誰も君を責められない




 シアンの髪にセラフィックの指が通る。暫くの間ずっとたわいもない話をしていたが、不意に自分の肩に凭れ掛かるシアンをそっと抱き寄せた。
「身体、冷えてきたんじゃない? 毛布か何か持って来ようか?」
「大丈夫。もともと手とか冷たい方だから、これで普通」
「そう? でも冷えてるだけじゃなくてなんだか熱っぽいし……傷の所為かな……ごめんね」
「謝らないで。あなたが悪いんじゃない。あなたの仲間も……誰も、悪くない」
 静かにシアンが呟く。鸚鵡返しに「誰も?」とセラフィックが訊き返す。シアンは小さく頷いた。
 そっと目を閉じる。
 抑揚ない言葉がシアンの唇から溢れた。
「何が正しいかなんて誰にもわからない……誰も現実を正当に非難できない。私が何かを思い出すことが良いことかもしれない。もしそうならアクセライの行動は悪くない。……だから誰も……、」
 シアンの言葉が途切れる。
 セラフィックが腕を伸ばしてシアンの身体を抱き締めた。予想しなかったことに、シアンの動きは淘汰された。
「もういいよ……。もう、いい……」
 シアンを抱き締めたままセラフィックが声を震わせる。
 無表情のまま、シアンはされるがままになっていた。傷が少し痛んだが、セラフィックの様子を見ているとそれを訴える気にもなれない。
「どうしてあなたがそんな声出すの?」
「……君がひとりで傷ついているから」
「私べつに傷ついてないから。……私のためにあなたが傷つくなんて変」
「……シアン……」
 セラフィックはそっとシアンの身体を解放した。
 その身体は既にボロボロだった。無造作に切り裂かれたいくつもの切り傷と、鋭いものが突き刺さった傷が混在し、白い肌のあちこちが赤く腫れていた。そして服は埃と土に塗れてすっかり汚れてしまっている。瞳の輝きは弱々しく、じっとしていてもどんどん体力は削られていっている。
 セラフィックに身体を支えられたまま、シアンは背中を丸めて突然激しく咳き込んだ。
 こんな状態で、自分をこんな目に遭わせた人間を擁護する言葉が紡げるなど、セラフィックには考えられなかった。
 咳がおさまって、シアンがゆっくりと顔をあげる。顔を歪めながら肩で息をする姿は痛々しい。
 思わずセラフィックは唇を噛んだ。どうして目の前の少女がここまで苦しまなければならないのか、わからない。
「……ひとりで苦しまないで。悩みや苦しみや哀しみは、ひとりで背負うものじゃないよ。強がらなくていい。泣いてもいい。僕は何もしてあげられないかもしれないけど、君の話を聞いてあげることはできるから……言葉にすれば楽になることってたくさんあるよ。……すべてを赦そうとしなくても、いい」
 やさしい声でセラフィックがそう言うのを、シアンは俯き加減に聞いていた。
 言葉の意味を呑み込もうとする。しかしその断片は未消化のまま頭の中に残っていた。強がっているつもりなどない、泣きたいとも想わない、そう考えてしまうと意味を全部呑み込むのは不可能になる。
 それでもシアンはセラフィックのやさしさを感じていた。俯いたまま、そっと声を発する。
「……ありがとう、セラ」
 その返事を聞くと、セラフィックはシアンの身体をしっかりと壁に凭れかけさせた。
 そして「ごめん、僕もう行かなきゃならないから……」とすまなさそうに告げる。
 返事をするかわりにゆっくりとシアンが頷いた。
 セラフィックは床に膝をついて身を乗り出すと、壁に手をついてシアンの耳元に顔を寄せた。
「幸せになって。……たとえすべてを知ったとしても」
 静かにそう囁く。そしてシアンの左頬に軽くキスをすると、そっと身体を引いた。
「……また逢おうね。今度は面白い話ちゃんと用意しておくから」
 笑顔でそう言うと立ち上がってセラフィックは扉の方に足を進めた。
 そこに背後からシアンが自分の名を呼ぶ声がする。その声に反応してセラフィックは後ろを振り返った。
 相変わらず表情をひとつも変えないまま、シアンが言う。
「面白い話もいいけど、あなたが私の話を聞くなら、私はあなたの話を聞かないと。釣り合いがとれない。……たまに思いつめたような顔するのは、何か抱えてるから。何か抱えてるのは、あなたの考え方から言えば言葉にしてないから」
「…………。……なんだか、なんでも見抜かれてるみたいだね。君にそんなこと言われると想ってなかったな。……そうだね、今度はそういう話もしたいね」
 ふわりとセラフィックが微笑む。
 そして再び黒い扉へ向けて歩きだした。足音が部屋中に響く。
 扉が重い音とともにゆっくりと開閉する。そしてその扉が閉まりきってしまうと、部屋の中は完全な静寂に包まれた。










 旧エクセライズ社跡のある部屋でセラフィックの声がした。目の前には黒いコートに身を包むアクセライの姿がある。
「……アクセライ、彼女すごく傷ついてたよ。心も身体も」
「外傷のことは知らないな。俺の目の前で危害を加えようとしたのは止めたが、捕らえてくるための傷もきっとイルブラッドがやったんだろう。一応警告はしておいたが、あながち間違った手段でもないからな」
「彼女は何もしてない、何も悪くないのにどうしてあんなに傷つける必要があるのか、僕にはわからないよ。もっと他の方法だってあるはずだ」
「そう、悪いのは彼女じゃない。あの男と、それを取り巻いた奴らだ。"あの事故"がどんなことを意味するかわからないわけはないだろう?」
「……それは……」
 言葉に詰まってセラフィックは俯いた。
 その肩にアクセライの大きな手が置かれる。
「……セラ。すべての失われてしまった者たちへ俺たちができることは、もうこれしかない。他の方法などと甘いことを言っていたのではまた同じことが繰り返されるだけだ。……目的の遂行のために多少の犠牲はつきものだ。割り切るしかない」
「……でも……」
「俺たちが迷っていては何も変わらない。不死者が氾濫する世界が続いてもいいのか? 殺される人間とそうでない人間がいて、力ない人間だけが抵抗する術もなく死んでゆく。そんな世界が赦されるのか? 力を持たない者は死ぬ為に生まれてきたようなものだ。世界の上層部の人間がどんなに必死になって隠しても、不死者によって毎日どれほどの人間が殺されているのかわかるだろう?」
「そんな世界は僕も厭だよ。だけど彼女自信がすべてを思い出す日が来るよ。そうなれば世界は救われる……それじゃ駄目なのかな?」
「それは可能性がある、というだけでしかない。そんな不確かなものに期待を寄せるな。もし彼女が今のまま安穏と生き続ければ、いくら待っていても世界は変わらない」
 そう言いながらアクセライは部屋の外へ向けて歩きだした。
 ただ黙ってその背中を見つめているセラフィックに、振り返ることなくアクセライは言う。
「彼女を"人"だと想わないことだ。そうすれば情が移らないで済む」
 かたい床に足音がうるさいほどに響く。
 自分よりいくらか背の高いアクセライの広い背中に、セラフィックは決意と哀しみを感じずにはいられなかった。










 シップに乗ればスフレからセントリストに移動するのは数分しかかからない。しかし検索やナビゲート探しに手間取ってしまったこともあり、旧エクセライズ社跡に五人が到着した頃には陽は殆ど暮れていた。
 旧エクセライズ社跡は市街地から離れた処にある。相当な面積を要するような大きな建物であるため、市街地には建設できなかったのであろう。跡、といってもただ使われていないというわけで、建物は壊されることなく残されていた。コンクリートで固められた、グレイの建物は迫りくる闇にも負けないくらいにどっしりと建っている。
 建物の前でアルスはライエに連絡をとった。そして通信機の回線をコンピュータでライエが拾う。ライエの自室のコンピュータには既に旧エクセライズ社の設計図が表示されている。
 アルスと同じ型のヴェイルの時計形の通信機からライエの声がした。
『一番解除が簡単なセキュリティ……レヴェル1のものは容易に解除可能だったので遠隔操作で解除しておきました。大方のルートは把握済みです。中枢部までほぼ問題なくナビゲートできます』
 聞いているのがヴェイルだけではないということもあって、丁寧な言葉で現状が説明された。仕事柄、機械操作に長けているライエは順調に準備を進めてくれているらしい。
 それを聞いてアルスとヴェイルがライエに詳細の説明を依頼する。その様子を見ながらユーフォリアは久々に口を開いた。
「なぁ、オッサン」
「……ハディスだっての。覚えろって」
「どっちでもいいだろ。それよりさ、あいつが術使って捕まえた奴ら倒して脱出してくるって可能性はないのか? もしそんなことになったら脱出するときにセキュリティに引っかかっちまう」
「莫迦な頭使ってくだらねぇこと考えるな。んな可能性あるわけねぇだろ、クソガキ」
 二人の会話にシャールが割り込んだ。その言葉遣いに思わず食ってかかりそうになるユーフォリアを、ハディスは必死に押さえつけた。押さえつけながらも有り余った元気でシャールに反論しようとしている。
 ハディスもシャールに言ってやりたいことは山ほどあるのだが、それをおさえてなるべく冷静に問う。
「なんでそう言い切れるんだ?」
「あの女が言ってただろうが、アリアンロッドが術を使えるのは指輪や腕輪の作用があってこそだ。だが肝心のそれは今俺が持っている……今のあいつは普通の少女と何ら変わりねぇってことだ」
「シンシアとかいう奴の言ってたことは本当だったのか……」
 術に影響を及ぼすアクセサリがあることなど聞いたこともないため、あのときはシンシアの言葉を信じていいものかわからなかった。しかしシャールも同じことを言っていることからすると、事実である可能性が非常に高い。
 三人の耳に、アルスの声が届いた。
「中枢部まで最短ルートでいけばそう時間はかからない。しかしセキュリティ以外にも何があるかわからないからな……とにかく、可能な限り急ごう」
「俺がいる限りすぐに居場所が嗅ぎ付けられることは向こうもわかってるはずだからな。ある程度の人為的邪魔はされると想って間違いねぇ。……足引っ張んじゃねぇぞ」
 シャールはそう言うと周囲の人間を鋭い瞳で睨みつけた。
 そしてひとり足を進めると入り口の大きな扉を開く。
 その瞬間、全員の動きが一瞬にして凍り付いた。
 淘汰。
 その原因は扉の中にあった。数体の人の形に近い不死者が、まるで警備でもするかのように待ち構えていたのである。
 一気に圧迫感が増大した。
「おいおい……不死者がいるだなんて聞いてねぇぞ!?」
 ハディスの声が裏返った。
 ヴェイルが顔をしかめる。
「この不死者がここにいるのって……誰かに仕組まれたこと? そうなら不死者に指示を与えて従わせてるってことになる……そんなことがあるなんて……」
「待てよ、ってことはこの建物の中に不死者がはびこってるってことじゃねぇのかよ!? しかも、オレたちを待ち構えて……」
 心なしかユーフォリアの声が震えている。
 不死者を従わせられるなんていう話は聞いたことがない。しかしこの状況をどう解釈してみても、この不死者はシアンを助けに来ようとした人物を迎撃するためにいるとしか考えられない。アストラルもいなければ、周囲に不死者がいる気配もない。この建物の中にしかいないのである。
 シャールが檄を飛ばした。
「ごちゃごちゃうるせぇよ。冷静になりゃわかるだろ、こいつらから強さは殆ど感じねぇんだ。雑魚が束になってかかってきてるだけだろうが。誰かに従わせられてようが野放しにされてようが関係ねぇ。中にどれだけ待ち構えていようが邪魔な奴は容赦なく潰す。それだけだ。この程度で怯えるようなら手駒にもならねぇ、さっさと帰れ」
 言いながら舌打ちするシャールに並ぶところまでアルスは足を進めた。
 腰のホルダーから二丁の銃を抜いて、両手に握ってセーフティロックを外す。
「正論だな。今は余計なことを考えている場合じゃない。不死者が立ち塞がるなら倒して先へ進むだけだ。こんな処で推論ばかり並べていてもシアンは助けられない」
「……警察、少しは話がわかるじゃねぇか。……あとの役立たずどもは好きにしやがれ。二人いりゃあ充分だ」
 言いながらシャールは建物に踏み込んでゆく。
 好きにしろ、と言われて残っている人間が帰るわけがない。シャールの後を追って全員が建物の中に駆け込んだ。
 通信機からライエの声がする。
『最初のフロアからまずは右に抜けてください。非常用の通路がありますが、そこにもセキュリティがかかっていますから使わない方が無難です。引き続きこちらからできる限りセキュリティを解除しておきます。大きなコンソールがある部屋に着いたら連絡してください』
「了解、ありがとう」
 ヴェイルは通信機に向かってそう言うと、腰の鞘からレイピアを抜いた。
 立ち塞がる不死者を薙ぎ倒しながら、中枢部に向けて走り出す……。