偽りをいつまで映す




 聖堂内の左側に並ぶ一番奥の扉を抜けた処に談話室はあった。
 橙色の光が淡く満ちている。木製の丸いテーブルがいくつか置かれ、そのテーブル各々の周囲に3,4脚の立派な椅子が並べられている。茶色い壁と床があたたかい雰囲気を演出していた。窓ガラスの向こうには中庭が広がり、緑が鮮やかに輝いている。
 部屋はスペースがたっぷりととられていて、ホテルの喫茶店のようだった。
 不死者の混乱があった直後であるため、そこには誰もいない。
 セルフサービスとして部屋の隅に置いてあるポットから紅茶を注いで、4人はテーブルを囲んで座った。
 何故シアンがここに来ていたのかということや不死者が出現してからのこと、シャールと協力したことなどをシアンとライエが説明した。もっとも、シアンの説明はいつも通り適当に端折られていて、その度にライエが言葉を付け足さなくてはならなかったけれど。
 紅茶に無造作に角砂糖を5個放り込みながら、アルスが口を開いた。
「しかし……不死者の出現した原因がわからないままというのが気になるな」
 隣でヴェイルが頷く。その様子を見遣って、シアンはカップを両手で包んだまま呟くように言った。
「シャールは知ってるみたいだったよ。見当がついたとか言ってたし」
「見当がついた、か……。シャールはなんでここに不死者がいるってわかったんだろう?」
「精神力が強い人は精神集中すればわかるんじゃないんですか?」
 シアンとヴェイルの会話に、ライエが遠慮がちに口を挟んだ。ライエは恐らくシャールの精神力を知らないだろうから仮定で言ったことなのだろう。
 ヴェイルが穏やかに説明する。
「うん、理屈ではそうなんだけどね。今回の場合、不死者は突然に出現しているし、アストラルもいない。だから感じ取れる圧迫感はいくら精神力の強い人でもごく僅かのはずなんだ。だからセントリストのどこかで精神集中をして何かが感じ取れたとしても、ここの不死者よりも警察が立ち入り禁止区域に指定している場所とかから感じ取れる感覚の方が勝るっていうことになる。たまたまその場にいたなら別だけど、彼は明らかに不死者目当てにここへ来たみたいだったからね」
「そう、なんですか。詳しいんですね」
「一応僕もある程度の術は使えるから」
 そう説明するヴェイルの隣で、アルスは腕組みをしながら考え込んでいた。シアンはゆっくりとカップに口をつけている。猫舌なのか、カップを手にしている時間の割に飲むスピードがやたらと遅かった。
 正面に座っているライエをアルスはまっすぐに見つめた。
「ライエ、といったか。この聖堂に不死者に関係のありそうなものは無いのか?」
 アルスの蒼い瞳に映し出されて、ライエの表情に再び含羞が浮かぶ。胸の鼓動が高鳴るのを感じながら、できる限り平静を装った。
「いえ、私の知る限りでは何も……。私は幼少の頃からここに通っていますけど、そんな話は聞いたことがありません。……それに、ここはクレアチュールの聖堂ですから……、その……」
「ああ、そうだったな」
「……伝承だとか、ともすれば迷信かもしれないということは、わかっているんです。聖堂に通いながらこんなことを言うのは変かもしれませんけど……」
「クレアチュール……?」
 ワンテンポ遅れてシアンが口を挟んだ。クレアチュールという単語を聞いてから、それが聞き慣れない単語であると自覚するまでに時間を要したのは、きわめてぼんやりと話を聞いていたからである。
 いつものように、しかし少し参ったようにヴェイルが説明した。
「宗教の名前だよ。ヴォイエントで一番大きな宗教。……シアン、君……それも知らずにここにいたんだ……」
「ヴェイルは知ってるの?」
「詳しくはないけど、一応、一般的なことはね。クレアチュールは創造主クレアを祀る宗教なんだよ」
「創造…主、……クレア……」
 珍しい言葉でも聞いたかのように、シアンはその単語を口の中で確かめるように呟いた。
 一瞬、くらりと目眩がする。
 何故だか気分が悪い。咽せ返すような感覚を身体の中に覚える。
 カップを握り締めたまま、シアンはぎゅっと目を閉じて顔を伏せた。
 顔を伏せてからヴェイルやアルスに気付かれないかと心配したが、丁度良いタイミングでライエが口を開いてくれたのが幸いだった。気分の悪さが薄れると、シアンは何もなかったかのように自分に説明してくれているライエの話をまたぼんやりと聞く。
「祀るといっても、偶像崇拝というわけではないの。伝承に創造主様の名前はあるけれど、文献だとか絵画だとか、そういうものは一切残っていないから……私たち人間が勝手に創造主様のお姿を創ることはできないのよ。だから特殊なものなんてないの。不死者に関係ありそうなものも思い当たらないわ。聖堂の通路の一番奥に、何も無い空間があったでしょう? そこにみんな祈りを捧げるの」
「……祈るって、何を?」
「それは人それぞれよ。でも今は、不死者がいなくなるようにって願っている人が多いんじゃないかしら」
「あなたも?」
「ええ、私も……、」
 覇気のない表情は変えないままで質問を重ねるシアンに次々と返答していたライエだが、一度そこで言葉を切った。
 それから、少し俯き加減になりながら、声のトーンを落としてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……私、幼い頃に不死者に家族を殺されたんです。それで、その前の記憶も……そのときのショックらしいんですけど、なくなっちゃって。不死者が現れると、どうしようもなく怖くなるんです。私には力がない……術も、護身術くらいしか使えないから、祈ることしかできないんです」
「そう、だったんだ……」
 ゆっくりと落ち着いた声でヴェイルが言った。やさしさのこもった声は、傷付いた人の心にあたたかい。
 その声に甘えるように、ライエは続けた。
「クレアチュールは本当に信じています。でも私の場合、結局は自分を慰めているだけなのかもしれません。……わかってはいるんです、そこに救いなんて無いことくらい……」
「救いが無いなんて誰が決めたんですか」
「……えっ?」
 冷たく言い放たれたシアンの一言に、ライエは思わずそう声を漏らしてシアンを見た。ヴェイルとアルスもゆっくりとシアンの方に視線を移す。
 そのシアン本人はライエの方を見ることもせずに、カップを両手で包んだまま、未だ飲み干せていない紅茶を焦点も合わせずに眺めている。そしてそのまま、誰に向かって言うともなくただ呟いただけ、というような口調で続けた。
「創造主なんかが救ってくれなくても、あなたの周りには人がいるのに」
「……そんなこと言っても……忖度にも限度があるわ」
「救いが無いと決めつけてしまえば哀しみに逃げていられる」
「あなたに何がわかるっていうの!?」
 突然大声を発してテーブルを勢い良く叩きながらライエは立ち上がった。シアンを睨む緑色の瞳が潤んでいる。
 はらはらとヴェイルは二人を交互に見つめ、アルスは相変わらず落ち着いた様子で状況を見守っている。そしてシアンは動じることもなく同じ動作を続けていた。
「何もわかりませんよ。べつにあなたの哀しみを否定するつもりはありません。ただ客観的に見てそうだと言っているだけです。忖度に限度があるんじゃない、あなたがそれから逃げているだけ」
「ふざけないで!!逢ったばかりの人に、そんなこと言われたくないわ!!」
 ひときわ大きな声でそう叫ぶと、ライエは振り返ることもせずに走って談話室から出て行った。宙に舞った涙と靡いたワンピースが見ている者の瞳に焼き付くように印象的だった。
 その場が静まり返る。
 嵐の後のように、そこに留まる空気さえもが静かだった。
「……シアン……」
 弱々しく、ヴェイルが沈黙を破る。
 てっきりヴェイルは自分を咎めるだろうと想っていたが、そうではないことにシアンは内心少し驚いていた。しかし、表面上には特に変化が表れていない。ただカップを小さな手で玩んでいるだけだった。
 シアンの言い方には勿論問題がないわけではない、しかし内容はあながち間違いでもない。寧ろ、正論である。そう想ってしまったため、ヴェイルはシアンを咎めることができなかった。アルスはきっとシアンと同意見なのだろう、とヴェイルは想った。
 二人はものの考え方が似ている、アルスも同じようなことを同じような言い方で言ったかもしれない。
 ……真実を述べることが、いいこととは限らないかもしれないけれど。
 そう想いながら、ヴェイルは立ち上がった。
 誰も悪くない。そして誰もに非がある。それはシアンもよくわかっているはずだ。
「僕、彼女を追いかけてくるよ」
 君よりは巧く話せるつもりだから。
 ヴェイルの瞳が、シアンにそう訴えている。
 アルスが口を開いた。
「彼女はI.R.O.の人間だろう。俺の方が多少事情に通じていると想うが……俺でなくていいのか?」
「い、いや、いいよ僕で。そんな込み入った話とかはしないだろうから」
「そうか。なら任せるが。……そうだな、慰めたりするのは俺の得意分野ではないからな。お前の方が向いていそうだ」
(そうじゃなくて……アルスが行ったりしたら彼女絶対赤面して何も言えなくなるの目に見えてるからなぁ……)
 相変わらず鈍いアルスに心の中で苦笑しながら、ヴェイルは談話室の外に向けて歩き始めた。
 そこに、背後からシアンの声がする。
「……ヴェイル」
「なに?」
「……ごめん、いろいろと」
「いいよ、気にしないで。僕がお節介なだけかもしれないし」
「私がお節介じゃないと想えば、それはただの善意だよ」
「はは、そうだね。気を遣ってくれてありがとう」
 気を遣ってなんて、と口の中で呟くシアンにヴェイルは振り返って微笑みかけた。










 ヴェイルが出て行ってから、談話室は極端に静かになった。
 気まずい空気というわけではないのだが、二人とも喋らないとなると本当に何も無い空間のようになる。
 やっと紅茶を飲み干すと、シアンはテーブルにカップを置いた。アルスは隣で座ったまま窓の外を見遣っている。もう葉からは水滴が消えて、緑がただ鮮やかに映えていた。
 椅子の背もたれにシアンは身体を預けた。
 まだ何となく気分が悪い。
(創造主、だっけ。たしかクレアとか言ってた。伝承にあったな、そんな名前……聞いたことあるし。それから、クレアチュールとかいうのは初耳だけどただの宗教の名前……)
 ぼんやりと考えを巡らせてみたが、気分が悪くなりそうなことは思い付かない。どうしようもなく、ただ重く息だけを吐き出した。
 それに気付いて、アルスがシアンを見据えた。
「どうした?」
「べつに何も……」
 ぼんやりとそれだけ返事をして、シアンは少し俯いた。乗り物酔いの後のような気分が続いている。吐き気というほどのものではないが、どう解消のしようもない気分の悪さが胸元で渦巻いている。原因がわからないために、余計にすっきりしない。
 そっけない返事を聞きながら、アルスは余っていた角砂糖をそのまま口に放り込んだ。これはアルスの癖で、最初はシアンも驚いたが、本人曰く「口が寂しい」らしい。
 口の中で角砂糖を溶かしながら、また黙り込んでしまったシアンをアルスは見つめた。何か、様子が変な気がする。
 身体を椅子から乗り出してアルスはシアンの方にそっと手を伸ばした。
 指の長い大きな手がシアンの前髪に触れる。驚いてシアンが目を見開くと、その手はシアンの額に届いた。
「……アルス?」
 小さく首を傾げながらシアンはアルスの方を向いた。それは決して驚いた風ではなく、いつものように抑揚が無い口調だった。
 シアンの額から手を離して、落ち着いた声でアルスは言う。
「少し熱っぽいな……」
「そう? 何ともないよ?」
「無理はしない方がいい。医務室で横にならせてもらうとかして、少し休め。顔色も悪い」
「そんなに心配しなくても私は……、」
 その瞬間、再び圧迫感を感じた。刹那、二人が動きを止める。
 軽い圧迫感だった。恐らく出現した不死者は1,2体くらいだろう。落ち着いて処理すれば問題ない。
 しかし、シアンの身体はその圧迫感によってぎりぎりと締め付けられるように痛んでいた。
 息が苦しい。喉の奥が熱い。全身を鈍い痛みが駆け巡る。歯を食いしばっていなければ、今にも悲鳴をあげそうだった。
「…………っあ……!?」
 声を漏らしながら、シアンは椅子から落ちるように床に蹲った。
 アルスが驚いてその身体を支えようとする。
「おい、どうした!?」
 そう問いかけるアルスのカッターシャツを右手でぎゅっと掴んで、シアンは懸命にかぶりをふった。
「……わ…からない…………、何……これ……」
 きつく目を閉じて声を絞り出す。
 身体が熱を帯びている。胸の激しい鼓動の音が耳障りなほどに聴こえる。頭が割れるように痛い。耳鳴りがする。呼吸が巧くいかない。身体が震えている。
 わけのわからないまま、ただ身体だけが悲鳴をあげている。
 そんなシアンの身体を支えながら、アルスははっと顔をあげた。ヴェイルが出て行ってから扉が開いたままになった談話室に、不死者の姿がゆらりと現れている。予想通り数は少なく、二体しかいない。
「すぐ終わらせる。……少し待っていられるな?」
「……ん、大丈夫……。ごめん、ね、……戦えなくて…」
「気にするな。できるだけ辛くない体勢でいろ」
 そう言うとアルスは立ち上がって不死者に向かい、銃を手にすることもなく精神集中を始めた。
 感じられる圧迫感からしても、この不死者から大した強さは感じない。警察の中でもアルスの術力は飛び抜けて強い。一撃で仕留めるのが一番手っ取り早い。冷たい空気がアルスの周囲に渦巻いた。それはすぐさま氷へと姿を変え、アルスの前に壁のように連なる。
「凍てつく惨禍を我が前に喚べ 彼の者に昏睡を」
 その言葉が刻まれると同時に、氷の壁は砕けて刃と化す。
 そしてこちらへ向かって来ようとする不死者に容赦なくその刃は突き刺さり、アルスに襲いかかろうとした不死者は何もすることもなくその場に音をたてて倒れた。
 圧迫感が消えてゆく。
 それと同時にシアンが感じていた息苦しさや痛みもゆっくりと薄れていった。
 肩で息をしながら、シアンは顔をあげた。まだ激しい鼓動が身体中に響いている。
 まだ床に蹲ったままの小さな身体をアルスは身をかがめてそっと抱き起こした。抱き起こされてアルスの肩に顔を埋めながら、それでもしっかりと立ち上がろうとする。
「立てるか?」
「あ……うん、もう大丈夫…………なんか、治ったみたい」
「無理しなくていい。随分と疲労しているだろう。とにかく、医務室で少し休ませて貰え」
「でも、……ライエさんに、このままじゃ……」
 ぽつりとシアンはそう呟いた。自分の言葉が彼女を傷つけてしまったことはわかっている。自分にどんな意図があったとしても、それは変えようの無い事実だった。
 けれどアルスはそんなシアンの髪をゆっくりと撫で、やさしく言い聞かせるように告げる。
「今はヴェイルに任せておけ。それにお前がこんな状態では、仮に彼女が落ち着いて戻ってきたとしても話にならないだろう?謝るにしても、元気になってからにした方がいい」
「……そう、かもしれない。なんか、……情けないな。言葉も選べないしさっきの原因もなんだかわからないし、必要以上に迷惑はかけるし」
「そんなことは今考えなくていい。それに反省しているなら誠意を持って接すれば相手にも伝わる。原因がわからないのは気になるが、休んでいる間は傍にいてやる。大丈夫だ」
「あはは、……なんか本当に妹みたいな気分になったよ、今」
「本当の妹みたいなものだ」
 そう言いながらも、アルスは何か隔たりのようなものを感じていた。
 シアンの傍にいるのに、彼女がとても遠い存在で、しかも自分の手の届かないところで傷付いているように想えてならなかった。