絡まりゆく死線




「嗚呼ー、波打つ際の砂子に酔いしー、抜けん空はくれふたがりし我が心を………、っと」
 陽気な男の歌声が空に響く。
 その隣で数人の男が笑い声をあげた。
「ハディさん、また東音<あづまおと>ですか? 好きっすねぇ」
「ほんとほんと、今スフレでそんなの歌ってる人いないっすよ。演歌みたいだし。やっぱ16ビートでないと」
 それに対して歌を歌っていた男が反論する。
「莫っ迦、東音は伝統、んでもって芸術だ。お前らこれが理解できんとはなぁ、イーゼルに古きより伝わるこの芸術が…………って続き忘れちまったじゃねぇか……なんだっけな、どこまで歌った、俺?」
「くれふたがりし我が心を、まで歌ってましたよ。続きは、鐘楼の滝のごとくに薫り讃えて、でしょう」
「おお、お前よく覚えてんな。そうだそうだ。そんだけ覚えてるってことはお前も好きなんじゃねぇか」
「……毎日ハディさんの聞いてたら嫌でも覚えますよ……」
 呑気な男の笑い声と、数人の男のため息がスフレ地方の中心を流れていった。










 陽は高々と昇り、コンクリートを溶かすように照らす。
 区画整備され、鋪装された道路が続く。市内にはホテルがあちこちに建ち並び、そのホテルから薄着で飛び出して海岸へと走ってゆく観光客の姿が多く見られる。
 セントリストから南に位置するスフレ地方はヴォイエント中で有名なリゾート地、常夏の楽園である。
「建物の中は涼しいね」
「そうだね……。アルスも大変だよね、こんな暑いところに泊まりで出張だなんて」
「シップに乗ればすぐ着くからあまり遠出してるって感じはしないけど、身体にはこたえるかも」
 ぼんやりとしたシアンとヴェイルの声がスフレ中央庁舎のロビーで響いた。
 日陰に立っていても汗をかきそうな外気温とは反対に、建物の中はどこも涼しく空調が設定されていて過ごしやすい。
 昼間の庁舎のロビーには殆ど誰もいない。せいぜい出入りする人間がちらほら見受けられるくらいだった。大理石のタイル床や柱が涼し気な雰囲気を演出している。壁際に置かれたグレイのソファに二人は並んで腰かけていた。
 仕事で出張になったアルスについて二人はスフレまでやってきていたのだった。暑い中でも、二人とも普段通りの長ズボンである。いつもは長袖を好むヴェイルも流石に半袖を着ていたが、シアンは相変わらずいつもの格好のままである。屋外では上着こそ羽織っていないものの、腕には無造作に包帯が巻かれたままでアクセサリも外していない。ロビーにいる間はいつものように長袖の上着を着用していた。
 窓ガラスが多くはめ込まれており、外の明るさが充分に建物の中に入ってきている。
 ロビーからまっすぐ続く廊下を奥に行けば庁舎の受付があるのだが、二人が座っている場所からは見えない。
 ソファに座ると床に届かない足を揺らしながら、シアンが呟く。
「庁舎に仕事って何なんだろうね?」
「セントリストでの不死者対策の現状と今後の対策とかを伝えて、スフレの警察との提携をはかるため、とか言ってたよ」
「そうか、アルスって警察だったね。忘れてた」
「…………」
 ヴェイルが思わず言葉を失うと同時に、足音がロビーに響いた。
 そちらを二人が見ると、アルスがゆっくりとこちらに歩いてくるのが見える。仕事で来ているため出社時と同じくネクタイをしめ、スーツに身を包んでいる。
 笑顔でヴェイルが「お疲れさま」と微笑む。アルスは軽く頷いた。
「もう少し難航するかと想っていたが、話がすぐに通った。これでは日程が余るかもしれないな」
「そうなんだ? でも難航するよりは良いよね」
「まぁそうだな。今後の話し合いの進み具合にもよるが取り敢えず今日のことを本署に報告し……」
 突然アルスは言葉を止めた。その原因にシアンとヴェイルも瞬時に気付く。
 見たこともない大男が現れたかと想うと、その拳がアルスめがけて勢い良く迫りくる。
 それを反射的にアルスが躱すと、更に男はもう片方の拳でアルスを狙う。
 一瞬何が何だかわからなかったが、二発目の攻撃を避けた頃からアルスの意識はこの男の動きを止めることに集中した。
 男の行動に驚いて思わずソファからヴェイルが立ち上がったが、ヴェイルが成すべきことは何もなかった。
 完全に男の動きを見切ったアルスは三発目の攻撃を躱しきると流れるような動きで男の背後をとる。そして拳を空振り回した勢いで体勢を崩した男の後頭部にスーツの内ポケットから取り出した麻酔銃を押し当てた。
「……動くな」
 冷たくアルスが警告する。勿論、発砲する気などさらさら無い。
 緊張した空気が一瞬流れた。
 しかし、その空気も男のひとことによってすぐに明るいものへと転換した。
「あー……へいへい、参りました、参りましたよ」
 立て膝をついたまま男は両手を挙げた。アルスを襲ったときとは別人のように陽気な雰囲気がにじみ出ている。
 ヴェイルは呆気にとられていたが、シアンはずっとソファに座ったまま事の成りゆきを見守っていた。
「なぁ兄ちゃん、降参って言ってんだからその物騒なもん仕舞ってくんねぇかなぁ?」
「……変な真似するなよ」
「わかってるっつーの」
 ゆっくりとアルスは銃を引いた。
 男がゆっくりと立ち上がる。黒い髪に茶色い瞳、そして何よりもその体格の良さが目を引く。スーツ姿ではあるが、いかにも窮屈そうに見える。年齢は30歳くらいだろうか。
 立ち上がってシアンとヴェイル、そしてアルスを順番に見ながら男は明るい声で言った。
「悪かったな。セントリストの警視正様がいらっしゃるってんで、どんな素晴らしい方なのかと想って気になってたんだよな」
「……心にもないような言葉を並べるな。べつにお前の動機なんてどうでもいい。こんなことをいちいち通報するのは時間の無駄だからな……今回の件は伏せておくが、あんな莫迦げたことは今後しないでもらいたい」
「お、おいちょっと待てって、俺様の動機は完全スルーかよ!?」
「どうでもいいと言ったはずだが」
「……若ぇのに可愛くねぇなぁ……。まぁ、あれだ、とりあえず聞けって! 俺様はなぁ、」
 ひらひらと右手を動かして、無理矢理に男はアルスを引き留めようとする。鬱陶しそうな表情を浮かべながら、アルスは男を見ていた。男は突然にアルスに殴り掛かってきた不審な人物に他ならない、アルスがそんな態度をとるのも当然だった。
 そんな中、シアンがぽつりと呟く。
「議員証……」
 その一言に三人の視線がシアンに集中した。
 ゆっくりとソファから立ち上がるとシアンは男の足元まで歩み寄って、そこに落ちていた小さなボタンのようなものを拾い上げた。シアンの手の中に拾い上げられたそれにはロゴと"Souffle representative"という文字、つまりはスフレの議員であると記されている。表面は硝子でコーティングされており裏にはピンがついていることを考えると、バッジとして用いられているものなのだろう。現に、庁舎に出入りする人間をぼうっと見ていたシアンには、そのバッジを胸元につけている人間を何人か目にした記憶があった。
 手にしたバッジをシアンは警戒も何もせず男に手渡した。男が人なつっこい笑顔を浮かべる。
「お嬢ちゃん、サンキュな。いやほんと助かった、議員証失くしたら怒られちまうしな。失くすなって言うんならもうちっとデカいもんにしてくれりゃいいのによ……ってそんなこと愚痴ってもしゃぁねぇか。ほんとありがとな」
「……ちょっと待って、議員証ってことは……スフレの議員さんなんですか?」
 表情ひとつ変えないシアンのかわりに、驚いてヴェイルが口を挟む。
 突然殴り掛かってきたかと想えば議員証を所持している、その状況にアルスは半ば呆れていた。
 各々の表情を眺めながら、男は議員証をポケットに仕舞い込むと満足そうに腕組みをしながら微笑んだ。
「おぉ、まぁそういう職業で食ってる。……俺様はハディス・オールコット。スフレの中央議会議員だ」
「成る程。だからセントリストから警察の人間が来るということも知っていたわけか」
「そういうこった。いや、上の奴が警視正様が来るなんて言うから本当はもっと老けたオッサンでも来んのかと予想してたんだが……こんな若ぇ兄ちゃんだったとはなぁ。腕章見てビビッたぜ」
 ハディスと名乗る男とアルスの会話を聞きながら、シアンはゆっくりと窓の方へ歩きだした。外は陽の光の所為で目がちかちかするほどに眩しい。スフレに住んでいたならば、頻繁に目眩を起こしていそうだとぼんやりと想った。
「……で? どうして初対面の中央議会議員が俺に殴り掛かる必要がある?」
 アルスがそう訊ねたのを聞いて、シアンは二人の方を振り返った。ハディスはもうすっかり陽気な態度で笑みを浮かべている。そしてそのハディスと対峙するアルスを、ヴェイルは立ち上がったままはらはらと見つめていた。
 幸い、というべきなのか、ロビーには誰もいない。出入りする人間がまだ見られるものの、ハディスがアルスを襲った瞬間が目撃されていない限り、この光景はただの話し合いの場のようにしか見えない。おそらく話の内容もそう聞こえないだろう。それがわかっているからなのか、躊躇いなくハディスは口を開いた。
「まずは謝っておく、悪かったな。……ま、俺様は意味も無く人殴るような人間じゃねぇんだがな。ちとセントリストの警察ってやつを試してやろうと想ったんだよ」
「……試すだと?」
「そ。スフレの警察なんて何の役にも立っちゃいねぇからな。不死者にあんなもんで対抗できるわけがねぇ。で、その役立たず警察どもに連携を図ってきたセントリストの警察様ってのは役に立つのかと想ってな。……ま、結果的に返り討ちだったけどな。でもよ、警察なんて役立たずばっかりだと想ってたから兄ちゃんが割と強そうなんで喜んでるんだぜ、俺様」
「一方的な理由だな。第一俺が役に立つかどうかなど、お前には直接的に関係はないはずだ」
「あー……冷てぇなぁ、俺様切なくなってきたぜ」
 大袈裟なリアクションでハディスはがっくりと肩をおとしてみせた。アルスの態度は一切変わらない。
 しかしアルスもこれ以上どうこう言う気はない。ハディスの行動を訴えたりするつもりもまったく持っていなかった。適当に話を流せばそれでいい、そう想っている。
 アルスのそんな考え方がなんとなくわかって、シアンは再び窓の外を向いた。
 眩しい光景を見て、頭がぼうっとする。背後で三人がどんな会話をしているかもろくに聞いていなかった。ハディスという男も物わかりは良さそうだから、そのうち解決するだろう。窓の外を眺めることに気を取られていると、隣で入り口の自動ドアが開閉する音も曖昧にしか聞こえなくなる。人の出入りしている気配はあるが自分に関係のある人物であるはずがない。
 そう想っていると、突然人の気配が濃くなったとともに、シアンの身体は後ろに力任せに引き寄せられた。
 何が起こったのかわからないままシアンが目を丸くしていると、身体に鈍い痛みが走った。それと同時に耳元でしゃがれた男の声がする。
「警察の責任者を呼べ!」
 その声にヴェイルとアルス、そしてハディスの視線がシアンの方に集中した。
 段々とシアンは自分のおかれた状況を把握する。
 見知らぬ男がシアンを羽交い締めにしていた。その手にはナイフが握られ、ナイフの先端はシアンの首筋に向けられている。
「シアン!」
 反射的にヴェイルが叫んだ。
 それに触発されるように男は声を荒げる。
「警察の責任者呼べっつってんだ!早くしねぇとこの娘の命はねぇぞ!」
 声を荒げた勢いで男の腕に力が入る。締め付けられて僅かにシアンの表情が歪む。それでもシアンは悲鳴もあげなければ、あからさまに苦しみもしない。
 しかしそれが脅えて動きがとれないでいるように見えたのか、ハディスの顔に怒りが浮かんだ。
「何だテメェ、ふざけんじゃねぇ!その子解放しやがれ!」
「要求を呑めばすぐにでも解放してやる……さっさと責任者呼んでこい!」
 興奮してきたのか、男はナイフを振り回した。
 下手に動けないまま三人は男と対峙している。ハディスは今にも男に殴り掛かろうとする衝動を抑えながら、まずは警察と連絡をとるのが先だろうかと思案した。
 そうしながらアルスに小声で「こういう場合どうすりゃいいんだよ、警視正様」と乱暴に言い放つ。
 ハディスがその言葉を言い終えるのとほぼ同時に、シアンは淡々と男に言い放った。
「解放した方がいいと想いますけど。私、あまり力加減できないですし」
 その声に各々が違った反応を示す。ヴェイルは相変わらず焦っているように見えるが、アルスは言葉の意味を理解してすっかり落ち着いていた。人質にとられているのは確かだが、男は片手にナイフを持って余った手でシアンを拘束しているだけである。シアンの両手はほぼ自由に動く。
 予想もしなかった言葉に目を丸くしたのはハディスとシアンの背後にいる男だった。
 シアンの神経を逆撫でするような発言に、男は声を震わせた。
「小娘、自分の立場わかってんのか? 命が惜しいなら大人しく……」
「警告はしましたよ。怪我しても知りませんから」
 男の言葉を遮ってシアンは冷たく呟いた。
 その台詞に周囲が反応するより先に、両手を上着の中にやると、そこから二本の短刀を取り出す。そして鞘に収めたままの短刀で勢い良く男を突いた。
 突然の痛みに男の腕の力が一瞬緩む。その瞬間にシアンはするりと腕をすり抜けた。
 身体が自由になったと同時に床を蹴る。身軽に跳びあがると、まだ事態を把握できていないままの男のナイフを持つ手を身体を捻って蹴りつけた。跳躍と身体が旋回する勢いとで蹴りには威力がついていた。華奢な女の子に普通に蹴られたのとはまったく異なる強い痛みに、男の手からナイフが滑り落ちる。
 それを片方の短刀で弾き飛ばす。そして着地した瞬間に男の背後に回り込むと、瞬時にできるだけ最小限に精神集中をした。
「……破戒葛籠」
 シアンの唇から言葉が零れる。
 突如、男の周囲の空間が歪む。身体は宙に浮き、周囲に空気以外何もない状態であるのに全身が締め付けられる。
 そして緊張の糸がぷつりと切れるように、男の身体は勢いよく柱に叩きつけられた。
 短い悲鳴をあげながら、男はどさりと床に突っ伏す。
 すべての一連の流れはほんの一瞬の出来事だった。
 その場にいた全員が息を呑む。
 ただシアンだけが何事もなかったかのように短刀を上着に仕舞い込んでいた。
 大きく息を吐き出しながら、アルスがゆっくりと動き出す。
「……ハディス。セントリストの法律では今のこの男の行動は犯罪で、シアンの……この子の行動は一応の正当防衛ということになるが。スフレではどうなっている?」
 アルスに声をかけられてハディスの頭は思い出したように思考を再開した。そしてまだはっきりとまとまらない頭で、出てきた言葉を並べる。
「あ、あぁ、そりゃあスフレでも同じだぜ、」
「ならば俺の権限で逮捕しても構わないな? 同じ法律が適用される場合、警察の権限は通用するはずだ」
「そうだな……頼むわ、警視正様」
 警視正様、という響きに若干の嫌悪感を示しながら、アルスは男に近寄った。意識はあるが朦朧としているらしい。あれだけ強く身体をぶつけたのだから無理もない。力ない男にI.R.O.と記されている手錠をかけた。
 ハディスはアルスがそうしている間に、携帯電話をスーツの胸ポケットから取り出して電話をかける。電話の向こうの相手と短く会話をかわしただけで、すぐに通話を終了した。
「今うちの警察に連絡した。庁舎内に署があるからすぐに来ると想うぜ」
 そうハディスが言うのを聞きながらヴェイルはやっと動きだした。シアンのもとへ歩み寄ると、シアンの華奢な両肩に手をかけてがくりと脱力する。
「はぁ……よかった、怪我がなくて……」
「手加減したから。それに今の、アサルトじゃないし」
「そうじゃなくて……あの男がじゃなくて、君がだよ。君が怪我しなくてよかったって」
「怪我するわけないよ。何の強さも感じなかったから、あの人」
「いや……まぁ、そうなんだけどさ…………」
 苦笑しながらヴェイルは肩を落とした。
 ヴェイルの言いたいことが掴めずにシアンは首を傾げる。そうしているとヴェイルは気を取り直してゆっくりと顔をあげた。そして肩から手をおろしてシアンの覇気のないオッドアイを見つめながら、落ち着いた声で告げる。
「ごめんね、怖い想いさせて。もうこんなことないように、僕が護るから」
 真剣に見つめられて、シアンは怖い想い、という言葉を否定するのをやめた。怖い想いなどひとつもしなかったが、ヴェイルの言葉はあたたかい。
 ただシアンは何も言わず曖昧に頷いた。
 そこにハディスの声がする。
「なぁ、お嬢ちゃん。……さっき何やったんだ? 術は俺様そんなに得意じゃねぇからわからねぇけど、さっきのは術か?」
「……そうですよ。今のはアシストだからあまり一般的な術ではないですけど」
 ハディスの方を振り返ってシアンはさらりと言ってのけた。随分と身長が違うため、ハディスを見るのにシアンは随分と顔をあげなければならない。
 思わずハディスの声が裏返った。
「ア……アシスト!? お嬢ちゃん、莫迦言っちゃいけねぇや。アシスト……つったら補助術だろ? 相手に攻撃すんのはアサルトじゃねぇのか?」
「対象者の周囲の重力をコントロールして通常よりも自在に跳躍できるようにするアシストです。でも私、力加減が巧くできないからアサルトの代わりに」
「代わりに、って……」
 ハディスが顔を歪める。
 丁度そこに、奥の方からバタバタと足音がした。数人の男女が四人のいるところへ駆けてくる。男女は全員同じ紺色の制服を身にまとい、その胸にはスフレ中央警察のロゴが入っていた。セントリストでは警察はスーツ姿だが、スフレではちゃんとした制服があるらしい。
 警察の中で一番年上そうな40代くらいの男性がアルスの姿を見るや否や、驚きの表情を浮かべた。
「あ、あなたは先程の会議にいらっしゃった……セントリストの……」
「その件は前向きに検討して下さって感謝しています。……ハディス・オールコット議員からお聞き及びかもしれませんが、この男の恐喝行為がセントリスト、スフレ共に犯罪行為と判断されたため、現行犯逮捕させていただきました。この恐喝行為による人的、物的被害はありません。あとはそちらの警察に委任したく存じます」
「了解いたしました。あとはこちらで対処いたします。お手を煩わせてしまって申し訳ございません」
 深々とその警察は淡々と仕事用の口調で話すアルスに向かって頭を下げた。他の警察が手錠をはめられた男を立たせて、庁舎奥へと連れてゆく。男はまだ頭がぼんやりとしているのか、ふらふらとした足取りだった。
 目の前にいる警察に「今回の件で何か問題がありましたらいつでもご連絡下さい」とアルスは凛々しく告げる。それに対して丁寧に了承を示して、警察はその場を後にした。
 その一連のやりとりを見終えてから、ヴェイルはアルスを見上げた。
「……セントリストの警視正って、もしかしなくてもかなり地位が高かったりする?」
 初対面の相手に敬語を使うのは当然だが、今アルスと話した警察は、明らかに自分よりはるかに若いアルスに対して尊敬の意を示していた。寧ろ、畏怖の念さえ伺える。
 セントリストの中で地位が高いのはわかるが、それがスフレにも通用するというのはヴェイルにとっては驚きだった。
 アルスが返事をする前に、ハディスが口を開く。
「高いもなにも、この兄ちゃんがセントリストの警視正様だ、なんて言ったらみんなひれ伏すぞ?
 ヴォイエントには5つの地方があるのは知ってるだろ? セントリストとスフレ、あとノルンとウェスレー、それにイーゼルだな。この中で一番政治的地位が高いのは間違いなくセントリストだ。で、セントリストの中じゃ、警察の権限は滅茶苦茶に強くて議会なんかも逆らえねぇんだろ? だったら、その権限を持つ警察の中の警視正様っつーことになりゃ、ヴォイエント中のどこ行っても"偉い人"っつーことになる。
 スフレの中じゃ、最近の"偉い人"っつーのは肩書きだけで何もできねぇような奴ばっかりだが、この警視正様は実力もあるからな……放っといてもいろんな人間がついてくるんじゃねぇの?」
「……さあな。俺は自分の仕事をするだけだ。地位などそれに付随してくるものに過ぎない」
「かーっ、格好良いこと言ってくれるねぇ」
 大袈裟にリアクションをとりながら、ハディスは大きく息を漏らした。
 その態度にアルスが何か言い返そうとしたその時、全員に戦慄が走った。強烈な圧迫感を覚える。
 ハディスが舌打ちしながら苦笑いを浮かべた。
「ちっ、また不死者か……最近多いんだよなぁ……しかしこの感覚、いつも想うが健康に悪そうなことこの上ねぇな……」
「……アストラル」
 シアンが冷静に呟く。
 肌を刺すような感覚はアストラルのものに違いない。しかもありありとそれが感じられることからすると、出現場所はここから近そうである。もし本当にそうであれば、周囲のリゾート地で混乱が起こることは必至だった。スフレの警察も動いてくるだろうが、なるべく早く被害が最小限で済むように行動した方がいい。
 精神集中をしなくとも、これだけ感覚にリアリティがあれば不死者の出現した方角はわかる。
 羽織っていた上着を脱いで腰に巻き付けると、シアンは出口に向けて駆けだした。それを見てヴェイルとアルスも頷き合ってその後を追う。
 それを見てハディスは慌てた。ヴェイルに向かって勢いよく言う。
「ちょっと、お前ら待てって! 俺様を置いてどこ行くんだ?」
「いや、あの……不死者による被害が出ないうちに僕らでできることはやっておこうと……」
「警視正様が行こうとしてんだから、それくらいわかるっての! けどな、子どもが野次馬で見に行くもんじゃねぇんだ、不死者ってのは」
「それくらいはわかってるつもりですけど……えぇと、僕たち、ある程度は術が使えるんですよ、それで……」
 勢いに押されながらヴェイルが説明するが、ハディスには巧く伝わっていないように見える。それにやきもきしながらちらりとハディスがシアンの方を見遣ると、シアンはもう躊躇いなくアストラルの方に向かって足を進めていた。
 もう止められそうにないと判断したハディスは頭を掻いた。
「あーもう、しょうがねぇ、俺様も行ってやる! 子どもに怪我させるわけにはいかねぇ」
「いいんですか? アストラルもいそうですし……危険ですよ?」
「子どもに心配されるほど俺様弱いわけじゃねぇっての。俺様を甘く見ちゃいけねぇぜ。……というわけで、ほら、突っ立ってねぇであのお嬢ちゃん追いかけねぇと見失っちまうだろうが!」
 そう言い終わらないうちに、ハディスは庁舎の外へ向かって走り始めていた。
 ハディスの勢いに巻き込まれたかと想えば、気が付けばヴェイルは庁舎にぽつんと取り残されている。不死者のいる場所の見当がつく以上、シアンを見失ってもさほど問題はないが、何か妙な疲労感がヴェイルには残っていた。
「……なんか……嵐みたいな人だな……」
 思わずそう呟く。
 ヴェイルは一度庁舎の奥を見つめた。まだ警察が出てきそうな気配はない。警察も事態を把握しているのだろうが、組織が動くには個人が動くよりも時間がかかる。もしかしたら外回りをしていた警察は現場に直行しているかもしれない。
 アストラルに対抗するためには何人もの警察の力が要る。しかし今はシアンがいる。
 そう想いながら、何故か突然シアンのことが気掛かりになった。先に行ったとしてもシアンの力を持ってすれば不死者を殲滅させることなど造作もないはずなのに。
 もしかしたら先程あんなことがあったかもしれなかった。護ると堂々と言ったこともあって少し神経質になっているのかもしれない。とにかく、そのことも含めて今は三人に合流しなければならない。
 感覚を研ぎすまして今一度不死者のいる方角を明確に感じ取ってから、ヴェイルも庁舎を飛びだした。