絡まりゆく死線




 感覚を頼りにシアンは市街地を駆け抜けた。悲鳴の聞こえた場所に行ってみたが、そこには何もなかった。事態を把握できていないほど混乱している人々が口々に言葉を口にしながら一方を指さしていた。その方向と感覚が呼ぶ方向は一致している。
 そこから暫く走った先は空き地だった。コンクリートで鋪装された道路の先に緑色のフェンスに囲まれたスペースがある。フェンスには貼り紙が貼られ、土地は購入されるのを待っている。
 空き地には人影があった。近付けばすぐにそれが誰だかわかった。先程の紺色の制服に、蒼い髪。
「……君……ユーフォリア、だっけ? どうしたの、こんな処で」
 シアンに追い付いたヴェイルが人影に声をかけた。
 名前を呼ばれてユーフォリアが振り返る。そこにはシアンとヴェイル、それにアルスがいた。つい先程もめ事を起こしたばかりのメンバーに一瞬ユーフォリアは一歩足を引きかけた。
 しかし今はそれどころではないと判断したのか、自分をコントロールするように深呼吸をすると自分が今まで向いていた方向を指さした。
「……あの石が……」
 恐怖と怒りの混ざったような声だった。
 ユーフォリアの人さし指の先にはひとつの石が宙に浮かんでいた。エメラルドグリーンの透き通った小さな石が禍々しい波動を放っている。
 人伝えにシアンたちの動きを追いかけてきたハディスも空き地へと足を踏み入れた。
 ここまで近付くとハディスも何か感覚を感じているようだった。不死者の圧迫感のように、感覚の得られ方は精神力の強さに比例しているのかもしれない。
 全員の視線がエメラルドグリーンの石に集中する中、ユーフォリアが言う。
「街にいたらいきなりこの石が現れて……人を…………人を喰いやがったんだ……」
「人を喰う……? そんな小さな石が、か?」
 ハディスが眉間に皺をよせる。
 信じられないような話だが、石が浮いていたり異様な感覚を発していたりすることを考えれば、あっさりと笑って済ませてしまえるような問題ではない気がする。
 自分の言うことが莫迦にされたような気がして、ユーフォリアは振り返った。
「オッサン、疑ってんだろ!? 嘘じゃねぇぞ、だってこの石、とんでもねぇ術力帯びてやがんだぞ!」
 興奮しながらそう言うと、再び石の方に向き直ってユーフォリアは石に手を伸ばそうとした。
 そこに横から突然、この場にいる誰のものでもない声がする。
「触んじゃねぇクソガキ!」
 怒鳴るような声にユーフォリアは反射的に手を引いた。
 それと同時に全員の視線が声の聞こえてきた方に集中する。
 一人の男がフェンスを軽々と飛び越えて空き地の中にふわりと舞い降りる。熱気を帯びた風に長い銀髪が靡く。右目は前髪の下に隠れたまま、鋭い赤い左の瞳が着地と同時に開かれる。
「な、なんだよテメェ、突然来てクソガキだなんて、ただじゃおかね……」
「お前は……シャール!」
 怒りを露にするユーフォリアを遮ってアルスが蒼い瞳で男を、シャールを睨みつけた。
 アルスにそう言われて、シャールは周囲を見回した。見覚えのある二人の男の顔があることにすぐに気付く。だが、勿論そんなところにシャールの興味があるわけがない。
 ひときわ背の低いシアンの姿を認めるなり、シャールは満足そうな、しかし相変わらずどこか無気味な笑みを浮かべた。
「こんな処でもお前に逢えるとは……これはもはや偶然ではなく必然だな、アリアンロッド。……だが……」
 笑みを消して、シャールは周囲を見回した。不満そうな表情でヴェイルがシャールを見ている。ヴェイルほどではないが、アルスも面白くなさそうな表情をしている。ハディスやユーフォリアという、シャールの見覚えの無い顔もある。
 シャールは気分を害したように舌打ちした。
「ちっ、邪魔が多すぎるな……。滅してやりてぇ……」
 今にもシャールはヴェイルたちに危害を加えそうである。ギムナジウムでのこともある、もしシャールが攻撃を仕掛けてくるとしたら、それは威嚇でも何でもなく本気であろう。
 ひとりで感情の変化を示すシャールを見ながら、ハディスはアルスに訊ねた。
「……あの変な奴、知り合いか?」
「会ったこと、というよりもあいつと戦ったことがある……が、素性やあの神経は俺もよくわからない」
 シャールのことは理解できないと割り切っているのか、アルスは落ち着いてそう述べた。
 何かひとこと気に食わないことを言われれば精神集中でも始めてしまいそうなシャールに、シアンが少し歩み寄って首を傾げる。
「あの石のこと、知ってるの?」
 シアンに声を掛けられて、シャールの苛立った気分は突如として中和されたようだった。シアンはただ疑問があって訊ねただけだったのだが、そのタイミングの良さにヴェイルは心の中でシアンに感謝した。これだけわかりやすい人もそういないが、これだけ攻撃的な人も稀である。少しでも下手なことを言えばすぐにでも術が飛んでくるだろう。
 訊ねたのがシアンだったため、シャールはあっさりと口を開く。
「ああ……あれは特殊な石だ。術力が込められているが、今はそれが暴走している状態にある。いくらかの意志を持つようになって勝手に動いては周囲にあるものをブッ壊し、邪魔な奴を片っ端から殺傷する……だが本来はそうじゃねぇ」
「術力の込められた石って、伝承にあるキーストーンに似てるね。なんだっけ、防衛軍か何かが作ったとか言う……あんまり私は知らないけど」
「ベルセルクの攻撃を防衛軍が防ぐ為に生み出したもの……だな。そうだな、限りなくそれに近い。石とは言え、とんでもねぇ力を有してる……それをある特殊な力を持った奴が利用して暴走させるとこの石みたいになる。もっとも今は……お前と俺の術力を察して下手に攻撃はしてこねぇがな。無闇に自分が破壊されるようなことはしねぇんだ、この石は」
「じゃあ、この石も特殊な力を持った人が意図的に暴走させてるってこと?」
 間近で自分を見上げながら質問してくるシアンに、シャールははっきりと頷き返した。その様子はとても穏やかで、とてもヴェイルたちに苛立っていたのと同一人物であるとは想えない。
 石の向こう側をシャールは睨み付けた。それに気付いてシアンもそちらに視線を向ける。
 暫く黙ってから、シアンが小声で呟いた。
「……人の気配……」
「居るんだろ? 出てこいよ」
 シャールが低い声で静かに、しかし空気を切り裂くように鋭く告げた。
 その場が静まり返る。
 間を置いて、石の向こう側の空間が歪んだ。
 ぐにゃりと歪んだその空間から突如ぼんやりと二人分の人影が現れる。ノイズの走ったその人影は、次第に現実世界に固着するようにはっきりと形成されてきた。空間の歪みは人影を排出して元に戻ってゆく。
 人影が全員の目に映し出される。ボサボサの赤い髪にかなり適当に着崩した服装をした男性と、金髪のセミロングヘアにカジュアルな服装の女性だった。二人とも20代前半くらいに見える、若い外見である。
 二人の姿を認めてシャールが挑発的に言い放つ。
「単純思考と奸知な女が二人して忠犬ゴッコか?」
「アンタいつ逢っても変わんないね。最近益々評判悪いよ、ただでさえ跳梁跋扈な奴なのに更に悪化したってね」
「テメェに言われたかねぇ。あの男に媚びて悪知恵働かせてるだけだろうが」
 反論するその女性に、シャールは更に言い返す。
 言葉の攻防戦に周囲の人間はただそれを見ているだけしかできなかった。しかし、シアンだけは平然とその雰囲気をうち破ってシャールに問いかける。
「知ってる人?」
「まぁ、そんなところだな」
 相変わらずシアンに向かって喋るときは少し口調が穏やかになる。それでもシャールの瞳は目の前にいる二人を睨み付けたままでいた。
 二人の男女はシアンたち全員を順番に観察するように見た。そして一通り見終わると、シアンに視線を集中させる。男が無気味な笑みを浮かべる。
「なるほどな……、お前がシャールのアリアンロッドってわけか……。しかしアレだな、ちょっと突き刺したら潰れちまいそうだ」
「アンタね、空き放題暴れるんじゃないよ? でもまぁ……邪魔な奴は排除していいって言われてるし、ちょっとくらいは赦されるだろうけど」
「わーってるよ。……けっ、つまんねぇな……」
 そう会話をかわすと、女性は手を伸ばして宙に浮いている石を引き寄せた。石はおとなしく引き寄せられて女性の手の平の上に停滞する。それと同時に精神集中を始めた。隣で男もゆっくりと精神を集中している。
 緑色の瞳を不敵に輝かせながら、女性が言う。
「冥土の土産に教えてあげる。私はシンシア……そして彼がイルブラッド。でもそれ以上のことは内緒……ううん、話したところであなたたちにわかりはしないだろうから、言うだけ無駄。どうせアンタたちはここで死ぬんだから」
「……どこかで聞いたような台詞だな……」
 シャールと初めて逢ったときのことを思い出してヴェイルが思わず苦笑する。
 しかしその苦笑もすぐに険しい表情へと変化した。シンシアとイルブラッドが同時にシアンたちに向かって手を翳した。
「祥雲来たりて黎元に裁きを与えん……!」
「地中より昇りしその魂よ集え……厄災を抱き禍根を残せ!」
 嵐のように巻き起こる風と地割れが一度に起こる。
 風はシアンたち全員を呑み込むのに十分なほどの大きさを持ち、地割れはシアンとシャールを狙って迫る。その威力は目でみてもはっきりとわかるほどに大きかった。
 シアンとシャールが同時に跳躍して地割れを躱す。そして空中で精神集中をすると同時に叫んだ。
「護法陣!」
 シアンの生み出した障壁はその場にいた全員を護るほどに大きなものだった。風は障壁に完全に弾かれる。
 自分を護るのに必要なだけの精神集中しかしていなかったシャールは、障壁を作りながらも更にアサルトのための精神集中を開始した。着地すると同時にシンシアとイルブラッドに向けてアサルトを放つ。
「制裁を我に仇成す総てに……!」
 レーザー状の黒い衝撃波が次々と周囲を破壊する。もはやフェンスはあちこちが朽ち果てていた。ただでさえ荒れかけていた地面は、先程の地割れとこの衝撃波で滅茶苦茶にえぐられている。
 立場から考えればハディスはこの状況に警告をしなければならないのだろう。しかしそんな悠長なことを言っている余裕などない。術を放つ人間たちは、どう考えても本気である。自分の身を守ることを真剣に考えていなければ間違いなく巻き込まれて命を落としてしまう。
 シャールの攻撃をシンシアとイルブラッドは護法陣で防ぎきる。強靭な精神力のぶつかり合いで地面が揺れる。この尋常ではない状態にユーフォリアは目を見開いた。
(なんだよ……術の衝突でこんな状態になるのかよ……! こんなのうちの研究所の鍛錬でも見たことねぇぞ……うちの研究所にいる奴は凄い精神力の持ち主だってのに、こんな地響き知らねぇよ……冗談だろ……? こいつら、一体……)
 シャールの術が発動している間にシアンは着地して障壁を解き、精神を集中させていた。それに気付いたシャールが叫ぶ。
「アリアンロッド、俺に付随して狙え!」
 そう言うとまだどこにも命中せずに宙を彷徨っていたレーザーをコントロールして、ある一点を狙う。それはシンシアとイルブラッドの発動した護法陣による障壁の一部だった。
 迷い無くシアンはその部分に向けて術を発動する。
「片鱗数多集いてその陰の力を放て 飛翔せし刃の昏迷を!」
 漆黒の衝撃波が一直線に飛翔する。それは障壁と衝突して攻防を繰り広げた後、その障壁をうち破って中にいる人間を吹き飛ばした。障壁を破壊するのに随分と威力を消費してしまったため、相手に命中した衝撃波にはそれほどの力は無い。それでもシンシアとイルブラッドは悲鳴とともに後方に大きく飛ばされている。
 反射的にシンシアは手の平の上に停滞していた石を前方へと差し出した。
 ゆっくりと浮遊した石は追い打ちをかけようとするシャールの前に立ち塞がり、その術力を放出する。
シャールは仕方なく攻撃を諦めて石の放出した術力による衝撃波を身軽に躱した。
 その間にシンシアとイルブラッドは重々しく立ち上がった。シンシアがシアンとシャールを睨み付ける。
「……なかなかやるじゃないの。でも小さなオッドアイのあなた……術を使えるのはその指輪や腕輪のお陰なのかしらね? 術を使うときに指輪や腕輪の何らかの作用を感じるわ。でもまぁ……それくらいハンデがなきゃ面白くないわね」
 シンシアの言葉にシアンは黙ったまま自分の左手を見た。相変わらずリングだらけの左手である。総ての指にはめられた大小の、しかも指によっては複数個はめられているシルバーの指輪が陽の光を反射している。上着の裾からは細い銀の腕輪が何本も絡み合ってのぞいていた。
 少し離れた場所から、アルスとハディス、それにユーフォリアはシアンのリングに視線を向けていた。
 あのアクセサリが術に作用しているなど三人とも考えていなかった。否、術に作用するアクセサリがあるなど今まで聞いたことはない。フォリオ学院の研究所を知っているユーフォリアですら聞いたことがないのだから、シンシアの言葉を容易に信じることはできなかった。
 ヴェイルがただひとり、心配そうな眼差しでリングではなくシアンの背中を見つめていた。
 イルブラッドが苛立ちながら大声で言う。
「おいシンシア、さっさと邪魔な奴らブッ殺しちまおうぜ」
「そうね。こんな辺鄙なところに長居は無用……。キーストーン、我が意に従いなさい」
 そうシンシアが呟くと、キーストーンと呼ばれた石は再び衝撃波を放ち始めた。それは今度はシアンやシャールではなく、その後ろにいるヴェイルやアルスに狙いを定めている。
「我が前に連なり盾と成れ 護法陣!」
 ヴェイルとアルスが声を揃えてレジストを発動する。障壁が生み出され、石の放つ衝撃波を迎え撃つ。二人分の術力をもってしても、それを簡単に防ぎきることはできなかった。
 衝撃波に押されながら、ヴェイルは足に力を入れて決して弾き飛ばされないように障壁を保つ。
 アルスも苦し気な声を漏らした。
「……くっ、威力が半端じゃない……」
「アルス、まだいけそう……?」
「耐えられるだけ耐えてみる、お前こそ無理だと想ったらすぐに引け……!」
 その二人を助けようとシアンは振り返った。シャールも助ける気はなさそうだがシアンにつられるように一緒に振り返る。しかしそこにシンシアが立ち塞がった。
「駄目よ、あなたとシャールは私の相手をしてくれないと」
「フン、二対一で勝ち目あると想ってんのか?」
「……そう、まともにやれば勝ち目はないかもしれないね、でも……愚かな外野がいること忘れてない?」
「外野なんざ関係ねぇ。莫迦な奴はくたばっちまえばいい。俺の知ったことか」
「アンタはそうだろうね。……けど、そこの慈悲深いあなたはどう?」
 シンシアの顔に自信に満ちた笑みが浮かぶ。そのまま視線をイルブラッドの方に移した。シアンもちらりとそちらを見る。
 視線の先ではイルブラッドがハディスと肉弾戦で攻防を繰り広げていた。ハディスは見た目の体格の良さからは想像できない軽い身のこなしをみせているが、イルブラッドはまだまだ本気を出していないように見える。
 そしてそこに横からユーフォリアの声がした。
「この地に眠る灼熱の息吹よ我が前に 眼前の総てを焼き尽くせッ!」
 ユーフォリアの周囲から炎が巻き起こってイルブラッドを真っ直ぐに狙う。
 それをあらかじめ察していたかのようにイルブラッドはさっと身を躱す。対象を失った炎は前進し続け、それはイルブラッドの近くにいたハディスを巻き込もうとする。
 慌ててハディスは走って逃げるようにそれを躱した。
「こらガキ! 俺様を殺す気か!」
 大声で危うく炎に焦されそうになったハディスが叫ぶ。
 そのハディスが文句を言おうとした相手であるユーフォリアに向けて、空中でイルブラッドは精神集中を完了していた。まだ術を最後まで放ち終われていないため身動きが取れないユーフォリアをイルブラッドは嘲笑しながら狙う。
「凍てつく惨禍を我が前に喚べ 彼の者に昏睡を!」
 イルブラッドの目の前に氷が形成され、すぐにそれは幾つもに分裂すると各々が刃と化して勢いよく飛翔する。
 動きがとれないユーフォリアはどうしようもなくはっとしてただ目を見開く。
 その状況を察知するが早いか、シアンの身体はもう動き出していた。
「危ない!」
 地面を強く蹴る。
 そのまま手を伸ばしてユーフォリアの身体を抱きしめるように正面から覆い被さる。
 そしてそれに一瞬遅れて目を見開いたままのユーフォリアの目の前でシアンの顔が苦痛に歪む。
「……くッ……!」
「シアン!!」
 ヴェイルが声が掠れるほどの大声で叫んだ。
 シンシアとイルブラッド以外の全員が息を呑む。
 氷の刃によってシアンの左腕と背中と左足の一部、そして左肩が裂け、紅いものが吹き出している。
 シアンのその様子を見た反動で精神集中が一時的に異常なほどに高まり、石の衝撃波をヴェイルの生み出した障壁が打ち破った。
 氷の刃が溶けるように消えてゆく。
 どさりとシアンはユーフォリアごと地面に倒れ込む。
 しかしそれでもシアンは左肩の傷口を右手で抑えながらゆっくりと身体を起こしかけた。
「……怪我、無い……?」
「な……何言ってんだよ、お前……、自分が…………」
 顔を歪めながら言うシアンに、ユーフォリアが声を震わせる。
 更に何か言葉を繋げようとしたシアンの額に汗が浮かんだ。赤く染まった右手で胸を押さえる。瞳がぎゅっと閉じられ、大きく咳き込むと同時に口からも紅い血が溢れ出た。
 口の中に鉄錆の味が広がる。
 とても大変なことをしてしまったと、ユーフォリアはただ怯えるような目をしていた。
 ヴェイルとアルス、そしてハディスがシアンに駆け寄ろうとする。しかしそれよりも先にシンシアがシアンの背後に迫っていた。
 攻撃力は誰にも劣らないほどに強いが、シアンは体力や耐久力に自信がない。切り裂かれた傷の痛みが身体全身に駆け巡るその間に、シンシアに強引に身体を起こされていた。
 シアンを人質にとられるような形になって、ヴェイルたちは足を止めた。
 なんとかシンシアに抵抗しようとするシアンの口元に、突如として布が押し付けられる。それが何らかの薬を染み込ませたものであることにシアンがはっとしたときには、もう既に遅かった。
 意識が遠のいてゆく。
 シアンの身体から一切の力が抜けた。重力に従って地面に突っ伏す。
 ヴェイルがまた大声でその名を呼ぶ。しかしシアンにその声は届いていなかった。
「ほらね。慈悲深い子にとって愚かな外野は命取りになる。ほんとに想った通りになって可笑しいくらいだけど……ああ、殺しちゃいないよ。でも殺してないってことは人質扱いってこと。そんなわけで、下手に動かないことね」
 青ざめたヴェイルの表情を見ながら、シンシアがそう告げる。そしてシアンの指輪と腕輪を総て外し、地面に放り投げた。
 誰もが動けない。
 その中、イルブラッドだけが堂々と足を進め、シアンの元までやって来る。そして地面に倒れたままのその華奢な身体を軽々と担ぎ上げた。
 怒りのこもった声でシャールが言う。
「テメェら、俺のアリアンロッドをどうするつもりだ……!」
「アンタには関係のないことよ。フフ……じゃあね、愚かな外野さんたち」
 シンシアがそう言うと、シンシアとイルブラッドの周囲の空間が歪む。そして二人は現れたときと同じようにシルエットとなって歪んだ空間の向こうに消えていった。しかし出現したときと同じではない。今は、イルブラッドが担ぎ上げているシアンも一緒に消えてしまったのである。
 空間が元に戻る。その場が静まり返った。
 がくりとヴェイルが膝をつく。瞳の輝きが失せている。
「……護るって……僕が護るって言ったのに……」
 震えた声は弱々しい。
 浮遊していた石が力を失って地面に落ちる。それはもう何の力も有していなかった。
 すっかり荒れ果てた地面と、ぐちゃぐちゃに壊されたフェンスに照りつける太陽光が空しさを誘う。
 誰もが動けない。これが夢ならと願うように、空っぽのまま焦点を結ばない瞳で周囲の風景をとらえていた。
 重々しくアルスが口を開く。
「シャール。お前は今の二人のことを知っていると言っていたな。行き先に心当たりはないのか?」
「そんなことを聞いてどうする? だいたいテメェなんざに俺が簡単に教えると想ってんのか?」
「決まっているだろう、シアンを助けに行く。お前が大事なアリアンロッドを見殺しにするわけないだろう。お前はどの道シアンを助けに行くはずだ。俺のことはその際の手駒とでも想ってくれればいい。いくらお前が強くとも、相手の攻撃対象が複数いた方が有利なんじゃないのか?」
「一時停戦で手を組もうってことか」
 シャールがゆっくりと腕を組む。アルスは迷いない蒼い瞳でそんなシャールを見つめていた。
 まだ魂が抜けたようにヴェイルは膝をつき、ユーフォリアは呆然と宙を見ている。何が起こったのか自分の中で処理できていないのかもしれなかった。
 ハディスが小声でアルスに「手駒って……そんなんでいいのかよ?」と囁くが、アルスはかぶりを振った。「シアンを助けるのに手段など選んでいられるか」と即答する。それがもっともだと想ったのか、ハディスはそれ以上何も言わなかった。
 暫く考えてから、シャールはゆっくりと頷いた。
「いいだろう。ただしくれぐれも俺の邪魔をするんじゃない。邪魔だと判断した時点で捨てるなり潰すなりさせて貰う」
「ああ、それで構わない」
 そう言うとアルスは今度はヴェイルに歩み寄る。
 動きそうも無いその身体を、肩に手を置いてアルスは軽く揺すった。
「ヴェイル、しっかりしろ、お前がそんなことでどうする?」
「いつも……いつも傷付くのは彼女なんだ……」
 うわ言のようにヴェイルはそう呟く。アルスの声など届いていないようだった。
 身体を揺すれども何の反応もない。そんなヴェイルに嫌気がさしたのか、シャールはアルスを無理矢理ヴェイルから引き離した。そして思いきりヴェイルの右頬を殴りつけた。
 突然のその行動に驚いてアルスとハディスの動きが硬直する。
 想いもよらない痛みを受けたヴェイルの瞳が、やっとゆるやかに焦点を結び始めた。
「いつまでもウジウジしてんじゃねぇ出来損ないが!」
「……シャール……」
「テメェがそんなことだから護りきれなかったんだろうが!本当に後悔してんなら傷付いたアリアンロッド助けに行って土下座して謝りやがれ!」
 それだけ言ってしまうとシャールはくるりと背を向けた。そしてシアンの指輪と腕輪を拾うと空き地の入り口へ向けて歩きだす。言うだけ言ってしまって、あとはアルスたちが動き出せるのを待つつもりだった。
 そこに背後からヴェイルの声がする。
「……シャール」
「…………なんだ、文句でもあるのか」
「いや……ありがとう」
 ゆっくりとヴェイルは立ち上がる。殴られた頬が痛いが、目が覚めてすっきりした、晴れ晴れとした痛みだった。
 シャールの言葉は厳しいことこの上ない。しかし、アルスもハディスも今それを責める気にはならなかった。余計なことに費やしている時間はない。
 まだ一人、その場から動けずにいるユーフォリアに、ハディスは声をかける。
「おいガキ、助けてもらった命大事にしてさっさと家に帰んな。……おい、聞いてんのか?」
 怒鳴りつけるようにハディスにそう言われてユーフォリアはハディスの方をゆっくりと振り返った。
 ユーフォリアの頭の中は整理されないままだった。
 苦痛に歪んだシアンの表情が目の前に蘇る。化け物だと、だから滅してやろうと想っていたその存在が、自分の盾となって倒れ込んだあの瞬間が。
 化け物だと想っていた彼女が攫われたのが自分の所為だということはよくわかっている。けれど彼女が禁忌使いであるということが頭の中から消えない。
「帰れる……わけねぇだろ」
「何ぼやいてやがんだ。シアンが攫われたのが自分の所為だって責任感じてんのか? でもな、お前まだあのお嬢ちゃんのこと化け物だとか何だとか想ってやがんだろ。そんな奴に助けに来てもらってお嬢ちゃんが喜ぶとでも想ってんのか?」
「だけどな、今のはオレが……!」
「……本当に悪いと想ってんなら、本当に助けたいと心から想ってんなら、化け物だなんて考えは今すぐ捨てろ。それができねぇんなら黙って帰れ。いくらガキでもこれぐらい理解できるだろ?」
 それだけ言うとハディスはユーフォリアから遠ざかって行った。
 アルスとシャールの二人に合流すると、これからの動き方について話し合いを始める。
 半分上の空でその会話を聞きながらユーフォリアは足元を見つめた。シアンの表情とハディスの声が頭の中でリフレインする。
 空しく照りつける光の中、奥歯を噛み締めて拳をぎゅっと握りしめた。