それが必然だったと君は言う




 昼からはずっと曇りが続き、その延長線のように夜がきた。
 夕食の準備をヴェイルはゆっくりと進めていた。アルスがまだ帰ってきていないため、家にはシアンと二人きりである。シアンはどこかから引っ張り出してきたのかアルスから借りたのかは知らないが、本を並べてリビングのソファでそれを呼んでいた。聞こえるのは物音だけ、という大変静かな状態である。
『貴様もアリアンロッドに惚れてんのか、』
『今考えてもどうにもならないことは捨て置いた方がいい』
 シャールとシアンの声がヴェイルの頭の中に響く。
 ぼんやりとグラタンのホワイトソースの味見をする。別のことに気をとられていても味覚はしっかりとしているらしく、口の中に満足のいく味が広がった。
 食事の準備が完了して、ゆっくりとヴェイルはキッチンを離れた。そしてシアンの坐っているソファに近づく。その気配に気づいて、シアンは本から目をそらせて顔をあげた。ふと目が合ったヴェイルの真剣な眼差しに、首を傾げる。
「……どうかした、」
 一瞬ヴェイルが躊躇した。一時的に部屋がなんの音もない空間になる。
 その後、思いきったようにヴェイルは口を開いた。
「シアン、…………僕は、」
「おっじゃましまーっすッ、」
 突然バタンと大きな音をたてて玄関の扉が開いた。慣れた風にクルラがずかずかと家の中に入ってくる。その後ろには仕事から帰ってきたアルスの姿があった。
 玄関からやってきた嵐にヴェイルは言葉を繋ぐことを諦めた。話の続きを待っているシアンに「ごめん、なんでもない。忘れて」と言いながら今日何度目かの苦笑を浮かべる。ヴェイルの意図がわからず、シアンはただ曖昧に頷いた。
 玄関を見遣ってシアンはアルスに声をかける。
「おかえり。お疲れさま」
「ああ、お前も今日は疲れただろう」
「…まあ少しは。結構沢山歩いたし」
「……そうじゃなくて術の乱発のことを俺は心配したんだが…………まあいいか…」
 腕章を外しながらアルスはリビングに入った。それを見てヴェイルがキッチンに戻る。クルラが来ることなど考えてはいなかったが、ホワイトソースは多めに作っておいたのでグラタンはちゃんと四人分作ることができそうだった。その旨をアルスに伝えると、早速仕上げにかかる。
 ぱたんとシアンは本を閉じて坐ったままクルラを見上げた。三日前にモニタを通して会ったが、実際に会うのは初めてである。ボーイッシュな印象はそのままだった。短くカットされた髪と、女性にしては長身なのがその印象を与えるのだろう。
 その目の前でクルラがアルスと話を進める。
「おっ、ええ匂いしてるやん。いやぁ、アルちゃんとロビーではち合わせしてよかったわー、美味しそうなご飯にもありつけたし」
「準備しておいてくれたヴェイルに感謝するんだな。それにこいつの料理は俺の料理なんかよりは断然旨い」
「そうなんや、うっわぁ、楽しみやなあ。……あ、でもアルちゃんの料理も充分美味しいで、」
 そんな話を耳にしながら、シアンはゆっくりと立ち上がった。並べた本をまとめて元あった場所に戻しに行こうとしていると、ふとクルラと目が合った。シアンが目をそらせる間もなく、クルラが勢い良く接近してくる。クルラにがっしりと両肩を掴まれたかと想えば、そのまま躊躇うことなく喋りかけられた。
「シアンちゃん実物やー、ちっちゃいなあ可愛いなあ……モニタ越しに見ても可愛かったけど近くで見たら可愛さ百倍やなっ、」
「……え、いや……あの……」
「え、なに、照れてんのかいな、可愛いわあ。アルちゃんもヴェイルくんも可愛いし、極楽やなぁ、ここ」
 クルラが喋り出すともう誰もついていけなくなる。可愛いという言葉を向けられて驚くヴェイルにアルスが「あいつにとって総ての生物は可愛いんだ……」と溜め息混じりに呟いていた。
 準備のできた皿をオーブンに入れてタイマーをセットしながら、ヴェイルが遠慮がちに切りだす。
「あのさ、まだ焼き上がるまで時間があるから、今のうちに波動観測の分析、しておこうか、」
 言いながらヴェイルがアルスを見上げると、クルラもはしゃぐのをやめてそちらを見た。アルスが「そうだな」と首肯する。
 それを確認してシアンがヴェイルに歩み寄る。そしてD八区画でヴェイルに渡したオレンジ色のボールを受け取った。ボールは電気の光を反射して小さく煌めいている。
 ボールをシアンは両手でそっと包んだ。その様子を三人ともがじっと眺めている。
 シアンが精神をボールに集中させる。淡い暖色の光が零れ、ボールはふわりと宙に浮き上がる。そしてそれは段々と大きさを増し、シアンの掌におさまるくらいの小さなものだったのが直径五十センチメートルほどの大きさに変化した。それと同時にボールの中にゆっくりと白い文字で数値が浮かび上がった。そこには、観測された波動が数値で示されている。
 数値を解読しながらクルラが驚嘆する。
「これはまた……えらい細かいとこまで観測してあるなあ……。普通の術者では無理やで、こんな細部まで観測するやなんて……術は精神力に依存するて言うし、よっぽど精神力強いんやなあ、シアンちゃんて」
「ここまで詳細だと、なにか掴める可能性も高そうだな」
 アルスも解読を進めながら呟く。しかしボールの中にはぎっしりと数値が敷き詰められており、とても短時間ではすべて解読できそうにはない。上着のポケットから、クルラが小さなグレイの箱形をした機械を取りだした。
「とりあえず、このデータまるごとダウンロードさしてもらうわ。家帰ってからコンピュータ使て解析した方が早そうやし……アルちゃんのとこよりもスペックがうちの方が上やさかいな、ここでやるより効率的やろ」
 機械の蓋をスライドさせると、そこに小さなレンズ状のものが現れる。それをボールに向かってクルラが翳すと、ボールは淡く溶け始め、ゆるりとそのレンズに吸収されてゆく。
 その光景を見てヴェイルは目を丸くした。
「どう、なってるの、」
「ん、これか、うちの作った機械や。ここにレンズあるやろ、これで分析した術力データを吸収して普通のデータファイルに変換できんねん」
「すごいね。術が生み出したものが普通のデータになるなんて。さっき言ってたコンピュータを使うっていうのは、この機械で変換したデータを扱うってことだったんだね」
「そゆこと。ああそうや、変換後のデータ、コピーしてアルちゃんの手元にも置いといた方がええな」
 ボールのデータをすべて吸収すると、クルラは機械を操作し始めた。
 それを見ながらシアンはまたソファに戻って腰を下ろした。作業を進める二人と、それを見守っているヴェイルをぼうっとシアンは見続けていた。アルスとクルラが話を続ける中、ヴェイルはオーブンの様子を一度覗きに行った。それから、そのままシアンのいるソファへと歩み寄ってくる。
「二人ともすごいよね。誰でも解読できるものじゃない……特にシアンの術だと本当に細かいところまで観測されてるから、余計に難しいと想うよ。もちろん、すぐには解読できないほど詳細でなければアルスたちの要望にはかなわないんだけど」
 言いながらヴェイルはシアンに微笑みかけた。しかしシアンは特に反応を示さない。そして、しばらくしてからヴェイルを見上げて口を開いた。
「……さっきなにを言おうとしてたの、」
「あ、いや……、それは……」
 ヴェイルは言葉に詰まった。それでもまっすぐに見上げてくるシアンに対して、浮かんでくる言葉を繋ぐ。
「その……悪いとは想うんだけど、頭の中まとまってないまま話そうとしちゃったから……自分でもなにが言いたいのかわからなくなっちゃったのかもしれない。また、言いたいことがまとまったら話すよ。……それじゃ駄目かな、」
「……私はべつに。ヴェイルがそうしたいならそれでいいよ」
「うん、……ごめんね」
 力なく、それでもヴェイルは微笑む。シアンはそっと視線をそらせて、ぼうっとアルスとクルラを見ながら、言葉だけをヴェイルの方に向けた。
「まとまらなくてもなんでも言えばいいと想うよ。足りないなら、いくらでもつけたせばいい。言葉は気持ちを伝えるためのものなんだから、巧くても継ぎ接ぎでも何でも構わない……私は最後まで聞くから。もし今言いたくないことならそれはそれでいいし」
 声に抑揚はない。ただ単調に並べられた言葉ではある、けれどそれはヴェイルの中で大きく反響した。
 胸の内から溢れる想いをヴェイルは呟く。
「……ありがとう、気を遣ってくれて」
「私のためにヴェイルが苦しむのが嫌なだけ。ただそれだけ。だから結局は自分のためなのかもしれない」
「ふふ……不器用だね、君は」
「不器用、」
「ううん、いや……たとえ君の言う通りだとしても僕は嬉しいよ」
 ちらりとヴェイルの方に視線を戻してきたシアンにヴェイルはふわりと微笑んだ。
 シアンは首を傾げる。それと同時に、オーブンから電子音が鳴った。タイマーがゼロになっている。
 それを聞いてヴェイルはオーブンに歩み寄った。オーブンを開けると丁度良い焦げ具合のついたグラタンができあがっている。それを慎重な手つきで取りだすと、受け皿に乗せてテーブルに並べた。
 それにクルラが一番に反応する。
「よっしゃ、ご飯やご飯っ、食べるでーっ」
「……お前、一応ここ俺の家だぞ……」
「細かいこと気にしたらアカン、早よせな冷めるで、」
 コピーしたデータが入ったディスクを機械から取り出してアルスに手渡すと、早速クルラはテーブルに向かう。呆れ顔をしながらアルスはディスクをサイドテーブルに置いてあったケースに仕舞った。
 今度こそ本を元の場所に戻しに行こうと、シアンは歩きだした。シアンの寝室の隣にやたらと本棚が並んでいる部屋があり、本はそこから借りてきたものだった。一応アルスに断りはいれておいたが、食事時には片付けておいた方がいい。ヴェイルに視線で断りをいれて、本を借りてきた部屋へ向かった。
 リビングから聞こえてくる声を背にしながら、部屋の電気もつけずに手探りで本を片付ける。それから食事に向かおうとしてリビングの方に向き直るとズキンと頭が痛んだ。
「…………っ、」
 思わず立ち止まってぎゅっと目を瞑る。
 しかし痛みは一瞬で、もう何ともなくなっていた。本当に頭痛がしたのかと想うほど、後を引かない痛みだった。
 それなのに、身体は何かを訴えていた。なにもないのに寒気がする。
 ワタシハ ナニカヲ ワスレテイル
 言葉だけが意味を放棄して空しく頭の中で響く。
 苦しいわけでも哀しいわけでも辛いわけでもない、ただそこにはなにもない真っ暗な空間が広がっていて、それに呑みこまれそうな気分になった。
 原因はわからない。ただ本能的に身体がなにかを叫び、感覚だけが先走っている。
 足が宙に浮いているようだった。
「……なんだろう、この厭な感じ……」
 そう呟いてから、やっと冷静にものが考えられるようになったらしい、と客観的にシアンは想った。段々と落ち着いてきている。感覚などという目に見えないものは去ってしまえばすぐに流れてゆく。
 リビングから明るい笑い声がする。
 そっと、かぶりを振る。
 リビングから漏れる明るい光へ向かって、シアンはゆっくりと足を進めた。