いて辺りを見回す。しかし何も見えず、ただ真っ暗でしかない。しかもおかしなことに、さっきまで戦っていたはずのシアンは短刀も持たずに直立した体勢でいた。
「……なに、此処……。私、さっきまでたしかに戦って……」
発された声が虚しく響く。ヴェイルたちの姿はない。不死者の姿もなかった。
わけがわからないまま、シアンはぼんやりと足を進めてみた。しかしそんなことをしても視界には暗闇しか映らない。自分が目を開けているのかどうかも疑わしくなってきた。
「……どうしたんだろう、私……。それに此処は一体……」
「……誰かいるの?」
独り言を呟いていたシアンの背後から、突然人の声が聞こえた。
驚いてシアンが振り向くと、そこには白い翼を持つ女性がいた。女性は光を纏っている。確認してみるまでもなく、彼女はカシアだった。しかし先程戦っていた彼女の様子とは異なり、瞳には輝きが宿っている。その眼にはうっすらと涙が浮かんでいた。
シアンはゆっくりと身体を彼女の方へ向けた。
「……カシア、さん?」
「あ……あなた、私の声が聞こえるのね!?」
驚きと喜びが混ざり合った表情でカシアはシアンを見つめると、勢いよく歩み寄ってシアンの両腕を掴む。その様子を見ていると、シアンは彼女が今さっきまで刃を向けていた相手だとは想えなかった。
カシアに気圧されるようにシアンは小さく頷く。そして少し間を置いて冷静に問いかけた。
「あの……声が聞こえるってどういうことですか? それに此処は……」
「此処がどこなのかはわからない……でも私はあるとき……いつだったかはもうはっきりと憶えていないけれど、とにかく以前からずっと此処にいるの」
「ずっと、って……じゃあ私が戦ってた相手はあなたじゃないんですか?」
「……いいえ、あれも私よ。だけど私の意識は作用していない、ただの身体でしかない……。気がついたら私の意識と身体は分離してしまっていたの……それからずっと、外面には作用していない意識の中で私の声が聞こえる人がいることを信じてずっと呼び続けていたわ。そうしたら、あなたが……」
そこでカシアは言葉を一旦切る。
シアンはしばらく黙ってカシアを見つめていた。結局此処がどこなのかはわからないままである。此処へ来る直前の状況を考えると、いつまでもこんな処にいるわけにはいかない。なにしろ戦いの途中なのである。今はあの混乱を鎮めなければならない。
そうなると今唯一の情報である彼女の言葉を信じる他なかった。
「じゃあ、あなたは自分の意志ではなくあんなことをしてるんですか?」
遠慮なくシアンがそう訊ねると、カシアは俯き加減になって小さく頷いた。
そして縋るようにシアンの腕を握る手に力を込める。
「そう……やめようと想っても、やめることができないの。不死者なんて生みたくないし、人を傷つけたくもない。だけど私が此処からどれだけ叫んでも、私の身体は言うことをきいてくれない……」
「それは……どうにかならないんですか? 他人の手を借りれば……たとえば私が何かすることによってその状況から抜けだせるとか……」
「……方法はあるわ。だから私はこうやって私の声を聞いてくれる人を待って呼び続けていたの」
「私がその方法を使えばあなたはこの状況から解放されて、混乱は静まるんですか?」
「……ええ。今ノルンの混乱を引き起こしているのは、私と……私の持つキーストーンだから。私が単独で来ているだけで、アクセライは来ていないわ」
言いながらカシアは再び顔をあげた。そしてやさしい眼差しでシアンを見つめる。その瞳は憂いをたたえ、涙が潤みかけている。
まっすぐに見つめられて、シアンはただぼんやりと見つめ返すことしかできなかった。そんなシアンに向かって、穏やかな声でカシアは言う。
「あなたは強い精神力を持っているんでしょう? 波動を感じとればわかるわ……アクセライが言ってたターゲットがあなただってことも、あなたが私の声を聞いて傍に来てくれてすぐにわかった……。だからお願い。……私を殺して」
「……え……」
「キーストーンの力は強いけれど、私自身の身体は強くない。このままいけば力を使い果たして身体は生きる屍になってしまう……そうしたらキーストーンの宿ったまま生きる屍として被害を生み出し続けるわ。もともとが死んでしまっている屍になってしまったら、殺されることもない……。最終的にどうなるのかはわからないけれど、屍なんだから、きっとどんな攻撃をされようとも倒れることはなくなるわ。……だから……私が人の身体である間に……殺すことができる間に私を殺してほしいの。……私自身は戦いに向いたタフな身体でもなんでもないわ、だから少しでも攻撃を当てればすぐに怯みます。そこへ術を放てば、簡単に……」
「……あなたは……それでいいんですか?」
「いいのよ。もう他にどうしようもないんだから。このまま他の人を傷つけ続けるくらいなら消えてしまいたいの……。だから……だから、お願い……」
カシアの声は徐々に小さくなってゆく。それに伴ってカシアの身体もゆっくりと消えていった。
驚いてシアンが目を見開く。しかし消えてゆくカシアに声をかける間もなく、カシアの身体は消え、腕を掴まれていた感覚もなくなる。そしてまた闇だけが残った。
そしてシアンが再び訪れた闇に戸惑う前に、その闇は突然一気に消え失せた。
目の前が一転して真っ白になる。