誰も君を責められない




 スフレ地方のホテルの一室に光に包まれたアルスとシャールの姿が突如現れる。光は次第に消えてゆき、二人の身体は現実に固着した。
 置いてある荷物を見渡し、ここが自分のとった部屋であることをアルスは確認した。
 シャールの術でセントリストの街はずれから一瞬にしてここまでやって来ることができた。出張のためにセントリストの警察が借りたこの部屋は充分に広く、非常に清潔感があった。新米警察の宿舎の部屋よりもずっと広い。入り口付近にバスルームとキッチン、クローゼットがあり、その奥にリビングと寝室がある。扉ではなく壁と仕切りでリビングと寝室はわかれていて、リビングには大型のテレビや大きな机などが置かれていた。寝室は枕元にライトがある程度でさっぱりとしている。大きなベッドが3つ並んでいた。
 とにかくまずはシアンを休ませなければならない。アルスは一直線にベッドへ向かった。一番右端のベッドにシアンを寝かせようとしたとき、腕の中から掠れた声が聞こえた。
 声に反応してアルスがシアンの方を見下ろす。ゆっくりと目を開けながら、シアンは口を開いた。
「……あ、……アルス……此処……、私……?」
「気がついたか。もうホテルまで戻ってきたから大丈夫だ、何も心配しなくていい」
 汗と埃にまみれたシアンの上着を脱がせ、ベッドサイドにあった自分の大きな薄手の上着をシアンに着せる。それからそっとシアンの身体をベッドの上に下ろして、アルスは目の前にいる少女を安心させるように微笑んだ。
 シアンの瞳が現実を捉える。しかし先程までの映像がノイズのように走って目の前がはっきりとは見えなかった。まだ叫び声が聞こえる、血の匂いや感触も続いていた。捕まっていたときに比べてそれは随分と軽減されていたが、時折波が押し寄せるように幻覚のリアリティが増す。その所為で、その波が押し寄せれば歯を食いしばって目をかたく閉じ、気分の悪さに耐えなければならなかった。
 その様子を見ていたアルスが訊ねる。
「どこか苦しいのか?」
 アルスのその言葉に反応するように、シャールもベッドサイドまでやって来た。
 シャールがいるとは想っていなかったシアンがその姿に反応を示した。そして二人に対して言葉を紡ぐ。
「何か薬…打たれたみたいで……。血とか人が殺される瞬間とか屍とか見えて……いろんな人の叫び声とか聞こえて……血の匂いとかも……そんな感じ」
「そんな感じ、って……」
 思わずアルスの声が震えた。
 シアンは表情ひとつ変えていない。だがその言葉の内容からすれば、何時その状態に耐えきれずに泣いたり取り乱したりしてもおかしくないような状況だった。淡々と話すことができる、という事実が信じられない。
 シャールが腕を組んだ。
「薬か……また手の込んだことをやりやがったな……。しかし普通の幻覚作用みたいなものではなさそうだな。普通のものなら精神力の強い人間にはそこまで効かないだろう……余程効果を増したものか、或はまったく別のものなのかもしれない……何せ主犯があいつだからな、何持ち出して来ても不思議じゃねぇ」
「……そういえば、お前はあの主犯格の男を知っているようだったな。シンシアとイルブラッドとも面識があったように見えたが。それにシアンのアクセサリや術力を持った石についても詳しい……さっきシアンのレジストが失敗したときも術を放つ前に止めようとしていたな……術を唱えればどうなるか知っているかのように」
「だからどうだって言うんだ?」
 挑戦的な瞳でシャールはアルスを睨んだ。しかしアルスは落ち着いている。
「知っていることがあるなら教えてもらいたい。今まではお前と奴らの間の問題だったのかもしれないが、シアンが巻き込まれた以上、俺も可能な限りの情報は得ておきたい」
「……莫迦言うな、警察。なんで俺が貴様に情報提供しなきゃならねぇんだよ」
「シアンがまた狙われたらどうする。今回みたいなことになれば、お前ひとりでは辛いんじゃないのか?」
 冷静な瞳でアルスはシャールの視線を受け止めた。
 シャールはつまらなさそうに苛々と目をそらせる。アルスの言うことはたしかに正しい。だからといってアルスに協力するとなるとシャールの頭の中には抵抗があった。
 そこに、ベッドからシアンが声を発した。
「……私からも、お願い。また私が巻き込まれたとして、それはべつにいいけど……あの人たち、私のことを知ってるみたいだったから……多分……無視してちゃいけないと想う。だから、」
 シアンの額に手を置いて、シャールはシアンの言葉を遮った。置いた手にシアンの身体の熱さが伝わってくる。
 随分身体は熱かった。そしてシアンの話によれば幻覚や幻聴が続いているはずである。その状態で一生懸命言葉を繋げる姿は殊勝だった。普段のシャールからは想像もできないような穏やかな声が響く。
「アリアンロッドにそう言われちゃ断れねぇな……わかった、話してやる。ただし、お前が元気になってからだ。いいな?」
「……うん、ありがとう」
 精一杯のやさしい表情を浮かべながらシアンはそう返事をした。それを聞いて満足そうにシャールはシアンから手を離す。
 そしてまたアルスの方を見遣ると、鋭い目つきをしたまま言い放った。
「というわけだ、情報を提供するかわりにアリアンロッドが回復するまでは勝手に居座らせてもらう。それと、貴様に情報を提供するわけじゃない、貴様に話が届くのはあくまでもアリアンロッドに話すついでだってことを忘れるな」
「……言われなくてもわかる。……はぁ……こいつに対してはシアンがいないと何も巧くいきそうにないな……」
 最後の方は口の中だけで呟く。その声はもちろんシャールには届いていない。
 言うだけのことを言い終わると、シャールはアルスに背を向けた。
「おい警察、アリアンロッドの傍にいてやれ」
 その言葉にアルスは目を丸くした。
 シアンの傍に誰かいてやらねばならないとは想っていたが、シャールが自分でその役を買って出ると想っていた。あれだけシアンに固執しているのだから、傍にいてやると言いだすと予想していたのだ。
「お前はいいのか? シアンの傍にいなくて」
「俺にはやらなきゃならねぇことがあるからな。心配しなくともちゃんと話をしに戻ってきてやる、アリアンロッドのためだからな。……言っとくが、変なことすんじゃねぇぞ」
「……その言葉……お前だけには言われたくない」
 アルスが思わずため息をつく。
 その視界から、ゆっくりとシャールは遠ざかって行った。暫くしてバタンと扉の閉まる音がする。シャールが部屋から出ていってしまい、広い部屋の中の寝室にアルスはシアンと二人きりになった。
 ベッドサイドに、近くにあった椅子を運んでそこに腰掛ける。その動作をシアンはぼんやりと残酷な映像のノイズの向こうに見つめていた。そしてアルスが腰掛けるのを待って、ぽつりと呟く。
「……ごめんね」
「……どうした? 突然……」
「迷惑かけたから。自分が迷惑かけない人間だなんて傲慢なこと想ってたわけじゃないけど……」
「そんなこと気にしなくていい。お前が無事だったんだから、それでいい。ヴェイルやシャールだってきっとそう想っているだろう」
 やさしい口調でアルスはそう言う。
 また幻覚と幻聴の波が押し寄せてシアンは顔を歪めた。右手でぎゅっとシーツを握りしめる。その小さな手に、アルスは自分の左手を重ねた。力の入った小さな手が痛々しい。
 暫くして、波が去ってシアンの身体から力が抜ける。重ねられたアルスの手をぼんやりと見つめながら言った。
「そんなに心配しなくても大丈夫。休んでたら治るから。……アルスも疲れた顔してるから傍にいてくれなくてもいいよ。仕事もあるんだし、休まないと。昼間の波動観測の解析もあるし……私観測しかできないから解析は任せっきりでごめんね。あんまり観測自体も回数こなせてないし……」
 その言葉にアルスは胸が締め付けられるような気分を覚えた。心なしか俯き加減になる。
 重ねた手に力が入った。
(この状況でどうしてそんな普段と同じようなことが言える? 傷ついて、今も苦しんで、それなのに……。捕まっている間何をされたかは知らないが、とにかくあんなにボロボロになって、その上今は悲惨な映像が目の前に浮かんでいるというのに……)
 そんなことを想うと、自然に表情は険しくなる。それはただ険しいだけではなく、どこか傷付いたような表情だった。
 何となく視線を向けているだけのように見えるシアンだが、その表情は見逃さなかった。初めて見るアルスのそんな表情を視界にとらえたまま、シアンはすぐには何も言わないでいた。
 アルスが弱々しく口を開いた。
「……そんなこと心配しなくていい」
「…………。……アルス、どうしたの?」
「…………?」
「すごく辛そうな顔してる。……私の所為? 私、大丈夫だから。そんな顔しないで。アルスが傷付く必要なんてどこにもない」
 すべて見透かしたようなシアンの発言に、アルスは息を呑んだ。
 ……どんな状態になっても、他人のことをやさしい目で見ている……。
 そう想うと、これ以上シアンに負担をかけないためには自分が普段通りの姿であるのが一番の方法だと想えてくる。
 いつもの表情に戻って、アルスは「すまなかったな」とひとこと声をかけた。重ねた手をそっと離す。
「随分と身体が熱いからできるなら水分を摂った方がいい。何か飲めそうか?」
「ん、多分……。そういえば喉乾いてるや……大声出したからかな……」
「そうか。じゃあ少し待っていろ、何か持って来る」
 そう言いながらアルスは腰をあげた。寝室を出てリビングを通り、更に向こうにあるキッチンまで移動して立ち止まる。
 此処から寝室は見えない。自分の姿がシアンから見えていないことを確認して、アルスはゆっくりと息を吐き出した。
(ひとり見知らぬ場所に拘束されるという不安、身体の傷、幻覚のような惨禍の視聴……助けに行ったときに悲鳴が聞こえたことからして何か危害を加えられていたことは間違いない……。想像するだけでも辛そうだが、実際は想像などこえてしまっているのだろう……当人にしかわからない痛みがあるはずだ)
 シアンが言っていた、悲惨な光景や叫び声が今自分に見えたり聞こえたりしていたら、と想像してみる。想像だけではリアリティに欠ける。それでも充分すぎるほどに堪え難かった。
 足元を見つめて呟く。
「……精神的にも肉体的にも限界だろうに……。まぁ、強がる必要はないと言っても聞く奴じゃないしな」
 思わず苦笑を浮かべながら、アルスは傍に置かれていたグラスを手に取った。










 シャールの術でホテルに戻ってから2時間ほどが経過した。段々と街は静まり返ってきている。ホテルの廊下に響く足音も減ってきていた。街全体が眠りに誘われている。
 窓の外の明かりは段々と消えてゆく。それを椅子に腰掛けながらぼんやりと見ていたアルスの隣のベッドで、シアンは何をするともなくコンクリートの天井を見つめていた。
「……眠れないか?」
 シアンが目を開けたままでいることに気付いたアルスがそう訊ねる。ゆっくりとアルスの方を向いて、シアンは小さく頷いた。
「目閉じると映像だけしか見えなくなるから……ちょっと無理かも。あ、でも段々マシにはなってるから、そのうち映像見えなくなると想う。血の匂いとか、もうあんまりしないし」
 相変わらず淡々とそう言うシアンにアルスが返事をしかけたとき、部屋の扉がノックされた。
 椅子から立ち上がってアルスは扉へと向かう。扉の向こうからハディスの声が聞こえた。ハディスの声は陽気なのにどこか重みのある独特な声だった。
 扉を開けると、ハディスが笑顔を浮かべている。そのままアルスと一緒にリビングの方へと遠慮することなく足を進めた。
「お、よかったよかった、この部屋で合ってたな。ヴェイルから部屋番号聞いてたんだが、数字覚えんのって苦手なんだよなぁ……あ、それとな、お客さんだぜ」
「客……?」
 アルスが首を傾げる。その声をうけて、ハディスの後ろから人がひょっこりと顔を出した。波打つ金髪に勿論アルスは見覚えがある。協力を依頼した人物、ライエである。
 職場から帰ってすぐ制服のまま部屋でヴェイルたちのナビゲートをして、そのまま慌てて飛びだしてきたのだろう、制服のベストだけを脱いだ姿だった。胸ポケットにI.R.O.のロゴが入った白いカッターシャツに紺色のタイトスカートを着用していた。
「突然すみません、でも……シアンさんのことが心配で、ヴェイルさんに無理言って連れてきてもらったんです。あの、来ておいて何ですけど、お邪魔なら帰りますから……」
「……ライエさん?」
 寝室の方からシアンの声がした。その声に吸い寄せられるように三人が寝室へ向かう。
 一番にシアンの元へ駆け寄ったライエがぼんやりとしたオッドアイを覗き込んだ。しかし巧く言葉が出てこない。そのかわりに後ろからハディスが言う。
「お嬢ちゃん、大丈夫……じゃないだろうが、少しは気分良くなったか? 辛かっただろう、よく頑張ったな。……で、お嬢ちゃん助けるのにライエちゃんも協力してくれた」
「……そう、だったんですか……。ありがとうございます」
「いいのよ、そんな……。だいたいのことはハディスさんから聞いたわ。とにかく、無事でよかった……」
 淡々とシアンに礼を言われて、ライエはそう返す。しかしそれ以上の言葉は出てこなかった。まだあまり現実に実感がないのかもしれない。ハディスから話を聞いたとはいえ、すべてを呑み込むのに時間がかかるのも無理はない。シアンが攫われた、というだけでも大事件である。それに加えて術力のこもった石が混乱を巻き起こしたこと、不死者が操られていたということ、シアンの術が暴走したことなど、普段起こりえないことが山ほど起こったのだから。
 言葉を捜すライエを一旦見据えてから視線をそらし、シアンは周囲をゆっくりと見回した。アルスとハディス、それにライエの姿しか見えないことに気付いてハディスに問いかけた。
「……あとの二人は?」
「あのガキは今日は家に帰らせた。門限がいつだか知らねぇが、親御さんも心配してるだろうからな。まぁそんなこっぴどく怒られることもねぇだろ、あいつ術の研究に没頭して帰るの遅くなることはよくあるって言ってたし。明日学校休みだからホテルに来るって言ってたぜ、お嬢ちゃんに謝らないと気がすまねぇから、ってな。……ヴェイルは……ホテルまでは一緒に帰って来たんだが、ひとりになりたいって言ってな……。そのうち戻ってくると想うんだが……あのアクセライとか言う奴に色々言われた所為か、随分精神的にガタついてたな……」
「精神的に……? そういえばアクセライ、ヴェイルのこと知ってるみたいだった。私はよくわからないけど、もしかしたら昔に何かあったのかもしれない……アクセライがヴェイルのことを言うとき、あまり良い感じは持ってないみたいな印象受けたから」
「代名詞ばっかりで会話しやがったから俺様もよくわかんねぇけどな。……そういやあの銀髪の変な奴はどうした?」
「やることあるからって出ていった。でもまた戻ってくるって言ってたよ。アクセライたちのこととか、色々話してくれるみたい」
 ハディスとそんな会話をかわすシアンはいつもと変わらない口調だった。しかしそれがいくらか無理をしているものだと、この場にいる誰もが知っている。
 シアンはぼんやりとヴェイルのことを想った。助けに来てくれたとき、身体を解放してくれたのがヴェイルだったということは確かな記憶である。けれどその後すぐに意識を喪失してしまったため、ヴェイルがアクセライに何を言われてどんな状態だったのか、まったく知らなかった。
 また映像の波が押し寄せる。シアンはハディスから目をそらせてシーツを握り締めながら目をかたく閉じた。喉から微かに声が漏れる。その様子を見てライエが慌てて言った。
「どうしたの!?」
「……だ、大丈夫です、すぐにおさまりますから……」
「でも……お医者様に診てもらわなくてもいいの?」
「休んでれば治ります……心配しないでください」
 そっと目を開けて、できるだけ苦しそうな顔をしないようにしながらシアンは言う。
 痛々しいその様子にハディスは一歩ベッドから遠ざかった。
「ま、本人が自分のことは一番よくわかってるだろうからな。本当に駄目になったときはちゃんと言うんだぞ。……ってことで俺様は一旦議員宿舎に帰るわ。あの石の及ぼした被害の情報もきっちり入ってるだろうから収集しといた方が良いだろうし……あんまり病人の枕元で騒ぐのも良くねぇし。俺様黙ってられねぇタチだからなぁ」
「……よくわかってるじゃないか」
「うっ……キツいね、あー坊……。……ま、取り敢えず携帯の番号だけ教えとくから何かあったら連絡してくれ。あとライエちゃんだが、泊めてやってくれねぇかな? 今から帰るっつってもシップももう終発だからな、夜中の終発に女の子ひとりで乗せるってのは気が引けるんだわ」
「ああ、それは構わない。本人さえよければ、だが」
 アルスのその言葉が聞こえて、ライエはアルスの方を振り返った。あっさりと構わないと言われて、頭の中が真っ白になる。今までは憧れでしかなく、一度話ができたかと想えば気が付けばこんな展開になっていた。
 深い蒼の瞳に見つめられてライエは赤面せずにはいられない。
「あ、は、はい、私は全然……問題ない、ですけど、」
「そうか。……今更だがすまないな、巻き込んでしまって」
「い、いえ、そんな……! 私の方こそ突然お邪魔してしまって……」
 自分でも何を言っているのかさっぱりわからないまま、ライエは会話をつなげる。アルスはそんなことにもまったく気付かないままさらりと話を済ませると、ハディスの携帯電話の番号を訊いていた。
 ライエの様子に気付かない鈍さを持ち合わせているのはシアンも同じで、映像の波が去ってしまうと何を気にすることもなく三人の会話を聞いていた。
 ただハディスだけが、あまりに露骨なライエの表情変化に笑いを堪えている。ライエを見れば思わず吹き出しそうになってしまうため、なるべくそちらを見ないようにしながらシアンの方を見遣った。
「それじゃ、また明日来るからな、お嬢ちゃん」
「うん……。助けに来てくれてありがとう」
「いいってことよ。男ってのはな、可憐な少女が攫われたときには放っておけねぇもんなんだよ。捕われの少女を助けるナイト様っつーかな、そういうのに一度は憧れるもんだ。いやー、やっぱりヒーローは男の夢だぜ。夢っつーかロマンっつーかな、」
「ふぅん……。じゃあアルスもそうなの?」
「シアン、こいつの言うことは聞かなくていい……」
 呆れ顔でアルスは思わずため息をついた。










 ホテルに一度は戻ったものの、閉鎖された空間に滅入りそうでヴェイルは外に出ていた。
 もうあまり出歩いている人もいない。夜に飲み会でもして続きに砂浜で花火を楽しむというルートがあるらしく、酔っ払ってテンションの上がった人々が花火片手に歩いている姿はちらほら見受けられた。
 風が吹く。陸の方から吹いてくる乾いた風だった。
 ホテルの壁に凭れ掛かってゆっくりとヴェイルは俯いた。焦点が巧く定まらない。
『可哀想にな。貴様があんな失敗をするから、この子はこんなにも傷つかなければいけなくなった。貴様があのとき、事故など起こさずに責任を果たしていればこんなことにはならなかった……』
 頭の中にアクセライの声が響く。
『貴様が犯した失敗がどれほどのものかわかっているのか?』
『貴様は立派な人殺しだ』
 ぎゅっと目を閉じた。握った拳に力が入る。
 拘束から解放したときのシアンの傷だらけでぐったりとした姿が忘れられない。シアンがあんな目に遭ったのがすべて自分の所為だと想うと、自分が腹立たしくて仕方なかった。
 強く奥歯を噛み締める。
 陽気な酔っ払いの笑い声など聞きたくなかった。それはただの八つ当たりでしかないことくらいわかっている。ただどうしようもなく頭の中はごちゃごちゃしている。
「……こんな処で何やってんだ出来損ない」
 突然間近で声が聞こえて、ヴェイルは慌てて顔をあげた。
 風に長い銀髪を靡かせながらシャールが鋭い瞳でヴェイルを睨み付けている。ホテル側ではなく歩道側に立っていることからすると、外から帰ってきたところなのだろうとヴェイルは想った。
 視線をそらせて沈んだ声でヴェイルは答える。
「べつに……」
「嘘吐け。まぁ俺はテメェが何考えてようと知ったこっちゃねぇがな。ひとりだけ姿見せずにいてアリアンロッドに心配かけんじゃねぇぞ」
「……僕に心配される資格なんてないよ」
 そう言った声は震えていた。
 しかしシャールは睨むような瞳を保ったままでいる。消え入りそうなヴェイルの声に更に不機嫌そうな表情を浮かべて舌打ちした。
「何寝ぼけてやがんだ、もう一発殴られてぇのか」
「だって……シアンがあんな目に遭ったのは僕の所為なんだ……。僕さえいなければ、僕があんな失敗さえしなければこんなことにはならなかったのに……!あのときも犠牲になったのは彼女だったのに、また……あのときと何もかわらない、あのときと同じように彼女だけが傷付いてる……」
「それでこんな処でひとりでイジけてやがんのか。莫迦じゃねぇのか? ……殴る気すら失せたな」
「なっ……! 君だって……君だって知ってるはずだ、僕が犯した失敗を……取り返しのつかない失敗を……!」
 感情的になってそう言い返したヴェイルをシャールは刺すように睨み付けた。そして躊躇い無く左手を伸ばすとヴェイルの胸ぐらを思いきり掴む。
 通りかかった酔っ払いがその光景に驚いてひそひそと話す声が聞こえる。しかし人の喧嘩に割って入るような人はいない。珍しいものでも見るように二人を見ながら、そのまま去って行ってしまう。
 突然に服を掴まれてヴェイルが目を丸くしている。その瞳をシャールの瞳は逃さない。
「ここでイジけてりゃどうにかなるってのか。過ぎ去ったことを後悔してりゃ何か変わるってのか。だいたいアリアンロッドがいつ"お前の所為でこんな目に遭った"なんて言った? テメェが勝手にグチグチ言ってるだけじゃねぇのか? 失敗は失敗だ。そりゃ曲げようのない事実だ。お前の犯した失敗は俺も知ってる。だがな、だからってそれを理由に滅茶苦茶する奴が正しいとでも想ってんのか? 人の失敗を理由に他の人間を傷つけるような奴の言うことを肯定してんじゃねぇ!」
 そう怒鳴りつけると、シャールはヴェイルを突き飛ばすように手を離した。よろめいて壁にぶつかりながらヴェイルは顔をあげる。
 シャールは髪を靡かせて背を向けた。
「こんだけ言ってもわかんねぇなら死ぬまで此処でイジけてやがれ。わかったんならさっさとアリアンロッドに逢いに行け。……言っておくがテメェのために説教してんじゃねぇからな。アリアンロッドをこれ以上傷つけたくないだけだ。感情の奥底でお前のことを心配してやがったからな」
「……シャール……」
 服を整えることも忘れて、ヴェイルはただシャールの背中を見つめた。頭をガツンと殴られたような気分だった。
 その視線を振り切るようにシャールはまた歩道の方へと足を進めた。
 慌ててヴェイルが引き止める。
「待って、君はどうするの? シアン、君のことだって気にしてるよ、きっと」
「俺は後で戻るってちゃんと言ってあるから問題ねぇんだよ。どっかのイジけた出来損ないと違ってな」
 吐き捨てるようにそう言うと、夜の闇に段々と姿を消す。その背中をヴェイルは完全に見送った。
 そして夜空を仰ぐ。星が輝いている。
(僕が君を愛する資格はまだ残っているだろうか……)
 まだ迷いはあった。けれど、シャールにいくらか目を覚ましてもらった気がする。
 ここにいても何も変わらない、そう想えば何とか足を進められそうだった。










 ベッドの横に置いた椅子に座りながら窓の外を眺めるアルスに、シアンはぽつりと呟いた。
「アルス、もう寝た方がいいよ。私もう大丈夫だから気にしないで休んで」
「人のことを心配している場合じゃないだろう。少なくとも、お前が眠れるまではここにいる」
 一番左端のベッドではライエが静かに眠っていた。彼女も突然あんな電話がかかってきてこんなことに巻き込まれてしまったのだ、疲れていないわけがない。
 少し身体を起こしてシアンはサイドテーブルに手を伸ばした。水の入ったグラスを手に取ってそっと口を付ける。その動作が危なっかしくて小さな手にアルスはそっと自分の手を添えた。
 やっと少し身体を起こして水を飲むくらいのことはできるようになったが、まだ高熱の所為で頭がふわふわしている。映像はもう殆ど見えなくなっていた。ただ、目を閉じると矢張りその僅かな映像だけが見えてしまって眠れそうにはなかった。
 グラスをサイドテーブルに戻してまたベッドに身体を預けようとして、シアンは背中を丸めて咳き込んだ。一瞬血の匂いが蒸し返してきた所為だったが、それもまたすぐに消え去る。結局咳だけが残り、アルスが心配そうにシアンの身体を支えていた。
「……大丈夫か?」
「なんか、咽せちゃったみたい、……何ともないよ」
 咳がおさまってから、シアンはそう言って枕に頭を埋めた。
 そこに、部屋の入り口の扉が開閉する音が聞こえた。二人がその音に反応して音のした方に視線を向ける。寝室から直接扉は見えないが、やがて二人の視界にヴェイルの姿が現れた。
「……ごめん、遅くなって」
 ぎこちない笑顔でヴェイルはそう呟いた。そして躊躇いがちにベッドの方へ足を進める。
 シアンのオッドアイが戸惑うヴェイルを映しだした。暫く間をおいて、そっと呟く。
「ヴェイル……怪我、しなかった?」
「え……僕が? いや、怪我なんてしてないけど……」
「そっか、よかった。術が暴発したときにすぐ傍にいたから怪我させちゃったんじゃないかと想って。……それから、助けてくれてありがとう。他のみんなは逢ったり大丈夫だって話聞いたりしてたのに、ヴェイルだけ逢ってなかったからどうしたのかと想ってたけど……大丈夫そうでよかった」
「暴発って、それは僕が狙われたからレジストを……それに、君があんな目に遭ったのは僕の所為なんだよ……」
 また震えてしまっているヴェイルの声を聞きながら、シアンは首を傾げた。アクセライがヴェイルに向かって言った言葉は、薬の効果が強烈に発揮されていたシアンには聞こえていなかった。
 しかし少し考えてからアクセライのヴェイルへの感情を思い出して、そっと口を開いた。
「アクセライはヴェイルに対して色々想ってたみたいだけど、だからってべつにヴェイルの所為じゃない。ヴェイルが私に直接何かをしたわけでもないんだし。それに私、何ともないから。迷惑かけたのは申し訳ないけど……でも、」
「……でも?」
 今度はヴェイルが首を傾げる。
 ゆっくりとした調子でシアンは続けた。
「……みんな無事でよかった」
「それ、君が言う台詞じゃないよ」
 泣きそうな笑顔でそう言うと、ヴェイルはそっと手を伸ばし、シアンの華奢な身体を強く強く抱き締めた。