動き始めた惨禍




 術力によって生み出された衝撃波が部屋の壁に当たって弾ける。
 特殊な加工が施され、術の衝撃を激減してしまうその白い壁には傷ひとつついていない。ここは術を鍛錬するための施設である。部屋全体に術力と特殊金属によって加工が為されている。そこそこの広さがある正方形の部屋だった。
 セントリストにあるディシップと呼ばれるこの施設は術の鍛錬のための公共施設である。個人で術の鍛錬をしたい人間なら誰でも利用することができる。特殊な機器があるわけでもなく、ただ部屋が並んでいるだけなのだが、その中なら存分に術の鍛錬をすることが可能であった。こういった施設を利用するのは主に術の研究者や警察、その警察を目指す学生などの術を生業にしようとしている人間である。ディシップにはいつもそういった人々が出入りしていた。
 そのディシップの一室で、ヴェイルは溜め息をついた。
「なかなか巧くいかないな……」
 ヴェイルの右手の人さし指にはシルバーのリングがはめられていた。シャールがクライテリアから持ってきたというアクセサリである。
 クライテリアの中で考えてもヴェイルの精神力は決して劣ってはいない。しかし今後のこと、アクセライのことも含めシアンを護らねばならないことを考えると、術力は可能な限り強化しておいた方がいい。アクセサリで強化できる限界までは鍛え上げておきたかった。
 シャールの言う通り、アクセサリを使用しての術の使用には鍛錬が必要だった。アクセサリから供給されるエネルギーを自分の精神力でコントロールするのは容易ではない。自らの精神力を術に転換するだけでもエネルギーを要するのに、別の力まで自分の精神力で制御しなくてはならないとなると、ヴェイルのような精神力を持っている人間でもなかなか難しい。慣れないうちはどうしても供給されたエネルギーによって術が乱れてしまう。
 鍛錬をはじめてから随分と経っている。今日だけではない、シャールにアクセサリをもらってセントリストに戻ってきてからほぼ毎日、ヴェイルは鍛錬を繰り返していた。アルスの家からディシップが近いこともあって、鍛錬する場所には困らない。しばらくの間、部屋に籠っていたヴェイルだが、もう一度息を吐き出すと部屋の外に出た。
 部屋の外には廊下が続いている。グレイの廊下の両側に、等間隔に部屋が並んでいる。ポケットから鍵を取り出すと使用した部屋に鍵をかけ、ヴェイルは廊下をゆっくりと歩いた。此処へ来るためだけに家を出たため、余計なものは何も持っていない。Tシャツに上着を羽織り、黒いズボンとウエストポーチという軽装だった。入り口のカウンターに鍵を返し、そこにいる受付の所員に「ありがとう」と微笑んで自動ドアをくぐって外に出る。
 外は眩しかった。この時期のセントリストは気候が良く、晴れの日が続いていた。
 腕時計を見ると午後3時半を少し過ぎている。そろそろ家に戻ろうとヴェイルが足を進めかけたそのとき、彼はすぐそこ、道路の向こう側にシアンの姿を見つけた。道路の向こう側は広い公園だった。子どもたちが元気よく遊んでいる。シアンはその公園の入り口に近い片隅で、パーカーにミニスカート、その下に黒いズボンといういつものような服装でかがみ込んでいた。
 道路をわたってヴェイルは公園に足を踏み入れた。そしてシアンの傍へ歩み寄ると、その背中に声を掛ける。
「シアン……何してるの?」
 声をかけられてシアンはゆっくりと振り返った。ヴェイルの姿を認めたが特に大きな反応も示さず、さらりと言う。
「あ、お疲れさま。散歩してて近くまで来たから、ヴェイル待ってようと想って」
「待ってようと……って、いつから来たのか知らないけど、結構待ったんじゃない?」
「どうだろう……時間気にしてなかったからわからない。猫と遊んでたし」
 そう答えるシアンの足元から、元気のいい猫の鳴き声が聞こえた。ヴェイルが声のする方を覗き込むと、黒と白の毛が綺麗に混ざり合った猫がシアンの右手にしきりに頬擦りをしていた。ヴェイルの存在に気付いても、猫は逃げも隠れもしない。
「そういえば君は猫好きだったね、たしか」
「うん。……あ、思い出した。此処に来たの2時前くらいだったんじゃないかな」
 あっさりと言うシアンの言葉に、ヴェイルは思わず「えっ……」と声を漏らした。シアンの言うことが本当だとすれば、彼女は約2時間ずっと猫と遊んでいたことになる。
 シアンの行動は普段から読みにくいが、このマイペースぶりにはヴェイルも呆れ顔を浮かべた。
 ヴェイルがそんな反応をしていることにも気付かず、シアンは再び猫を見つめていた。シアンが慣れた手つきで猫を撫でると、猫は気持ちよさそうに喉を鳴らす。そして最後に猫の頭をやさしく撫でて、シアンは猫に向かって呟いた。
「……じゃあ、またね」
 すると猫はその言葉を理解したかのように、一度シアンの手に頬擦りすると、くるりと方向を転換して公園の外へと去って行った。
 その猫の背中を見送りながらシアンは立ち上がる。そしてヴェイルの右手にはめられている指輪を見つめた。
「……私も制御の練習しないといけないな……」
「まぁ、制御できるに越したことはないけど……でも君の場合、なかなか練習できる場所もないよね。君の力だとディシップの中で使っても特殊加工の壁なんて軽々と壊しちゃいそうだし……」
「そうなんだけど……だけどいつまでもこのままっていうわけにもいかないから。まともに戦える場所が制限されるっていうのはやっぱり良くないし」
 そう言いながらシアンはゆっくりと足を進め始めた。公園から出て、アスファルトで鋪装された歩道を歩く。歩道には何人もの人の姿があり、隣の車道にはバイクや軽自動車、トラックなどが忙しそうに次々と走っていた。昼間のセントリストの大通りは人の話し声やエンジン音などで常に賑わっている。
 ヴェイルは突然歩き出したシアンを追った。そして隣に並んで話を続ける。
「焦らなくても君のペースでゆっくりやればいいんだよ。不死者を殲滅させなきゃいけないっていうのはあるけど、波動観測だったら今でもちゃんとできるじゃない? それはアルスの望みにもかなってることだし……」
「それはそうかもしれないけど……」
 シアンは歩きながら空を仰いだ。痛いほどの陽の光が降り注いでいる。
「なんだか……胸騒ぎがするんだよね、厭な予感っていうか……。悠長なことなんか言ってられないような、そんな気が……」
 すぐに人混みに消えてしまったその声を聞き取って、ヴェイルは「胸騒ぎ?」と聞き返した。シアンはゆっくりと頷いたが、すぐには何も言わなかった。
視線を元に戻してしばらく足を進めてから、やっと返事をする。
「気のせいかもしれないけどね」
「でも君のそういう予感とか胸騒ぎっていつも当たるじゃない。シャールと逢ったときも、スフレでキーストーン見つけたときもそうだったし……」
「で、いつも具体的なものは感じ取れないんだよね。だからたいして役に立たない、と」
「……自分で指摘してどうするの……」
 淡々と言うシアンに、ヴェイルは溜め息をついて肩を落とした。
 しかしシアンの様子を見ていても、何かに切羽詰まっているというような印象は受けない。本人が言う通り、具体的なものは何も感じ取れていないのかもしれなかった。
 随分とたくさんの人々とすれ違ってから、ヴェイルは首を傾げた。
「……ところでさ、君は今どこに向かってるの?」
「あ、何も考えてないや。適当に歩き始めただけだし」
 さらりとそう言われてヴェイルは再び肩を落とす。やはり彼女の行動は読めそうになかった。
 ヴェイルがそんな反応をしていることに気付いているのかいないのかはわからないが、シアンは「ヴェイルはどうするの?」と問いかけた。ちらりと腕時計を見遣って時間を確認してからヴェイルが口を開く。
「取り敢えず僕は夕飯の買い物に行かないと。君はどうする? 一緒にいく?」
「じゃあついて行く。まだ帰りたい気分じゃないから」
「それじゃ、ゆっくり行こうか。夕飯何食べたい?」
「何でもいい。ヴェイルの料理好きだし……辛いものじゃなければ」
「君もアルスも辛いもの苦手だもんね」
 スーツ姿の会社員や制服を着た学生、買い物に行く人々たちとすれ違いながら、二人はそんな会話をかわしてゆっくりと歩道を歩いた。
 陽の光がいつものように人々を包んでいた。










 アルスとライエは並んでI.R.O.を出た。二人とも出社していたために各々スーツと制服を着て、手には鞄を持っている。
 スフレでの一件から、ライエはアルスに協力していたが、波動観測などのデータのやりとりはコンピュータでできてしまう。そのため、今まで何度かシアンの波動観測の結果をライエは解析していたが、実際にシアンやアルスに逢うことはほとんどなかった。
 たまたまI.R.O.の出口付近で逢っただけなのだが、その瞬間からライエの頭の中は真っ白になっていた。逢ったときにアルスに何という言葉をかけられたかすら憶えていない。これでも初対面のときに比べれば随分動じなくなっているのだが、突然のことには対応しきれていなかった。
「宿舎に住んでいるのではないのか?」
 隣でアルスの声がして、ライエは慌てて冷静になろうとつとめた。
 まだ陽は沈んでいないが、もう夕方である。仕事が終わって家に帰る人々が多く見受けられた。けれどライエはI.R.O.の外に出ている。宿舎ならI.R.O.の中にあるため、外に出る必要はないはずだ。買い物にするにしても、大抵のものならI.R.O.の中のショップで事足りる。
 必死に自らを落ちつけたもののアルスの方を見ることはできずに、前を向いたままライエは口を開いた。
「あ、はい、そうなんですけど……聖堂に行こうと想って……」
「そういえば昔から通っていると言っていたな」
「ええ……ずっと週に1度は行っていますから、習慣みたいなものなんです」
 そう言い終わってから一度間を置いて、おずおずとライエは訊ねる。
「あ、あの……トロメリア警視正はどちらへ行かれるんですか?」
「用事というほどのものでもないが、現場担当で仕事中の同僚の顔を見に行ってやろうと想ってな」
 アルスの答えに「そうなんですか……」と言いながら、ライエはちらりとアルスを見上げた。夕陽を受けた凛々しい横顔が間近に見える。最近までずっと遠い憧れだったその人が、こんなに近くにいるということが信じられなかった。
 話が途切れてしまうと、次にどんな言葉をつなげば良いのかがわからなくなって、ライエは再び前を向いた。
 黙って横を歩いているライエを見遣って、最近の様子でも訊ねようかとアルスは口を開きかけた。しかしそのときアルスの胸ポケットの中で電子音が鳴った。
 二人は突然の音に同時に足を止める。
 電子音は数回響いた後、アルスが応答する前に自動的に音声に切り替わった。
『C92区画にAAエマージェンシィ、公道207地点を張れ、繰り返す……』
 自動的に音声に切り替わったことからすると、セントリスト警察で現在動ける人間全員にあてたメッセージなのだろう。AAエマージェンシィとなると、並の事態ではない。
 何が起きたのかはわからないが、とにかく行かなくてはならない。アルスの表情は厳しいものへと変わった。しかしそれでも、隣にいる人間への配慮は忘れない。
「C92区画となるとここからは距離があるが、何が起きているかわからない。被害がここまで及ばないとは限らないからな……このまま帰るか、聖堂へ行くならしばらくそこで様子を見た方がいいだろう。AAエマージェンシィクラスなら臨時ニュースが随時放送されるはずだ」
 しっかりとライエの方を見てそう言うと、アルスはライエに背を向けようとした。
 その背中に思いきってライエは声をかける。
「あの、気をつけてくださいね……!」
「……ありがとう。お前も気をつけるんだ。無事な処まで送ってやりたいところだが、……すまないな」
 そう言うと、アルスはシップ乗り場に向かって走り出した。
 その背中が見えなくなるまで、アルスの言葉を反芻しながらライエはずっと見送っていた。









 ヴェイルはゆっくりと家の扉を開けた。片手に買い物袋を持ち、靴を脱いでいつものようにリビングへと向かう。
 玄関に靴がなかったことを考えると、アルスはまだ帰ってきていないのだろう。
 これからいつものように食事の準備をはじめるはずだった。しかしリビングに足を踏み入れて顔をあげたその瞬間、ヴェイルの動きは硬直した。買い物袋が床に落ちてドサリと音をたてる。
「何処ほっつき歩いてやがったんだ、遅ぇんだよ莫迦が」
 リビングのソファに何故かシャールの姿があり、シャールはそこにいるのが当たり前のような顔で帰宅したヴェイルにそう言い放った。
 突然の事態を呑み込みきれないまま、ヴェイルは暫く呆然としていた。言葉も出てこなければ動きも止まったままでいる。家に帰ったらシャールが待っているなど予想できるはずもない。
「……君、また術で勝手に入って来たの……? それ、不法侵入だよ……?」
 やっとのことで出てきたまともな言葉はそれだった。
 しかしそんな言葉をシャールが期待しているはずがない。シャールはヴェイルを睨み付けた。
「この近辺であの警察の波動探知したら簡単に場所特定できんだ、出来損ないが偉そうに文句言うんじゃねぇ。……それよりテメェ、アリアンロッドはどうした?」
「え……、シアンならさっきまで一緒だったけど……もう少し散歩してから帰るって……」
「……ちッ……この役立たずが……!」
 舌打ちしながらそう言うと、シャールは勢い良くソファから立ち上がった。
 ヴェイルの思考回路が一気に回転し始める。立ち上がったシャールが家の中にも関わらず土足だったが、そんなことを構っている余裕はなかった。シャールの様子を見ればただ事ではないだろうと想像がつく。
「ちょっ……ねぇ、一体どうしたの!?」
「相変わらず五月蝿ぇ野郎だ、黙ってアリアンロッド捜しやがれ!」
 怒鳴りながらシャールは家を飛び出した。何がなんだかわからないまま、ヴェイルもその後を追う。
 扉を閉める音が乱暴に響き、リビングには床に落下した買い物袋がそのままの状態でぽつりと残っていた。