それが必然だったと君は言う




 建物の崩壊を凌ぎきって、もうすっかり頭上に空が見えるようになってから、ヴェイルとアルスはレジストを解いた。
 障壁が自然と消えてゆく。二人のレジストによって障壁を創りだし、崩れ落ちてくる瓦礫を防いで、なんとか無事に地上に出ることができた。
 シャールの姿はどこにも見当たらない。気配すらも消えている。あれだけの精神力を有しているのだから、建物の下敷きとなったとは考えにくい。
『俺とアリアンロッドの楽しい時間を邪魔すんじゃねぇよ』
 姿を消したシャールの無気味な声がヴェイルの頭の中に響く。まだあの紅い瞳に睨み続けられている気がする。その瞳はヴェイルを嘲り、それを楽しんでいるようでもあった。
 その声を頭の中から消滅させようと、ヴェイルは必死に他のことに意識を集中させた。他に考えなければならないことはある。とにかく現状を把握しようと、周囲を見回した。
 もはやギムナジウムは跡形もなかった。ただ足元に瓦礫が転がっているだけになっている。ここに直前まで建物があったなんてとても信じられなかった。
 その崩壊具合を二人がなんとも言えない様子で眺めていると、近くで咳きこみが聞こえた。それに反応して二人がそちらを見遣ると、瓦礫の上に座り込んだシアンが身体を丸めて咳きこんでいる。慌ててヴェイルが駆け寄った。
「シアンっ、……大丈夫、」
「けほっ、…………ん、大丈夫…、ちょっと砂埃がきつくて、」
 そう言いながらシアンはまだ咳きこんでいるが、外傷はない。レジストを使わず、アサルトで崩れ落ちてくるものすべてを破壊しつくしたために、無事ではあった。しかし自分の周辺で瓦礫を破壊してしまったがゆえに、砂埃に否応無しに巻き込まれてしまったのである。
 しばらくしてからやっと落ち着いて、シアンはヴェイルとその後ろに立っているアルスを見遣った。なにか少し険しい表情をしているヴェイルと、いつも通り冷静そうなアルスを瞳に映す。そして、ぽつりと呟く。
「……アルス、その右腕……怪我してるんじゃない、」
 シアンの言葉に反応して、ヴェイルがアルスの方を振り返った。アルスの右腕から手の甲にかけて、紅いものが流れている。
 しかしアルス本人は少しも動じることなく、袖を捲るとゆっくりと傷を眺めた。上着が破れていないことからすると、袖からなにかの破片のようなものが入り、衝撃によって服の内側で擦れたのだろう。右腕に軽く裂傷ができていた。
「おそらく、レジストを破られたときの衝撃かなにかだろう……たいしたことはない」
「駄目だよ、放っておいたら。……じっとしてて」
 ゆっくりとアルスの腕に手を添えると、ヴェイルはそっと目を閉じた。精神の集中が高まってゆく。
 ヴェイルの手からやわらかな光が生まれる。その光は柔らかく淡い光を放ちながら傷口に集った。
「……彼の者に際限なき加護を与えん」
 歌うような言葉がヴェイルの唇から零れる。
 傷口に触れた光は広がって消えてゆく。それと同時に傷口はみるみるうちに塞がり、痛みも、すべてあっという間に取り除かれた。
 アルスが目を丸くする。
「……これは……、」
「治療術……レメディだよ」
「……驚いたな、はるか古代に失われた術だと聞いていたが、未だに使える人間がいるとは知らなかった。しかしこの時代にレメディが使えるなんて貴重な存在だろう」
「うん、まあ……でも術の研究者とかなら他にも使える人はいるんじゃないかな」
 ヴェイルが曖昧に微笑んだ。
 その様子をぼんやりと眺めながら、シアンはギムナジウムが全壊する直前のことを思い出していた。術が衝突した中、ヴェイルやアルスには聞こえていなかったかもしれないが、シアンの頭の中にシャールの声が確かに聞こえていた。
『俺がお前に出逢えたことは、俺と世界と……そしてお前を必ず変える。俺は今日という日に感謝するぜ、こんな日があるのなら腐った世の中に今まで生きてきた意味もあるってもんだ。……また逢える日が楽しみだ、愛しきアリアンロッド』
 その言葉を想い返しながら、シアンはぽつりと呟く。
「シャールと世界と、私を変える……、」
 そのことについて考えかけてから、シアンはかぶりを振って思考を中断した。
 ギムナジウムで感じたうすら寒い感覚はもう感じない。シャール本人か、あるいは彼の持つなにかの要素がその感覚を引き起こしていたことは、これでほぼ確定できる。
 アルスの溜め息が聞こえた。
「……しかし……これはもう誤魔化しがきかないほどに壊れたな……」
「……だねぇ……」
 ヴェイルも思わず苦笑いを浮かべる。その横で未だ座ったままのシアンがゆっくりと周囲を見回した。
「あ……そういえばそうだね」
「そういえばじゃないよ……君が今坐ってるのは建物の残骸の上なんだから……」
 がくりとヴェイルが肩を落とす。
 どうすべきか、とアルスが言いかけたとき、アルスの上着のポケットで通信機が鳴った。シアンやヴェイルに渡したものではなく、警察で使用しているものである。アルスの掌にすっぽりとおさまるほどの黒い箱形をしているそれを取り出して応答用スイッチを入れると、小さいモニタに番号が表示された。通信相手の識別ナンバーを示す番号である。アルスがそれを確認すると同時に男性の声が聞こえてきた。
「アルス、俺だ、俺、ティラーだ。なんか通信状況悪くて連絡つかなかったから心配したんだぜっ。で、お前今どこにいる、」
 切羽詰まった声に思わずシアンとヴェイルが顔を見合わせた。喋り方から推測するとアルスと仲のよい人物なのだろう。その背後から他の人の声が聞こえている。
 一瞬驚きを示したが、アルスはきわめて冷静に返事をする。
「何があったのか知らないが落ち着け。……俺は今D八区画の北端にいる」
「北端……それってあのボロ校舎のあるとこじゃねぇだろうな、」
「ボロ校舎……ギムナジウムのことか、……まさにそこにいるが」
「えっ……、正直に言うの、誤魔化すとかないの、」
 あっさりとしたアルスの発言に、通信を聞いていたヴェイルが吹きだした。そんなヴェイルの様子にはまったく気づかず、また頭の中には誤魔化すという言葉など微塵にも浮かばないまま、アルスは会話を続けた。
「俺がここにいることに何か問題でもあるのか」
「あるに決まってんだろっ、大ありだ大あり。そこで今日警察四人も負傷してんだぞ……なんかわけのわかんねぇ奴、顔ははっきり見えなかったらしいんだが、ありゃあどう考えても警察じゃなくて一般人だろうけどな、とにかくそいつが見境なくアサルトぶつけまくってきやがったんだよ。しかもその強さが半端じゃねぇらしい。その上こっちはなにもしてねぇのに、邪魔するなだとか目障りだとか意味わかんねぇことばっかりブツブツ言ってたらしいし……」
「……何だと、」
 アルスの表情が瞬時に険しいものに変わった。シアンとヴェイルの方を振り返る。
 ヴェイルがアルスを見つめ返した。シアンだけは表情の変化もなくそこに坐ったままでいるが、話のはしっかりと聞いている。
 この話から推測するに、そのわけのわからない奴というのは恐らくシャールであろう。そう考えればシャールがアルスを見たときに「『また』警察か」と言った理由も理解できる。
 再び通信機からの声がする。
「それで、お前は大丈夫なのかッ」
「あ……あぁ、大丈夫だ。……ギムナジウムは見事に崩壊したがな」
「崩壊……って、多分地震の所為じゃねぇの。さっきそこ付近震源で変な地震あったろ。まぁもともとボロ校舎だったし……」
「…そうか、地震か……」
「間違ってはいない……けどなにか違うっていうか、地震の原因ってシアンとシャールの術力のぶつかり合いのせい……だけど警察の解釈だと僕らは助かってる……でも、いいのかな、これで……」
 ヴェイルが頭の中で逆説を次々と並べ、言葉にして呟きながら肩を落とす。誤魔化しがきかないほどに壊れたのに、簡単に誤魔化せてしまったのである。いや、正確には警察が既に誤解をしたまま結論を出してしまっていたからなのだが。
 崩壊の一番の原因はもちろんシャールなのだが、彼ひとりでなにもかも破壊してしまったというわけではない。けれどアルスはとくに訂正することもなかった。
「とりあえず、俺は無事だ。今から報告も兼ねて戻る。本署に直接向かって構わないな、」
「ああ、そうしてくれ。俺らもみんなこれから引きあげだ。ひとまずお疲れさん」
「お前もな」
 相手が通信を切断して、通信機にノイズが走る。それを確認してアルスは通信機のスイッチをオフにする。モニタのバックライトが消えると、通信機を上着のポケットに仕舞った。
 湿っぽい風が吹き渡る。それは瓦礫の中から細かい砂を攫ってゆく。街は束の間の静けさに包まれていた。不死者による混乱が去り、もうすぐ避難していた住民が戻ってくる。そうなればまたこの区画は人の声が溢れる場所となるのだろう。
 とにかく、ここにいつまでもいるわけにはいかない。ゆっくりと立ち上がりながらシアンはヴェイルを見つめた。その視線に気付いてヴェイルが首を傾げる。
「どうしたの、シアン、」
 冷めた瞳がヴェイルを映している。しばらく黙ったままでいたが、やがてシアンはぽつりと呟いた。
「……怒ってるの、」
「え、……怒ってるって、僕が、……誰に?」
「……さっきの…なんだっけ、……そう、シャールに」
「べつに、怒ってはいないよ、」
「じゃあ気にしてる。シャール本人とかよりも、彼の言葉。違う、」
 さらりと言うシアンにヴェイルは言葉を失った。
 ヴェイルの胸がちくりと痛む。同時にシャールの声が自然と想いだされた。
 シアンの言葉は正鵠を得ていた。シャールのあの行動や精神力などではない、ヴェイルの頭の中には彼の言葉が印象強く残っている。それが、シアンには簡単に見抜かれていたらしい。
 返事もできないまま視線をそらせてしまったヴェイルに、シアンは淡々と言い放つ。
「心配しないで、責めてるわけじゃないから。ただ今考えてもどうにもならないことは捨て置いた方がいい。肝心なところで雑念が入れば判断力が鈍る。ありもしない枷にとらわれたって、いいことなんかなにもないよ」
 ひとつ間を置いて「うん、……そうだね」とヴェイルが返した。
 シアンは言い終わったことをその後にまで引きずるつもりはなく、もう既に覇気のない表情に戻っている。ヴェイルも首肯してからすぐにいつもの柔らかい表情に戻った。
 アルスが呟く。
「……驚いたな」
「なにが、」
 シアンがアルスの方を振り返る。
 アルスはゆっくりと更に北へ向かって歩き出そうとした。ここからI.R.O.まで行くことを考えると移動手段はシップになるわけだが、そのシップに乗るにはD八区画を北へ抜けた場所にある乗り場を利用するのが一番早い。アルスの動きを見て、シアンとヴェイルもそちらに足を進める。
 歩きながらアルスは続けた。
「いや……、お前もそういう発言をすることがあるのかと想ってな」
「シアンはいつも辛口だよ」
 ヴェイルが苦笑する。どうやらこういったことは言われ慣れているらしい。しかしアルスにしてみれば、いつもやる気のない表情をしているシアンが厳しい発言をするのは意外だった。
 ヴェイルは小声で呟いた。
「でもそれがシアンなりのやさしさなんだ。彼女、やさしい言葉をかけるのって苦手みたいだから」
「そうらしいな……」
 ヴェイルに理解を示したアルスの前で、シアンがぼんやりと言葉を並べる。
「……なんか眠い……帰ったら昼寝かな」
「お前……数時間前に起きたところだろう」
 シップ乗り場に向かって足を進めながら、アルスは呆れた声で呟いた。