偽りをいつまで映す




 聖堂に駆け込みながらシアンはポケットから取り出した黒い手袋を両手にはめた。右手の甲にガーゼが貼られているために手袋が不自然な形で膨らんでいる。
 聖堂に入ると目の前にひとりの女性がいるのが目に入った。その女性の目の前に大きな獣のような形をした不死者が迫っている。女性は悲鳴をあげながら一歩も動くことができずに身体を震わせていた。
 二本の短刀を上着から引き抜くと、シアンは床を力強く蹴った。
 跳躍して女性と不死者の間に入ると、女性に対して振り下ろされた不死者の爪を右手に握った短刀で受ける。刃と爪がぶつかって、鋭い音が聖堂に響いた。
 そしてすかさず間合いを詰めると不死者の懐に飛び込んで左手の短刀で切り返し、その身体を切り裂いた。
 悲鳴もあげず、どさりと音をたてて不死者はその場に崩れ落ちる。
 着地して、シアンは女性を見遣る。女性はまだ脅えた目をしながらシアンをすがるように見ていた。
「あ、あの、ありがとう、」
「逃げてください。外へでも、どこかの部屋へでもいいから」
 それだけ言うとシアンは聖堂の中心にある通路に向かって歩き出した。
 錯乱したまま、女性は慌てふためいて逃げ出す。
 歩きながら周囲をシアンは見回した。もう逃げ遅れた人はいないようだった。これで周囲を気にすること無く戦える。
 しかし、こんな処で術を使うのはまずい。聖堂を破壊するわけにはいかない。
 全員が逃げてしまったため、聖堂の中にはびこる不死者のすべてのターゲットがシアンになる。それはシアンにとって予測していた事態である、特に焦ることもなかった。
 獣の形をした不死者の爪がいくつも迫りくる。
 身軽にそれを躱して間合いをつめて不死者を短刀で薙ぎ払う、それを数回繰り返したとき、シアンの背後に影が迫った。
 後ろから不死者が迫る、咄嗟にシアンは床を蹴って跳躍して身を躱した。
 空振りした爪を振り回す不死者に向けてシアンは空中で短刀を構える。
 と、刹那、その不死者は突然にどさりと倒れた。
 目を丸くしてシアンは短刀を構えるのをやめて着地する。その突然に倒れた不死者を見遣った。
 倒れた不死者の後ろから人影が現れる。シアンが凝視するその人影は、開けっ放しにされていた外へ続く扉から差し込む陽の光を受けてこちらに歩いてきた。
 覚えのある感覚がシアンに訴えかける。冷たくて異様な感覚。
 それが一体何によるものなのか考える前に、聞き覚えのある声が聞こえた。
「……アリアンロッド?」
「……? ……シャール?」
 二人ともがどこか力のない声を発した。互いに驚いて相手を見つめる。
 シアンの視線の先にはっきりと見えてきたのは紛れも無くシャール本人だった。黒いコートを羽織って、さらさらと銀髪を靡かせている。ピアスは以前麻酔銃の銃弾に弾かれたときのまま、不自然な壊れ方をしていた。
 ゆっくりとシアンの目の前にシャールは歩み寄った。ギムナジウムで逢ったときとはまるで違って、シャールからは殺気も感じなければ、その瞳も畏怖させるようなものではない。
 初めて間近でシアンはシャールを見上げた。ヴェイルやアルスに話すのと同じような口調で訊ねる。
「どうしてこんな処に?」
「それはこっちの台詞だ。宗教なんかに興味ねぇだろ?」
「来たくて来たわけじゃないんだけど。不死者が突然出現したから片付けないとと想って」
「慈善深いねぇ」
「べつに。片付けた方が逃げ惑ってるより面倒じゃなさそうだから。それだけ」
「成る程……相変わらず惚れ惚れするような冷め方だ……いいねぇ、愛くるしいぜ。しかし、随分と喋ってくれるんだな。今日は警戒しねぇのか?」
「……そっちに敵意がないから。敵意がない相手を警戒したって無意味だよ」
「俺の感情に応えてくれてるってわけか。それは喜ばしいな、こっちも愛し甲斐があるってもんだ」
 喉の奥でシャールは低く笑った。その響きは無気味であるが、ただ単に自分の中で満足しているだけに見える。シアンに危害を加えそうにはなかった。
 シアンもシアンで、すっかり慣れ親しんだ雰囲気でシャールと話を進めていた。
 シャールがアリアンロッドとシアンを呼ぶことや突然に無気味な笑いを浮かべること、何度も愛していると言うことは一種シャールのステータスだと解釈して、もう割り切ってしまっている。こちらに攻撃を加える気などさらさらないようだし、そんな状態下でいちいちシャールの言動に警戒していてはきりがない。第一、そうする気にもなれない。
 するりと手を伸ばしてシャールはシアンの肩を引き寄せた。
「お前に逢えて良かった、くっだらねぇ雑魚の不死者どもをブッ潰すなんて飽き飽きしてたんだが…お前がいるなら少しはやる気も出るってもんだ」
 シャールが口の端をつり上げる。
 そしてそのまま奥の方にまだ残っている不死者を見定めると、そちらへ向かって歩き出した。どういう理由でかはわからないが、どうやらシャールは不死者を倒すためにここに来ているらしかった。術を発動するほどではないが、シャールの少し精神が集中しているのがシアンにはわかる。恐らくすぐに術が発動できるコンディションにしているのだろう。
 ゆっくりと足音を響かせて不死者へ向かうシャールの後ろ姿に、シアンは声をかけた。
「シャール、ひとつお願い」
 シアンの方から声をかけられて、シャールはすぐに振り向いた。
「どうした、アリアンロッド」
「術を使うのはいいけど、聖堂は壊さないでほしい。多分、壊れたら困る人がたくさんいるから」
「……難しい注文だな。俺の力を知らねぇわけじゃないだろ?制御は一応できるが力を抑えたところで適当にその辺破壊しちまうぜ?……いくら愛しいお前の頼みでもな」
「短剣、持ってたよね? ヴェイルに攻撃したとき、随分使い慣れてるように見えたけど」
「…………それで戦えってか?」
「短剣じゃ無理って言うならいいよ、私が全部片付けるから」
 そう言いながら今度はシアンが不死者に向かって歩き出した。
 その両手にはしっかりと短刀が握られている。それを見てシャールはひとつため息をついた。
「お前、わざわざ他人のために術使わずに戦ってやってんのか……」
「壊したら後が面倒っていうのもあるけどね」
「んなもんブッ壊してさっさとずらかれば良いことだろうが。ああ、でもお前の場合はあのクソガキだとか警察だとかに顔が知れてるからそういうわけにもいかねぇのか」
 言いながらシャールもシアンに並ぶ。そしてコートの中に手をやると、中から短剣を取り出した。
 しぶしぶ鞘から短剣を抜く。
「愛しいアリアンロッドの頼みじゃ断れねぇな。それに敵意のないお前の姿も見せてもらったし、その代わりだ」
「ありがとう」
 二人はゆっくりと足を進めて奥にいる不死者と対峙した。
 祭壇、あのぽっかりと不自然に空いた空間の前に不死者がずらりと並んでいる。
 暫く対峙の時間が続いた。ただ静かだった。
 物音一つしない。不死者は声をあげない。息も聞こえない。身体の動きからすれば呼吸をしているようにも見えるのだが、それはまったく音を発さない。これは不死者が人間でも動物でもないという証拠でもある。
「しかし……どこから急に湧いて出たんだ、こんな数の雑魚どもが」
 シャールが舌打ちする。
 動きは止まっているものの、シアンにもシャールにもあまり緊張感というものはなかった。それは相手の強さをはかっているからだということも勿論あるが、半分は性格かもしれない。
「シャール、知ってて来たんじゃないの?」
「知らねぇな、気配がしたから来ただけだ。取り敢えず叩き潰すぞ」
 短剣を右手でしっかり握り、その手に左手を添えて身構えながらシャールはそう言った。
 その隣でシアンは器用に両手の平で短刀をくるくると回転させてから握り直す。
 一寸間を置いて、二人は同時に床を蹴った。
 一瞬遅れて不死者がそれに反応するが、俊敏な二人に先手を取られては成す術もない。
 シアンがひときわ大きな不死者の懐に飛び込んで流れるような動作で相手を切り裂けば、シャールは動きの鈍そうな不死者に容赦なく袈裟切りをきめる。
 そして他の不死者が襲い来る前に、軽々と二人は身を躱した。
 獣の形をした不死者といっても色々な種類のものがいる。身体の大小も違えば俊敏さも攻撃方法もその威力も異なっている。
 小さな身体をした不死者がいくつか宙に飛び上がった。そして急降下をして二人に迫る。
「ったく、こういうのがうざってぇんだ……雑魚は雑魚らしく黙って殺されんの待っときゃ良いだろうが」
 不死者を躱しきりながらシャールは不満を漏らす。
 それを聞いてシアンはシャールの隣に着地した。
「そんなに鬱陶しいなら私がやるよ」
「やけに自信があるな。お前の専門は術じゃなかったのか? ……まぁいい、その代わりデカいのは俺が潰してやる」
 シャールがそう言い終わると、シアンは再び床を蹴った。
 そして体格の大きな不死者に飛び込むと、今度はその身体を蹴って天井近くの壁まで跳び、更にそこから跳躍する。
 しなやかな身体が軽々と舞う。
 普通に跳躍するよりもずっと高くまで跳び上がって身体が宙に浮いた。
 その状態で神経を研ぎすます。移動標的である不死者の動きを予測する。
 刹那、シアンは両手に握った短刀を回転させながら不死者に向かって投げつけた。
 スナップが佳く効いた短刀は二本ともブーメランのように弧を描きながら宙を舞う。
 そしてそれは軌道上にあるすべての身体の小さな不死者を切り裂いた。
 二本の短刀が回転を続けながら美しいフォームを各々に描いている。その美麗さは躊躇い無く不死者を射落とした。
 シャールは思わずシアンの動きと短刀の軌道を目で追った。
(冗談だろ……、全部雑魚どもの動きを予測して軌道合わせて投げてやがる……偶然当たったんじゃねぇ、余裕持って当ててんだ、あいつは……。ハハッ、……ますます気に入ったぜ、アリアンロッド……!)
 そう想うと同時に何か一種の興奮のようなものが湧いてきて、その衝動に突き動かされるようにシャールは残る不死者を片っ端から切り裂いた。その動きは素早くて乱暴であった。もはやシャールの目的は不死者を倒すことにはない。一秒でも早く不死者など切り捨てて、シアンの動きをただ見ていたかったのだ。
 くるりと空中で一回転してシアンは床に着地した。流水のような身のこなしである。
 しかもそこに、計算されたようにまったく別々の軌道を辿っていた二本の短刀がシアンの方へと飛んできた。それは誰の力の作用があったわけでもない。最初からそういった軌道、つまり不死者を切り裂いてから着地した自分の位置に向かってくるようにシアンが短刀を投げたからに他ならなかった。すべて計算されていたのである。
 飛んできた短刀を素早くシアンはキャッチした。短刀は回転しているにも関わらず、いとも簡単に柄の部分を握ってしまう。
 そして何事もなかったかのような涼しい顔でゆっくりと辺りを見回した。
 不死者はすべて床に倒れて消え始めている。シャールの動きは見ていなかったが、この様子を見ると、ちゃんと残った不死者を倒してくれたのだろう。
「……片付いたね。圧迫感も消えたし……。出現の原因がよくわからないのが気になるけど、研究者でもないから調べたところでわからなさそうだし」
 短刀を鞘に収めて上着の中に片付けながらシアンはそう呟いた。
 未だ興奮冷めやらぬまま、シャールもゆっくりとした動作で短剣を仕舞い込む。
「原因……は、だいたい見当がついた」
「そうなんだ?」
「いずれお前にも教えてやるよ。今は邪魔が入ったからな」
 そう言いながらシャールは聖堂の入り口を見遣った。
 そこに三人の人影が見える。シアンがシャールに視線にあわせてそちらを見ると、ヴェイルとアルス、それに少し離れてライエの姿があった。
 最初に声を発したのはヴェイルだった。
「……シャール……!」
「そんなにいきり立つんじゃねぇよ、クソガキ。俺の邪魔ばっかりしやがって」
「どうしてこんな処に……」
「どうして?……クク、ふざけんなよ出来損ない。自分の頭使って考えやがれ」
「なっ……」
 言葉に詰まったヴェイルに、シャールは冷たい眼差しを向ける。それはまるで嘲笑するかのようだった。
 いつもは穏やかな調子を保っているヴェイルがここまでムキになる姿をシアンは見たことがない。いくらシャールが挑発的な言葉を並べているからといっても、どうしてそこまで本気で怒った表情を浮かべているのかわからなかった。
 ふわりとシャールはシアンの肩に右手をまわすと、そのままその華奢な身体を素早く抱き寄せた。
 そして耳元で囁く。
「また逢おうぜ、今度はゆっくり話をしてやるよ」
 シアンがそれに返事をする間も、シャールの行動にヴェイルが憤懣を露にする間もなく、シャールは精神を集中して何かを喉の奥で呟いた。
 突然シャールの身体を赤い蛍光色の光がまとう。
 そしてその光がゆっくりと消えてゆくと同時に、シャールの身体もそこから消えてゆく。数秒後には、今までそこにシャールが本当にいたのかと疑いたくなるほど、忽然とその姿は消えてしまっていた。
 その場にいた全員が動きを止めた。ただ、他の三人が驚きを示している中、シアンだけが無表情でシャールのいた場所を見つめている。精神が集中していたことを考えれば、今のも術の一種なのだろう。しかしそんな術があるとは聞いたことがなかった。
 驚愕に時が止まる。
 最初に動きを再開したのはシアンだった。
 戦いで配置が乱れてしまった椅子を丁寧にもとあった場所に戻し始める。今シャールが消えたことなど見ていなかったようにあっさりとしていた。そのあまりのマイペースさに、更に三人は言葉を失った。
 暫く椅子を動かす音だけが聖堂中に響く。
 そしてやっと、アルスが口を開いた。
「お前、怪我はないのか?」
 そう言われてシアンは動きを止める。そしてアルスの方を振り返った。
「心配しなくていいよ、無傷だから。シャールも手伝ってくれたし」
「手伝ってくれたって……矢張りお前が不死者を殲滅させたのか」
「まぁ、そんなところ。シャールと一緒にね。波動観測しようと想ったけどアストラルがいなくてすぐに殲滅しちゃって……」
「そんなことは気にしなくていい。俺たちも不死者が出現したと聞いて駆け付けた次第だからな、お前がこんな処にいるとは知らなかったが、不死者も殲滅できてお前に怪我もなかったのなら、それで問題は無い」
「ここに不死者が出現したこと知ってたんだ?」
「俺の情報網を甘く見てもらっては困る。警察が動くには時間がかかるからな、その前に手を打てるなら打つべきだろう」
 話をしながらアルスは椅子を整理するシアンに付き合っていた。アルスの手伝いを得て、椅子がきれいに並んだところでシアンはヴェイルとライエを交互に見遣った。
 怒りと驚きが混ざったような複雑な表情をしているヴェイルと、ただすべてに驚嘆しているように見えるライエは二人とも言葉を発し損ねている。
 聖堂は静まり返っていた。もう少ししたら警察が来るのだろうか。礼拝に来ていた人々はどうしたのだろう、警察に非常事態を伝えに行ったかもしれないし、錯乱したまま逃げてしまったかもしれない。他の部屋に逃げた人は、もう騒ぎがおさまったため、そろそろ聖堂に戻って来るだろう。
 いつまでもここにいることもない、とシアンはライエに背を向けた。そしてそのままシアンが聖堂の外へ向かって歩き出そうとすると、ライエがやっと声を発した。
「あの、待って!」
「……なんでしょう?」
 立ち止まって振り返り、シアンは言う。
 そのあまりの抑揚の無い声に一瞬躊躇しながらも、ライエは続けた。
「えぇと、その、ありがとう。あなたが戦っていたところ、医務室から見てたわ。それから……さっきは、ごめんなさい」
「……何がですか?」
「あなたなんかが抗えるわけないって言ったから……」
「ああ、べつに構いませんよ。結果的に何とかなったことですし」
 さらりとそう言うシアンに、ライエは焦りを浮かべた。引き止めてお礼を言いたいのに、シアンはするりとライエの言葉をかいくぐって姿を消してしまおうとする。
 そんなライエに、想わぬ助け舟が出された。
 医務室からドクターが飛び出して来るや否や、シアンの元に駆け寄ってその両手を掴んだ。張りつめかけていた空気が一気に壊される。
「ちょっとあなた!凄いじゃないの、びっくりしたわよ!」
「……え、いや、べつに……」
「いやぁね、謙遜しちゃって。ねぇ、少しゆっくりしていきなさいよ、お茶くらいしか出せないけど……そこのお二人もご一緒に。あら?もうひとりの……あの銀髪の人は?」
「なんだか見たことも無い術で消え……」
「あ、あぁ、彼、先に帰っちゃったみたいです……!」
 慌ててヴェイルが横から口を挟んだ。人が消える、などという考えられないような現象を何も知らない人間に説明するなど話がややこしくなる原因でしかない。自分たちはシャールが常人でないことを知っているため、まだその事実を受け入れられるけれども、このドクターはそうではない、と咄嗟に想ったが故の行動だった。
 しかし、シャールが絡んでいるからか何故か自己嫌悪してしまう。必死にヴェイルはシアンのためのフォローだ、と心の中で自分に言い聞かせていた。
 ドクターがやっと落ち着いてシアンの手を放し、ヴェイルとアルスを見遣った。
「えぇと、あなた方は……ご兄弟?お友達?……あぁ、そういえばこの子の名前もまだ聞いてなかったわね」
「あー……えっと、僕らは兄弟で……」
「I.R.O.警察本部のアルス・トロメリアと申します。こちらは弟のヴェイルと妹のシアン。この度は妹が大変お世話になりました」
 まだ兄弟という響きに馴染みが無いヴェイルにかわって、相手が年上だということを考慮してアルスが社交用の口調で言う。こんなにあっさりと言われれば誰も疑うことなどない。相変わらずの堂々とした様子に、ヴェイルはある種の尊敬を覚えた。
 アルスの言葉を聞いて即座にライエが反応する。
「I.R.O.警察本部の……あの、もしかしてトロメリア警視正、ですか……?」
「……あぁ、そうだが……?」
「あ、私、I.R.O.のシステム管理課で働いています、ライエ・ダルクローズと申します……!……その、似ている方だとは想っていたんですが……まさかご本人だとは想わなくて……」
 みるみるうちにライエの頬が朱に染まってゆく。自分でもそれがわかったのか、ライエは慌てて俯いた。
 そんなライエの様子に気付いているのかいないのか、特に気にする様子もなくシアンはアルスに訊ねる。
「知り合い?」
「いや……I.R.O.で働いてると言ってもセントリストの有職者の半数はI.R.O.勤めだからな。警察以外は殆ど面識が無い人ばかりだ」
「そういえばそうか。警察もだけど学校とか議事堂とか店とか、殆ど何でもI.R.O.にあるもんね」
 さらりと会話するシアンとアルスを見て、ヴェイルは反射的に焦りを浮かべた。ライエが顔を赤らめていることに二人は気付いていない、もしくは気付いていても思い当たる原因がなくて気にしていない。しかし、明らかにライエはアルスの方を上目遣いに見上げながら必要以上に緊張している。
 できるだけ自然に微笑みながら、ヴェイルはライエに声をかけた。
「あの、もしかしたら兄をどこかで見かけられた、とかですか? アルスってなんだか職場で目立ってるみたいだから、他の部署の方にも知られてるみたいで……」
 兄という慣れない響きの言葉を口にするヴェイルは、とても穏やかそうに見える。しかし、内心は鈍い二人のフォローという過重な負担で冷や冷やしていた。
 それでもライエにはその心境は悟られなかったらしい。それどころか、助けを借りられて安堵の表情すらのぞかせた。
「はい、私の周りでも、トロメリア警視正って有名なんです。それで、何度か御見かけしていて……」
「そんなところにも知れ渡ってるんだ。すごいね、アルス」
「俺は何もしていない。噂が一人歩きしているだけだ」
 ヴェイルに向かって淡々とアルスは言い放つ。そのアルスを見上げるライエの瞳は何か荘厳なものでも見たかのように輝いている。
 それを見てヴェイルは心の中で苦笑した。
(……すごくわかりやすい人だな、この人……。いや、それよりもアルスってこんなに色恋沙汰には疎かったんだ……)
 そんなヴェイルをも、シアンは冷めた目で見つめていた。シアンにとってみれば、角砂糖を買いに行くのにどうしてこんなことになってしまったのか、と想う気持ちの方が強いのかもしれない。
 ドクターがパンパンと手を軽く叩いた。
「ささ、立ち話も何だから奥の談話室にでも言ってらっしゃいな。事情聴取があるかもしれないけど、それは私に任せて、ほら」
「……いいんですか? 不死者を殲滅させたのは私なのに」
「いいのよ。事情聴取って時間かかるでしょ? 助けてもらっておいてそんな疲れるようなことさせられないわよ。何もお礼してあげられないから、せめてゆっくりして、ね?」
「……どうも……ありがとう、ございます」
 ぎこちなくシアンはそう答えた。