偽りをいつまで映す




 陽の光がやさしい。
 中庭には緑が広がり、芝生の上に足を踏み入れれば、何処か大自然の中にやってきたような気分にさせられる。
 緑は光をたくましく受けている。空に向かって手を伸ばすその様は、どこか殊勝であった。
「よかった、聖堂の敷地内にいてくれて、」
 そう声がしてライエはゆっくりと振り返った。
 走ってライエを追いかけてきたのだろう、少し息を荒げているヴェイルがそこにはいた。ライエが振り向くと、ふわりと微笑んでみせる。
 怒りを露にして談話室から飛び出したライエだが、今は落ち着いて反応を示した。
「……ヴェイルさん」
 どこか元気のないような声に、ヴェイルは済まなさそうな表情を浮かべて数歩ライエの方に近寄った。
「あの、さっきはごめんね。シアンがあんなこと言って」
「いえ……、私の方こそ……かっとなってしまって、ごめんなさい」
 ライエは俯いてそう言う。やはり声に力が無い。
 真正面から話しかけられたのでは彼女は話しにくそうだと判断したヴェイルは、再び足を進めた。歩きながら「敬語使わなくていいよ」とさらりと告げる。そして庭園を眺めてライエの方をあまり見ないようにしながら、再び口を開く。
「かっとなってしまうのも仕方ないと想うよ。僕が君の立場だったとしたら、同じことをしたかもしれないし」
「そう……? ヴェイルさんって怒るようには見えないわ」
「あはは、僕だって怒るときくらいあるよ。それに君だって温厚そうだもの」
「……そうね、あんなに声を荒げたのって、本当に何年ぶりかもしれない」
 本人に自覚はないのだろうが、段々とライエの声に明るさが戻りかけている。そのことに気付いてヴェイルはちらりとライエを見遣った。
 するとライエはその場にゆっくりとかがみ込んだ。そして背の低い植物を眺めながら続ける。
「でもね、ここに来て冷静になって考えてみて、わかったわ。私はどっちでもいいことに声を荒げたりなんてしないって。シアンさんの言ったことが正鵠を得ていたから……もちろん声を荒げたりするのは良くないことだって反省はしています。でも実際、どうにもならない過去ばかり見て逃げていました……。哀しみに任せて逃げていても仕方ないのに……。そんなこと、わかっていたつもりだったけれど、」
 そこまで喋ってから知らぬうちに敬語に戻りかけていることに気が付いて、ライエは言葉を切った。
 ヴェイルは何も言わない。ただ穏やかな空気を保ち続けて、ライエが話しやすい雰囲気をそれとなく創りあげていた。本人にはそこまでそうしようという意志はないのだけれど、気付けばそんな雰囲気ができ上がっている。
 再びライエが言った。
「わかっていながら逃げていたからこそ、本当のことを言われて咄嗟にあんなことを言ってしまった……」
「いや、それはそうかもしれないけど、シアンの口調も遠慮ないから……君だけが悪いってわけじゃないよ」
「それはシアンさんのやさしさなんでしょう?」
「うん、まぁね……わかってもらえない場合が多いけど。でも君はわかってくれてるから、シアンもきっと喜ぶよ」
「なんだか不器用そうだもの。ふふ……私もね、最初、シアンさん不機嫌なのかと想っちゃったのよ。でもしばらく近くにいたらそうじゃないってわかったわ。それに……他人のためにはっきりとそういうことを言える人って、なかなかいないと想うの。しかも初対面の相手に」
 歌うようなライエの言葉が風に乗る。
 ヴェイルは空を見上げた。遠い空に白い雲がゆっくりと流れている。
 手の届かない蒼穹に吸い込まれそうになった。遠い記憶が蘇るような気分にさせられて、そっと目を閉じる。
「……ありがとう、シアンのこと気遣ってくれて。でも、無理はしなくていいよ。自分が助かって他の人が傷ついて……、そんな辛いこと、なかなか克服できるものじゃないから……もしかしたら、一生まとわりつくものかもしれないから」
 ヴェイルのその言葉を聞いて、ライエは立ち上がった。
 背中を向けて空を仰いでいるヴェイルをやさしいエメラルドグリーンの瞳で見つめた。
「やさしいのね……。こちらこそ、ありがとう。私なんかのこと気遣ってくれて」
「君の気持ちを全部わかってあげることはできないけど、ね。僕でよければ力になるから。きっとシアンやアルスも力になってくれると想う。二人とも不器用だけど、本当はやさしい人だから。勿論、君が嫌でなければ、の話だけど」
「い、嫌だなんて……!そ、それに私なんかがトロメリア警視正のお手を煩わせるようなこと……!いえ、あの、嬉しいのよ、嬉しいのだけれど……その……」
「ふふ、遠慮しなくてもいいよ」
 ふわりとライエの方を振り返ってヴェイルは微笑んだ。
 アルス、という単語に反応してライエがまた頬を紅潮させている。本当にわかりやすくて純粋な人だと、ヴェイルは想わずにいられなかった。
 ヴェイルがその様子を見ていることも気付かずにライエは俯いて発すべき言葉を捜している。
 それを見て再びヴェイルは空を見上げた。遠い空に向かって、否、何処へ向けてというわけでもなかったのかもしれないが、自然に溢れ出たように誰にも聞こえないくらい小さな声で言葉をぽつりと呟いた。
「僕も……。僕も以前…………自分が助かって他人が傷付いて……、そんなことがあったから……」










 医務室の白いベッドに横になりながら、シアンはベッドの横の椅子に腰掛けているアルスとたわいのない話をしていた。事情聴取に出ているドクターに了承を取って医務室に来てから暫く休んだためか、シアンも随分と落ち着いていた。呼吸も普段通りに戻って、気分の悪さもなくなっている。
 話の合間にシアンはゆっくりと起き上がった。
「もういいのか?」
 アルスかそう問いかけると、シアンは静かに頷き返した。
 そしてベッドに腰掛けると思い出したように言う。
「あ、……ごめん、角砂糖買ってないや」
「……いや、お前なぁ……」
 呆れたようにアルスは息を吐き出した。「そんなことはもういい」と慰めるように言いたくなるほどにシアンの表情は真剣そのものである。
「帰りに買えばいいかな? I.R.O.の中の店なら24時間営業だし」
「ああ、……まぁ、そうだな。それでいい」
 アルスがそう言い終わった瞬間に、医務室の扉が開く音がした。ゆっくりとした足音が近付いてくる。
 二人が足音の方に視線を向けると、ベッドを囲む白いカーテンがふわりと開き、ライエの姿が現れた。その後ろにヴェイルが顔を覗かせている。
 ライエとヴェイルを認識しながらも、何かを考えているのか二人を見上げるだけで何も言わないシアンに、おずおずとライエが切り出した。
「あの、休んでたところ、ごめんなさい。先生に聞いたらここだって言われたから……、どこか具合悪いの?」
「大丈夫です。べつに何ともないから」
 視線をそらせてシアンはそう言った。視線をそらせたのはライエがいるからではなく、その後ろにいるヴェイルと視線を合わせたくなかったからだった。しかしそうしようとも心配そうなヴェイルの眼差しを感じてしまって胸が痛い。ヴェイルの瞳は何もかも見透かしているようだった。
 ライエには謝らなければいけないのだが、顔をあげるにはそんな理由で抵抗がある。しかし謝るのに相手の顔も見ずに言葉を並べるのが失礼なことくらいはわかる。
 どうするべきかとシアンが想っているうちに、ライエが再び口を開いた。
「……さっきはごめんなさい。あんなこと言って、かっとなってしまって……」
 言いながら、身体をかがめてライエはシアンの顔を覗き込む。
 まっすぐな瞳で見つめられて、シアンは言葉につまった。無垢なその姿に何故か息苦しさを感じてしまう。
 結局顔をあげられないまま、とにかく言葉を並べた。
「謝らないでください。あなたは悪くないから……、私も言い方よくなかったし、……」
「ふふ……、あなたの言いたいこと、ちゃんとわかるから大丈夫よ」
「…………」
 先程とはまだ違うけれども、この息苦しさも説明がつかなかった。
 ただ純粋に見つめられること、それが何だか辛くて仕方が無い。ただ謝るだけなら何も躊躇うことなどないはずなのに。
 黙って様子を見ていたアルスもそれに気付いたのか怪訝そうな顔をしていた。
 ただひとり何にも気付いていないライエは、シアンに微笑みかけてからゆっくりと立ち上がった。そして三人を順番に見ながら、穏やかに声を出す。
「私、ドクターのお手伝いをしてきます。今日は本当にすみませんでした、私がシアンさんに怪我させてしまったばかりにご迷惑おかけして……。それに、不死者を倒してくださってありがとうございます。あの銀髪の方にも、よろしくお伝えください」
 深々と頭を下げて、ライエは医務室を後にした。
 扉の閉まる音だけが響き、部屋は突然に静まり返る。
 ちらりとシアンは顔をあげた。それと同じタイミングでアルスが椅子から立ち上がる。
「さて……、どうする、帰るか? 歩くのが辛いようならもう少し休んでからでも構わないだろうが」
「帰るよ。長々と居座っても悪いし」
 ベッドから軽々と飛び下りて、上着の裾を軽く引っ張って整える。
 それから靴を履いてしっかりと靴のベルトを締めると、振り返りもせずに歩き出した。
「先に帰ってて。私、あの人に訊きたいことがあるから」
 ヴェイルが「あ、待って」と言う間もなく、シアンは医務室から姿を消した。きちんと閉められなかった扉が頼りなさそうに軽く揺れている。それを見てヴェイルは思わずため息をついた。無理矢理に追いかければいいのかもしれないが、そんなことをシアンが望んでいるはずはない。それに、必死になって追いかける理由もない。
 その隣でアルスが立ち上がりながら訊ねた。
「ヴェイル。……あいつ、持病か何かあるのか?」
「え……、シアンのこと? いや、何もないと想うけど……どうして?」
「お前が出て行ってから急に苦しみだしてな。本人も少し錯乱していた」
 ちらりとアルスは腕時計で時間を確認した。ここから外が見えないためわからなかったが、もう夕方になっている。
 椅子を隅に片付けながら続ける。
「お前なら何か知っているかと想ったんだがな」
「いや……結構長い間一緒にいるけど、今までシアンが突然苦しみだす姿なんて見たことないよ。本人からもそんな話を聞いたことはないし……」
「そうか。……一時的なもので何もなければいいんだが、気になるな……」
 そう言いながらアルスはゆっくりと歩きだす。
 聖堂の方に戻ってゆくその背中をヴェイルはぼんやりと見つめていた。そしてその姿が開け放たれたままの扉の奥へ消えてしまってから、ヴェイルは天井を仰ぐ。
 一度ゆっくりと目を閉じた。周囲の空間から孤立したような気分になる。
 そしてそっと目を開く。視線をもとに戻して、ゆっくりとかぶりを振る。
「…………まさか、ね……」
 そう、珍しくトーンを落とした声で呟いた。










 シアンがアルスの家に戻った頃には陽は沈みかけていた。
 買ってきた角砂糖をキッチンに立っていたヴェイルに渡すと、ヴェイルは「ありがとう」と言いながらシアンに微笑みかけた。
「遅かったね、何話してたの?」
「クレアチュールのこと。私は聞いてただけだけど」
「君が宗教に興味があるだなんて知らなかったよ」
「宗教には興味ないけど。なんか、気になって」
 二人の会話の途中でリビングに戻ってきたアルスがソファにどさりと腰を下ろした。
 その手には書類の束がある。
 それに気付いてシアンとヴェイルは話を中断してアルスを見遣った。
「クルラから連絡がきた。この前の波動観測の解読が完了したらしい」
 シアンとヴェイルはソファの方に歩み寄った。アルスは二人に何枚かずつの紙を渡す。そこには羅列された数字に対して細かく解読のための詳細が補足されて書かれている。そしてその紙の右上には"Malduk"と印刷されていた。クルラが言っていた組織名というものだろう。
 プリントされたその数字と文字を見つめながら、シアンは首を傾げる。その目の前でアルスはぽつりと呟いた。
「想ったより随分と時間がかかったな……あいつなら一日二日で終わると想っていたが、解読の際に何かトラブルでもあったのかもしれないな……」
「で、なんて書いてあるの?」
 決して読めないわけではないのだが、あまりにも量が膨大すぎて最初から最後まで今から読む気にはなれないシアンはそう訊いた。「まだ俺も全部を読みきったわけではないんだがな」と補足しつつアルスが口を開く。
「矢張り普通よりも強力な磁力が観測されている。クリスタラインと関連していると考えてまず間違いはないだろう。……だが、」
「だが?」
 言葉を切ったアルスにヴェイルが反応する。シアンもアルスを見つめた。
 しばらく考え込んでから、アルスはふとシアンと目を合わせながら言う。
「それよりも肝心なのは……この世界にある何ものとも異なる、今までどの分野においても観測されたことのない波動が観測されたそうだ」
「それは今までの不死者の波動観測では見られなかったものなの?」
「ああ……しかし観測されていなかった理由は今までその波動が存在していなかったというよりも、存在はしていたが並の精神力では観測できなかったという方が正しいだろうな」
「どうして?」
「今まで行われてきた波動観測の結果と今回の結果を比較すると、基本的にほぼ同じような構造だからだ。それに、その異質な波動が付随している」
 アルスとシアンのそのやりとりを聞きながら、ヴェイルは腕を組んで考え込む。その異質な波動という新しい事柄についてどう考えるべきかと想っていると、隣でシアンが再び口を開いた。
「クルラは何も言ってなかった?」
「異質なものが観測された、とだけしか言ってなかったな……あいつも見たことのないデータに戸惑っているのかもしれない」
「……そうなのかもね。何にせよ、波動観測は続けた方が良さそうに想うよ。一回だけの結果でどうこう言っても仕方がない部分は多いから」
 シアンのその提案に、ヴェイルは「そうだね」とゆっくりと頷き返した。
 話し合いの場において何かをシアンが提案するというのは珍しい光景だった。それはなにも気紛れでやっていることではなく、それだけ不死者の出現を食い止めることにおいて真剣になっているからこその行動だろうとヴェイルは想う。
 ふとシアンは窓の外に視線を移した。
 陽が落ちた街並を眺めながら、ぼんやりとクレアチュールのことを思い出す。
 ヴェイルやアルスと別れてからライエと話したとき、彼女はこう言っていた。
『ずっとずっと昔、ベルセルク・ディザスターっていう戦争があったの。世界を我がものにしようとする人たちと、それに対抗する防衛軍との戦争よ。それで世界は壊れてしまってね、残留思念だけが残ってしまった。創造主様はそれをお救いになったのよ。そのときに召喚されたのがマルドゥークっていって、白い翼を持つ神聖なる獣だったと言われているわ。そして平和な世界を築くことを契約として、この世界を創造され、クライテリアという地で眠りにつかれた……、そういう伝承が伝わっているの。
 でも私は……これは単なる伝承じゃないと想うわ。だって今不死者が暴れているけれど……ヴォイエントは決して平和な状態とは言えないもの。だから創造主様が罰をお与えになっているんじゃないかって。セントリストは平和だけれど、ノルンとウェスレーだとか北西の地方は、いつ戦争が勃発してもおかしくない状態だってよく聞くの。そんなの、創造主様の望んだ世界じゃないでしょう? ……それだからこそ私たち信者はね、創造主様に祈るの。争わずにいられない愚かな私たちをお許しくださいって。私は今セントリストにいるから良いけれど、もしノルンに生まれていたら、争いの渦中にいるかもしれないから……きっと私もノルンやウェスレーの人々と同じだから』
 伝承なんて、どこまでが本当なのかわからない。全部偽りだという可能性も大いにある。それなのにシアンは妙にリアリティを感じてしまっていた。それは自分がクライテリアから来たという理由からかもしれない。
 ヴェイルも伝承を知れば、同じように感じるのだろうかとふと想った。
 けれど、そんなことをわざわざ話す気にはなれなかった。
(伝承に惑わされるなんて、莫迦げてる)
 そう想いながらかぶりを振る。
 現実から程遠いものを信じるなんて、自分らしくない。
 わき起こる考えを振り払うようにそう考えて、月を見上げる。
 都会の光の中で押しつぶされそうになりながらも、月はその存在を空に保ち続けていた。