偽りをいつまで映す




 明け方に雨が降った日の昼間だった。
 ぼんやりとシアンはリビングのソファに座って窓の外を眺めていた。雨の雫に濡れたままの街が、陽の光を反射してキラキラと光っている。人工の建物が無垢な輝きを放っていた。
 外出時は上着を羽織っているが、家の中ではシアンは大抵半袖に長ズボンというスタイルだった。腕には無造作に包帯が巻かれていて、いつものようにリングなどのアクセサリは装着したままでいる。屋内外を問わず常にその装備状態でいることに意味があるのかどうかは本人以外わからない。
 家の中に目を移すと目の前の椅子に座ってアルスが何やら細かい作業をしていた。
 テーブルの上には黒いケースが置かれている。
 先日休暇の日にエマージェンシィが出て狩り出された分の休みが今日であるらしく、朝からアルスはずっと家にいる。その手元を眺めながら、シアンはぽつりと訊ねた。
「何してるの?」
 その声にアルスは手を止めて顔をあげた。作業の邪魔をしてしまったと想い、シアンは反射的に謝った。しかしアルスは構わずに手に持っていたものを見せてくれる。
 耐水ペーパーとリードがアルスの手には握られていた。触ったことはないし何の楽器のものかもわからない、という程度でしかないが、それでも一応シアンも何処かで目にしたことくらいはある。
「リードを削っていた」
「楽器、やるんだ? 知らなかった」
「普段は仕事の休み時間にI.R.O.のホールとかで勝手にやってるからな。家でも防音はきいているから問題はないが、ホールの方が響きが良い。ホールには他の楽器も置いてあって好きに使えるからな」
「ふうん……アルスって結構ディレッタントなんだ」
 シアンしかいないため、勝手にという言葉には何の反応もない。アルスはそれで構わないが、ヴェイルがいたなら「勝手にって、いいの?」と言っただろうなとは想う。
 会話のリズムだとかパターンだとかが生まれてきている現状を見れば、三人は本当の兄妹のようだった。
 こうして訊ねてくるシアンをアルスは可愛い妹のように見ている。それは無意識なのかもしれないが、何かアルスにそうさせるものがシアンにはあるのかもしれなかった。
 持っていたものをテーブルに戻すと、アルスは黒いケースを開けた。そこからクラリネットを取り出して慣れた手つきで組み立て始める。シアンは黙ってその様子を珍しそうに観察していた。
 玄関から扉の開閉する音が聞こえた。
 音に反応して二人がそちらを見遣ると、買い物袋を下げたヴェイルの姿がある。
「おかえり」
「ただいま、やっぱり昼間の方が店空いてるね」
 もうすっかりこの家の家事を引受けることに慣れてしまったヴェイルが、食事の買い物を済ませて帰宅したのだった。そのままキッチンへ向かって荷物をおろす。そして袋の中身を確認してから「あっ」と声を漏らした。
「しまった、角砂糖かガムシロップ買おうと想ってたのに忘れてた」
「べつに一日くらい無くても平気だ」
 クラリネットのリガチャーを握ったままアルスはそう言う。それでもすんなりとは返事をしないヴェイルを見て、シアンはゆっくりと立ち上がった。
「私が買ってくる。散歩行こうと想ってたから、ついでに」
「いいの?」
「うん。散歩がてらだからヴェイルが行くより時間かかるかもしれないけど」
「そんなことは全然構わないけど……。じゃあ、お願いしようかな」
 ポケットから財布を取り出してヴェイルはシアンに手渡した。財布を受け取ってシアンは半袖の上にグレイの上着を羽織る。それから左右非対称の手袋をポケットに入れると玄関へと向かった。
 ヴェイルが背後から声をかける。
「結構陽射しが強いから外歩くときは日陰歩かないと駄目だよ。ぼうっと歩くのもいいけど車には気をつけてね」
 小学生にでも言うかのような言葉を並べるヴェイルに、シアンは曖昧に頷いた。わかっているのかいないのか、といった感じである。
 そのまま靴のベルトをしっかりとしめて、シアンは家を出て行った。
 その姿を見送ったヴェイルに、アルスは呟く。
「……そんなにひとりで出かけると頼りないのか、あいつは」
「いや、しっかりしてはいるんだけど……ひとりで歩いてると何か考えごとでもしてるのか、ぼうっとするきらいがあるから心配なんだよね……」
「……保護者も大変だな」
「保護者っていうほどのことはしてないよ。ただ……何か危なっかしいんだよねぇ」
「それはそうだな……。それに……何か不安定な存在のような気がする。近くにいながら遠い存在のようにも感じるな」
「どういうこと?」
「言葉通りの意味だ。俺はあいつからそういった印象を受ける。ただの直感だ、気にしてくれなくていい」
 あっさりとそう話を切り上げると、アルスは再びクラリネットに意識を集中した。クラリネットは電気の光を反射して独特の光沢を放つ。
 ヴェイルも自分のするべきことに戻った。買い物袋から買ってきたものを取り出して、冷蔵庫や冷凍庫に入れてゆく。その作業を続けながら何気なく言った。
「それにしてもコーヒーを一杯飲むのに角砂糖5個も入れる人なんて初めて見たよ」
「ああ、よく言われる」
「……だろうね」
 この家の角砂糖やガムシロップの消費の殆どの原因であるアルスがあまりにもあっさりとしていたため、ヴェイルは苦笑しながら諦めの混ざった声を漏らした。










 買い物をするだけならばI.R.O.の中にあるショップで事足りるのだが、何となく陽の光を浴びたくてシアンはI.R.O.の外へ出た。
 陽射しが眩しい。
 日陰を歩くように言われたことを思い出す。I.R.O.の周囲はビル群が立ち並んでいる、日陰を見つけるのは容易だった。
 鋪装された道路とどれも同じような高層の建物、それを装飾するように緑が道端に植えられている。慌ただしく車が行き来して、その脇の割と広い歩道には人の姿が耐えること無く見られる。
 エンジンの音や人の声がシアンの頭をぼうっとさせた。散歩は好きなのだが、雑踏はどうしても苦手だった。周囲の人々が自分の中に入り込んでくるような気がする。しかしセントリストの中心地で散歩をするとなると、雑踏と無縁というわけにはいかない。
 人並みに呑まれかけながらどこへ行くともなく、ただシアンは道をまっすぐに歩いた。
 10分ほど歩いてある程度雑踏から抜け出しただろうか、最初のような息苦しさがなくなって、シアンはほっと一息ついた。まだ人の姿はあるものの、少しは落ち着くことができる。
 やっとのんびりと歩くことができる、と想いながら足を進める。まだまだ続くビル群が巧い具合に日陰を生んでいた。
 ある曲り角に差し掛かったとき、人影が急速に接近してきた。正確には、ただの人影ではなく、自転車に乗った人影である。咄嗟にシアンは反射神経を活かしてそれをかわそうとしたが、躊躇した。
 地面はコンクリート、自転車の正面にはコンクリートの壁、しかも周囲にはクッションとなりそうなものは何も無い。もしこの人影を避けてしまったら、人影は間違いなくコンクリートに衝突してしまう。勢いからすれば怪我がないはずがない。
 瞬時にそんなことを頭の中に巡らせたが、躊躇している間に自転車はシアンに正面衝突した。
 目の前が真っ白になって鈍い痛みが身体に走った。
 短く悲鳴を漏らす。
 衝突で弾かれたシアンの身体はコンクリートの上に座り込んでいた。
「ご、ごめんなさい……!」
 女性の声がしてシアンは顔をあげた。
 波打つ少しパーマがかった金髪に緑色の瞳、爽やかなワンピースに身を包んだすらりとした女性だった。年齢は20歳手前くらいだろうか。
 衝突した瞬間、何事だろうと足を止めた通行人も、殆どが各々の目的地に向かって再び足を進め始めている。人の声がまたざわめき始めた。
 心配そうにシアンの顔を覗き込みながら女性は手を差し伸べる。
「本当にごめんなさい、あの…立てそう……?」
「あ……はい、大丈夫です」
 差し伸べられた手をとって、シアンはゆっくりと立ち上がった。特に後に残るような痛みはない。マイペースに服に着いた埃を落として、その場を去ろうとした。
 すると、そんなシアンの右手を女性がしっかりと両手で掴んだ。
「大丈夫って……あなた、怪我して……」
「……? あぁ、ほんとだ」
 ぼんやりと自分の右手を見遣ってシアンはそう言う。手の甲が擦り剥けて軽く出血していた。手袋をポケットに入れたまま歩いてきてしまったが、家を出るときにはめておけば良かったのかもしれない。しかし、この程度の怪我など、どうということはなかった。
「このくらい放っておけば治ります。気にしないで下さい」
 シアンはそう言ったが、女性はシアンの手を掴んだままでいる。
「駄目よ、ちゃんと消毒しなきゃ……!時間あるでしょ? ほら、こっち来て」
「いや、でも……」
 角砂糖買わないといけないから、と言いかけて、この状況でそんな言葉は何の効力も発揮しないことに気付いて言うのをやめた。この女性の勢いは止められそうにない。
 何よりシアンは面倒なことは苦手だった。ここで女性を巧く振り切るのはどう考えても面倒である。無理矢理逃げるのはいい気分はしない。
 仕方なくシアンは女性に促されるままに歩いて行った。










 自転車を押す女性に連れられて二分程歩き、辿り着いた先は聖堂だった。
 ビル群の立ち並ぶ街の中に荘厳な建物が場違いなように建っている。クラシカルな雰囲気が漂い、大きな鉄製の門の向こうには白い壁の聖堂がそびえ立つ。門は開いていて、聖堂の中から漏れている光は明るい。門から建物までの短い道の周囲には若々しい緑が育っている。神聖ではあるが重々しい雰囲気はなく、とてもオープンな感じがした。
 門を潜る前に女性は「もしかして宗教的な問題とかあったりする?」と訊いてきた。シアンはあっさりと首を横に振る。すると女性は「よかった」と言いながら入り口に自転車をとめた。
 ゆっくりと二人は聖堂の中に足を踏み入れた。軋んだ音がして木製の大きな扉が開く。
 まっすぐ奥に通路が伸び、その両側には木の椅子が並んでいる。祈りを捧げているのだろう人の姿がある。左右両側の壁に沿っていくつか扉があるのがわかる。普通の建物の2階分くらいの高い天井の下、厳かで静かな空間が広がっていた。そしてその通路の先にはひときわ明るい場所があった。しかし不自然なほど、そこには何も無い。ただ空っぽの空間を光が照らし続けているのだ。
 ぼうっとその空間を眺めていると、女性に「こっちよ」と声をかけられた。言われるがままにそちらへ向かう。右側の壁にある扉のひとつに二人は入って行った。
 扉の先は医務室だった。清潔そうな白いベッドが奥に並び、手前には椅子やソファが置かれている。白い壁や白いタイル床のおかげで、部屋全体が明るすぎるほどだった。
「あら、ライエちゃんどうしたの?」
 ひょっこりと奥から顔を出したドクターらしい白衣を着た女性が声をかける。後ろでひとつにまとめた黒髪と、眼鏡が印象的であった。外見から推測すると50歳手前くらいに見えるが、随分と明るくて若々しさがある。
 シアンを連れてきたこの女性はライエというらしい。ドクターから親しく声をかけられていることから考えると、ライエはこの聖堂によく来ているのだろう。
 ライエはシアンの腕を引いた。
「あの、私、道でこの子とぶつかってしまって怪我させちゃったんです……」
「あらら……、どこ怪我したの?見せてごらんなさい」
(……なんだか…大袈裟なことになったかも……)
 ライエとドクターの会話に半ばため息をつきながら、シアンはされるがままになっていた。右手をドクターに預けたまま医務室を見回す。下手に何かするよりは消毒なり何なりしてもらってさっさと帰るのが得策そうだった。
 右手の甲に冷たさと鋭い感覚が走る。あぁ、消毒しているのだろうなと想いながらシアンは部屋の様子を見続けていた。聖堂自体も厳かな雰囲気はあるものの特にきらびやかな装飾はなかったが、医務室はもっと殺風景だった。どこかの学校だとか施設だとかにもありそうな普通の医務室である。
「はい、消毒しておいたわ。御大事にね」
 ドクターの声がしてやっとシアンは自分の手の甲を見た。傷を覆うようにガーゼが貼られている。
 シアンは俯き加減に言う。
「……ありがとう」
「本当にごめんなさいね。聖堂<ここ>に来ようと想って急いでたの……」
「べつに構いません、謝らないでください。何ともないから」
 改めてライエが謝罪の言葉を口にしたのに対して、シアンは無表情のまま言い返した。
 その抑揚の無い言い方と表情を持たないオッドアイにライエは怪訝そうな顔を浮かべる。怒っているようには見えないが、シアンにはあまりにも冷たい瞳をしている。
 遠慮がちにライエは訊ねた。
「あの……、どうかした?」
「……? どうもしてませんけど」
「……そう、だったらいいのだけれど……」
 ライエがその言葉の続きを言おうとした瞬間、突然に圧迫感が迫った。聖堂の方から何人かの悲鳴が聞こえた。
 三人が同時に聖堂の方を振り返る。
 不死者がいる、間違いはない。
 聖堂に通じる扉をシアンは凝視した。聖堂にいた人々が不死者に襲われているのだろう。一般人が不死者に対抗できるとはとても想い難い。術を使える人間は多いが、不死者を倒せる程の精神力を持った人間と言えば警察か術の鍛錬を養成機関で行っている者くらいである。そんな人間がここにいる確率は低い。
 聖堂へ飛び出そうとして、シアンはライエの状態がおかしいことに気付いた。ライエはその場にうずくまって身体を震わせていた。
「厭………い…や、」
「大丈夫よ、ライエちゃん、落ち着いて……!」
 ドクターがライエの肩をそっと抱く。
 荒い呼吸を繰り返しながら、ライエはぎゅっとドクターの白衣にしがみついた。その目はどこも見ていない。ただ虚ろなまま何かにひたすら脅えているようだった。
 その様子を見ながらシアンは聖堂へ続く扉を開けた。その音に驚いてドクターがシアンの方を見遣って叫ぶ。
「ちょっと、あなた何するの! 不死者は建物を壊さないんだからここにいればまず安全なのよ!? それに不死者がここにまで入って来たら……!」
「じゃあ私が出たら閉めてください」
「何言ってるの!あなた死んじゃうわよ!」
「大丈夫です。そんなに強い不死者でもなさそうだから。礼拝者に被害が出ないうちに片付けます」
「駄目よ……! やめて、あなたなんかが不死者に抗えるわけないわ! 莫迦なことしないで! ……もう、誰も不死者に傷つけられてほしくないの!!」
 ドクターにかわってライエが大声で叫んだ。
 声がかすれるほどの勢いに、シアンは一瞬目を丸くした。ライエとドクターが必死な瞳でシアンを見つめている。ライエのその瞳はどこか涙ぐんでいるように見えた。
 「もう誰も」という言葉が引っかかるが、今はそんなことを気にしている場合ではないとシアンは判断した。
 その視線を振り切ってシアンは扉の向こうへ歩き出す。
「誰も傷ついてほしくないなら咎めないでください」
 それだけ言うと、シアンは扉の向こうに姿を消した。
 開けっ放しの扉が空しく聖堂の明かりを受け入れていた。