動き始めた惨禍




 強い精神力を近くにありありと感じながら、ヴェイルとシャールは雨のセントリストを走り回っていた。圧迫感を感じない不死者を躊躇いなく薙ぎ倒しては先に進む、というサイクルを繰り返していた。
「ねぇシャール、急いでシアンを捜さなきゃならない理由って一体……」
 前を走るシャールにヴェイルはそう訊ねる。しかしシャールはそれに対して返事をせずに走り続けた。
 アルスの家を出てからもう30分ほど経過している。何回か爆音が聞こえてきたことがヴェイルは気になって仕方なかった。しかし、何が起きているのか把握できない以上、どうしようもない。シャールはおそらく知っているのだろうが、何も教えてはくれなかった。
 暫くして突然シャールは立ち止まった。慌ててヴェイルも足を止める。二人とも息が荒れていた。
 周囲の感覚をしっかりと感じながらシャールが言う。
「……もしかしたらアリアンロッドは意識的に気配を消してるかもしれねぇな……。広範囲にサーチしてもアリアンロッドに関する何の波動も感知できねぇ」
「これだけ強い精神力を周囲に感じてるから、警戒して気配を消してるのかも……」
「どっかの出来損ないと違ってあいつはキレるからな」
 相変わらずシャールはシニカルな口調だった。雨に濡れた長い銀髪があやしく揺らめいている。
「……しかし、とてもいい状況とは言えねぇな。あの男より先にアリアンロッドを見つけねぇ限りは……」
「あの男って……」
 ヴェイルがそう言いかけたとき、二人は強い精神力を間近に感じて動きを止めた。険しい表情で二人とも睨むようにある一定の方向を見つめる。そして数秒後、雨で白く見通しの悪い道にぼんやりと人影が現れた。その人影は段々と二人に近付き、はっきりと見えるようになってくる。
 やがてその人影が誰なのかわかるまで近付いたとき、ヴェイルは息を呑んだ。無意識に震えた低い声が喉から漏れる。
「……アクセライ……!」
 そのヴェイルの隣でシャールはアクセライの登場を予期していたかのように冷静でいた。
 二人の目の前に現れたアクセライもまた、鋭い眼光で二人を睨み返していた。黒いコートが雨に濡れて光沢を放つ。
 沈黙が流れる。雨の音だけが響く。張りつめた空気は動きをみせない。
 暫くして沈黙を破ったのはシャールだった。
「……やっぱりテメェだったか。くだらねぇことばっかりしやがって」
「貴様らもな。強い精神力を感じて来てみれば案の定……。どうしても俺の邪魔をしたいらしいな」
 吐き捨てるように言うシャールに、アクセライも負けずに言い返す。
 シャールとアクセライの会話を聞きながら、ヴェイルは頭の中で状況を整理した。急にシアンを捜せと言いだしたシャール、セントリストに起きた爆音などの異変、気配のない不死者の出現、そしてシャールのアクセライに対する言葉……、それらを考え終えたとき、ヴェイルははっとした。
 紫の瞳が揺れる。怒りと驚きの混ざったような声が唇から溢れた。
「アクセライ……、まさか…君は、シアンの力を……」
 ヴェイルの驚愕した様子に、アクセライは口の端を釣り上げて「今頃気付いたのか?」と嘲るように返す。
 それにシャールはさらりと同意した。
「まったく同感だ。この出来損ないの頭の悪さはどうしようもねぇ」
「なっ……! 君が何も言ってくれないから気付くものも気付かなかったんだよ!」
「それぐらい気付け、莫迦が。そんなんでアリアンロッド護るとか抜かしてんじゃねぇ」
「……シャール、君どっちの味方なんだよ……」
「どっちの味方でもねぇ。アリアンロッドは俺のものだ、前からそう言ってんだろうが。……だが、」
 何の緊張感もなくヴェイルにそう言って、シャールはアクセライを睨んだ。そしてどこか満足したような無気味な笑みを浮かべる。
「こんな出来損ないを殺るなんていつでもできるからな。今はテメェが先だ。……そこで隠れてる単純思考も一緒に葬り去ってやる」
 言いながらシャールはアクセライの背後に視線を移す。ヴェイルもそれに倣うと、アクセライの背後にある建物の影からぼんやりと人影が現れた。強い精神力が漲っている。見覚えがあるその人影の赤い髪と着崩された服装に、ヴェイルははっとした。イルブラッド、と口の中で声を震わせながらその名を呼ぶ。
 目の前にアクセライとイルブラッドが現れたという状況に緊迫しているヴェイルの心境をよそに、シャールは既に精神集中を始めていた。此処が街の中であることなど彼には関係がない。いつものように強い精神力を集結させる。
 それを妨害しようとイルブラッドは一直線にシャールを狙って地面を蹴っていた。それを見て反射的にヴェイルも走り出していた。鞘から抜かないままのレイピアを手にシャールの前まで走ると、そこへ襲撃をかけたイルブラッドが振り下ろした拳を鞘で受け止める。拳には棘のついたグローブがはめられていた。
 もちろんシャールは戦闘能力に長けている、ヴェイルが護らずとも攻撃を回避できるように精神集中をしたまま後ろへ跳んでいた。シャールとの間に距離が空き、イルブラッドは攻撃対象をヴェイルへと変更する。受け止められた拳を引き、すぐに右足で蹴りを繰り出した。シンガードがはめられた足が襲い来るのを躱して、ヴェイルは鞘に収まったままのレイピアを両手で握って振り下ろす。しかしイルブラッドは反射的にそれを拳で受け止めた。
「武器も抜かねぇで情けかけてるつもりか? ……ナメてんじゃねぇよ、偽善者」
「情けなんかかけちゃいないよ……僕は正義でも善でもなんでもない。……君たちの好きにはさせない!」
 ヴェイルは一旦軽く鞘を引く。そして右手だけで鞘を握り直して力一杯に薙ぎ払った。イルブラッドは身軽に跳躍してそれを躱す。
 そこに後ろからシャールの声がした。
「いくぜ、出来損ない……手加減なしだ、死にたくねぇなら自分でどうにかしろ! ……桎梏の幽玄渦中より出で来るその翼 制裁を我に仇成す総てに!」
 攻防を繰り広げるヴェイルとイルブラッドにシャールは躊躇することなく術を放った。その瞬間にヴェイルは強く地面を蹴った。体勢が整っていたためすぐに跳躍することができる。一方のイルブラッドはヴェイルの攻撃を躱すため、中途半端に跳躍した状態でいた。
 シャールの放った漆黒のレーザーが容赦なく迫る。思わずイルブラッドが焦りを浮かべた。
「なっ……!」
「祥雲来たりて黎元に裁きを与えん 風神の名の下に!」
 イルブラッドの背後から、今度はアクセライの声がした。
 巻き起こった風がレーザーと衝突する。その衝撃に巻き込まれてイルブラッドの身体は大きく吹き飛ばされた。宙に悲鳴が舞う。
 その間も術の衝突は続いていた。シャールもアクセライもまったく引く気はない。力だけで相手をねじ伏せようとしているようだった。地面が轟き、ヒビが入っていた建物が少しずつ崩れてゆく。そしてやがて術は相殺され、弾けるように衝突が止んだ。
 吹き飛ばされたイルブラッドはなんとか空中で体勢を立て直す。そしてなんとか無事に着地し、立ち上がろうとしたその瞬間、目の前にヴェイルが現れた。低い位置から左手に鞘を握り締め、柄に右手を添えた状態で一気に間合いを詰めると、まだ体勢を立て直せていないイルブラッドの懐に飛び込んだ。
 そして今度はレイピアを鞘から抜いて勢いよく薙ぎ払う。
 紅い雫が雨に紛れて飛び散った。
 イルブラッドは悲鳴をあげ、後方に大きく弾き飛ばされる。
 それでもヴェイルは気を抜かなかった。アクセライの存在を考え、いつでも次の攻撃に移ることができるようにすぐ体勢を整える。そこにシャールが声をかけた。
「……フン、やればできんじゃねぇか」
「君のやりそうなことはわかってたからね。僕が巻き込まれようが術を放ってくると想ってた。だったらレイピアを鞘から抜かなかった方が身軽に動ける……君の術を躱すためには常に身軽に動けなきゃいけないからね」
 いつものような穏やかな声ではあるものの、ヴェイルの表情はアクセライと対峙していることもあっていつもよりもずっと厳しいものだった。
 アクセライの近くまで吹き飛ばされたイルブラッドは、地面に膝をついて腹部の傷を抑えながら低く呻いた。
「……っくそ、なんだってんだ……この前見たときと全然違うぞ、あのガキ……! 動きも集中力も半端じゃねぇくらい上がってやがる……」
「いや、実力は少し上がった程度だろう。ただあのときとは決定的な違いがある……。あのときは周囲のことを把握できずにただ罪悪感にとらわれながらあの少女を護ろうとしていた。しかし今は……あの少女を覚醒から遠ざけるために護ろうとしている、ただそれだけのことだ。……だが、この男はそれだけで強くなれるということか……侮っていたな」
「ふざけんじゃねぇ、そんな気紛れの力にひれ伏してたまるか!」
「……そうだな。この二人の力は始末が悪い。ここで潰しておくべきだろう」
 そう言うとアクセライは再び二人を睨んだ。ヴェイルとシャールもそれに対して険しい表情を浮かべる。
 しかし突然その間に、ぼんやりと光が集った。蛍光色の光はゆっくりと人影を形成し、やがて現実に人を残して消えてゆく。
 その人影にヴェイルもシャールも見覚えがなかった。しかし突然人が現れたことよりも、その姿に二人は顔をしかめずにはいられなかった。現れたのは女性だった。明るいグリーンの髪のその女性は、あるものを除けば特に特殊なところもなかった。だがそのあるものを目にして、ヴェイルは驚きの声をあげる。
「彼女、翼が……」
「有翼種だ、知らねぇのか? 昔は珍しくもなんともなかったらしいが、今は絶滅寸前と言われてる種族……、おそらくウェスレーにでも隠れてんじゃねぇか。絶滅寸前の種族があそこに集結してるって話だ」
 一度驚きを示したものの、もう現実に馴染んでしまったシャールがさらりとそう言った。
 目の前に現れたその女性の背中には白い羽根がある。羽根がある人間など、セントリストではもちろん、他の地方でもヴェイルは見かけたことがなかった。
 その有翼種の女性を見て、アクセライは口を開いてその名を呼んだ。
「カシア……どうした、お前はここへ来る予定ではなかっただろう」
 カシアと呼ばれたその有翼種の女性は、ヴェイルやシャールのことを気にも止めずにただアクセライの方だけを向いていた。そして冷たい口調で口を開く。
「アクセライ様、すぐにお戻りください。例の制御装置が安定を失っています。このまま放置しておいては危険です」
「なんだと……」
「何者かが装置に接触した模様です。キーストーンが使用された形跡がありますが詳細は不明。いずれにせよ装置の崩壊は計画が水泡に帰すことを意味します」
「……くっ、やむを得んな……」
 苦虫を噛み潰したような表情でアクセライはそう言った。その隣でイルブラッドが不満そうな表情を浮かべながら、ヴェイルに負わされた傷をおさえて痛みをこらえている。カシアはただアクセライをじっと見ていた。アクセライが彼女の提案に同意しても、少しも動かずにいる。
 聞こえてきた会話にシャールはアクセライを睨み付けた。
「逃げんのか? やっぱりテメェは変わっちゃいねぇな。肝っ玉の小せぇ野郎だ」
「変わっていないのは貴様だろう。相手を挑発する癖は到底なくなりはしないようだ……。本当なら俺も貴様など此処で葬り去ってやりたいところだが、こちらにも事情というものがあるのでな。貴様に付き合っている暇などない」
「できもしねぇこと偉そうに言ってんじゃねぇ。消し炭にされてぇのか臆病者」
 そう言うとシャールは再び精神を集中し始めた。躊躇いなくアクセライを攻撃するつもりである。
 しかしそのとき、カシアが突然シャールの方を振り返って数本のナイフを一度に投げた。それに気付いてシャールが身を翻す。ヴェイルは自分の方に飛んできたナイフをレイピアで薙ぎ払って叩き落とした。
 傷を負いはしなかったものの、攻撃を躱すのに意識が集中してシャールの精神集中が途切れる。不快そうな表情を浮かべるシャールの隣でヴェイルもアクセライに攻撃を仕掛けようとしたが、もう既にアクセライたち三人の身体は蛍光色の光に包まれてしまっていた。光とともに三人の姿が消えてゆく。
 消え際にアクセライが吐き捨てるように言った。
「ヴェイル……貴様の犯した失敗がこの結果を生んだことを忘れるな」
 ヴェイルの瞳が動揺するように揺れる。それを楽しむかのように眺めながら、アクセライは光に包まれて消えていった。
 二人だけが残されたその空間は急に静かなものとなる。雨の音が騒がしかった。
 アクセライの言葉が胸に突き刺さるようで、ヴェイルは雨に打たれながら俯いた。きつく奥歯を噛み締める。その背中にシャールが鋭い声を浴びせた。
「またわけわかんねぇことグチグチ言いながらイジけんのか?」
 その言葉にヴェイルはゆっくりと顔をあげた。そして自分自身で納得するように、静かにかぶりを振る。
 レイピアを鞘に収めて腰に戻すと、頭の中で言葉を選んでから口を開いた。
「いや……。失敗は自分の手で償うよ。だから今僕にできることをする。もちろん、アクセライの好きにはさせない。無関係の人を巻き込まずにこの世界が救われる方法を捜す……。そのためにはシアンと合流しないと。今彼女を覚醒させるわけにはいかない。アクセライたちの精神力が消えた今ならシアンも気配を消すのをやめている可能性が高い。もしそうならI.R.O.本部に戻って端末を使えばすぐ彼女の居場所を特定できる。シアンが捕まったときに君がやってたみたいにね」
 用意されたように順序立ててヴェイルは言葉を並べる。そして「あれはクライテリアのシステムを経由してるからシアンの波動を辿るには有効だ」と付け加えた。
 普段よりも凛々しい口調になっているヴェイルを見てシャールは喉の奥で笑った。
「珍しく冷静じゃねぇか。この大雨はテメェの所為じゃねぇのか?」
「君のお陰かもね、シャール。この前君にいろいろ言われて目が覚めたよ」
「……フン、わかってんならごちゃごちゃ抜かさねぇでさっさと行動に移しやがれ」
 言葉ではヴェイルを褒めるようなことを言いながら相変わらずの態度でいるシャールに、ヴェイルはしっかりと頷いた。そしてI.R.O.本部の方へ身体を向けると一目散に走りだした。
 シャールも合わせてそちらに足を進める。I.R.O.本部へはそう遠くない。術で移動することもできるが、今アクセライと戦ったことを考えると、精神力に余裕があるとは言い難い。走って行った方が都合がよかった。
 街中に溢れていた精神力が消え、緊迫感の薄れた大通りを二人はI.R.O.本部へと急いだ。










 ばしゃばしゃと音をたてながら水たまりの上を走ってシアンはI.R.O.本部前に到着した。随分と長い距離を走ってきたため息が荒れている。身体はこの雨にうたれて随分冷えている。
 ここへ来るまでにアクセライたちと想われる強い精神力の気配は既に消えていた。セラフィックがどうにかしてくれたのかもしれないと想いながら、シアンは頬に張り付いた髪を整えた。
 通信機を持って家を出なかったことを一度は後悔したが、家に置いておいて正解だったかもしれない。いくら防水加工が施されているとはいえ、これだけの大雨では故障してしまうだろう。しかし、通信機がない状態でどうにかしてヴェイルと連絡をとらなければいけないことに変わりはない。ヴェイルの居場所を捜すため、シアンは精神集中をしようとした。
 しかしそこに人の足音が聞こえてきた。水たまりを勢いよく駆け抜けるその足音は雨の中でもはっきりとわかる。シアンは精神集中を中断して音のした方を見遣った。
 雨の中から二人の人影が現れてくる。その姿にシアンはすぐ反応した。口の中で相手に聞こえないほどの小さな声で呟く。
「ヴェイル……それにシャールも……」
 その小さな声は二人には聞こえなかったが、シアンの姿を認めてヴェイルとシャールはその名を呼んだ。
 安堵の表情をのぞかせながらヴェイルはシアンに近寄った。
「よかった、合流できて……。怪我はない?」
「うん、何ともないよ。そっちは? ……なんだか二人とも少し疲れてるみたいだけど」
「ああ……うん、少し戦ったから……でもどうってことないよ。怪我もないし」
「戦ったって……アクセライと?」
「……知ってたの!?」
 ヴェイルが驚きの声をあげる。シアンはそれに対して小さく頷いた。
 慌ててヴェイルはシアンの両肩に手を置いた。突然のことにシアンが目を見開く。そのオッドアイをヴェイルはしっかりと覗き込んだ。
「アクセライと逢ったりしてないよね!? 見かけただけとか……だよね?」
「……えっと、逢ってはいないよ。……でも、べつに見かけたってわけでもなくて……」
「必要以上に迫んじゃねぇ出来損ない」
 シアンの言葉を途中でシャールが遮った。不機嫌そうな顔でヴェイルを見下ろしている。
 シャールの機嫌を損ねない方が賢明であることがわかっているヴェイルは黙ってシアンから手を離した。とにかくシアンがアクセライと接触していないことがわかったのだ、少しは安心することができる。
 そのヴェイルを睨みながら「アリアンロッドに逢った途端に冷静じゃなくなりやがる……褒めて損したな」とシャールは呟いた。そしてシアンの方を向く。
「……アリアンロッド、気分はどうだ? 苦しくはねぇのか?」
「さっきまで少し息苦しい感じはしたけど、今はもう平気」
「そうか……、ならいいが……とにかく不死者が氾濫してる処へは近寄らねぇ方がいい。もう警察だとか救急隊だとかが現場に到着してるだろ。そのうち事態は収まって……」
 シャールの言葉の途中でシアンが突然はっとしたように後ろを振り返った。それに反応してシャールは言葉を中断してそちらを見遣る。シアンは遠くを、C区画の方角を厳しい瞳で睨んでいた。ヴェイルも視線を移す。
 囁くようなシアンの声が響いた。
「異常なほどの高温……迫ってる、駄目、もう時間がない……!」
 その声とともに、遠くのある一点に橙色の光が灯った。










 C92区画でアルスは通信機片手に次々と入る無線を受けていた。街のあちこちにある避難区域に派遣した警察からの報告や今後の行動についてのアルスからの指示は途絶えることがない。本部との連絡も頻繁に行われていた。
 先刻C86区画で爆発が起こってからもう随分経つ。他の場所で目立った被害は今のところ出ていないが、今日一日だけでどれだけの人の命が失われたかわからない。何としてもこの事態を早くおさめなければならなかった。
 まだ犯人と思しき人物はこのC92区画を通っていない。アルスの周囲では観測班がコンピュータで街中の観測を続けていた。
「E区画は異常なしか……わかった。引き続き警備にあたってくれ」
 E区画へ行った警察との通信をそう言って終えたアルスはゆっくりと息を吐きだした。被害が大きくなったという情報はない。今はとにかくこれ以上の被害を防ぐために犯人を捕まえなければならなかった。
 再び通信機を握り直し、アルスは他の警察と連絡を取ろうとする。
 そのとき、観測班のひとりがコンピュータのモニタを見ながら大声で叫んだ。
「こ……、この近辺に異常な波動が!!」
「なんだと!?」
 その観測班を振り返ってアルスはそう反応する。それと同時に、頭上にとてつもなく大きな力を感じた。
 この場にいる全員がそれに気付き、雨の中天を仰ぐ。
 その見上げた先には橙色の大きな球があった。それはとてつもない高温を放ち、勢いよくこちらへ迫ってくる。その熱と大きさはこのC92区画を呑み込むほどであった。
 全員が息を呑む。
 あまりに突然のことに動けない。否、動けても球はもうそこまで迫っている、どうしようもない。
 反射的にアルスは通信機を手放した。そして上着のポケットに手を入れる。通信機がアスファルトに落ちて音をたてた。素早い動作でアルスはポケットから以前シャールにもらったシルバーの指輪を二つ取りだした。それを急いで右手の人さし指と中指にはめながら精神集中を始める。
 自分でもはっきりとわかるほどの強大な術力が右手に集ってゆくのをアルスは感じた。
(頼む…………巧くいってくれ……!!)
 あちこちから恐怖に満ちた悲鳴があがる。勢いを緩めずに迫る熱から逃げ切ることはもはや不可能だった。
 術力がアルスの右手から体中に満ちる。
 制御しきれないほどのその大きな力を天に向かって解き放つために、アルスは上空に向かって右手を翳した。
「護法陣!!」
 辺り一面に半透明のシールドが張りめぐらされる。その直後、迫りくる熱がシールドに衝突した。
 熱のエネルギーはゆっくりとシールドを押し返す。アルスがどれだけの力を込めようともそれを止めることはできない。第一、アルスは自身が生み出した術力を完全に我がものにしきれてはいなかった。
 刹那、シールドが大きな衝撃とともに破られる。
 その場にいた全員が悲鳴をあげた。
 熱がすべてを呑み込む。
 アスファルトに衝突した熱が大爆発を起こす。
 炎が夜空を焦がす。
 悲鳴と爆音が雨の街にこだました。