動き始めた惨禍




 雨粒を受けながら、シアンとセラフィックは市街地を走っていた。爆発の起こった場所から少しずつ遠ざかってゆく。
 前を走っていたセラフィックが突然立ち止まった。シアンも慌てて足を止める。何かあったのかと前方を覗き込むと、そこには何体もの不死者の姿があった。
「また気配がしない……」
「うん……、これもアクセライの……、いや、その話は後だったね。とにかくここを何とか切り抜けよう。B区画まで抜ければ安全になると想うから、そこまで……。シアン、戦える?」
「もちろん。市街地だから術はまずいけど、短刀でも全然問題ない。あなたは?」
「僕も大丈夫だよ。君ほど強くはないけどね」
 笑顔でそう返すと、セラフィックは右手を左袖に添えた。カチッ、と小さな音がする。
 シアンはその隣で二本の短刀を上着から取り出した。
 不死者の群れが二人を認識する。そして二人に襲いかかってくると同時に、シアンは短刀を抜いて地面を蹴った。先程と戦ったときと同じように流れるような動きで不死者を翻弄しながら切り裂いてゆく。ときには身を屈め、ときには高々と跳躍した。
 その後ろでセラフィックは左手の袖口を不死者の方に向けた。そして左手の袖に右手を添える。すると、袖口の直線上にいる不死者が突然ドサリと音を立てて倒れた。シアンは手を休めず短刀を握り続け、セラフィックは次々と不死者を直線上に狙い定めては左手の袖を翳した。向かってきた不死者を全滅させるのにさほど時間はかからなかった。
 不死者がいなくなったのを確認してからシアンは短刀を仕舞ってセラフィックの方を見遣った。戦いながら横目で見ていたため、セラフィックが何かをしていたことはわかる。しかし、何をどうやって戦っていたのかはよくわからなかった。
 翳していた左の袖口を不思議そうに見つめるシアンの視線に気付いて、セラフィックは左袖を捲った。
 左手首には大きな腕時計のようなものがはめられていた。しかしそれはもちろん時計などではない。シルバーの機械のようだった。
「これね、小さい銃みたいなものなんだ。レーザー弾を自動的に創出して、それを撃つから弾数に限りが無い分、普通の銃よりも使い勝手がいいしローコストだけどね。とてつもない破壊力はないけど、身を守るには充分すぎるくらいだよ」
 初めて見るそれをシアンは珍しそうに眺めた。
 言われてみれば銃口のようなものが前にはついていたし、セーフティロックと想われるものもある。戦闘前に袖の中から聞こえた小さな音は、このロックを外したものだったのだろう。そしてあとは小さなボタンがいくつかついていた。
「初めて見たけど、便利そうだね」
「人に作って貰ったものなんだ。だから他に使ってる人はなかなかいないと想うよ」
 袖を元に戻しながらセラフィックはそう言うと、先に進むようシアンに促した。
 再び二人が走りだしたとき、遂に空は少しずつ泣き始めた。ぽつりぽつりと降ってきた雫を身体に受けながら、立ちふさがる不死者を倒して二人は走った。
 街の中に人の姿はなかった。この非常事態に、もう人々は逃げてしまったのだろう。警察や救急隊のような人影はちらほら目にすることができた。しかし彼らに見つかれば避難施設へ行かされてしまうだろう。彼らに接触しないよう、セラフィックはルートを選んでいた。
 暫く走り続けて二人はB区画に到着した。
 走るのを止めてセラフィックはゆっくりと建物と建物の間にある狭い通路に入った。
 そこには屋根があり、雨宿りをすることができる。それにここなら警察や救急隊に見つかることもなさそうだった。
 シアンも通路に足を踏み入れた。二人とももう随分と全身が濡れてしまっている。雨は止みそうにない。
 その通路を少し奥まで進んで、シアンはその場に腰を下ろした。それを見てセラフィックもそれに倣う。
 膝を抱えたまま、シアンは何も言わなかった。ただ息を吐き出して俯いたままでいる。
「……苦しいの?」
 少しトーンを落とした声でセラフィックは訊いた。それに対してシアンは小さくかぶりを振る。
「わからない。でも……あんまり良い気分じゃない。喉つかえてるみたいで」
「それは……たくさんの人の命が散ってしまったから?」
「……どういうこと?」
 シアンは顔を上げてセラフィックを見た。闇の中にゆらめくオッドアイに見つめられて、セラフィックは一度頭の中で言葉を整理する。会話が止むと雨の音だけが聞こえた。
 雨は段々勢いを増してきている。その音を耳にしながらセラフィックは口を開いた。
「僕が言うことを信じるかどうかは君の自由だけどね……。君は死者の魂や思念に対して、非常に強く反応するんだ」
「私が……死者の魂や思念に……?」
「うん。だからこんなに近距離でたくさんの人々の命が……不死者に殺されたりさっきの爆発に避難した人が巻き込まれたりして散ってしまったことに対して、とても敏感に反応して息苦しさを感じている。もちろん死者の残留思念である不死者に対しても、君は他の人が感じる圧迫感とは別に、何かしらを感じているはずだ。今まで特別に強い圧迫感が近くにあったとき、苦しかったり辛かったりしたことはない?」
 静かに紡がれる言葉に、シアンは一度視線をセラフィックからそらせて宙を見つめて考え込んだ。その様子を見ながらセラフィックはシアンの回想を助けるように「たとえば、不死者に関連して、それを生む力を持ってるキーストーンと接触したときとか」と補足する。
 はっとしてシアンは息を呑んだ。シアンの頭の中に記憶がよぎる。小さく声が漏れた。
「ギムナジウムのときも聖堂のときも……スフレのときも、変な感じがした。圧迫感とは違う感じ……。でも、一様じゃなかったと想う。声が聞こえたり、ただ苦しかったり……」
「一様でなくて当たり前なんだ。それが一様の反応だったら君が感じた死者の魂や思念はすべて同一ってことになるからね。違う場所で同じ思念を感じるなんてことはないよ……不死者は次々倒されていってしまってることだしね。それにキーストーンが無力化されれば不死者を生むことはできなくなって君は残留思念を感じなくなるけど、無力化されてから暫くは名残の思念に反応することも有り得る」
「詳しいね。自分のことでもないのに。……私が今苦しいのはキーストーンがあるからじゃなくて、たくさんの人が死んでしまったから? 今までこんなことなかったからわからないけど」
 自分のことだというのにあっさりとした口調でシアンはそう訊ねた。
 それに対してセラフィックはかぶりを振った。
「そこまではわからない。君が何をどう感じてるか、僕にはわからないから……それにわかったとしても、基準がわからない限りはどうにもならないし……ごめんね。……でも、君が君のままでいてくれてよかった」
 やわらかい表情でセラフィックはそう言った。小さく首を傾げてシアンは「私が私のままで?」と口の中で呟く。
 そのとき、また地面が揺れた。今度は動いていればわからないような小さな揺れであったが、また何処かで爆発が起こったのかもしれない。
 シアンは目を閉じた。精神を集中して気配をサーチする。あちこちから残留思念が感じ取れた。それに混ざって強い精神力がいくつか感じられる。
「この感覚……たぶんアクセライが近くにいる……その他にも強い精神力を感じることから考えると、イルブラッドたちもいるかもしれない」
 ぽつりと呟きながらシアンは目を開けた。アクセライがこの事態の主犯である以上、止めないわけにはいかない。しかし立ち上がろうとするシアンをセラフィックが咎めた。
「待って! ……アクセライは君を狙ってる。接触するのは危険だ」
「……私を? どうして私なんか……ううん、それより、そのためだけにあの人はこんなことをしてるってこと?」
「いや……そのためだけじゃない。……今、アクセライの目的はふたつあるんだ」
 そこまで言ってセラフィックは一度言葉を切った。躊躇うようにシアンの様子を伺う。しかしシアンの瞳は迷い無くまっすぐにセラフィックを見つめていた。呑まれそうな綺麗な瞳に映し出されて、セラフィックは躊躇いながらも話を続けた。
「いきなりこんなこと言うと混乱させちゃうかもしれないけど……そうなったらすぐ言ってね」
 やけに慎重なセラフィックの様子に疑問を感じながらも、シアンは曖昧に頷いた。
 それを確認してセラフィックは更に続ける。
「アクセライの目的のひとつは多くの人の命を奪うこと……多くの人の残留思念を生み出して、不死者を生むことなんだ。その目的は確実に進められている……シアン、君はさっきの不死者から圧迫感を感じなかったよね? それはあの不死者が人から残留思念になって間もないからなんだ。まだ完全に不死者に成りきらない不安定な存在……不死者は残留思念が少なくとも数日、長いものはもっと長期間、時間をかけて変化を遂げたものなんだよ。つまりさっきの不死者は……」
「今日セントリストで命を落とした人ってことになるんだね……」
「うん……。そしてもうひとつの目的はそれと関連して、君を残留思念に反応させること……その連動した流れを作ろうとしてる」
「どうしてそんなこと……不死者を生むならキーストーンでだってできるんじゃないの? 旧エクセライズ社では不死者を操って配備して、ヴェイルたちを迎撃してたらしいし……操れるってことからすると、あれってキーストーンで生み出したものだよね? それにこんな形で不死者を生んだって自分の意に従わせられるわけでもないからメリットなんてなさそうだけど」
「たしかにそうなんだけどね……でもアクセライにとってはキーストーンで不死者を創り出すことに意味はない。人を不死者にすることに意味があるんだ……勿論そこにメリットなんてない。それでも……」
 セラフィックは唇を噛んだ。無意識のうちに拳に力が入っている。
 その様子を知っているのかいないのかわからないが、シアンは話を進めようと言葉を繋げた。
「それで……どうして私を残留思念に反応させないといけないの?」
 濡れた茶色い髪がしっとりと雫をたたえている。闇に呑まれた市街地の路地に静かに響くその声は雨の音に混ざってすぐに消えてしまう。
 オッドアイをセラフィックは正面からしっかりと見つめた。
「……君が力を持っているからだよ」
 その言葉に反応して、ほんの少しシアンは首を傾げた。そして「力……?」と鸚鵡返しに訊ねる。
 深くセラフィックは頷いた。言葉を選ぶようにゆっくりと話を繋げる。
「もちろん君は今でも力を持ってる……自分でも制御できないくらいの強い力を。でも君の力はそれだけじゃないんだ」
「……どういうこと」
「君の本当の力はまだ眠ってる……死者の残留思念に反応して、君の力は目醒める……とてつもない力がね。たくさんの残留思念によって目醒めるその力を、アクセライは欲してるんだ。だけどその力はとてつもなく大きい……君の身体がその力に耐えられない可能性も、人の力なんかでは制御できないほどの破壊力を秘めていてヴォイエント自体を破壊してしまう可能性も、決して低くない」
「何それ……私しらない、そんなの……」
 シアンの声が僅かに震えた。瞳が不安気に揺れる。その小さな変化をセラフィックは逃さなかった。
 手を伸ばしてシアンの身体を軽く抱き寄せる。セラフィックに触れられた身体がぴくりと揺れた。濡れた身体は冷えている。
 シアンの頭の中は真っ白だった。思考が停止している。セラフィックの言葉だけが頭の中に響く。それほど動揺するような言葉を聞いたわけでもないのに、自分でもどうしようもない焦燥感が巡っている。
 耳元でセラフィックの声がした。
「ごめんね…………混乱させちゃって」
「…………ん……、だいじょうぶ」
 掠れた声でそう言って、シアンは目を閉じた。雨の音がする。少しずつ雨は激しくなってきているようだった。
 やさしくシアンの髪を撫でて、落ち着きが見えるまでセラフィックはそのままでいた。
 やがてしばらくすると、そっとシアンが身体を起こす。それに応じてセラフィックはシアンの身体を解放した。落ちつきを取り戻した覇気のない瞳はしっかりと現実を見据えている。
「……ありがとう。……もう何ともないよ」
「いや……僕がいきなりあんなこと言っちゃったから……」
「でも真実なんじゃないの? ……あなたの眼、嘘ついてる眼じゃなかった」
 ひんやりとした空気が漂う。湿気が満ちて、その空気は重かった。
 ひたひたと忍び寄るように鋭い気配が近付いてきていた。二人ともそれがアクセライのものだという推測くらいはつく。自然と自らの気配を消そうと、二人の神経は研ぎ澄まされていた。
 しかしそんな中でも、あくまで冷静な口調でシアンは問いかける。
「セラ……私の力を目醒めさせるのに、私の記憶が必要だったりする?」
 一瞬、セラフィックの動きが硬直した。しかしすぐに彼はいつものような穏やかな動きで、観念したように頷いてみせる。
 それを見てシアンはゆっくりと息を吐き出した。そしてひとりで納得しながら呟く。
「だからあの人は私にいろいろと思い出させようとしてたってことか……。そしてあのとき見えた幻覚は死者を連想させるもの……私の力を目醒めさせようとして……」
 記憶を辿りながら情報を整理するシアンの両肩に、セラフィックの手がしっかりと置かれる。それに反応して顔を上げたシアンに、セラフィックは真剣な眼差しで言った。
「とにかく、今は逃げて。アクセライは僕が止めるから……もちろん、彼が君と接触しないようにして、ね」
「……でも、」
「大丈夫。そんなに危ないことをするわけでもないから。アクセライとは付き合いも長いしね、敵に向かって行くわけじゃないんだ、心配しないで。……君は彼を止めたいかもしれない。でも今の君は残留思念に強く反応してしまってる……そんな状態でアクセライと接触すれば、力が覚醒してしまう可能性が高いよ。……今は僕に任せて」
 シアンを安心させるようにふわりとセラフィックは微笑んだ。そしてシアンから手を離し、ゆっくりと立ち上がる。アクセライの気配をしっかりと感じ取った。
 倣って立ち上がったシアンに、逃げる方向を指示しようと口を開きかけたとき、シアンが先に声を発した。
「セラ、どうしてあなたはいろんなことを私に教えてくれるの?」
 その問いに、セラフィックは迷うことなく口を開く。やわらかい声が響いた。
「君を護りたいからだよ。君が無理矢理に記憶を掘り起こされて残留思念に反応させられるなんて、僕は厭だから。目醒めた力に耐えられない可能性も、無理な覚醒に至る辛いプロセスも、君には必要ないと想うから。……君が、自分に秘められた力があるってわかっていれば、危険を自ら回避することができる。君を危険な目に遭わせたくないんだ」
「私を……護る? どうして……」
「僕がそうしたいから。それ以上でもそれ以下でもないよ。前に逢ったとき、君は言ってたよね? 何が正しいかなんて誰にもわからない、って。何が正しいかなんてわからないから、人は自分が正しいと想うことをやるんじゃないかな。僕もそれと同じ……、もしかしたらアクセライのやろうとしていることが正しいのかもしれない、だけど僕は自分が信じる道を選ぶ……それが君を護ることなんだ」
 それだけ言い切ってしまうと、セラフィックは笑顔から一転して凛々しい表情を浮かべた。気配を感じ取りながら今後の校堂を頭の中で整理する。そして「ここから最北のルートを通ってI.R.O.本部まで逃げて」と短くシアンに指示した。
 シアンが曖昧ながらも頷いたのを確認すると、再びセラフィックは笑顔に戻った。路地から出て、南の方に身体を向けながらシアンに微笑みかける。
「また必ず逢おうね、シアン」
「……うん。面白い話もまだ聞いてないし」
 無表情にそう返すシアンに、セラフィックは「そうだったね」と小さく笑った。そして、南へ向かって勢い良く駆けだす。シアンも路地から出てセラフィックを見送ったが、降り続く雨が視界を濁らせ、シアンからその背中はすぐに見えなくなってしまった。
 雨は止みそうにもない。北へと身体を向け、足を進めずにシアンは天を仰いだ。
(自分が正しいと想うことを…、か。私は今何が正しいと想ってるんだろう。……やっぱり逃げた方がいいのかな……私がどうなるかなんてどうでもいい、でも……私の力が目醒めればヴォイエント自体を壊してしまう可能性もあるってセラは言ってた。想像し難い話ではあるけど……もし本当なら……。それにアクセライが私の持ってる力とかいうのを手に入れたとして、この被害がおさまるとは想えない。……となると、今は接触しない方がいいのかもしれない……)
 頭の中に考えを巡らせる。その間も残留思念の感覚は充分すぎるほどに感じ取れていた。喉がつかえたようなままでいる。この状態でアクセライと対峙して、前のように錯乱させられるような言葉を聞かされたら、冷静でいられるかどうかはわからない。
「……I.R.O.本部に戻ろう……ヴェイルにアクセライたちのこと、知らせた方がいい」
 口の中でそう呟いて、シアンはまっすぐ前を見つめた。そしてセラフィックに言われた通りのルートを目指して降りしきる雨の中を走りだした。