誰も君を責められない




 お前がいれば世界に平和が戻るんだな……その日が待ち遠しいよ。


 なんであいつなんだ!? お前の方がずっと強い精神力を持ってるっていうのに、どうして……!
 ……大丈夫、きっとうまくやってくれるよ。僕じゃなくとも彼がいてくれれば同じ未来が迎えられるよ。


 だから言ったんだ! この失敗が何を意味するかわかってるだろ? もう、……希望なんてない……。


 俺は赦さないからな! あの男も選定者もクライテリアもヴォイエントも何もかも……何もかも消滅させてやる!





 ……君、名前は?



 僕が、君を護るから。君の居場所と、君を護るから。……必ず。









 頭の中で声が渦巻く。
 誰の声かもわからない。ただ様々な感情に満ちた声が次々と展開される。
 喜び、怒り、哀しみ、そしてそれは絶望を迎え、最後に光が差し込むように和やかなものになる。



 夢の中のようなその状態からシアンを現実に引き戻したのは鋭い痛みだった。
 目が覚めると同時に声を漏らす。ズキズキと痛む傷を手で抑えようとして、シアンははっとした。
 体中に鎖が乱雑に巻き付いている。それはきつくシアンの体を締めつけていた。両腕はその鎖によって身体の後ろで固定されてまったく動かない。足は自由にされていたが、左足の怪我が痛む。
 そして左腕のリングはひとつ残らず取り去られている。
 リノリウムの床、随分と広いホールのような部屋だった。床に預けた身体が冷たい。
 電気がついていて部屋は割と明るいが、どこか無気味な感じがする。それは異常なほどの殺風景な部屋の様子や黒く塗られた大きな扉の所為かもしれない。
 その扉が重々しく音をたてて開く。数人の足音が聞こえてきた。
「お目覚めかな……?」
 聞き慣れない男の声がする。
 ゆっくりと少し身体を起こしたシアンの目の前に、黒髪の男の姿があった。黒いロングコートに身を包んだ、アルスよりも少し年上くらいの男だった。
 その後ろにイルブラッドとシンシアの姿もある。
 何も返事をしないシアンの目の前に男はかがみ込んだ。視線の位置を合わせて暫くシアンを観察した後、満足そうに告げる。
「"彼女"の報告通りだ……本当に奇麗な瞳をしている……。これが"あの事故"の禍根というわけか……可哀想に」
「……あの……事故?」
 シアンが小さな声で呟く。
 男は不思議そうな顔をするシアンの身体を完全に起こして、壁に背をもたれかけさせた。自分の意志とは別に身体を動かされて傷が痛む。しかし男の手つきはこうしてシアンを拘束しているとは想えないほどに穏やかだった。
 だがそんな男とは正反対に、イルブラッドは怒りを露にしていた。
 つかつかとシアンに歩み寄ると男を押しのけてシアンの腹部を思いきり蹴りつける。
「しらばっくれてんじゃねぇ、俺たちには何もかもわかってんだよ!」
 酷い痛みにシアンが奥歯を噛み締めて声を抑えながら悲鳴をあげた。
 更にいつの間にか手にしていたナイフでイルブラッドは鎖の隙間からシアンの右肩や右腕、鎖骨のあたりを無計画に切り裂いた。
 シアンの悲鳴が部屋に響き渡る。
「やめろ、イルブラッド!」
 男がそう怒鳴る。そしてイルブラッドのナイフを握った手をはねのけた。
 イルブラッドがつまらなさそうな顔を浮かべて舌打ちする。その様子と背後に立つシンシアを見遣って男は言った。
「イルブラッド、シンシア……お前たちはもういい。外してくれ」
「ひとりで大丈夫なの? アクセライ……その子とんでもない力を持ってるんじゃないの?」
「心配しなくていい。今この状態ではこの子は何もできない……少し話をするだけだ」
「貴方がそう言うなら……」
 アクセライと呼ばれたその男と話すシンシアの声は、先程とは違って随分な猫なで声だった。強気な雰囲気はすっかり消え失せている。しかしその直後「行くよ、イルブラッド」とイルブラッドを促す声はまた強気で淡々としたものだった。
 二人の足音が遠ざかり、黒い扉がまた重々しく開いて二人の姿を呑み込んでから閉まる。
 アクセライはイルブラッドに蹴られて床に沈んだシアンの身体を再びそっと起こした。シアンの肩が少し激しく上下している。
 片手をシアンの顎に添えて自分の方に顔を上げさせながら、アクセライは囁くように問いかけた。
「事故のことは知らないと、そういうことだな? ……まぁいい、だが命が惜しいなら嘘をつかずに素直に喋ることだ」
「……嘘なんかつきませんよ。誰の利益にもならないから」
「クク……いいな、この状況下でその冷めた口調を保つとは……これなら話を聞くのも楽そうだ。まずは、そうだな……お前はヴォイエントとは別の世界、クライテリアから来た、そうだろう?」
 アクセライの瞳が妖しく輝く。それは吸い込まれそうなほどに深い紫だった。
 顎を支えられたまま、シアンは小さく頷いた。
 それを確認してアクセライは「ならば矢張りお前で間違いないな……」と呟きながらシアンに顔を近付けた。
「ならばお前の出身はクライテリアということだな。……それでは、お前は何時クライテリアの何処で生まれた? 親の名は? お前の名……"彼女"の情報によればシアンといったか、それは誰がつけたものだ?」
「何時、何処で……? 親…名前……」
 鸚鵡返しにシアンがそう訊ねる。
 ズキンと頭が痛んだ。目眩がする。
 目の前でアクセライが不敵な笑みを浮かべていることにも気付かず、鈍い頭痛にシアンはかたく目を閉じた。その耳にアクセライの囁きが届く。
「生まれた日も場所もわからない。親の名もわからない。しかもそれを今まで疑問に感じることすらなかった……違うか?」
「……名前は、……そう、ヴェイルが……」
 真っ白になった頭の中にそんな言葉が浮かんだ。
 自覚していないことが記憶の底から零れたような感じだった。ヴェイルに名前をもらった、そんな気がする。今までそんなことを想ってはいなかったけれど、とにかくそんな気がするのだ。
 頭が痛い。
 アクセライが口の端を吊り上げる。
「そうか、あの男か……。しかしあいつが親であるはずなどないだろう? 何故あの男に名前をもらわなければいけない羽目になった? ……それに、お前は何年生きてきた? どうしてそれほどまでに強い精神力を有している? ……今までそんなことを考えたことは……その様子だと一度もないようだが」
「……っ…………私は……」
「自分という存在に疑問を抱いたこともなく、ただ不死者を滅するために術を使う人形のようにあの男とともに行動してきた……しかしそれはお前の意志などではないだろう。不死者がはびこる世界を見過ごせないのは本当にお前の意志か? そもそもお前に意志などあるのか? たしかに思考回路は随分と発達している。しかし考えてもみろ、お前は他の人間と同じように笑うことも怒ることもできない。何故だ? いや、何故だろうと考えたことがあるのか?」
「わた…し、は……」
 身体が震えていた。
 笑うことも怒ることもできない、そんなことを考えたことはなかった。自分が笑っていないことなど気付かなかった。周囲の人間と比較して考えたことなどない。だが、考えてみればアクセライの言う通りなのだ。頭を強くガツンと殴られたような気分だった。
 次々とシアンの思考を誘導してきたアクセライが再び囁く。
「そんな当たり前のことを考えられなかったのは何故だ? ……思い出せ、お前は他の人間とは違う。"特別"な存在だ……」
「厭……やめ…て……」
 シアンは掠れた声を絞り出した。
 頭の中が混沌としている。
 目の奥があつい。喉の奥が乾いて痛い。体中の傷口が悲鳴をあげている。吐き気がした。
 記憶を辿れども何も蘇ってこない。親のことも自分の持つ力のことも何もかも。名前をヴェイルにもらったということすら、言葉として出てきたものの実際記憶の中では曖昧だった。
 その様子を楽しむかのようにアクセライは喉の奥で低く笑った。
 手をシアンの顎から頬に移動させてその頬をそっと撫でる。そうしながら、苦しそうな表情を浮かべたまま身体を震わせるシアンに冷たく言い放った。
「随分と思考が外界からの刺激を拒絶しているようだな……。まぁいい、後で厭でも思い出して貰う……せいぜい思い出す前に死なないよう、体力でも回復しておくんだな」
 そう言うとアクセライはシアンの体を床に倒した。冷たい口調とは逆に、その手つきは矢張り穏やかである。
 気分の悪さと傷の痛み、どうしようもなく錯乱を続ける思考に自然と喉の奥から声が漏れた。
 動くことすらできない。ただ今は此処にこうしているだけしかできない。気が変になりそうだった。
 アクセライの足音が遠ざかってゆく。暫くして扉が開閉する音がした。それすらもシアンの耳にははっきりとは届いていない。
(私は……誰……、一体……?)
 途切れ途切れに頭の中に言葉が浮かぶ。だが、ただそれだけである。何も解決しない。
 目の奥も喉も傷口も頭も悲鳴をあげ続け、身体を締め上げる鎖同士がこすれて音をたてる。
 次第に体力が奪われてゆく。
 どうしようもなくなって、ただ逃避するようにシアンは瞳を閉じた。










 スフレ庁舎にあるコンピュータルームに五人は集まっていた。
 コンピュータルームといっても小さなコンピュータが三台と、大きなコンソールが一台あるだけである。多人数が入れるような場所ではない。ただ石が人を喰らうという不可解な事件の所為で庁舎の人間は狩り出されており、ここへ来る人間は誰もいなかった。
 シャールがコンソールを叩く。それをアルスとハディスが見守り、少し離れてヴェイルがいる。部屋の入り口ではユーフォリアが俯き加減に立っていた。彼にとっては、もはやシャールがこれからどうするかなど気にならない。化け物だと想っていた少女と、そのイメージを払拭しろというハディスの声が頭を占拠し、次に思い浮かぶとすればあの少女の無事を願う想いだけだった。
 それとは逆に、シャールの行動が気になって黙っていられないのはハディスだった。
「なぁ、こんなもんで本当にあいつらの居所がつかめんのか?」
「黙ってろデカいの」
「デ……デカいのって……」
 あっさりとハディスの質問を退けて、シャールはコンソールを叩き続ける。
 アルスはその画面を食い入るように見つめていた。
 普通のコンピュータで何がわかるのか、疑問ではある。しかしシャールの目の前で展開するモニタの画面はアルスもハディスも見たことがないものだった。表示されている言語すらわからない。二人とも、仕事柄ある程度コンピュータには長けているはずなのに。しかしそうでもしないと相手の居所がわからないということは、警察の助けを借りるよりも自分たちで助けに行くのがセオリーだということでもある。
 暫くコンソールを叩く音だけが響く。そしてその後、シャールは手を止めた。
 未だモニタは休むことなく展開し続けている。恐らく自動処理の段階に入ったのだろう。処理検索の結果が次々と表示されている。
 それを見ながら手の空いたシャールは、誰に対してというよりもただ宙に向かって呟いた。
「アリアンロッドのリングから得られる波動とあの二人の波動をヴォイエント全体において検索した。しかし波動のすべてが完全に得られたわけでもない……ただ俺がさっき感じていたものだけを呼び起こしたに過ぎないからな。そうなれば類似した波動などこの世にごまんとある……となれば、あとは俺の知識だ。あいつらが拠点を構えている場所くらい把握しているからな」
「なるほど……。検索するにしても特殊なシステムを使用しているように見えるが、それもお前の知識というやつか?」
 シアンが攫われてからも冷静さを保ち続けているアルスが返す。
 処理が終了した画面を見て、再びコンソールを叩きながらシャールが言った。
「まぁ、そんなところだ。だが言うほど特殊なものじゃねぇ。そうだな……お前なんかも使えるだろ、そこの出来損ない」
 出来損ない、とは勿論ヴェイルのことを示す。それがわかっているアルスとハディスは、シャールの言葉にヴェイルの方を振り返ろうとした。
 しかしそこにコンピュータから短い電子音が聞こえて、視線は再びそこに集中された。
 今度表示された画面は誰が見てもはっきりとその内容がわかるものだった。表示された地図と文字を読み取って、ヴェイルが呟く。
「……セントリストW15区画、旧エクセライズ社跡……。セントリストってことは、アルス何か知ってる?」
「知っているも何も……警察に支給される銃は総てエクセライズ社製だからな。旧社時代から世話になっている。……だが……」
「何か問題でもあるのか?」
 シャールがアルスを振り返った。今すぐにでも現場に向かおうとしていたところに逆説の言葉が聞こえて、気にせずにはいられなくなったのだろう。
 アルスが腕を組む。
「あの会社は扱っているものがものだけに普通では考えられないほどの厳重なセキュリティを施してある。たしかそれが今も解除されずに残っているはずだ。下手をすればあいつらと接触する前にやられてしまう」
「ちっ、マジかよ……。俺の術でもこれだけの人数を移動させるのはな……かといって一人で中枢部分に飛んだところでアリアンロッドを人質にとられたらどうにもならねぇか……」
「セキュリティをどうにかして解除する方法があれば良いんだがな……しかし俺では無理だ。あの会社の内部の設計図が簡単に手に入って遠隔操作でセキュリティを解除、または安全なルートをナビゲートできる人間がいればいいんだが……」
「そんな都合のいい人間がいるか? 仮に設計図が手に入ったところで俺や出来損ないでもそんな器用なことできねぇしな……俺らの知識が作用する分野じゃなさそうだ」
 そうシャールが言っている間に、ヴェイルとアルスの頭に同時にある人物の顔が浮かんだ。設計図が入手できるほどの情報網を有し、セキュリティ解除やナビゲートが出来るほど機械技術に長けている人物。
「クルラ……」
 口の中でヴェイルがその名を呟く。だがその声はあまりに小さくて周囲の人間には聞こえていないようだった。ただ同じ人物を思い浮かべたアルスだけは黙って脇にある小さなコンピュータを立ち上げた。
 その行動に視線が集中する中、アルスは黙ってキーボードを叩く。暫くその音だけが部屋に響いたが、突然アルスはキーボードから手を離してかぶりを振った。
「駄目だ、連絡がとれない……。通信機の回線にも入ってみたが繋がらない」
「おかしいね……通信機ならいつも連絡とれるはずなのに……。仕事中だったとしても通信機にメッセージ残す機能はあるのにね」
「一切の通信を受け付けていないようだな……機械の故障かもしれない。……こんなときに……」
 流石のアルスも苦々しい表情を浮かべた。
 空しく画面に表示されている通信不可の文字が腹立たしい。シャールやハディスも打つ手なしといったような心境であった。もうこうなれば無理矢理にでもセキュリティをかいくぐって行くしかないかもしれない。
 そう想いかけたとき、ヴェイルが「あ……」と声を漏らした。反射的に全員の視線がヴェイルの方を向く。
 少し考え込むような仕草をしてから、通信不可の文字を見つめてヴェイルは呟いた。
「協力してもらうのにこの状況を説明するのが難しそうだけど、でも、その条件に当てはまる人がもうひとりいる……」