誰も君を責められない




 痛みが消えない。頭の中で思考が渦を巻き続けている。
 答えの無い問いが身体の中をひたすら巡っているようだった。
(私にそんなことを思い出させてどうするつもりなんだろう……)
 そんなごく単純な疑問が浮かび上がったのは随分と後のことだった。
 閉鎖された空間でただ同じことを考え続けていた状態では、他のことを考える余裕などなかったのかもしれない。傷の痛みと体調にまで訴えかけるような最悪の思考の揺らぎから体力が消耗する中、少しは落ち着いてきたのだろう。
 身体を起こす気にはなれない。傷の痛みが増すことくらいはわかっている。
 これからどうするべきなのかわからない。
 ヴェイルたちは助けに来るだろうか。そうふと想ってから、自分が妙に冷静でいることに気付いた。『お前は他の人間と同じように笑うことも怒ることもできない』というアクセライの言葉が忘れられない。
(笑えないとか怒れないとか考えたことなかった……なんで考えたことないんだろう……単純なことなのに。でも、笑った記憶も怒った記憶もない……。
 こういうとき、怖い、とか想うのかな……普通……。……全体的な感情の欠陥、そんな感じ……。…………駄目だ、気分悪いや……)
 大きく息を吐き出す。
 本当に妙に冷静だった。あれだけ錯乱しておいて今こんな状態でいられるのも、全体的な感情の欠陥、なのだろうか。
 そこに突然、ギイ、と音をたてて扉が開いた。ひとりの人の姿が見える。そのシルエットをシアンは凝視した。するとその影の主は、やわらかな声を発する。
「ごめん、起こしちゃったかな……?」
 そう言いながらこちらへ歩いてくるのはひとりの少年だった。背格好はヴェイルに似ている。少し背が高いかもしれない。ジャケットローブに身を包んでいるその髪は茶色に所々薄い赤や黄色、それに蒼といった色が混ざり、瞳はピンクの混ざった赤だった。
 アクセライやシンシア、イルブラッドとはまったく雰囲気の異なる少年である。とても穏やかで、やさしい瞳でシアンを見つめている。
 まっすぐにシアンの方へ足を進めると、シアンの目の前にかがみ込んだ。シアンが身体を起こそうとする。相手に敵意がなさそうだとは想っても、この状況下で反射的に警戒してしまうのは当然であろう。しかし傷を負った身体はただ悲鳴をあげるだけだった。
「……ッ、」
「あ、いいよ、無理しなくて。……何も危害は加えないから大丈夫だよ。少し力抜いてて」
 そう言うと少年はそっと手を伸ばして、シアンを拘束する鎖を掴んだ。そしてシアンの視線の外で鎖を緩め始める。鎖がこすれ合う独特の音が響いた。
 少年の行動にシアンが驚いていると、突然身体の拘束が大きく緩む。両手首を縛る鎖を除いて総ての鎖がゆっくりと取り去られた。
 そして更に驚くべきことには、少年は鎖を取り去ると精神集中を始め、シアンの身体の前に手を翳してこう詠唱したのである。
「彼の者に際限なき加護を与えん」
 シアンの身体を光が包む。その光は傷口に集い、ゆっくりとやわらかく消えてゆく。
 紛れも無くそれは、ヴェイルが使うものと同じレメディだった。しかし術力に問題があるのか傷口は完全には塞がらず、せいぜい止血やある程度の鎮痛くらいの効力しか発揮しない。それでも今のシアンにとっては有り難いことこの上なかった。
 術を詠唱し終えると少年はそっとシアンの身体を起こした。アクセライよりも更に穏やかな手つきで大事そうにシアンの華奢な身体を起こすと、壁に凭れかけさせる。乱れていたシアンの髪を細長い指で整えて、少年はシアンの目の前で申し分けなさそうな表情を見せた。
「本当なら全部拘束解いてあげたいところなんだけど……今そんなことしたら君がもっと非道い目に遭うかもしれないから手首だけはこのままで……ごめんね。レメディも僕が使ったところで中途半端な効力しかないんだけど……少しは痛み引いたかな?」
 心からのやさしい声だった。その声に安堵感を喚起されるように、シアンはゆっくりと頷いた。
「ありがとう……。えっと、……」
「セラフィック。でもみんなセラって呼ぶからセラでいいよ。……君、名前は?」
「……シアン」
「シアン、か。……そっか、いい名前だね」
 微笑みながらセラフィックは「隣いいかな?」と訊ねてシアンが頷くのを確認してから、隣に腰を下ろした。
 シアンは前を見つめたまま何も言わない。その様子を見て、セラフィックが切り出した。
「……アクセライたちが非道いことしたみたいで、ごめんね。本当なら止めたかったんだけど、僕にはできなかった」
「セラは……あの人たちの仲間?」
「そうだよ。でも僕は君を……ううん、誰かを自分の為に傷付けるのには反対なんだけどね。……って、こんな状況でそんなこと言われても罪逃れの言い訳みたいにしか聞こえないか」
 そう言いながらセラフィックは苦笑いを浮かべる。
 しかしシアンはかぶりを振った。拘束を緩めた上にレメディまで使ってくれて、その上にこれだけやさしい口調を保っているセラフィックの言葉は信じるに値するものだった。彼の言葉は慈愛に満ちている。
 妙な親近感を覚えるのは彼がヴェイルに似ている所為だろうか。
 そっとシアンが口を開く。
「あの人たちの仲間ってことは、……あなたも私のこと、色々知ってる?」
「……うん、そうだね。その様子だと、アクセライに色々言われたみたいだけど……なんか、こんなこと言っちゃいけないかもしれないけど、想ったより落ち着いててびっくりしたよ」
「……考えるの、疲れたのかも。自分でもよくわからないけど……私、感情がおかしいみたいだから変に冷静になってる。あなたにそれに関することを何か訊きたいとも想わないし」
「そう? でも無理しなくていいよ。強がらなくても……怖いときや辛いときは泣いてもいいよ」
「泣けない。そんな気持ちにならないから」
「……それはね、きっと無意識にそう想おうとしているからだよ。……あ、折角混乱がおさまったってのに、余計惑わすようなこと言っちゃったかな……」
「べつに平気。……そんなに気を遣わないで。あなたの方が見てて痛々しくなってくる」
 淡々とシアンにそう言われて、セラフィックは小さく笑った。
 その様子をちらりと見ようとして、シアンが突然顔を歪める。血は止まっているもののまだ開いたままでいる傷が痛んだ。それでも声を出すのを堪えていたが、セラフィックはすぐにそれに気付く。
 シアンの身体をそっと自分の方に引き寄せた。
「凭れ掛かってていいよ。それとも、横になった方が楽?」
 セラフィックの肩に身体を預けたまま、シアンは僅かに首を振った。
 こうしていたい、というわけではないが、冷たくかたい床に寝転がったところで痛みが軽減されるわけでもない。面倒でない方を選んだにすぎなかった。
 暫く沈黙が流れる。その沈黙をシアンの声がそっと破った。
「あの人たちの仲間なのに、私なんかとのんびり話してていいの? よくわからないけど、あの人……えっと、アクセライは私に色々思い出させようとしてたのにあなたはこんなに悠長で。……私はべつにどっちでも構わないけど」
「いいんだよ、アクセライがいいって言ってくれたんだから。それに僕はただ君と話したいだけなんだ。だから話題が何であってもいいし、君は何を思い出さなくてもいい。何を自覚していようと自覚してなかろうと、君は君なんだから、ね」
 やさしく歌うように告げる声はシアンのすぐ耳元で発される。
 動くこともできずに傷を負ったまま、何処かもわからない処に閉じ込められている。
 そんな状況を忘れさせてくれるようなセラフィックという存在は、今とても大きい。
 それでも相変わらずシアンは冷静なままだった。普段と何ひとつ変わらないような気分でいる。それはセラフィックが言うように無意識にそう想うよう思考が働いているのかもしれないし、そうではないかもしれない。ただ、こうして身体を預けながらぼんやりと言葉をかわすのは、決して悪いものではない。勿論、拘束されていなければもっと良いのだが。
 抑揚なく、シアンが言う。
「じゃあ、何か話して。私話すのあんまり得意じゃないから、聞いてる」
「あはは、そんなこと言った人初めてだよ。僕もあまり面白い話はできないかもしれないけど」
「面白くなくてもいい。べつに何でも」
 ゆっくりとそう呟いて、シアンは身体の力を抜いた。
 セラフィックのやわらかい声がふわりと響き始める。










「おーい、君に電話入ってるよ」
「どなたからですか?」
「あ、ごめん名前聞くの忘れちゃったよ。でも"先日お世話になった者です"とか言ってるから仕事関係の人だと想うけどね」
「この前お会いした会社の方かしら……。取り敢えず出ますね。回線1に回していただけますか?」
 I.R.O.のシステム管理課でそんな会話が飛び交った。
 机が規則正しく並び、その各々の机にはコンピュータが置かれている。コンピュータの前には社員が座り、キーボードを叩いたりモニタを凝視したりしている。広い清潔感のあるオフィスで、社員の数もなかなか多い。社員は全員制服を見に纏っている。
 電話は机とは別のところにあった。オフィスの端に大きな電話ボックスのような電話ブースがある。そこには数台の電話機が並べられていた。
 その電話ブースにライエは電話の相手を待たせるまいと足早に駆け込んだ。ブースの左端にある"回線1"と示されている電話の受話器をあげて、通話ボタンを押す。
「大変お待たせいたしました。I.R.O.システム管理課のライエ・ダルクローズと申します」
『……突然職場に連絡してすまない』
 躊躇うような男の声が電話の向こうから聞こえる。ライエは首を傾げた。
「あの……どちら様でしょうか?」
『I.R.O.警察のアルス・トロメリアという者だ』
「……あ……あ、ぁぁあ、あの、トロメリア警視正、ですか!?」
『頼む、大声を出さないでくれ。……個人的な、勝手な頼みがある』
 早口でアルスがそう言った。そう言われてライエは思わず深呼吸する。
 電話の向こうからノイズのような音がする。それは数人の人の声だったのだが、ライエには冷静にそれを聞き取ることができるような状況ではなかった。何しろ電話の相手は憧れに憧れたアルスなのだから。
 そのノイズのような音に聞こえる声というのは、庁舎ロビーの隅にある電話で通話をするアルスの後ろにいるヴェイルとハディスのものだった。アルスの後ろから何やら二人が指示を出している。
 携帯電話からかけた方が早いのだが、向こうに番号がわかってしまっては困る。公衆電話からかけるのが一番安全だった。
 受話器を耳にあてたままアルスはちらりとヴェイルを振り返って小声で言った。
「おいヴェイル、あいつにこの状況をどう説明するんだ?」
「取り敢えず、事情は後で必ず説明するからって言って、旧エクセライズ社の設計図が手に入るかどうか聞いてみて。あと僕らの持ってる通信機……えっと、型番961系統だっけ、それに割り込めるかどうかも」
 小声でヴェイルが言う。
 普段とは違ってアルスは自分のペースをすっかり乱していた。
 ライエに協力を依頼することを提案したのはヴェイルだった。聖堂で逢ったときにI.R.O.のシステム管理課で彼女が働いていると言っていたのを覚えていたからである。システム管理課といえばセントリスト全体のありとあらゆるシステムを管理している部署である。システムを管理していれば検索から会社の設計図を手に入れることも可能かもしれない。
 勿論彼女を巻き込むのに抵抗がないわけではない。彼女を危険に晒さない程度に協力してもらおう、とヴェイルは考えていた。
 協力を得るためにヴェイルはアルスに電話をかけさせた。アルスは未だ気付いていないが、ライエがアルスに恋心を抱いていることは明白である。アルスは「言う通りにすれば巧くいくから」とヴェイルに言われ、何故電話をするのが自分でなければならないのかわからないままダイヤルしたのだった。
「……ライエ、少し込み入った事情がある……事情はあとで必ず説明するからまずは聞いてくれ。……旧エクセライズ社の設計図が必要なんだが……手に入るか?」
『旧エクセライズ社の設計図、ですか? それは、まぁ……自室のコンピュータからでも簡単に引き出せますけど……』
「そうか。それともうひとつ、型番961系統の回線は拾えるか?」
『え、えぇ……型番1021以下なら総て拾えます……』
 受話器から漏れるライエの声がヴェイルとハディスにも聞こえた。
 ライエの声を聞きながら再びアルスがヴェイルを振り返る。アルスが振り返る前から、ヴェイルは電話の隣に置いてあったメモ用紙に備え付けのペンでさらさらと文字を書き始めていた。そして文字を書ききるとその紙をアルスに渡す。
「これに書いてある通りに言って」
 その紙を覗き見たハディスが突然吹き出しそうになり、それを必死に堪えた。怪訝な顔でハディスを見ながら、メモを片手にアルスは口を開いた。
「驚かずに聞いてくれ。訳あって今晩旧エクセライズ社跡に潜入する。お前には俺の持つ通信機の回線に割り込んで内部侵入に際してのナビゲートをしてもらいたい。……先程も言ったが事情は後で必ず説明する、とにかく今は時間がない。人の……いや、あまりに個人的なのはわかっているが、シアンの命がかかっている」
『え……、シアンさん、どうかしたんですか!? まさか、誘拐とか……!?』
 電話の向こうでライエが大声を出す。その声は僅かに震えている。
 少し焦った風にアルス再びメモを見なながら言った。
「落ち着いてくれ、表沙汰にしたくないことなんだ。……お前を危険な目に遭わせはしない。遠くからナビゲートしてくれればそれでいい。他に頼れる人間がいない……お前でなければ駄目なんだ。他の誰でもなく、お前でなければ」
 そう言うアルスの背後でハディスが腹を抱えて笑いを堪えている。
 お前でなければ、と言うアルスはまるで女性を口説こうかとするように見えた。アルスが色恋沙汰に疎く、シアンを助けようと必死になってメモを読み上げているのも影響しているのだろう。その声には感情がこもっている。
 そしてそんな言葉を並べられてライエの胸の鼓動は一度に加速し始めた。あれだけ憧れていたアルスに、お前でなければ駄目だと言われて胸が高鳴らないはずがない。
「そ、そんな、私でなければ、なんて……!あの……その、私でよければ、何でもお手伝いしますから……!」
 頭の中が真っ白になって何を喋っているのかわからないような状態になりながらライエは受話器に向かって必死にそう言う。
 勢いよく承諾を示したライエに、アルスは気圧されたような気さえした。
「そ……そうか、助かる。……自室に戻れるのは何時頃だ?」
『えっと……今日はもう殆ど仕事終わってますから、6時頃には……』
「では6時過ぎに再び連絡する。自室の電話か携帯電話のナンバーを教えてもらえるか?」
 ライエが電話番号をゆっくりと告げる。傍にあるメモにアルスはその番号を書き取る。そして「突然にすまなかったな」と言って電話を切った。
 受話器が置かれると同時にハディスが堰を切ったように笑い出す。
「警視正様、半分口説き文句じゃねぇかよ、それ! 電話の向こうのお嬢ちゃんも警視正様のそんな声であんな台詞聞かされちゃあ、もうたまんねぇってなぁ……あー、聞いてるこっちが恥ずかしいっつーか、もう……いやぁ、いいね、色男は何をしても決まるって感じだなぁ。……はー、しっかし可笑しいねぇ、あー、腹痛ぇ……」
「……何の話だ?」
「……へ? 何の話って……」
 笑うのをやめてハディスがまじまじとアルスを見た。誤魔化すわけでもなく、本当にわけがわからないままでいるように見える。
 目を丸くしたハディスの腕をヴェイルが引いた。そして小声で告げる。
「アルス、こういうことには疎いからそういうことわかってないんだよ、多分。普通にメモ読み上げたとしか想ってないはず……」
「……は?」
「いや、まぁ彼女にある種の好感は抱いてると想うけどね。アルスは周囲の人間には隔たりなく好感持つタイプだから。でも色恋沙汰にはかなり疎いと想うよ……」
「……マジかよ……」
 ハディスの動きが硬直する。
 しかしそんなハディスを不思議そうに見ながら「シャールとユーフォリアをいつまでも待たせるわけにはいかないだろう、合流するぞ」と言ってコンピュータルームに戻ろうと足を進め始めた。
 その背中を見ながら、今までハディスと一緒に明るい声を出していたヴェイルがふと笑顔を消す。
(シアン……、今助けに行くから…………無事でいて……)
 ぎゅっと拳を握り締める。
 シアンのことを想うと、護りたい、助けたい、それだけが頭の中を占拠していた。