そして、始まる




 霧は晴れずに留まり続けている。
 異様な湿気が立ちこめる。
 そして、息苦しくなる程の圧迫感。
「ここも、か……」
 青年は辺りを見回した。
 金髪が生温い風に靡く。きちんと着こなしたスーツと左腕の腕章が霧の中に浮かんでいた。
 市街からは随分離れている場所とはいえ、ここもこの世界、ヴォイエントの中心地であるセントリストであることに違いはない。しかし、どう見てもそうは見えなかった。
 『KEEP OUT』と大きな文字で書かれたフェンスを越えた場所。何事もなければただ自然の残った場所であるけれど、今は不死者がはびこる地。
 ヴォイエントに不死者が出現してから二百年ほどになる。警察は治安維持のために、不死者のはびこる場所を立ち入り禁止区域に指定しては、殲滅を繰り返してきた。しかし何度それを繰り返しても不死者がこの世界から消え去ることはなかった。
 不死者は残留思念の具現、と言われている。けれどそれはヴォイエントに伝わる伝説でしかなく、具体的なことは何もわからない。はっきりしているのは、不死者のいる周辺には圧迫感が充ちていることと、不死者は人間を襲うということだけ。治安維持のためには何か手を講じないわけにはいかない。
「アルス、」
 その名を呼ばれて青年は振り返った。霧が濃くてその姿も確認し難い。同僚の姿がはっきりと見えてくる。
「そっちはどうだ、」
「駄目だな。気配はするが決定的なものがない……不死者も姿を現さない」
「そうか、こっちも同じか……。じゃあ、俺はもう少し周りの様子を見て来るよ」
「了解。気を付けろよ」
 それだけの会話をかわすと、同僚はまた背を向けて霧の中へ消えて行った。
 また圧迫感の中でアルスはひとりになる。
 蒼い瞳をそっと閉じて神経を研ぎすました。湿気を含んだ風が再びその金髪を揺らす。
 この場所の不死者の殲滅がアルスの今回の任務だった。その左腕にはI.R.O.のロゴの入った腕章、胸にも同様のロゴが入ったワッペンがつけられている。彼はセントリスト最大の組織であるI.R.O.……International Regulative Organization所属の警察だった。
(どこだ……どこにいる、)
 周囲の音を遺漏なく拾う。神経を集中していなければ風の音しか聞こえてこない。霧で周囲は見えないが恐らく大きな岩場にでも囲まれている場所なのだろう。音が僅かに跳ね返っている。
 本当に周囲の方が高くなっているとしたら、奇襲ということも有り得る。不死者の姿が見えない理由はわからないが、策略という可能性もある。不死者が何か思考を持っているとすれば、の話だが。
 突如、靴で小石を踏むような音が聞こえた。
 一度それが聞こえたかと思うと、その音は瞬く間に増えてゆく。
(やはり上か……数は…五十、五十一、五十八、……多いな……)
 音を瞬時に聞きとって、襲ってくるであろう不死者の数を判断する。研ぎすまされた聴覚が冴え渡る。
(…………、来るッ、)
 目を開いてアルスは両手を腰にあてた。そこに常備している銃を素早く引き抜くとバックステップで気配のする方向から遠ざかる。同時に銃のセーフティロックを外した。
 圧迫感が一気に差しせまってくる。
 精神を研ぎすましたまま、霧に向かって目を凝らす。ぼんやりと見えて来た不死者の群れに向けて一気にトリガーを引いた。
 ハンドガンだがなかなかの破壊力を持つ銃の震動が両手から伝わってくる。発砲音は周囲に反射して大きく響き続けた。
 今回の不死者は人の形をしていないようだった。どちらかといえば獣に近い。不死者は一定の形をしていない。人の形をしていることもあるし、今回のようなこともある。命を絶たれた者はいずれも悲鳴もあげず、どさりと地面に落ちて暫くするとゆっくりと溶けるように消えてゆく。
 銃だけで応戦するには無理があった。しかし今から応援を呼びにいくような余裕などない。上から飛びおりてきた不死者は撃ち落としても撃ち落としても迫ってくる。
 アルスは一度銃をひいて後ろに大きく跳躍した。アルスの元いた場所に不死者が一気に突っ込んでくる。地面は大きくえぐられ、霧に砂埃が混ざって視界が悪くなる。 目を閉じてアルスは精神を集中した。
 アルスの周囲に、吹いている風とはまったく違う風が発生する。
 それは冷たく、一気に勢いを増し、彼の周囲に壁のようになって立ちのぼった。
「蒼き双明 其の刃 光を称え集結せよ……、」
 アルスの唇から言葉が零れる
 充分に風を纏うと右手の銃を腰に仕舞い、空いた手にその風を集めた。
 冷たい風は宙に舞い上がり、霧を切り裂いて広がってゆく。
 目の前に不死者が迫りくる。
「……貫けッ、」
 広がる風を、不死者に向かって投げつける。
 冷気はアルスの意志のままに飛翔し、不死者に次々と突き刺さった。 力をなくした影がどさりと音をたてて崩れ去ってゆく。
 圧迫感が薄れはじめ、 アルスはゆっくりと目を開けた。
 集中した精神が緩む。術を生みだすほどの精神集中を維持し続けるのには限度がある。それでもまだ不死者の気配があった。アルスは再び右手に銃を手にしようとする。
 しかし、一瞬遅かった。
 不死者の影がアルスに覆い被さる。銃を抜いて構えて発砲するには距離が短すぎた。
「しまった……、」
 歯を食いしばって、なんとか銃を握ったままだった左手を構え、トリガーに指をかける。
 そこに突然、上の方から叫び声が聞こえた。
「伏せてッ」
 聞き覚えのない声だったが反射的にアルスは身体を伏せた。
 轟音と共に地面が揺れる。
 圧迫感が抹消されてゆく。
 なにが起きたのかアルスにはまるでわからない。 身体を伏せて目を閉じていてもわかるほどの発光があった、それだけだった。
 しばらくすると、まだ岩に跳ね返った音が残っているものの、発光も地面の震動も止んだ。周囲を警戒しながら、アルスはゆっくりと起きあがった。スーツに砂埃がついている。
「大丈夫ですか、」
 アルスの背中にそう声をかけたのはひとりの少年だった。茶髪で、背は低めな印象を受けるが、顔立ちからすると十七、八歳くらいに見える。水色の、膝丈ほどもある長いパーカーに、だぶついた紺色のズボンを身につけていた。
 少年は、身体をゆっくりと起こすアルスの身を案じるような表情をしていた。突然現れたこの少年に、アルスは戸惑いながらもしっかりと頷く。
「ああ……」
 完全に不死者の気配は消えている。
 銃にセーフティロックをかけてアルスは腰に戻した。 目の前にいる少年を一瞥する。少年の服は少しも汚れていない。
「礼を言う。……今の不死者の殲滅……、お前がやったのか、」
 アルスが見下ろした先で、少年は微笑みを浮かべた。
「ええ、まぁ……そんなところです。お怪我ありませんでしたか、」
「お陰様でな」
 そう言ってからアルスは自分のスーツについた砂埃を大きな手で軽く払い落とすと、改めて少年の方を向いた。
「ハンター……、というわけではないようだが……」
「……ハンター、というと、」
「それを訊く、ということは違うということだな。……ハンターは、依頼者の生活の脅威となる不死者を殲滅して報酬を得ることで生計を立てている人間たちの通称だ。セントリストには少なくないが……お前みたいに軽装な奴はまずいない」
 少年は普段着のような格好にしか見えない。どこにでも売っていそうな衣服に身を包んでいる。目に見える金属類もベルトの金具だとかアクセサリの類しかない。パーカーの裾から鞘が覗いているように見えるが、護身用に武器を携帯する人間など珍しくない。
 アルスは首を横に振った。
「ここがどういった場所なのか知らないわけじゃないだろう」
「一応、知ってはいるつもりですよ」
「だったら早々に立ち去った方がいい。一般人の禁止区域への立ち入りは法に触れるぞ」
 少年は首を傾げた。
「立ち去った方がいい……って、それでいいんですか、……その腕章、あなたも警察なんじゃ……」
「見なかったことにすればいいだろう。助けられておいて連行するような真似はしない」
「そう、ですか……。それはありがたいですけど、立ち去るわけにはいかないんです」
「どういうことだ」
「連れと、はぐれてしまって」
 苦笑を浮かべながら少年はそう言った。
 まったく、何故こんなところで一般人が迷子になっているのだ、とでも言うようにアルスはため息をついた。しかし、放っておくわけにもいかない。
「……わかった。ただし、お前は外に出ていろ。俺がその連れに会ったらお前のところまで連れて行ってやる。……で、そいつはどんな奴だ」
「えっと、……。十五、六歳くらいに見える女の子です。茶髪で、背が低くて。……あ、はっきりしたオッドアイだから、瞳を見ればすぐわかると想います」
 少年はおとなしくアルスの指示に従って、連れの特徴を述べた。それを聞き終わると、アルスはゆっくりと頷いて理解を示す。
 それを確認して、少年は言われた通りに立ち入り禁止区域の外に出ようと足を踏み出した。
 その瞬間、地面が大きく揺れた。突然の衝撃に二人は地面に座り込んだ。轟音が響き渡る。岩の崩れ落ちる、ガラガラという音の数が増大してゆく。
 同時に、地面に亀裂が走った。
「こ、これは一体どうなっ……」
 叫ぶような少年の声は途中から轟音にかき消される。
 そして遂に、地が割れる。
 二人の姿が奈落に呑み込まれるのは一瞬だった。